「呉空襲、戦災、戦時、戦後の体験記」
 「海軍哀愁の栞」
                       原田 初

 今日、国の平和と安穏な日常を思い、遠く過ぎし悲惨極まる敗戦前後の体験は情感深く忘れ得ない事柄である。
 私は当時、昭和9年、岡山県津山の往古物語り・忠義桜の「院の庄」近郷より海軍に入籍10有余年。この間、戦前戦中、各種艦隊に乗り組み、実務精励または特技専修の為、横須賀の海軍水雷学校および、機雷対潜学校での普通科、高等科学生として、それぞれ専技術の特技専修し、実施各部隊配属属。前述学校の教官に任命され、特技指導教育に当たり、各技能習熟、練習生の多くは、艦艇部隊に配属。あの海戦毎に力闘空しく没している。
 思えばこれまた無念悲惨の至りである。昭和18年末、当時、対潜技術最高習得者として特命され、南西方面艦隊第一護衛艦隊所属の最新鋭の駆潜艇、水測員長として、そのころ打撃大き南方海域海域の対潜水艦護衛任務に就き、幾度にわたり、対空、対潜戦闘を重ね、この間敵潜水艦二隻を探知撃沈したことは、戦記にも残り居り誇りにもしている。
 昭和二十年五月、準士官として、呉鎮守府付を任命、南方戦線より、呉海兵団長承命服務として、懐かしの呉に帰任したが、その時既に、呉軍港在泊艦艇、海軍工廠の多くは、戦記録にも詳述の通り、米軍特攻爆撃による惨状を見聞きし、非情を嘆きつつ、我が母港呉軍港のその後の戦乱の実情、並びに、私が対応した様々な実務体験の内、情念深い想いを回顧する。

一、近親軍友の被災
 昭和二十年七月一日から二日、深夜、呉市街地および海軍主要施設の全域爆撃の当日、私は八本松の「原陸上演習場」に於いて、同期士官の特殊陸上戦闘訓練をしていた。
 これは日本軍の敗退多く、米軍日本本土上陸戦の予想に対抗するため、海軍も、陸上戦各種戦術訓練を実施していたのであったが、私等は、呉被爆の翌日、演習中止、呉被爆の救援等の命により、急遽呉に帰隊したが、あの繁華街はほとんど悲惨な灰燼と化し、哀れな惨状であった。

 この後、救援援助に尽力したが、まず呉在住していた。叔父一家の悲状を述べる。
 帰隊当日、叔父、池田鶴造呉海軍工廠砲工部主任技師、住居呉本通11丁目。現在5丁目付近の奥まった住宅地で、一戸建ての平屋6室程度の家で、被爆を心配し、先ずもって、伺ったところ思いもよらない悲惨さであった。
 住宅は付近もろとも、全焼し、家族7人のうち、長次男は疎開していたが、叔母「寿智美」35歳、次女8歳と三男一歳の3人は、防空壕内で死亡していた。
 その時の惨状を助かった叔父から聞くと、深夜の空襲警報で、一家5人は自宅より、かねて予想の小坂道上がり、宅より百メートル余りの防空壕に急ぎ避難し、
奥まった所に身を寄せ合っていたところへ、次々詰めかける避難者で防空壕内は人で詰まったとき、
焼夷弾爆撃によって入口付近の家屋は防災予測し、取り除いてあったが、
残り家屋は次々焼け拡がり、その猛火熱煙のため避難の人々は奥へ向け必死に人を押しつけるため、叔母が抱きかかえた三男と側にいた次女は、押し倒され踏みつけられた由で、
叔父も長女と一緒にいたが、暗闇の叫びの中事態分からず、後無我夢中時を過ぎ、硝煙を漂う外に逃がれ出た後、悲惨を知った由で、叔母親子同様、避難者も亡くなった方がいたと叔父から聞き、
叔父に、「なぜ叔母さんが倒れた時助けなかったのか」と、むなしい感情をもって咄嗟に言ったが、「助けられなかった」と
従前、帝国海軍あがりの海軍工廠重職で、戦前、戦艦大和の試験発射を担当したほどの、心身共に強く45歳の叔父が涙ぐむ。
細目でその場の様子を情けなく、親身の私に話し聞かせ、悲しさに互いに手を取り合って一時の嘆きを交わした想いは、今にしも忘れ得ない寂しさである。
 その後、ようやく求め得た火葬場で、哀れ口裏のみの念仏で、叔母と、幼児3人の遺骨を納め、抱きかかえて、丸焼けの長年住み慣れた住宅の焼け跡の灰の上で深い思いを重ねて悲哀の念仏を唱え、
つらい思いを残し、岡山県の山奥・新見の里へ遺品もなく、少しばかりの手荷物で、着のみ着のまま、叔父は気優しかった妻と幼い我が子の霊を風呂敷包に抱いてようよう生き残った長女、私の姪の小娘「政江」私を兄のようによう慕っていた、と3人だけで、「ようもまぁ焼け残ったもんじゃ」と言い居った。
呉駅で、煙吹く蒸気列車で帰り行くのを私はプラットで、涙心に手を合わせ見送った思い出は、これまた今にしても情けなく偲び居り悲哀ある親身戦禍の一節であった。
 なお重ねての私事ながら、あの大戦に身内の戦火があったので付加しておく。
 それは私が親族の別の叔父叔母一家の従弟四人が、いずれも呉海軍兵士として艦隊乗り組み、海戦等において戦功これまた空しう、それぞれ洋上に散華した。
 このことはこれまた今にしても、親愛の情念とともに思い深う消えることはない。この様なことは、混戦により親身の多くに限りなく、数々の戦火を受けた悲談の連鎖があり、
また翻って思うに我らが海の軍友も一点の誤りなく、過酷な軍律により、切磋琢磨して、国人を思う、真心で、己が身の力を出し尽くし、悲しうも海洋の彼方に沈みし果てた幾十万の温情極まる忠魂の英霊に誠心何れを問わず、かつまた。生正道義尽きることなく我等共々永劫に本道を奉ろう。

