「加害の体験を見つめてー残して置きたい侵略戦争の真実ー」

                            久保田哲二

『三光作戦』 『討伐』 『戦闘.jpg』
『休憩』 『餅つき(中央・杵が本人)』 『捕らえた少年兵』

 戦前の「国定教科書」で教育された私達が、天皇の軍隊(皇軍)として何をしたか ?  私の体験の中から証言したいと思います。
 (証言は、私が撫順戦犯管理所で担白(認罪)した主なものです)

1、 私は高等小学校卒業後、貧しい農村育ち、学費が無く、上級の学校に進学出来ず、官費で学べる「呉海軍工廠」に立身出世の夢を描いて入廠し、4年間徹底した「天皇中心の神の国」の精神教育と滅私報国の技術教育をうけました。
  (半日学習、半日実習、夏・冬休み無し)。
 所長が現役海軍少将、主事(教頭)が海軍中佐あったことからでも推察できると思いますが、軍隊に徴兵される前に、私の軍国主義思想は十分出来ていたと思います。
 徴兵検査で「甲種合格」になり、現役兵として軍隊(陸軍)に入営が決まった時は「戦死」が頭をに浮かび、難関の補習科も卒業出来、これで予定の幹部の道(後2年で高専卒)がすべて閉ざされると落胆したが、当時は「兵役は三大義務の』の一つであり、避ける事は出来ませんでした。

2、1939(s・14)12/1 現役兵として、広島歩兵11連隊に入営しました。
 軍隊は一般社会と全く違う別の世界で、入隊の翌日から、激しい訓練と精神教育一一カラスの鳴かない日があっても、初年兵が殴られない日はない一一と言う程、毎日が陰険なイジメの連続で、今まで社会で身につけていたと思える一片の人間的良心も思いやりも、常識もそのすべてが剥ぎとられ、端的に言えぱ、「上官の命令は直ちに朕(天皇)が命令と心得よ」の鉄の掟のもと、「命令」の鶴の一声は、私達はそれに従う以外の道は有りませんでした。
「天皇の軍隊・無敵皇軍」はこの様にして創られました、私もその中の典型的な一員に変りましが、この枠の中で「自身の立身出世を計ろう」が本心であり、敗戦までそうでした。
3、1940(s15)3/24 宇品港から戦場へ一一当時、宇品港には「白木の箱」(戦死者の遺骨)が度々帰っていたので、輸送船を目の前にして、「これで何もかも終わりだ、然し死にたくない」と心では想いながらも、「お国の為に頑張ります」と見送りの日の丸の波に応えて乗船しました。
 4/2 中国湖北省漢口上陸、侵略の第一歩が始まりました。

一、私は中国で何をしたか(第一部)

1) 宜昌作戦時の三光作戦・毒ガス戦
 1940(s15)・4/2 湖北省漢口に上陸。
 それから間もない、4/20 「師団司令部護衛中隊」配属の重機関銃手として「宜昌作戦」と呼ばれた、3ケ月に及ぶ大規模な侵攻作戦に参加しました。
 戦争は、映画やテレビで観るような、決して勇ましいものではありません。頭に重い鉄帽、全部で30キロの装具を身につけ、苦しい行軍・戦闘の繰り返し。
 戦死傷者はでる、次は自分の番かと「恐怖が襲う」。戦場は「人殺しの修羅場」「鬼」か「気狂い」で初めて出来る場所です。
 また、侵略される中國人民にとっては、簡単に言葉で「災難」や「迷惑」ですむ事ではありません。
 戦火で部落を焼かれ、多くの平和な住民が殺され、残した財産も、家畜も食糧も総て略奪され尽くし、私達が占領した地域の数百万人の避難民は、日本軍の敗戦まで自分の家郷に帰れなかった。たとえ無事帰れても、どうして生活出来たでしょうか。
 私達日本軍が与えた災難の深さは言葉や文字ではとても表現することが出来ません。
 この作戦中、私が直接関与した戦争狙罪の幾つかについて証言します。

 1940.6.1 師団は「宜昌作戦」の前半を終え、態勢を整え、本命の「宜昌」侵攻作戦に入り、最初は「漢水渡河戦(揚子江支流、河巾1キロメートル)でした。
 その前夜、師団は各種の砲、約60門(野砲39連隊主力、各聯隊砲、配属の山砲大隊等)を、対岸に砲列を並べ、薄暮一斉に砲撃を始めた。
 常用の榴散弾、焼夷弾、毒ガス弾(赤弾)、発煙弾を混用し、2,000発以上を二時間ちかく撃ち込みました。
 対岸一面をガスと煙幕で覆い、平和な部落を火の海にし、一帯を毒ガス地帯にし、これにより少ない損害(鉄舟浸水の事故によって10余名の戦死)で1000米の漢水渡河が出来ました。
 防毒マスクの無い中国軍は、退く以外に方法がなかったのです。この作戦は師団が2週間前の、5/18 夜半からの「白河の渡河戦」で毒ガスが間にあわず、また事前の偵察ミスで強行した為、
対岸の陣地と誤り「中州」に上陸し、集中攻撃を受けて、2時間余で歩兵233聯隊長神崎大佐を合む360余名の戦死者と、約三倍の負傷者を出し、
連隊の戦力の半数以上を失った、苦い失敗に凝りて、この度は周到な準備をして行ったものです。
 私達が2時間遅れて上陸した時も、まだガスは残っており、付近に中国軍の遺体数十人が残されていました。
 6/3 早朝、渡河後一時占領していた「宜城県北方高城鎮」一帯を放棄し南の「荊門県」方向に転進する時の、師団の命令要旨は「一一師団ハ転進二当タリ、別命アルマデ付近一帯ノ軍事施設ヲ覆滅スベシ、細部ハ参謀ヲシテ指示セシムー一」の内容でした。
 その参謀指示とは「師団が反転する一帯の部落はすべて焼き払え、残っている糧食や農具、家具、鍋釜まで総て焼くか、又はブチ壊せ、残っている住民は一人残らず処分(殺すこと)せよ一一」の指示でした。
 要するにこの付近一帯は、作戦が終わったら占領せず、撒退する予定だったので、当面中国軍の追撃戦に使用させない事と、住民を残して日本軍の兵力や移動する方向など、
中国軍にスパイされるのを防ぐのが目的でした。(軍事施設とは平和な町や部落であり、日本軍が常時使う「軍事施設の覆滅」とは、平和な町や部落を焼き払い、総ての「資源」を灰にする事でした。)
 私はその時、中隊命令により「放火班」5名の一員として参加しました。
 先輩上等兵から、ニつの部落を焼くよう指示され、一つの部落を終わり、ニつ目の部落を襲った時のことです。
 そこには2人のお婆さんが残っており、その一人は孫らしい乳飲み子を抱いていました。いくら獣のようを日本軍でも、まさか年寄りや幼子までは殺さないだろうと、不安におびえながらも、祖先からの大切な財産を命を賭けて守っていたのだと思います。
 私達が草箒の「たいまつ」で火をつけるのを見て、2人は白い頭を地にすりつけながら、涙声で何か叫び続けていました。
 「どうか止めてください」の願いだと解っていましたが、それに目もくれず、3人を小窓一つしかない奥の部屋に押し込め、逃げられないように扉の前に麦藁を積み重ね、火をつけました。
 火は瞬く間に出口いっぱいに燃えあがり、屋根にも広がりました。引き揚げの合図で部落を離れる時振りむくと、煙の出る小窓から何とか外に出ようと、片手を出し壁を引っ掻いていましたが、間もをく消え、煙だけとなりました。
 私は、私の母親と同じ年頃の老婦人と幼な子を焼き殺しました。これは頭に焼き付いて今でも離れません。これは私の初めての殺人であります。
 又その頃、あたり一面の麦畠は収獲期で、黄金色に実った麦穂が風に揺れ波のようにうねっていました。
 残して置けぱ中国軍の食糧にをると、その麦畠にも点々と火をつけて回りました。麦畠は日本の春先の野焼きのように、パチパチと音をたてながら幾百米も燃え広がり、あがる煙は空一面を覆い、昇ったぱかりの朝日がかすんで、何だか薄気味わるい雰囲気に包まれました。
 この様を放火は後に続く「師団予備隊や担架隊」でも組織され、師団全体で3日間くらい続きました。
 私の一回の「放火班」の犯罪だけでもなんの罪のない3人の命を奪い、2ツの部落、戸数にして約20戸を焼払い、穀物数トンを灰にしています。
約1、5万人の師団全体が、同じように行ったので、平和な中国の人達に与えた被害は、計りしれないものだったと思います。(宜城県高城鎮一荊門県子綾鋪間の公路約80kmの両側村落を殆ど焼き払いました。
 又この作戦中、6/12 宜昌占領後、6/13-17 宜昌を放棄し撤退する時も、同じように三光作戦を行っています。
 撤退する宜昌から荊門市まで(約100キロ)の道路の両側(数百米)の部落をほとんど焼き払い、橋梁・通信設備まで徹底して破壊しました。
 それが急に「軍命令」が変わり、この一帯を放棄せず、私達の師団が占領し、警備(幡据)することになりました。
 その時、兵舎にする部落は焼き払ったので殆ど見あたらず、途方にくれ、天幕生活など、ずいぷん不自由な数カ月を過ごす糖果となりました。
 この時焼いた「鎮や集」と名の付く部落数は約40になります。私はこの時「雑樹店」付近の部落(約12戸)を焼きはらい、牛二頭を略奪しました。
 その当時の状況は、「昨日村落を焼け」と命令し、「今日その部落を占拠し警備せよ」のチグハグな命令を出さざるを得ない、当時の作戦参謀のボヤキを目にしています。
 又彼が出した本にも記載しています。

