「私の戦時体験」

                          河上利男

1.昭和7年(小学校3年生)
 上海事件の爆弾三勇士(江下・北側・作江)の映画を見ていた折に、フィルムに火が着いて燃え上がり、一時騒然となったが大事に至らず、再上映したことが思い出されます。 この三勇士の話を聞いて、郷土の誇り、木口小平と共に私の胸に深く刻まれることとなった。
2.昭和12年(小学校高等科2年生)
 7月に支那事変が勃発、楽しみにしていた運動会並びに修学旅行が中止となる。11月には抗洲湾上陸作戦が開始され、吾が町内初の戦死者が知らされて、12月には阜くも遺骨が送還され、年末に小学校の校庭に於いて初めての町葬が行われた。
 遺骨の帰還の阜かったこと、祭壇の大きかったこと、花輪の多かったこと、会葬者の多かったこと、私達小学生一同驚嘆したものでした。
(今にして思えぱ、終戦前後に南方やシベリヤ方面で死亡された方及び其のご遺族の方達の無念さは如何ばかりかと、悔やまれてなりません)
3.昭和13年2月(小学校高等科2年生)
 呉海軍工廠見習工員試験に合格。これまで吾が校では1名も合格していなかったので、失敗は覚悟で4名が受験した。半月くらい過ぎた後、思いもかけなかった採用通知が舞い込んだ。
 私1人だけの合格だった。家族は勿論、担任の先生を始め諾先生も喜んでくれた。これで一生食い外れはないと母が一番喜んだ。
4.昭和13年3月末(小学校高等科2年生卒業)
 呉海軍工廠見習工宿舎に入寮する。採用通知書を持ち、兄に付き添われて指定された目時に呉駅前に集合し、共済病院隣の寄宿舎へ向かった。この寮で見習工の2年間お世話になったのである。
 地方から出て来た者にはこの外に二ヶ所の寄宿舎があった。吾が寮は小さく家族的で楽しかった。他の寮は先輩が厳しかったり、南京虫に襲われえて苦しんでいた。
5.昭和13年4月1日
 朝8時火工部南門に集合、32名だったと思う。人事課の人に連れられて実習場に着いた。 見習工員としての徽章、木札、その他を受領し、説明を受けた
。 午後は火工桟橋から汽艇に乗り養成所のある本廠に向かった。約20分の後、砲煩桟橋に上陸して10分余りで養成所に着いたと思う。
学級編成で火工部員32名と砲煩部の20名くらいで1年1学級となった。1年生は全部で13学級あったと思う。時間割表、その他午前、午後交替の授業時刻等の説明を受け、愈々見習工員としての生活開始となった。
6.昭和13年当時の火工部の感想
 火工部は現在の海上保安大学の敷地にあった。門を入ると海岸沿いの広い道路に松並木があり、右沿いに点在する漏酒な工場の周囲には桜が満開で、ここが兵器工場とは思われない風景であった。
 また、追い追い解ってくるのですが、昭和13年当時この工場では2/3くらいは女子工員であった。男子はすべて7時入門、定時退廠は16時25分で、女性の入門は、7時40分、定時退廠は16時00分くらいだつたと思う。
 それに女性は海軍第一波止場(現在の中央桟橋)から汽艇で火工桟橋間の送迎があった。当時の女子工員の服装は和服が殆どで、紺の袴と紺の上着(俗に事務服と言われた)に白足袋姿だった。
 一割くらいは紺のセーラ服にロングスカート姿があった。作業着は上っ張りに白の割烹着を着るだけの姿、まるで宝塚の感があった。
 数年後になり、防空演習をするようになってからは袴が「もんべ」に変わってきて、スカートもズボンに変わるようになった。
 工場内は暖房設備があり、リノリューム張りの床で長い作業台に並んで腰掛けて、小さな弾丸部品に少量の火薬を手作業で充填する作業が多かった。
 原料、製品の搬入搬出は男性の仕事であり、女性はあまり辛い作業ではないが、慎重にしかも辛抱を要する仕事であった。
 手順を間違えると発火し、怪我をする危険性もあるのだ。