呉被爆市街地の救援の主要
 昭和二十年七月三日、前述の特命帰隊後、呉海兵団士官宿舎に居住し、私は準士官室先任士官、呉鎮付、呉海兵団長承命服務として、
諸般指令により、軍事関連業務のほか、当時市内戦災による呉市役所および警察等所管救難処遇事項の援助、ならびに敗戦時、呉海軍施設の一部整理等直接関与協力実施したが、これら事項の回顧を次に述べる。
 7月1日から2日夜間、米空軍焼夷弾爆撃による呉市街地は大被害を受け、海軍主要施設にも、一部同様焼失したが所属隊員職員の奮起と一般隊員の応援で、万一を想定配備されていたせいか粛然と整理していたのを当時傍見したが、
私は直接携わらず主として海兵団在隊中(待命中)隊員と共に市街地救援援助の直接作業指揮指導を指令され、連日多数の隊員を伴い作業出動実施した。
なお、この救援の根幹は市役所と、呉鎮守府従前よりの親密な対応と戦時国家総動員法等の特例により、また互助慣例によって委託されたもので、実情如何を問わず、限りある全てに当たったものであった。  救援内容は大要を鎮守府または海兵団総務部担当官により、私がまとめて受け、準士官室で、在隊者に翌日の予定任務とそれぞれの指揮者を指名表示し、打合せ要望事項検討協議し、
翌朝、通常通り軍艦旗掲揚、朝礼、課業始め、粛然と行い指示された隊員を各作業別に分隊し、必要と思われる隊内所在の要道器具を配分持参、各々指定現場に出動し、
現状により、市役所または警察官、地域指導者等と打合せ、または要望を聞き、それら要請を隊員とも話し合いし、
悲惨極まる救援作業に海軍軍人として、海の激戦を体験した若人も皆、心根をつまされながらも、指示に従い、相協力し合って懸命に、それはよく指揮処理した。
 なお、その処遇件数は指令事項または状況によって多少変動の日もあったし、当日の救援内容は帰隊後上部担当官にそれぞれ報告した記憶もある。
 これら救援内容のうち、私が担当した作業の一環などを回想する。