2)「漢水作戦」時の「三光作戦」
 1940、11-12月 聯隊は宜昌侵攻の後、6月末に荊門県に反転し、荊門北方の「黄家集」一帯の農村部落を占領しました。
 その時、約10キロ四方に住んでいた数千人の平和な住民は、戦火から避難していましたが、戦況が落ちついても帰ることを許さず、「無人地帯」としました。
 田植が終ったぱかりの田圃を目の前にして、遣い出された人々から見れぱ、住む自分の家に帰れず、食べ物も無く、悲惨な日々が続き、私達日本軍は「日本鬼子」そのままであり、どんなに恨まれていたか当時の私達には全く解っていませんでした。
 こうして、秋まで「中国軍」と数百メートルで対陣し、毎日のように撃ち合いが続いていました。宜昌作戦の後の疲れで、病人が多くなり、戦死より戦病死(荊門野戦病院では2001名余がマラリア・栄養失調症で「戦病死」した)の方が多い状態が続いていました。
 又、自動車道が無く、食糧の補給も受けられず、実りの秋が来ても、田圃の稲は立ち枯れ、付近の民家からの掠奪も底をつき、飢じい日々が続いていました。
 ヒジキ缶一つが80人の一食分でした。「漢水作戦」(師団作戦)はこの様な中で行われました。
 @ 聯隊は、正面から60キロ北の「栗渓」(抗日軍の拠点)迄侵攻しました。引き揚げる時、いつものように「敵の軍事施設を覆滅すべし」の命令で、「放火班」を出し、栗渓の街(約80戸)と、あたりの数ヶの農家部落(推定60戸)を焼きはらい、運べる目一ぱいの食糧(家畜、米、油など)を掠奪し持ち帰りました。
 帰り道の経路(栗渓一王家傍一兆家河一原駐地)の両側の部落は、すべて焼き払いました。(部落数約20余、戸数約400) 寒さに震えての作戦でしたが、この時は「今日は暖房つき」だと、煙の中を汗ぱみながら帰って来ました、(この時の写真が残っています)
 A 作戦が終わり、もとの占領地に帰った翌 12/2日のことです。「連隊命令」により次の中隊命令が出ました。「元長小尉以下72名(駄馬20余頭)石板店付近一帯ヲ掃蕩スベシ」(陣中日誌に残っています)
 私は当時新品上等兵としてこれに参加しました。中隊はこの時「石板店」部落をはじめ、付近の谷間に点在する農家を一戸も残さず、(約110戸〉を放火し、焼き払いました。
 私はその時、離れた谷間の農家を襲い、避難の遅れた農民(男・50才位〉1名を射殺しました。
 又、付近の竹薮の中に隠していた牛4頭を奪いました。中隊は食糧として米、麦、牛、豚、鶏など掠奪し、牛は引いて、その他のものはは駄馬に満載し、帰隊しました。
 その時の掠奪品は牛だけでも約40頭、あまりにも多いので、急いで「放牧場」を造り、飼育し、逐次殺して食糧にしました。
 私達は放牧場の牛の群を眺めながら「これで当分飢えずに済む」とほくそ笑んでいました。
 私も農家生まれで、農家で牛一頭がどんなに貴重な財産であるかは知っていましが、その事には全く無関係な悪魔の姿でした。
 働き手の主人を殺され、住む家も耕す農具も、食べ物もすべてを焼かれ、奪われ、残された後の遺族の、その後どんな悲惨な生活をされたか、思うだけで身を切られる思いがします。
 「侵略者」の私達には、平和な町も部落も、実りの田畑も、すべて軍事施設に見え、平和に暮らしている住民も、みんな「敵」に見えたのです。
 私達がやったことは、このように惨酷でした。侵略戦争ではないとか、三光作戦は無かったなどの発言は、全く詭弁で人騙しにすぎないことが解って貰えると思います。
 今まで述べました幾つかの「三光作戦」に見るように、当時私たち日本軍のやり方が、どんなに惨酷なものであった理解して下さい。
 私はこのような作戦(16年 冬季山岳作戦・17年 長沙作戦・18年 江南作戦)など12回参加しています。
 これらの積み重ねが「侵略戦争の実態」であります。当時の日本軍は、中国人民から「日本鬼子」「東洋鬼」「蝗軍」「日の丸は悪魔の旗印」などと恨まれ、
その怒りは自ら銃をとり、「抗日統一戦線に参加」、その拡大強化につながり、日本は「点と線」(都市と軍公路)の確保も日毎に脅かされ、夜間は「線」は全く無いのと同じ「分駐警備」の小人数の「分哨」(10名前後で、本隊からはなれた地点を警備する拠点のこと)が、
優勢な抗日部隊に包囲され全滅することも度々あり、私達は敗戦の泥道に急速に追い込まれていました。
註:「抗日統一戦線」とは「八路軍、新四軍、国民党軍、各地の住民が、自衛のため自ら武装した「民兵や遊撃隊組織」。
  広範な「抗日愛国の民間団体」などを合む巾廣い「全民族的抗日統一戦線」のことです。

