「2度と繰り返さないで」

                       松岡幸子


 日本国は、昭和12年の日華事変に続き、第二次世界大戦へと突入していた。
 男子は次々と召集されて、中国をはじめ、シンガポール、ラバウル、ニューギニヤ、オーストラリア、フィリピン、タイなどの南方へと拡大されていった。。
 私は、和歌山県生まれですが、昭和十九年、医学と救護を学び、日赤病院を卒業し、病院に勤めていた。私の病院の先輩たちも、中国を始め、外地や病院船へと、派遣されていた。
 私にも招集令状と書かれた赤紙が届けられた。直ちに25名が編成され、広島県の呉海軍病院に配属された。すでに他府県の人達が到着して居り、これより合流して、救護活動に入ることになった。
 呉海軍病院に配置されて、しばらく私達は病室係と外来に分かれて、治療を続けていた。私は外来の歯科に勤務した。他府県の救護班も分かれて病室勤務していた。
 患者は外地の戦闘で負傷し、戦地で治療を受けた後、病院船で呉港に運ばれ、呉病院に入ってくるのである。
 潜水艦が入港すると元気な水兵たちは、「上陸」と言って市街地や自分で病院に来る。内科や外科、私の歯科も忙しく、五台のコンプレッサー治療台も満員である。
 長く潜水艦に乗っていると歯が悪くなるという。約1カ月ほどの間に、治療を終えると、今度入港する迄にと、入れ歯の形をとっておく。
   歯形入れキャビネット図

 キャビネットには部隊名や艦名、氏名の書いた歯形が並んでいる。しかし、いつまで待っても帰ってこない、その潜水艦は先日の戦闘で沈んだと聞かされる。
 キャビネットに並んだ歯形は、主を待っていると言うのに空しい。これが戦争と言うものか。以後も港に艦が入ると、その繰り返しである。

 戦局はますます激しさを加え、太平洋上およびインド洋上の戦いとなり、その中で、ある日、呉軍港に病院船が入港した。
 緊急連絡が入り、衛生兵の人達が数台のトラックで次々と負傷兵を運んで来た。病院のグランドは、たちまち数千人の負傷者でいっぱいになった。
 昨日まで元気であった人たちが、召集という1枚の赤紙で、国のために命をかけて戦っきた人を見ると、胸が熱くなり、家人に代わり救護するという使命感でいっぱいになった。
 種々な外傷の中で、特に熱傷が多く、海上での戦闘の激しさを物語っていた。数千人の負傷者である。
 無我夢中で処置に取り組んで行く。一人一人の措置が終わり、随道(トンネル防空壕)への誘導も終わった時は3日間を経過していた。
 私達の体も、血と油でぐしょぐしょである。ホッとして随道の外に出ると太陽がまぶしく、上空をアメリカの偵察機が2、3機旋回していた。
 病院は大きな白亜建てで、赤十字のマークが大きく描かれている。国際法のジュネーブ条約により、赤十字のマークのある建物には攻撃してはならないと定められている。
 以後、随道内での治療が続いていた。
 病院で殆ど治療のメドがついた人達は、海軍が接収した温泉地へ病院列車で搬送する。私達も呉駅より湯原の温泉旅館へと護送して行った。
   病院列車

 赤十字のマークが書かれた列車で、車内には畳が並べられ、布団が敷かれている。
 途中の駅では、国防婦人会の方達がお茶の接待をして下され、水兵さん達も喜んで美味そうに飲んでいた。
 目的地の駅に到着すると、救護班と衛生兵の人達が待っていて、各旅館に搬送して行く。 旅館では治療の用意もしであり、以後の治療は各班で受け持ってくれる。
 私達も申し送りがすむと急ぎとんぼ返りで、呉病院に帰っていた。

 やがて7月に入り、その日は宵のうちより小雨が降っていた。
 深夜になり、突然飛行機の轟音に空を見ると、夜空の中を爆撃機の群れが、まるで爬虫類が群がるように、不気味に低空を通り抜けると、市街地の方へと飛んでいる。
 病院は高台にあるので市街地が見える。街全体が真っ赤な火の海である。後で2百機を超えていたと聞く。
 米軍機が飛び去ると早速救援作業に入った。用水槽の中に飛び込み、全身を濡らすと、救急鞄をつかみ、衛生兵たちのトラックに次々と飛び乗る。
 街は燃え盛る家屋と瓦礫の山で、紅蓮の海であり、まさに戦場である。その中に踏み込み、人が居ないか必死で探し廻る。
 男子は皆、戦場に出され、残るは女、子供、年寄りだけである。衛生兵の人達は負傷者を救出し、次々と病院に運んで行く。市内で焼失を免れた病院は呉海軍病院だけなので、負傷者救援の中心となった。
 その中で同僚により、子供が救出された。母親らしき女の人が子供の上から、かぶさるようにして、既に息が絶えていたと言う。
 やがて救護が、一段落となり、男の子を連れて病院に帰る。その日より、私達は男の子との生活が始まった。
 服につけていた名札に、住所、氏名、年齢と父母の名前が書かれていた。6歳である。軍の方で、父親の所在が判明する。整備のため艦が近日、呉港に入るとのことであった。
 男の子は、同僚の誰が縫ったのか、病衣で小さな着物を作り、それを着ていた。今も私の脳裏にあのかわいかった姿を思い、胸が熱くなります。
 一緒に食事をして、一緒に入浴、そして一緒に眠ったことは、私達の生活の中で、束の間の安らぎであったと思います。
 その後まもなく父親が来て、実家の方へ無事に行かれたと聞きました。
 あれから60年過ぎた今、いろいろと多様化した社会情勢の中で、私は心の中で固く閉ざしていた戦争への思いの扉を開けて、戦争の悲惨さを知って貰いたく筆をとりました。
 もう2度とあのような経験を繰り返さないでください。そのためには一人一人が日本国の安全を考え、何が大切なのか、人の命が如何に大事であるか、知ってほしいと思います。


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