被災者の救援

 救援の内、特に悲惨だったのは、海軍関連施設近隣市内の和庄町付近の町民の多くの方々が防空壕に退避され、爆撃家屋大火災により、防空壕内に入口より舞い込んだ熱煙ガスのため壕内で無惨にも、多くの市民の方が亡くなられた。
 この惨禍は防空壕入口が下方に二方面分かれて、設備内部は奥で連なり、なおそれより上方に向けて緩やかな坂道のように湾曲して、上の入口まで内部で連なり、これは退避の入出を事態に応じ、簡便にするため特によく掘削されたものであったが、防空壕を内部が煙突内の形状になっていたので、予想外の大戦災で無惨なものであった。
 この惨禍の壕内のご遺体の搬出を我隊員もお手伝いし、入口外の広場でそれぞれ哀れ涙の親懇の方々に丁重にお渡しを重ねたが、これ又今に胸迫る悲状の想いである。
 なおこうした惨禍は市内全域に所状は種々あったであろうが、幾多思いもよらぬ戦禍により嘆かわしい非情が限りなくありこれ又悔みの限りであった。
 こうした無情非情限りない惨状の内にも次の様な実態もあった。それは「葬儀極度の混乱の為、夏温の時季でもあり、適宜処置差しつかえない」との当局よりの法条例外の口頭伝達があった由で、
最早どうにもならないとご遺体を灰積の焼跡の上高地広場の片隅で焼けこげの柱木などをかき集めさせ、その上に皆でお抱えしてそっとお載せして念佛ならぬ海軍兵として一斉に頭を深々と下げ、皆者どもそっと両手を合せ、
指令出発前に小瓶に入れた情知らずの当時大事な石油を少し周りに撒き散らし、悲しく舞う煙臭を避けて下の段に走り降り、焼地の道端に寄り固まって、
海兵団より持込まれた麦飯の昼弁当を汚れ顔で黙って食べながら時折り上の煙をそっと眺めた。この時この頃のこと数多い惨状を手掛けた思い出話しにも、いつも話す、これ又哀れ惨めな思い出である。
 なお、この様な悲事は混乱の極みのあの時縁者もなくその都度頼まれ作業で今まで思いもよらぬ命令に隊員これもご奉公の一端と力合せて重ね重ねやり通したが、
その悲哀の所・場所・手掛数などは今更と思い又不善お悼みごとでもありお控えしますが、その時その節深く頭下げてお情深く涙声をつまらせて「どうもどうも」「たびたび」と合悼の方々によりの礼言葉
こちらの気丈な隊員等の同じ様なこれ又情感あふれる受礼のお答えは「あーあー」とこちらも情けなくつつましく「お気の毒に」と一言付け加えるその様な状景だったろうと去りし思いのみ付け加えます。

呉市街地等の戦災応急援助

 膨大悲惨な災害で多くの被災者の緊急援助処遇等それは惨めな限り情状で前述もその一端であったが、他にも多く救援に携わった市街地は特に主要道路の障害物の取除き作業及び公有地の整理不用品の焼却等こまごまとした整理作業も隊員の上校下士官五・六名を指導協力し各地区に分れ実施していた。
 なお市役所担当者・各地区住民方々、個人・自宅特に商店の方もそれぞれ良く片付けされていた。こうした一体協力で膨大な残骸を処理したのであったと思っている。

仮設住宅(三角兵舎)設備

 主要市内整理の一段落した頃、戦中でもあり緊急事態発生も懸念され、呉海軍の対戦能力の保有の為、残存の施設保持修復等の為、被災によりこれ等住居を失った主要人及び市民の困窮者の救援の為、
海軍軍需部の保有物資又は市役所集積物件を海軍等の軍用特設野外兵舎を偽装した仮説応急住宅を横から三角型に見えるので「三角兵舎」と呼び役所の職人又は援助員、海軍兵員の内工作員などにより、
鋲管の組合せし防水覆(海軍で「天まく」といっていた)をかぶせ、床は床板を並べ上に畳敷きしたもので一戸の広さは六畳に入口に二畳位物置で一棟左右二戸で中が仕切られていたと大要記憶している。
 なお畳は主として戦災直前の広島市内等の疎開住宅のもの、で炊事は外の焼失前の住宅残り「かまど」を使用又は持込みの簡易なものを使用し、電灯中央一個取付で、今思えばお粗末なものであったが、
当時私は二河方面の設置場所を市の主任係員と談合し焼残りの「かまど」の有る場所を指定し主要道路又は商店街跡等の用地附近を避けた他の用地は何でも良いとの指示あり、
適宜設置場所指定標示し、清掃指示しあと同様に多方面設備され、あの窮極を多くの市民の方が一時忍び住宅し諸難に対応されたこと偲び当時としての対処理は誠に良かったを思うが詳細については私の残存資料の保有もなく概要を述べた。
なお当時この頃はまた商店等の復興はなく、一部商店の跡にテント張りの露天商で細々ながらもご精出して居られ、私等もお励のたしにと買い物した覚えがある。
が、商店等は二河川以西は焼残ったのでこの方面の商店、川原石、吉浦方面は呉の中心地を受けて繁盛していたようであった。