3)「討伐」の失敗と報復
 このような「抗日組織」を急襲しても、行けぱ「モヌケのカラ」。住民は日の丸を立てカツコウだけの歓迎をする。
 然し本当は、住民は抗日組織の主柱であり、日本軍の情報は筒抜けで、大失態をやった討伐があります。
 その一ツの例を「陣中日誌」の中から証言します。
 1941、8/6 於、湖北省荊門県李家 第一機関銃中隊 湧田中尉以下24名(機関銃1ケ小隊)は、十里岩付近の敵情を偵察中、
11:30 同部落で国民党軍 38師ノ特務遊撃隊ノー部(約150名)の待ち受け攻撃を受け、交戦約二時間、神尾一等兵他三名が戦死し、一名が片腕を無くする重傷者を出しました。
 この時の実情は、日本軍が来る情報を事前に知っていた遊撃隊の、待ち受け奇襲を受け、各自バラバラに避難し「銃馬」と「弾薬馬」の掌握が出来ず、
重機関銃の反撃は1時間後だったのが実情です。(銃馬・弾薬馬は各々銃と弾薬を積んだ馬のこと)
 この大失態に、大隊長杉山少佐は激怒し、事件を起こした機関銃中隊に、その報復を命じた。そのときの行動について次のように書いてあります。
 1941・9/9 「大隊命令二基ズキ中隊ハ玉木少尉以下23名ノ便衣混成隊(機関銃13名・大隊本部10名)ヲ以テ趙家店二蟠踞スル敵蜜偵捕縛ノ為、
03:30 中隊出発シ、05:30 奇襲ニヨリ、敵密偵・方亜全以下5名ヲ逮捕シ、09.30 帰隊ス」と書いています。
 私は当時、兵長で、無線通信分隊長として大隊本部勤務・庶務の助手だったので、通信兼伝令として、この事件に参加し、又その後に就いても、通訳北村上等兵と共に、取り調べ、拷間をどをやっていたので、其れについて証言します。
 「敵密偵」とは「中国では尊敬される愛国者」です。方亜全さんほとても品格のある知識人で「保長(村長)」だと聞きました。
 押収した書類の中に「古文」のものがありました。古文は普通の中国語の出来る者でも意味がよく解りません。方亜全さんを取り調べを兼ねて、古文の翻訳を依頼したが、簡単に応じてくれません。
 その内ちょっとの隙に「疑いのある古文の一枚」が無くなりました。方亜全が隠したに違いないと、「風呂でも入って一杯やりましょう」と入浴させ、衣類を調べたが見当たらない。
 「方亜全が飲みこんだ」と断定し、その旨、師団司令部に報告した結果、彼は「首謀者」の疑いで師団司令部送りとなりました。彼のその後に就いては全く不明でした。
 残りの4名は情報係新任の横田伍長・助手の私・通訳北村上等兵他、5人程が立ち会い、2日かけて拷問、取調べましたが、四名とも「私は老百姓(農民)です、何も知りません。
家族が困っているから、早く帰してください」と、頭を地につけながら命乞いを繰り返すぱかりで、何一つの情報も取れませんでした。
(私はその時無線機用の発電機を使い、電気拷問を行いました。水拷問で気を失っていても死なない量の電気を流すと、身震いして目をあけ、恐怖に怯えていました)
 情報が取れないと知った大隊長杉山少佐は「処置なしじや適当に処分せい」と殺害を命じました。
 四人の内、一人を「生体実験」にし、残りの三人は「日本刀の試し斬り」にし殺害しました。これに就いて詳しく証言します。

 生体実験
 そのなかの一人を午後2時頃、本部西側の空き地に連れだし、私達十数人が取り囲む中で、新任の新谷衛生見習士官が、自ら希望し実験を行いました。
 「血液に空気をどれだけ注射したら死ぬか」の実験でした。
 被害者を動けぬように戸板に縛り付け、腕の血管に少しずつ空気を注射すると、忽ち小さな紫の血の塊の流れに変わり、全身を駆けめぐり、本人はもがき苦しみます。
 空気の量を増やすと、約3分程で全身が紫色にかわり、もがきも止みます。
 グッタリ横になった姿は、まるで異様な「紫のゴム人形の塊」のようで、見ている私達が、目をそむける程の無惨な姿に変りました。
 「もう止めろ、トドメをせえ」の横田伍長の指示で、銃剣で心臓部を数回刺し実験が終わりました。遺体は前もって掘っていた穴に埋めました。
 この実験は正式の命令で行ったものでは有りません。新谷見習士官の気儘な思いつきで行ったものです。
 当時私達は、中国人の「人権」を全く認めず、まるで虫ケラのように思って居たから出来たと思っています。

 斬首殺害
 残りの三名は、新任の見習士官・下士官に「度胸をつける」といって日本刀で、試し斬り(首斬り)にしました。
 午後4時頃、三名とも、捕縄で後手に縛り、本部南の小高い丘の畑に連行、前もって掘っていた穴の前に座らせ、目隠しをました。
 「一番は俺がやる」と日本刀を抜いたのは又新谷見習士官でした。彼は震えながら(振り上げた刃先が小刻に揺れていた)、
一度失敗し、二度目に、どうにか出来ました。  首が飛ぷと、体は自然に立ち上がり、首から血しぷきを吹きながら、掘られた穴に自ら飛び込むように落ちました。
 他の二名も、同じように横田伍長・、増田獣医務伍長の手で、一人ずつ試し斬りの犠牲にました。遺体は穴に埋めました。

「報復」だと行ったこの事件後、次のような問題が起きました。
 (1) 事件の翌日「夫を返して下さい。家には子供がいます。老父母もいます。このままでは私たち一家は飢え死にします」と被害者の妻や肉親の方々からの切実な直訴が数日間続きましたが、私達は「荊門の司令部に送って調べている、間もなく必ず帰ってくるから心配するな」とゴマカシ追い帰していました。
 帰るどころか数日後には、飢えた野犬の群が遺体を掘りだし、屍肉を食べはじめて数日後には、白骨があたり一面に散乱し、目は赤く充血し肥え太った野犬の群が、うろつき付近をネグラにして数十日間、離れませんでした。
 (2) この事件は撫順管理所で、同僚の増村上等兵と共に、薄れた記憶をまとめ、認罪したものです。これは命令した杉山大隊長(同じ戦犯)の裁判時に、録音テープにより証言しました(今でも管理所に保管されていると思います)
 杉山大隊長(戦犯時は関東軍参謀)も「これはすべて命令した私の責任であります」と認罪しています。
 また、この事件は、私が直接面接した数すくない被害者の心情に触れる事ができた事件であったので、私の認罪を深める上で大きな転機となった事件であり、忘れることができません。