広島原子爆弾の被災時呉の現況

 八月六日の朝も私は呉災害援助の現場指導の為海兵団の広場指揮台の椅子に座し、軍刀(海軍士官用に改装した日本刀)を前片手持ちして待っていた処、
「ピカッ」と雷稲妻線の一光の後空襲警報が鳴ったので、集り居る隊員共々に隊門前の防空壕に向かった処、入らない前に解除警報があり、
通常通り始業後連日通り市内へ向かわんとした時、西方吉浦方面の彼方に青空の中に白い大団塊の噴煙が上がっているのを望見し
「あーあれは先程の空爆で海田市の石油タンクが爆撃されたのであろう」と話し合って市内作業中、広島市内爆撃を聞き、
帰隊後、広島に特殊爆弾らしく爆発のとき、光が早く爆音が後にしたと、当時この爆弾を「ピカドン」と名付け、当日呉駅に頭「ほうかむり」し、手に包帯して帰った多く被災者を見たとの報もあり。
次の朝は亡くなった人も居たとの様々な悲報を聞き、今後は空襲時は防空頭巾に夏季であったが手袋等と腕巻きをしろ、の指令も伝えられ一般市民の人も同じ様な準備をしていた様であった。
 この爆撃が原子爆弾特殊性を知らされたのは後日のことであった。
 なお当日の午後、呉海軍部隊の広島災害者の救出救援を要請され、多数の被災者を車輌で搬出し、残存病院等は満席で呉の西方面海岸の砂浜にまで緊急退出させ後悲惨な状況は既報通りであったが、
その後呉被災時の救援隊と同様海軍の出動要請によりわたしは救援隊の指揮者を同輩の内より呉鎮の指令通り指令。翌日七日より隊員多数救援に数日間出動を救助し、その悲惨さを聞いたものであった。
なおその後も指令により海軍の指令救援区域は広島駅より山陽本線鉄道線に沿って北側の被災地救援指定され救援援助に各種尽力した。
なお陸軍は鉄道線南方の被災地大部分を担当した由である。なおこの救援作業に出動した隊員の「原子爆弾被爆者証明」の確認を私しか後日多くの隊員に実施したが、この件の明しでもある。
なお原爆の付随・参考として、私が体験した件で次の事象があった。
 原爆投下の数日前、私が郷里岡山の実家へ、急用と戦中にこれで最期の決別を予断し、三日間の特別休暇を得て後、呉に帰隊の帰りの八月初日頃、山陽本線は空爆の恐れで芸備線で広島経由呉に帰る途中、
広島近くの矢賀駅前附近で空襲警報により列車が田園地帯に爆撃回避の為急停車したが、その時米軍機一機より「ビラ」を撒き散らしているので同乗者と共に列車より飛び降りて「ビラ」を拾ったところ、
広島市爆撃を予告した退避を促す日本語の拙文のものであり、広島も呉と同じ様に爆撃されると思いつつも早く退避した方が良かろうと思いつつ「ビラ」を破り捨てたが、当時あのビラを見て避難した人は助かったであろうと今にしても悲惨な思いである。
 なお現今も広島の原爆の惨状は幾重告げられているが、当件ばかりでなく全国に戦禍はそれぞれにあり近隣の我が呉市も深刻悲運を重ね、親愛恩情深い多くの人を亡くし、悲嘆悔念の想いは同様に変わることなくこれ又真相共に広範永劫に伝承すべきと思う。