4)避難民の群れに機関銃掃射
 もう一件湖北省沙市占拠中の陣中日誌にある別の事件について証言します。  1941.6/27 「陣中日誌」記載文:
「裁縫店、王家場付近二蟠踞スル「鄭家良匪」約300人ヲ覆滅スベク、機関銃1ケ小隊(小林小隊)ヲ第七中隊(石田隊)二配属。
 6/24 夜出発、同地付近ノ敵二痛撃ヲ終へ、掃蕩シタル後、27日 全員無事帰隊ス」
   註:1 「鄭家良匪」とあるのは日本軍が使った差別語で、本当の匪賊は我々本軍でした。
    鄭家良さんは、その一帯の抗日組識のリーダーで、人望ある人で、自らら「住民」を組織し「抗日民兵隊」の先頭に立っていました。
   註:2 機関銃1ケ小隊;重機関銃2ケ分隊(重機2機、人員一小隊長以下25名)
 この掃蕩戦は、他の部隊と同時に、三つの方向から包囲攻撃する作戦でした。私は機関銃分隊長として参加しました。
 予定のとおり、25日早朝、王家場付近で、数発の銃声を聞き、直ちに急襲したが、部落はいつものようにモヌケのから、前方600メートル付近を避難する10数人の群れを見つけましたが、双眼鏡(6倍)で見ると、みんな荷物を持った住民です。
 射撃を躊躇していましたが「撃て」の射撃命令です。水田の畦道を逃げ惑う難民に重機関銃の一斉射撃、バタバタ整れるのが双眼鏡ではっきりみえました。
 現場を確認すると、8体の老掃人の遺体が残つていました。その1人は幼児を抱いていました。
 この時の「中隊の戦果報告」は「敵の遺棄死体10名、押収兵器小銃3挺、小銃弾一…」でありました。
 この様に避難民と知りながら射撃したのは、中隊の「功績(手柄)」の為でした。自分達の功績の為には平和な住民もクソもない「逃げる者は皆敵だ」と無差別に殺害する、これが当時の我々日本軍の常識でした。
 これは「私達日本民族が世界で一番優秀な民族」と信じ、中国人民の人権を全く認めない「他民族蔑視」の天皇制軍国主義思想に「洗脳」されていたからこそ出来たと思っています。
 これは、この事件だけでなく、私が六年間従軍中、犯したすべての「戦争犯罪」の思想的根源だったと認識しています。

二、戦時国際法と謀略戦ーー私は中国で何をしたか(第二部)

 1944,4月一1945,2月の8ケ月間の
「大陸打通作戦(第十一軍主力・独立重砲連隊、戦車聯隊、特別工兵聯隊など動員)。
今までの占領地、湖北省から湖南(長沙、衡陽)、広西(桂林、柳州、南寧)、「ベトナム」を結ぷ、陸路補給を確保する作戦」中の犯罪に就いて証言します。
 この作戦は日本の劣勢を盛り返す為、中國侵略軍の半数(約50余万人)を動員した、最後の"決戦"といわれた大作戦でありました。
 44年2月、私達39師団から派遣された60名の将兵は、特別の「謀略」訓練を受けました。それは「国際法」を公然と無視したもので、教官は大本営情報部(俗称中野学校)出身の将校、約10名位であったと思います。
 教育の内容は「欺騙潜行(あらゆる手段を用い敵の背後に進入すること)」「偵諜(スパイ活動)」「後方撹乱」(奇襲、暗殺、謀略、爆破、)などでしたが、
端的に言えぱ日本軍が、国際法上も、人道上も許されない、これらの特別の任務(軍はこれを「裏戦」と呼んでいた)に就かせることにありました。
 その為私達は「中国人か中国軍」に偽装することでした。
 まず頭髪を伸ぱし褌をはずし、服装は中国服に換え、日本製品は何一つ持つことが許されず、武器も又同じ中国製か、また中国軍カが使っている物に換えました。
 また「絶対に捕虜になるな。スパイは捕まると直ちに銃殺される。これは国際法だ。その前に必ず自決せよ」と厳命した。
 これらはすべて国際法無視の責任から逃れる為でした。
 4/1 教育が終わり、私たち60名は「第11軍直属挺進隊(秘匿名・桜隊)」に編成されました。隊長・西田中尉(中野学校出身)以下98名(日本軍65名、南京政府軍20名、協力中国人13名)。この編成で前述の作戦に参加しました。
 私は「指揮班長」として参加しました。特に中国人協力者への欺隔工作と、大量の機材(諜者用無線機・特種爆薬・放火剤・薬品などの謀略資材・軍資金の紙幣など)使用監視の責任を担当しました。
 (この謀略資材は「謀略戦基地・登戸研究所」で「軍事機密」で制作されたものです。
 挺身隊に与えられた任務は、時により違いますが、多かったのは中国軍の背後に潜入し、情報収集、奇襲爆破、逮捕、放火などの方法で、後方を撹乱することが主な任務でした。
 「國のため」と口先では言えても、いざ命を捨てるとなると、そう簡単なものではありません。全く背筋が寒くなる任務でありました。
 私達はこの任務のため、平和な中国人民に、何をしたか、その幾つかを証言します。

日常の任務
 挺進隊は軍司令部直属であっても服装が中国軍なので、常に司令部から少し離れて位置し、「敵情報収集」のため、少兵力で度々、近くの町や部落を偵察していましたが、これには、隊員は副収入(略奪)を主な目的に積極的に参加した。
 この時は部落や近くの避難民を襲い、略奪は全く自由自在、食料は勿論、貴金属や貨幣、特に「関金(ドル$を示し20倍の価値があった)や銀貨」を狙い、出て行く小隊長(将校)すら「おい今日は銀貨10枚だぞ」と部下にふざけていた。
 帰っての語は、戦果の事。「俺は銀貨5枚だ」「お前、あの時よいのを見つけたがヤッタんだろう(強姦)」など、略奪や強姦話しに花が咲く。
 当時の「精鋭挺進隊」も地に落ち全く「匪賊の群れ」に変身していた。
 勿論、食料も略奪。挺進隊は中国人が居るから徴発(略奪)が出来んだろうと、支給されていた「機密費」も使う機会が無く、又移動する時は荷物の運搬に、付近の農民を捕らえ強制使用していました。
 (戦後出された、移動中の多量の写真や、画報を持っています。)  前後しますが、具体的犯罪の主な事件に就いて証言を続けます。

1) 道案内の農民を刺殺
 5/16 私達挺身隊(西川隊長以下約60名)は、湖南省長沙北方・達磨山の山麓で「11軍」の「砲兵隊群』の駄馬隊を包囲攻撃している中国軍の背後を襲い、救出する任務で行動中、夜になり、
道に迷い、付近の民家を叩き起こし、50歳くらいの農民を捕らえ、一晩中道案内を強制し、翌朝(17日朝)要らなくなったので、私達はずいぷん助かったのに、
私達が日本軍だと知ったという理由で「企図秘匿」の為と、空き家につれこみ、有無を言わせず後ろから銃剣で刺し殺しました。
 連れ出す時の怯えた家族の姿が思いだされます。一家の大黒柱を失った遺家族のその生活を思うと胸が痛みます。

2) 接待を受けた老婦人を惨殺
 7/10 湖商省来陽県来陽に向け潜行中(地名不詳)、私達を中国軍と思いこんで、湯茶まで出して接待して貰った老婦人5名を宿営後の翌朝、
出発時、この時も又、日本兵だとバレたと思い、同じように「企図秘匿のため』と、5名全員をその井戸(深さ10メートル)に投げ込み殺害し、遺体は家具や麦藁を投げ込み隠しました。
 この時は、周囲に中国軍が居るので「銃声をだすことも、血痕も残せない」の理由で行ったものです。
 私達の「安全」のためには、この様な残酷な事を平然と行っていました。
 (この事件は、佐竹小隊の、主な8名の古参兵で実行しました。)

3)新四軍捕虜を拷問斬殺
 9/15 湖南省衡山県南岳市での事件です。南岳は四方を標高1000前後の連峰に囲まれた、日本の高野山のような仏教の聖地で、又富豪の別荘地・文人書画家が多く、風光明媚な別世界です。
 幾百の寺院は大樹に包まれ、爆撃を受けにくい所で、軍は此処を「第六方面軍総司令部」に予定していた。
 挺進隊は「南岳憲兵隊」岡市少佐のもとで、治安の回復と維持(抗日組織を壌滅し、避難した住民を呼ぴ戻すこと)に当たっていました。
 此処には日本留学経験がある何応欽、何建(いずれも「陸士」)等数人の知名人の別荘が点在し、これらは徹底した家宅捜査を行い、多くの文書資料を略奪し上納した。
 余談ですがこの過程で、懐かしい盆灯寵、日本人形、掛け軸など私達が、久しく忘れかけていた品物にふれて、ひととき現実を忘れ、平和な故郷を思いだし、また持ち主のいまの心情など考え複雑な一時を過ごす事もありました。
 この様な時期、9/14 頃、南岳市祝融峰(標高約1000)山頂付近に「新四軍が出没している」との情報が入り、真偽を確認のため「明日の朝は素晴らしい日の出が拝めるぞ』と隊員の好奇心を誘い、隊長西川中尉以下(指揮班・佐竹小隊・協力兵等総人員約45名)夜半出発し目的地に向った。
 夜明け前、山頂近い所で突然、遊撃隊の一隊と出会い、戦闘になりました。その時「友軍だ、撃つな」と相手を騙し、次々と9名を捕虜にしました。
 武器を取り上げ、逃げないように9人を囲んで休んでいた時、捕虜の一人が「こいつらは日本軍だ、早く逃げろ」と叫びながら、身に隠していた手投げ弾に点火し自ら爆死しました。
 この騒ぎの中で五人の捕虜は逃げてしまい、我が方も藤本兵長が戦死し、二名の負傷者を出しました。
 同志を一人でも多く助ける為に日本兵を道ずれに一命を捧げた犠性的行動に、全く驚き敬服しました。所持品から本人は「新四軍幹部」であることが解りました。
 戦陣訓にある「生きて虜囚の辱めを受けず」は日本軍だけで無い事を知りました。
 残った捕虜3人は、急造の担架(藤本兵長の遺体〉を担がせ、当時宿舎にしていた南岳市「中正病院」に連れ帰り、いつもの様に拷間取り調べを行いました。
 これは、私が指揮班の下士官3名と数名の兵を指揮し、担当しました。下士官の中に中野学校を出たぱかりの新任伍長二人(SとW)がいた。
 「学校で拷間は習っただろう、二人で思いきりやれ」と指揮し、殴る・蹴る・水責めなの拷問を数時間続け、
南岳周辺の情報を少しでも探り出そうとしたが、既に死を覚悟しているのか、3人共「知ちない」の繰り返し、何を尋ねても一言も喋らず、結局何一つの情報も取れませんでした。
 処分(殺害〉が決まった時、「俺が仇を取る」と言ったのは、戦死した藤本の小隊長佐竹少尉でした。
 薄暮を待ち、近くのゴミ捨て場の穴の前に三人を座らせ、佐竹が日本刀で次々首をはね殺害し穴に埋めました。
 これらの行為は「協力中国人」には絶対洩れないよう慎重にやったつもりでしたが、数日後「日軍我が捕虜三名を生きたまま焼殺す」の中国軍の「無線電文」を傍受し解読した司令部竹内参謀から
「本当にやったのか、やるんならもっと要領よくやれ」と強よい叱りを受けた。そう言えぱ当日現場近くで戦死した藤本兵長の遺体を火葬していたのがが誤認されたと思ったが、
それにしても新四軍の情報網の広さに驚いた。私達が何をしても監視されていると思うと背筋に寒さを感じゾットしました。
   註;「新四軍」は「八路軍」と同じ共産党の軍隊で、主として揚子江南北地域で「遊撃戦」を行っていました。
 主力の「八路軍」は「延安」を根拠地にして「河北一帯」に「解放区」を持ち、粘り強く抗日戦(遊撃戦争)の先頭に立ち、日本軍も大きな犠牲を出して居ました。
 このニつが統一したのが、現在の「中国人民解放軍」です。

 ここで、「どの様にして中国人を私達の協力者にしたか」に就いて話します。
「傀儡南京政府軍」の他はは大部分の者は「常徳作戦」中の中国軍の捕虜です。漢口の捕虜収容所に収容されて、少ない食料で、毎日の「埠頭の苦しい荷役作業」で骨と皮に痩せ細り「何とか此処から出たいの一念だった」(彼らの証言)そうです。
 軍情報部はこれを巧みに利用し、一部を連れ出し、漢口の高級住宅街にある「湖南公館」と名ずけた「軍情報所」に軟禁し、厚くもてなし、阿片、塩などの密売の特権を与える等で籠絡し、協力を強制した。
 彼らは、家族を漢口に呼び寄せる者を優先し選んだ。「人質」にする為である。家族(親・妻・子供など)をこの「湖南公館」に軟禁して、軍の機密費でその生活を保証した。
 特に家族を大切にする中国古来の伝統を逆手にとり、日本軍えへの協力を強制していました。
 以上は私が行った犯罪の総てでは有りません。
 「桂林」での中国軍負傷将校の爆殺。「桂林」撤退軍(約600名)の欺瞞武装解除、略奪・虐待、
「柳州」での「抗日地下工作者」の逮捕・拷問・斬首殺害(三名)などありますが、この度は省略しますが、生存中には、必ずこれらを含めて、総ての侵略体験を記録に残したいと考えています。
 今まで話した事は、私が犯した犯罪の中で、私の自己の犯罪として「担白」した「供述書」の一部であります。
 特に私は国際法を無視した特務工作をやって居て、多くの中国の愛国者や平和な住民まで騙して罪を重ねていたので、捕まったら私が一番先に無条件で「銃殺」されると覚悟していたので、敗戦後は、この件だけは絶対に黙秘しょうと心に決めていました。
 事実、私を挺身隊員として推薦した上級者にも黙秘しました。ソ聯の捕虜時代から、中国に移管されても同じ考えで、「担白」の日迄続きました。「誰にも(日本軍でも〉口外してほならぬが」鉄則でした。