終戦の残骸

 昭和二十年八月十五日終戦の日、わが国の永遠に語りつぐ日である。
 この戦に軍の奮励による安堵の思いも得た時もあったが、悲嘆の戦い多く、とうとうこの日となり、我が海軍の最良根拠地呉市も悲運な惨状となり眞に悲しい極みであった。
 私は当日も救助活動に出、正午帰隊時玉音放送を聞き、つづくお言葉の要旨放送に敗終戦を知り、海軍軍人として又この国の一人として悲嘆の極みで、
当日はその後隊内で同僚及び上下軍友集い、夜中に至るまで国の将来を懸念し、様々な思いを語り合った悲惨な思い出がある。
 なお隊内一般及び部内は比較的平然とし、呉市内の方々も心寂しく此の後を憂い居られたものと思われるが、あまり変わりなく居られたと聞いたもので、
その後困窮みじめな時を迎えても精一杯勉め励み、これら総力によってかつて例なき発展を遂げたのは我々同胞の結局知能の優れた誇りでもあるが、あの敗戦の悲運を想い、今にしても反省すべき事象もあり、これからも己が身のそれぞれの立場を思い、教えにもしたいものである。

枕崎台風水害の救援

 敗戦の動揺・処遇・混雑の最中の八月二十日、九州の南端枕崎を襲来し前日の雨と共に大洪水により戦災と共に大被害を受け、みじめな惨状であった。
 全域の被災者は別途資料にあるが、私の担当した救難作業の大要を述べると、台風は直上を通過大雨によって、呉市街周辺より流れ出る水は中央の堺川、西の二河川の主流に附近の流木土砂により埋没し、溢れた水は市街地北方は一時道路焼地にも約三十〜五十センチ溜まり、歩行も出来ない処もあった。
 当時私は被害状況の調査の為市内見回りした時、市内で仮設の三角兵舎でようやく細々居住していた方、天幕張りの商店も水に浸かり商品を欠く等悲惨であったが、これらにも増した参上があった。
 戦災をようやく免れた二河・片山・辰川・宮川等の谷川道沿いの家屋破損又は流破と幾多の犠牲者で、戦災に続き誠に哀れな思いだった。
 なお当時も前述の戦災救援と同様敗戦直後であったが、実状の鎮守府の指令により特に被災者救援を特命され、残存の隊員を伴い要具持参し、
当初は灰ヶ峯下の辰川町方面の谷川道路沿いの濁流に家屋破滅と共に犠牲の方々の救助をしたが、余りにも惨事のため詳述は避けるが、
多くの我が隊員の尽力により土塗れの哀れな方を悲し涙の親縁の方に土手でお渡しした等の悲状の数々の奉仕をした。
 なお別に宮原地区の道路に流れた濁流に前述同様の惨状があり、長時間と困難を伴ったが救出し、泣きの涙の親縁の方にお渡しし、丁重な謝意を受けたこともあり、関連しての同様の悲状であるが、
当時海軍病院(今の国立呉病院)東側の真上の雑木林の斜面に上から道路づたいなどで流れ落ちた土砂が埋め込んだが、同時に上流の被災者で行方不明の方が被災して居られるのではないかと捜査救援を依頼されたが、
当時の器具能力ではどうにも手出し出来ず、残意を残し引き上げたがその後の処情は聞き及んでは居らず今だ慙愧の思いで回顧している。
 なおこの台風による災害は近隣各地区にも及び戦災のなかった地域にも呉市の亡くなられた記録同様被災者が多く居られたのであった。