三、「撫順戦犯管理所」の六年

  鬼から人間回復
  私達は自ら学習し苦悩の末人間を取り戻した、
  「報復の連鎖」は被害者・中国人民・自らの手で断ち切られ、
  許され帰国することが出きた。

 私は、今まで述べたように、重大な戦争犯罪を犯した鬼でした、ソ聯の調査では犯罪のほんの一部(老婆を家に閉じこめ、部落を焼いたこと)をアイマイに認めました。
 然し私は心では「命令を実行しただけ。私に罪は無い。罪は命令した上官にある」の軍国主義のままで、撫順戦犯管理所に移管されました。
 管理所に着いて真っ先に「ギクリ」としたのは「戦犯の二字」です。前にも証言した様に「私は特務だ。バレたら一番に銃殺される」と、不安の日々が続きました。
 其処で私は、この重大犯罪を隠す為に徹底した「ゴマカシ』戦術をとりました。腹の中と違って、表面は「良い子」に見せかける為、監房規則をまもり、看守に反抗せず、どんな指示にも従った。
 生活組長として仲間の世話もやり、犯罪行為についても聞かれたら、部隊の行動や犯罪については地図入りで詳しく説明し、告白しました。
 私が幾ら誤魔化そうとしても、この不安は頭から離れず、私が「担白」した日まで続きました。
 此処でどんな処遇を受け、どんな過程をたどって認罪できたか、是非聞いて貰いたい点に絞って証言したいと思います。
 中国政府の人道的寛大政策(この政策は周恩来総理を直接責任者として指導されていた)
1) 管理所に拘留された私達は、色々な形で反杭しました。私のように「ゴマカシ戦術」や、必ず報復される・死刑になると自分で考え、
「早く殺せ」と大声で怒鳴るなど、監房規則は守らず、反抗する者も居ましたが、然し管理所からは何も処罰されず、「静かにしなさい」の注意があるくらいでした。
 然し健康管理の面では、全員の精密検査(レントゲン)も行い、毎日のように病人の有無を確かめ、病人が出ると親切に治療して貰った。
 私が食べ過ぎで「胃痙撃」になった時、直ちに病室に運ぱれ「注射と下剤の処置]をうけ、容態が落ち着くまで看病して貰いました。
 退室してからの病人食は、日本ならお粥と梅干しが普通ですが、びっくりしたのは、副食に「鶏の缶詰め」一缶が付いていました。
 不審に思い尋ねると「鶏は食べて良いです。しっかり食べて、早く元気になりなさい」の励ましでした。
 又全員の定期健康検査、又難病や重病人は市内の病院にいれて、ペニシリンなど高価を薬品を使い、治療されました。
 また「入れ歯や、眼鏡・義足の取り替え」などの健康管理の面だけでなく、「衣・食・住・文化・体育・娯楽活動」などの、総ての面での「超人道的配慮」は、私達が中国に移管されたその日に始まり、帰国まで一貫して変わりませんでした。
 然し管理所では言葉では何一つ聞いたことがありません。管理所職員全員は、言葉で無く「実際の行動」で示して呉れました。

2) 私達は、この人道的政策がどうしてうまれ、どのように行はれたか、深く認識出来ないで帰国しましたが、詳しく知ったのは、大部分が帰国後のことです。
「戦犯といえど人間である、その人格を尊重しなさい」「言葉使いは丁寧に」
「殴ったり侮辱してはいけない」「病人は手厚く看護し、一人も死なせてはならない」
「日本人の生活習慣を尊重しなさい」などの戦犯処遇の大原則が、中央政府から管理所に措示されいたことを知りました。
 私達が管理所に到着前に、管理所職員全員で、学習された事も知りました。
 管理所の所長をはじめ、職員の全員が被害者であり、中には一家皆殺しにされて一人残され、その恨みをはらす為に八路軍に入った職員も居られました。
 職員全員、この人道主義を実践する為に、私達に対する耐え難い恨み、憎しみ、復讐の感情を押さへて、私達は献身的な世話をして貰ったのです。
 この様な人道的配慮は、私達の頑固な軍国主義思想の扉を少しずつ開けて呉れて、何時も直接面倒を看て貰っている指導員・看守さんに、
次第に親しみを感じるようになり、それが少しずつ深まり、何時のまにか尊敬と信頼感に変わって行きました。
 それに伴って、私達は自分の意思で次第に学習に励むようになりました。
 午前中は学習時間で、
午後の二時間は体育、残りは自由時間だったので、時間は十分、大講堂(図書室)に、政治・経済・毛沢東全集など資料も巾広く準備され、
それに毎日の人民日報の差し入れ閲覧(要点翻訳)で、戦後急速に変化する国際情勢や、新しい中国の国内事情、又日本の状勢も学習出来ました。
 長い間活字に飢えていた私は、何でも貪るように読み、多くの学習が出来ました。
 この学習の過程で、「私達が今まで身に着けていた旧い「天皇制軍国主義思想」を、自分で批判出来るようになり、
「その矛盾と罪悪性」を知る事が出来て、一歩ずつ本当の人間に近ずく事ができました。
「覚醒(管理所職員の手記)」や「人道と寛恕のビデオ」(6年間の実写の収録)をご参照下さい。
 私は今でも「覚醒』を何度読んでも、読む度に感謝の涙がこぼれます。これは又私の「認罪の道(贖罪の道)」に勇気と力を与えて呉れています。

3) 戦争犯罪調査の過程で、私達は決して「自白」を強制されませんでした。
 私が戦争中に行った行為と、
今受けている処遇を重ねて見ると、天と地の違いで私の考えも変って来ましたが、どうしてもすべてを担白(心から反省し自白すること)が出来ず、随分悩み続け、眠れない苦悶の夜が続きました。
 その頃、私達はノイローゼで仲間から2人の自殺者や、多くの自殺未遂者も出ました。
その都度指導員は「まだ中国の政策がわからないのか、誰が死ねと言ったか。君たちは帝国主義のままで死にたいのか。中国の政策を信頼し、自分の明るい道を探しなさい」と涙ながら諭して呉れました。
 私も色々悩みましたが、やっと担白の決心が出来たのは、私が殺害した多くの被害者の方々と、その遺族の方の心情、「私達に対しての憎しみ・恨み」がどんをに深刻であったか、少しずつ理解出来る様になったからです。
「命令でやったは自分の罪を少しでも軽く見せようとする、命令を正当視する軍国主義思想ではないか。殺された私には絶対に通じないぞ」
「命令でも、お前は至極積極的にやったではないか」と私が殺した被害者の「恨み」が、私を締め付けている幻想に悩まされ続けられた。
 私は苦悩の末やっと決心できました。
「私は実行者だ、被害者と多くの遺族の方は実行者である私を一番先に叩き殺すに違いない。私が殺されるのは当然だ」と心かち受けとめる事が出来たからです。
 口を裂かれても黙秘しようとしていた挺進隊の惨酷な犯罪も、包み隠さず総て担白しました。担白の供述書を提出して私は全身の重荷が取れた様にスッキリとしました。
 指導員の先生ほ「よく頑張った。更に学習を深める様に」と、まるで自分のことのように喜んでくれ、励ましてくれました。
 この様な中で私達は一層学習に励むことが出来ました。
 私達が、今でも管理所の諸先生を「老師」と尊敬し、撫順を「再生の地』「心の第二のふる里」と忘れる事が出来ない「所以」が理解して頂けると思います。
 余談ですが私達が「再生の恩師」と尊敬している職員の中には、多くの朝鮮族(韓国・朝鮮人民共和国出身者共)の出身者がおちれました。
 帰国後28年目に(89・10) 私達が感謝の気持ちで、八人の管理所職員を日本に招待しました。その中の五名は朝鮮族出封者です。
 蓼金源先生(後任管理所々長)・呉浩然先生(教育科長)・催仁傑先生(主任指導員)・ 関先生趨先生(共に看護婦長現在は医師)の五名です。
担が終わり裁判を待っていた時期(56・3月)私達に40日余りの「解放された新中国の社会参観学習」が許されました。
 北は東北三省、ハルピン、南は「漢口・南京・上海・杭州」、首都北京や周辺の農村を参観し、この時受けた色々の感動。
「解放され、人民が主人公となって僅か六年余の新中国の変化の素晴らしさ。何処へ行っても人力車は見えない。昔、苦力と言はれた労働者も見当たらない。
 上海では、船上生活者が無くなっている、など生活環境が素晴らしく改善されている事 に驚いた。
又、侵略した私達「日本軍国主義の罪の深さ」について、実りある学習が出来ましたが、その量も多くて、纏めは後の機会に譲らせて頂きます。