呉海軍残務整理

 敗戦の悲報重なり占領軍の日本全国主要地域に進駐の報あり。我が海軍の主要基地呉の各軍用配備施設も予断又指定され、我々苦難に耐え今の日まで精励しようやく生き残った戦友及びこの軍港の戦前戦中事大小を問わず、様々な戦運を支えたにも拘らず、戦禍の悲運に哀しむ善良優意の市民の方々も思わざる事態に共に限りなく悲嘆の思いであったであろう。
でも我々残留軍人は、前歴の武勇闊達な教訓を承受、この海戦に散った勇猛義烈果敢なかけがえなき幾多の尽積報恩の忠意を想い、海軍最期の終末に一点細微に至るまで、
誤状なく且つまた敵国の者どもに愚かさを示さないよう精心もって広範にわたり協力一致残務処理に精励したが、でも私の担当した次の諸状事は今にしても情けなく偲び居る実績でもある。
 終戦後日、九月上旬頃、日本軍の解隊で海軍残留兵もそれぞれの実情調査申告し「復員」と言って人事部より認可受けた者より逐次隊を離れ帰郷した。
 呉海兵団の残存隊員も少数となったが海軍部内諸般整理作業があり、前述の状況で綿密に処理すべきと一部混乱もあり海軍の威厳を保つ為、
私が呉の戦災時の救援等の処理を指令に従って懸命務めたことを認められて、残務処理保安第一小隊長に呉鎮守府呉海兵団の主脳幕僚協賛等により特命された(他に五小隊くらい編成されたと記憶している)。
隊員小隊で五十名くらいでこれを上校下士官兵で班に分け、それぞれの班長を決めて作業の円滑を図るように定められた。
 残務処理も逐次指令に依り、それぞれ日毎に分けて実施したが大要は兵舎・庁舎倉庫など物品ほとんど全てを焼却又は撤去し、建物内空室にする様指令され処理した。
 鮮明なものでは海兵団員の寝床、海軍では「ハンモック」又は「吊床」の処理で団内兵舎の毛布入りのまま持ち出し、練兵場の広場に数ヶ所を別々に山積みし油を散らし焼却した。これも数日要したと覚えている。
 他に主要作業で鎮守府応援処理には今も残る本館入口北側、孤立のレンガ建(現海自総監部警務隊隊舎)に収納してあった、呉鎮守府開庁明治二十二年以来海軍入籍者兵員の経歴書永存保管資料の搬出を担当。
人事部員を応援し部下に隊員共々手伝い、数少ない自動車を運び込み、一時鎮守の仮庁舎としていた二河川西岸の旅館仮事務所に搬入した記憶がある。
現今も別途保存されていると思うが膨大な大事な人事資料良くぞ残ったと当時安堵の思いと共に覚えている。
なお処理作業の応援援助は鎮守府・軍需部・集会所等および関係倉庫、宿舎の整理を同様に分別処理。
 こうして呉海軍の施設関係全域は残った建物のみで、駐留米軍広湾より上陸した同年十月六日であったが、戦前中は連日数十万人の動員で溢れた海兵団前の十三間道路は人一人通らず哀れ涙の状景であった。
 でも我等未だ残留の兵員は焼残った吉浦東部山沿いの、戦中建てた海軍工廠家屋宿舎の空家に海軍残務処理隊として数百名が呉海兵団より移転居住し細々の生活でも、残る残務に呉へ出動もしていたし、
米軍駐留後、私が兵員数人を伴い呉の二河の鎮守府仮設事務所に向かう途中最早駐留米軍のいた海軍潜水学校(今の海上保安大学)上を徒歩で軍服で海軍士官の短剣(軍正装のときは常時左腰に吊り下げ、戦後使用禁止)は持っていなかったが
道の上の入口の米陸軍の銃を持った番兵数名が私に向かって共に挙手の礼をしたので私もびっくりで答礼したが、同伴した兵員が下級仕官の私に向かった敬礼は後で大笑いした。
 米軍に戦後あった当初の思いとして忘れ得ない一時であった。
 米駐留軍についてはその後も様々な対応事情もあったが、特異な状景があった。それは呉駅前から東へ大通りの眼鏡橋までの南面海軍施設は、米駐留軍駐屯地として鉄条網で仕切られたが、
鉄条網近くで女子供が近づくと米兵がチューインガム状の飴玉をくれるとの噂話もあり、米駐留軍特段の事故は呉ではなかった様であり、翌年英豪軍と入替駐留も比較的早く、呉から撤退したのも良い環境だった為と思われる。

戦後の掃海任務の完遂

 呉市内各段の戦災救援特殊作業及び敗戦による海軍関連処理業務など多端な応急業務を、当時精意を持って務めたのであったが、
米軍駐留もし、残務整理も一応終わりの段階となったので二河の呉鎮守府終戦処理仮設事務所(その頃海軍残存隊員等の復員事務主要であった)に私は出頭して人事部長に面接し、ご指名頂いた職責も一応完遂しましたので復員の許可を申し上げたところ、
人事部長と担当幹部士官が取出した私の前経歴表を見て、「お前は機雷及び掃海の実務経歴及び海軍の水雷及び機雷学校の教官の経歴もあり、
その特技を持って戦時中米軍が日本の飢餓作戦のために引続き主要港湾海峡に敷設した、機雷掃海のため引き続き任務せよ」との主旨の厳命。
 海軍常習の命令語とお前の力量を頼むぞ、の軟らかい言葉で諭され、再考を約して数日後決断し、十月十六日付で呉海軍配属の大分県佐伯防備隊附を受命。
 遠く赴任したが残存隊員は予想以上に多く、中には海軍前記の学校で教えた隊員が多く中堅として居り、歓迎の宴までしてくれ、その後の任務が円満に推移できた回顧もある。
 爾来対機雷および掃海知能を以って、国の復興の一助に役立てる為、掃海業務に率先して携わることとし、報恩と思い戦中同様一触即発の身命を賭しての作業に、献身長期にわたり務めたが、これら経由の想い深く残った事柄など語りべの端にでも給うての想いで述べる。
 さて当初佐伯防備隊では残務隊員伴い、残存の小艇を操り先頭指揮し、米軍本土進攻第一予定地であった日向灘、志布志湾一帯の我が防備設置の各種機雷の掃海。
 処分完遂を手始めとして、あと、下関掃海部に転籍。下関海峡及び近海の米軍が極度に投下した磁気機雷(鉄船が直上を航行すれば爆発する)、音響機雷(船の通行音で爆発する)等による通行不能の為、掃海に戦中作った哨戒特務艇及び同駆潜特務艇(何れも小型木造艇)を磁気機雷掃海艇として転用。
 各々副艇長として実技指導・掃海にあたり、多くの機雷処分と共に受難に耐え忍んでの後、呉復員局に乗組のまま転籍。瀬戸内海主要航路掃海に引き続きあたり、瀬戸内の港々を泊地または基地として転々としながら、日のあるうちは艇隊を組んでの掃海作業の日々であった。
 これら掃海艇の生活の一端、あれこれ回想すれば敗戦の悲嘆に加えるに、船艇経歴および掃海そのものの知識の少ない若い乗員の相互協力の困難もあったが心の交流には良い伝統の海軍精神が互いに慰め励まし、いたわり合って円満そのものであったが、日常生活では哀れなものであった。
 夕方無事掃海が終わった掃海電纜(特殊電線に電気を通し、その磁気を持って磁気機雷を誘爆処分する)を全員で力一杯素手で引き上げる。
 素足には自転車の古タイヤで自分なりに作った履物で、着ている衣服は配給の古軍衣のまちまちで生活し、たまに一本の配給酒を乗員で薄汚れの顔をほころばせての乏しいものであった。
 でも良い思い出の一つに、四国の丸亀港に揃っての入港時、四国新聞の取材記者に苦難の掃海の現状を隊長が語ったあと、私がその頃東京裁判中でもあったので「敗戦の憂き目は私ら軍人にも責務の一端があった」との要旨を含め、新聞記者でもあり幾分誇張的でもあったが、海軍流に一致協力。
 意気揚々と命がけの掃海で、せめて報告復興を願うなどと、心情をこめてはなしたところ、翌朝新聞に、早期航路安全を願う一般多くの意向の反映もあって、我々の掃海業務を絶賛し、又一海軍兵が敗戦の責務まで負うと、大々的に報道され誇らしい気もしたが、
その後各港湾での寄港時等、我々掃海艇及び乗員に対する理解と、好意による協力と多大な援助を頂いたことは、香川県琴平神社境内に、掃海殉職者大顕彰碑が建立された一端の縁しにもなったと思われる。
 なおこの碑について付記すると、昭和二十七年六月、戦禍港湾関連の多くの市長発起により建立されたもので正面に「掃海殉職者顕彰碑」と吉田総理大臣の揮毫してあり、殉職者七十七名の尊名を裏石面に彫刻してあり、慰霊祭は毎年五月、海上自衛隊呉地方総監の主催により、御遺族招待し、当時の同僚・航路啓開隊・隊友会(呉航啓会)会員参列追悼式を挙行している。