4) 「日中友好」の為に「寛大な判決」
 (中国は積もる恨みをのり越えて自らの手で「報復の鎖」断ち切って呉れました)
 こうして「最高人民法院特別軍事法廷」の裁判を待ちました。
 1956・6・22 中国最高人民法院特別軍事法廷から判決が有りました。
 判決は「45名の死刑なしの有期刑で、残りの私達は「不起訴即時釈放」のとても寛大な判決でありました。
 判決文には「私達がある程度反省している」こと、それに「日本中国の友好を深く考慮した」と記載してありました。
5) 此処で皆様に是非理解して頂きたい事は、判決文書にある「日本中国友好」に就いてで有ります。

 「友好は憎しみや恨みがある限り絶対に生まれません」。

 中国政府は私達を「処刑」にするのは容易だが、もし処刑にしたら、日本に新しい遺族をつくり、又、新しい憎しみを生みだす。これでは何時まで経っても、日中友好は望めない。然し「中国は心から日中友好を望んでいます」と力説されました、。
 私は、中国は自国の恨みを乗り越えて、自国から報復の鎖を断ち切り、友好の手を差し 出していることが心から認識出来ました。
 私達戦犯への「寛大政策」は、この原点から生まれた政策だったと思っています。
事実、撫順管理所戦犯1000余名が「命令・指揮・実行』した中国側の被害者数は、死者だけでも、85万7000人です(管理所資料)。
 これにかへての死刑無しの「寛大判決」です。私達には最高の感謝感激で、涙が止まりませんでした。

 輸送船・興安丸に乗船前、「帰ったら二度と侵略の銃を持たず、平和に暮らして下さい一一一」の管理所職員の言葉は決して忘れず、「中国から頂いた後半生は、平和と日中友好に捧げます」と誓った、あの時の感激の言葉も忘れず、及ぱずながら実践しています。
 管理所六年の生活は、私を軍国主義の鬼から人間に帰し、私の後半生の生き方まで教えてくれた素晴らしい学校だったと、今でも感謝しています。

四、追記・「従軍慰安婦」問題について

(以後「従軍慰安婦」の言葉は「被害者」に変えます)

1、慰安所運営は総て軍管理で行つた。

 私は6年近い従軍中、殆ど侵略の最前線でしたが、湖北省での3年、荊門県の李家河・雑樹店・李家・江陵県沙市・宜昌県宜昌〈白雀寺)の五箇所では、慰安所施設がありました。
 特に、李家河・李家・雑樹庸の三箇所では、慰安所を直接管理する「警備隊本部庶務係」の一部を担当していたので、この問題はある程度証言出来ると思います。
1) 慰安所の施設に就いて
 1941年に入り、李家河に駐留中、「此処に近いうち、慰安所を新設するから、急ぎ準備が出来るよう」通報が入り、
本部は急遽、各中隊から大工、左官の全員、又、多数の使役兵を動員して突貫工事を行い、短期間で完成させました。
 場所は軍が監視し易い本部近くの独立民家を選んだ。此処は四周に友軍が配置してあり、逃亡も外部からの侵入も出来ない位置でした。
 施設は、連行されてきた「被害者用」の個室数個と、管理人用の部屋数個(寝室・倉庫・炊事場・使用人室・受付など〉と、隅に便所・浴場があったと記憶しています。
 変わった点は、一部の広場を残して、施設の周囲は外から見えない高い囲い(柵)が作られていました。

2、「慰安所の目的・管理について」

 慰安所設置の目的は、「将兵殺伐の気風を緩和し、軍紀、戦意高揚の一助とする」と書かれていたと思います。
 又「慰安所業務の監督指導は、警備隊長を任命する」と示され、直接経営は業者が独立して行っていたように見せかけていましたがたが、真実は違っていた。
 真実は「軍は業者の経営権を握り」「諸規定の履行、不確実なものは営業停止し、又は退去を命ず」と有るように、慰安所違営は全面的に管理運営していました。
 それは明らかに「軍の命令」に依るもので有りました。具体的に軍が業者にどんな業務を強制していたか、数例に就いて述べます。
 「巡察者に利用状況の報告」「本部に一表にして提出する」「慰安婦の外出は部隊長の許可が必要」「軍が行う定期の検診は拒否出来ない」などですが省略します。

3、被害者の此処での生活

 此処に強制連行された「被害者」五人は各人とも個室に監禁され、「現地での長い屈辱の生活」は、総てこの「個室』でで行われました。
 柵外の外出は許されず、本当に奴隷以下の取り扱いで、日本軍は「被害者」を「性(セックス)用具」にしていました。
 此処での(最前線〉生活用品(食料・燃料・日用雑貨品など)の総てが、警備隊(大隊)本部経理委員から「売買」の形式で補給されていました。
 安い軍と高い現地の価格差を悪用し、管理人は莫大な利益を得ていました。
 此処では「被害者」の外出は特別の場合を除き、禁止されていました。その目的は「防諜・逃亡や誘拐の防止」が目的ですが、最も懸念したのは、それ以外に「中国社会の実状を知るのを防ぐ、重要な面があった」と思います。
 当時私達の給科は、日本円に換算した「傀儡南京政府讃行の儲備券」で支給されていました。
 発行当初は差額が無かったが、儲備券の価値が戦況の悪化につれて下がり、それにつれて「円」の価値も1944年初め頃は1/10近く下がり、私達は大変困りました。
 私の月俸約20円を儲備券換算で受け取ると、町の中国食堂では「うどん」5杯くらいしか食べられませんでした。
 敗戦時は「紙屑」同然でした。「被害者」の方々もそうだったと思います。長い間苦労に苦労を重ねて貯めた、僅かな「お金は水の泡」となり、「身も魂も奪い取り」その末、敗戦時には、何の保障も無く放り出しました。

4、「被害者」が、どんなに「苦難」の生活で有ったか、毎日繰り返されていた多くの中から、一つの実例で証言します。
 1943年5月 宜昌南方で行われた「江南作戦」前の一周間、「宜昌白雀寺慰安所」は多くの兵隊が並んで順番を待っ程混雑していました。
 慰安所の使用時間は、兵が朝九時から五時、下士官は五時から七時・、七時以後は将校用と規定されており、「被寄者」に十時間以上の苦役を強制し、又一人平均、十数人の将兵の「性の相手」にされていたのです。
 五時から私達下士宮が行っても「被害者」は、それまでの疲れで、まるで死人のように深い眠りに落ち、どうしても講誰一人起きて呉れません。
 仕方なく、私たちは帰るしかありません。「こんな見苦しいやっが抱けるか。払った金は、あいつらへのチップだ」と宣言し、皆で諦めて帰りました。
 当時、私に疲れた女の心情がわかり、チツプを出すような優しい心など決して持っていませんでした。当時の私は、民族差別思想がしみ込んでいたし、「朝鮮人なんか抱けるか」」が本心だったことを告白し、お詫びします。
 要するに「私達日本軍は、被害者の貴重な人生の総ての権利を奪い去り、一生を犠牲にしました」。これはどうしても償うことが幽来ません。
 「貴方々の苦しみは決して忘れません。せめて「慰安婦制度」の本質を告発し、暴露し「慰安婦は商売だ、商売人が勝手にやった」等の暴言を粉砕し、「犠牲者の今後の人権回復の総ての戦い」の支援活動に協力することを誓います。

(参考資料)
久保田哲二  1919・1・19.生、(86才)
出身地    広島県高田郡高宮町舟木426(農業)
現住所    広島県呉市本町5-12
   高田郡船佐(高宮)高等小学校卒業。旧呉海軍工廠 電気部入廠(見習工)。
   呉海軍工廠教習所補習科(電気4年)修了。電気部設計係無線班。

   昭和14年3月から12月 電気部設計係無線艤装班、大和の電気関係現場。
    上司は、竹内将人
     参照「ある海軍少佐の戦時日記 真珠湾攻撃からミッドウエー海戦まで」
      昭和50年六月発行、潮風会(大津市杉浦町)

1939(s14)
  3月から12月 呉海軍工廠 電気部 設計係 無線艤装班、大和の電気関係現場。
  12/1 現役兵として広島歩兵11聯隊 1機関銃中隊入隊。
1940(s15)
  3/1  初年兵教育修了、補充隊要員として「重砲隊本部」勤務。
  3/24  中国派遣軍(39師団歩兵231聯隊要員 1機関銃中隊)転属・
  4/2  湖北省漢口上陸  4/4責波着, 現地教育。
  4/21-7/10 師団司令部護衛中隊・配属重機関銃手として宜昌作戦参加・1)
    随県一棗陽一草店一5/14 陳家集侵攻・中国・軍司令官張自中将軍戦死)
  5/18 白河渡河戦一5/22 虚家湾大休止一6/1 王家集・漢水渡河戦・宜城
    一子陵鋪一荊門一6/8 当陽一宜昌攻略戦)・6/15-20 宜昌反転
   一荊門撤退時の掃討戦・(重機関銃手).7/11 湖北省荊門県荊門駐留・師団護衛・
  7/12-13 黄家集、姑牛嶺付近の戦闘後陣地戦・9/1-10/30 無線通信及ぴ暗号手受訓.
  11/13-12/2 漢水作戦(重機関銃手)石板店一帯の掃討戦・12/10 李家河
   一大隊本部勤務(無線通信手庶務係助手).
1941(s16〉
  1/22-26 予南作戦、一大隊の挑家河付近の掃討戦(3中隊配属)
  2/9-19 沙東作戦「2/17 化港付近の戦闘・3/23 雑樹店へ移動(師団予備隊〉.
  4/1-2 蒋家集付近の新四軍掃蕩・4/8 張家場付近の新四軍掃蕩・
  5/7-14 江北作戦く無線通信手).6/1 兵長・
  7/2-8 荊北掃討戦(無線通信手・師団作戦)・7/8 李家(黄家集)移駐・
  8/7 黄家店付近の戦闘参加(大隊)・8/8-14 沙市、赦穴付近の作戦(聯隊)・
  9/9 張家店の杭日地下組織掃討(大隊)・
  9/29-10/31 長沙作戦(師団)「9/30 水匠店付近の戦闘」・
  10/17-18 第一次沙市付近の戦闘・10/27 第二次沙市付近の戦闘」・
  10/29-31 香炉山付近の掃討戦・12/8 太平洋戦争開始・
  12/20 蘇家集付近の拡日遊撃隊掃蕩(106名捕捉)・12/26 冬季山岳作戦参加
1942くs17)
  1/9 冬季山岳作戦終了。姑牛嶺及び同正面、英子岩付近の掃蕩参加・
  3/1 大隊本部勤務より所属中隊復帰(初年兵教育助教)・
  3/16 沙市に移駐・3/18-5/20 本16年度 初年兵教育助教・
  6/13-18 第二次カ穴作戦「カ穴、南陳家集、熊家河付近の戦闘」(機関銃分隊長〉・
  6/24-27 第七中隊配属、栽縫店、王家場付近の掃蕩戦(分隊長)・
  10/24 聯隊は沙市一宣昌に移駐・10/30-12/12 宜昌宜西地区、摺鉢山陣地分哨長・
  2/13 中隊復帰、内務班長・分隊長。
1943(s18)
  1/1-2「中島高地の戦闘(分隊長)・3/20-5/10 17年度徴集初年兵教育助教(軍曹)・
  5/23-31 宣昌江南作戦(分隊長)雨台山、偏岩の戦闘・
  6/3 宜西南方一帯の部落掃討(分隊長)・二郎廟中隊本部付連絡係下士官
     (新戦闘法研究班)・
1944(s19)
  2/1 漢口第11軍司令部派遣、「特務(偵牒)要員」として特別受訓・
  4/30 第11軍直属 挺進隊隊員、指揮班長(俗称、桜隊)。
  5/20-12/20「大陸打通作戦』(湘桂作戦叉は桂林作戦とも呼ぷ)に参加、
   「湖南省新しょう河渡河戦、長沙攻略戦、衝腸攻略戦、来陽防禦戦・
  9/1-30 南岳市憲兵隊配属
    (南岳市の抗日組織の偵査弾圧・南岳祝融峯の新四軍掃討戦)・
  10/1-12/20 広西省・茶陵・全県・桂林攻略戦・11/10 柳州攻略戦・同市治安維持
  12/20 作戦完了・挺身隊解散、隊員は各自の所属原隊復帰・挺身隊残務処理
     (戦闘詳報等)のため11軍司令部に残留。
1945(s20)
  3/1 曹長く特抜)・3/20 残務終了・
  4/25 所属原隊(在宜昌)39師団231聯隊に復帰・5/1 師団は宜昌より転進開始・
  6/中旬 師団は関東軍に転属、
  7/21-7/E 師団は東北(偽清州国四平衝)にて関東軍隷下・
  8/9 ソ聯軍参戦・8/15 四平街にて敗戦・9/1 ソ聯軍により全面武装解除、
    捕虜としてソ聯軍指揮下に入る。

 敗戦後
1945(s20)
  戦後ソ聯『カザヒスタン共和国』カラカンダ地区等に抑留。
   (炭坑作業・作業隊内務係・農場・建築作業をど・5年10ヶ月)
1950(s25)
  7/上旬 中華人民共和国の戦争犯罪人に問われ『撫順戦犯管理所』に移管・
      拘留6年。
1956くs31)
  6/22 「中国人民共和国特別軍事法庭』の『不起訴即時釈放』の寛大な判決により
     釈放され、天津塘口経、由興安丸にて 7/2 舞鶴上陸、帰国、復員、
1957(s32)
  帰国後「中国帰還者連絡会(中帰連)」会員。


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