 昭和二十五年三月十五日、天皇陛下の戦後国内御巡行のみぎり、香川県高松港より小豆島に向かれる。御召船を編隊、掃海実施中のまま遥拝し、陛下も実情を御見聞頂き、その節御説明申し上げた呉航路啓開部長の池端鉄郎に対し、掃海殉職者の遺族にも配慮するように、との御仰せまで賜った由であった。
 同年三月三十一日、天皇陛下が淡路島洲本港をお発ち神戸港に向かわれるとき、大阪湾で掃海艇三十二隻編隊航行し、登舷礼をした。当日風雨で揺れる御召船「山水丸」で、陛下はお濡れになりながら甲板上でお答え頂いたと賜ったこともあった。
 その後昭和二十五年六月制度改正により、海上保安庁、航路啓開部となり、呉より神戸に転籍。駐留米海軍と共に大阪湾紀伊水道掃海。遠く宗谷海峡掃海及び朝鮮戦争勃発により米軍指定掃海厳命され、私はMS五号艇長として僚艦五隻と共に米軍敵前上陸予定の朝鮮北岸元山港の前路掃海等約一ヶ月間無事任務を完遂した。
 なおこの特命は、当時全掃海部隊が出動し、それぞれ別働。指令掃海任務を完遂し、時に悲嘆な事象もあったが、この出動の実情は当時吉田首相了知の秘命で、海上保安長官が指名し、諸般の当時の事情略するが、
本行動に於いて海上保安庁長官が米極東海軍司令官より「ウエルダン」米海軍の最高賞詞を受け、講話条約が早まった、と。
後この件の新聞報道までされ、我等の業績を讃えるほどであったが、なおこのことばかりでなく、戦後かかわった、我々が危険海域の航路啓開にほそぼそと生活し、苦難の任務に耐え励み、国の復興再建に尽くした嬉しく誇りに思ったものであった。
 昭和二十七年、警備隊に変遷。災害派遣や朝鮮戦争後、日本海に流入の浮流機雷防除処分、瀬戸内海の戦後砲弾、黄燐弾、引揚処理等さまざまな危険特殊業務を実施。
 昭和二十九年七月一日、自衛隊隊法施行により、戦後務めた掃海及び関連任務を離れ、海軍より引続いた懇情をもって海上自衛隊開隊の先陣を務めた一人とし諸状責務これ又完遂したがので略記する。
 呉戦災還暦に至った非情、互助、情感の変転を迎えたが、末尾に至って不測にも情状の想いする。
 海上自衛隊では呉基地警防隊で米軍貸与の大型揚陸艇艇長として初期編成に入り、あと掃海母艦艦長に転じ、旧海軍の良い伝統を引き継ぐ為にも、
特に防衛大学卒業の幹部乗員には、海上勤務の戦前戦中の特例を語り聞かせ、直の上下の交わり話し、行末の参考にしてもらったりしたが、後に海上自衛隊最高任務についてから、「我等当時知り得ない教えであった」と謝恩の礼を尽くし、互情長くつづいた者も居り、後輩指導に専念の時であった。
 あと、江田島の第一術科学校管理課長として構内整備増設付属船艦艇及び工作所、消防隊の付属各指導指揮に当り、こまごまとした校内全般の管理業務に携わり、
今までの長い経験による、海上自衛隊総合学校としての基礎充実に自我をも通し最善を尽くした三年間で、海軍より引続いた海上関係公務を、昭和四十年万感の想いで左官で定年退職した。
 その後海峡を隔てて江田島を望む呉天応に居を構え、海軍よりの特技を生かして、会社務めの二十年も遠く去り、今はぼう家の窓辺や老いを楽しむ山畑で鍬を片手に、
今平穏に日毎行き来する様々な自衛艦艇を眺め、「しっかりやれよ」と胸の内、つらなる思いは遠く去りし今は昔、あの日あの時、この呉の母港に幾多の想いを残しつつ、
波乱渦巻く海戦に、二度と帰らぬ、この水道の旅立ち、艦命と共にした我が戦友などを慕う時、時を越えて積年の情、胸迫ることこれ又しばしばである。
 ここに齢九十、地域老人会長としても十三年、人の世の酬を返しつつ、波浪の人生を越えて、波静かな永遠の懐かしの母港に瞼を閉じようとしている。
 永く積もりし想いを抱きつつ。
                               終


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