7.昭和13年〜14年の養成所の感想
 養成所(15年迄は教習所と称していた)の学業に関して始めは少々自信を持っていた私で すが、田舎の小学校では算術で習うA,BとXくらいのローマ字を覚えた程度で、英語は勿論 すべての学科で追いかけるのがやっとという状態だった。
 その代り実技では負けない心算で精を出したものだ。農村出身でも中には神童と思われる優秀な人もいたと思う、羨ましい限り。
8.昭和15年4月海軍工作科予備補習生として呉海兵団へ入団する
海兵団長は、海軍少将畑山耕一郎、副長は海軍大佐大田實。
 大田大佐は、昭和12年当時の上海陸戦隊で活躍されたとかで、陸戦のエキスパートと言われていたが、温和な容貌と静かな語り口で人気があった。
 後年、「沖縄県民良ク戦ヘリ」と打電して玉砕された、海軍陸戦隊司令官である。御遺族は川原石に住んでおられ、戦後、大人数の子女が健やかに成長されている姿を見かけたものです。
 軍隊生活は体力不足の面では苦労したが、実技では負けなかった。団体の罰直は受けたが、個人での罰直は殆ど無かったように思う。
 特に「腕立て伏せ」の罰直は何分やらせられても平気であった。朝食後の掃除の際は窓硝子拭きが待ち遠しかった。
 高い窓を拭いていると、丁度窓の外は塀越しの道路で、第一波止場へ向かう火工部の女工さんが大勢通る時間であり、知り合いの女性が手を振ってくれた。
9.昭和15年末の休暇
 12月から1月にかけては艦務実習として戦艦扶桑に乗っていた。1週間の休暇があり久し 振りに帰郷した。当時、田舎町での水兵姿を見ることは珍しく、17歳の小柄な男の軍艦扶桑の帽章に注目されたものです。
 (昭和17年頃から帽章は全部「大目本帝国海軍」となった
)  その折、伸良しだった同級生4人が写った写真がありますが、3人並んで写れば中の者が早く死ぬとの迷信があり、中央は前後に2人並んで写ることにしました。
 然し、ほかの3人は後に南方へ出征し、2人が戦死、1人が戦病死をして、生き残ったのは私1人だけとなっていた。私の姉はその戦死した内の1人の兄と、妹はもう1人の弟と結婚しております。
 休暇を終えて帰呉する夜汽車は満員で混雑していた。隣の席には若い女性が座っていて、居眠りをしては、私の肩に寄り掛かってきます。
 悪い気はせず支えていると、周囲には古い水兵がいっぱい居て私を見つめている。私は古兵に席を譲る気にはなれず、私も居眠りの振りをして支えあっておりました。
 呉駅に着いても古兵達が全部降りるまでそのままでおり、最後に後ろ髪を引かれる思いで降りて行きました。彼女はそのまま広島方面へ発車して行きました。
 第一波止場からランチに乗って扶桑に乗艦すると、帰艦者全員1列に並んで医務室に直行です。下半身裸になり腰掛けている軍医の前へ進みます。
 軍医がゴム手袋の手で次々と目前の物を検査しては一し」と、大きな声を上げてはお尻をぽんと叩いて横へ追いやるのです。
 これから又、厳寒の軍艦生活が始まります。艦が岸壁に係留している時は陸の水遺水で掃除をします。厳寒時の甲板掃除は流す水がすぐに凍りだすのです。
 氷の上を裸足で「モップ」を両手に持って甲板を磨いていくのですが、この時が一番辛い思い出として残っています。
 両手をゆっくり動かしていると「モップ」が凍り付いてしまうのです。ざらざらの「みぞれ」状になり汚れは取れませんが、これも耐寒訓練の一つです。
 こんな時に海水を流すと海水は湯のように感じられ、しぱらく手も足も漬けて置きたくなります。
10.昭和16年4月
 厳しかった軍隊生活から開放されて、工廠火工部に復帰することになりました。入廠以来年問と海軍生活1年、足掛け3年間ずっと(24時間)規則に縛られどおしだった生活から、やっと開放されると喜んだものです。
 やっと下宿を見つけて入居して間もなく、火工部人事係りに呼び出され、二河公園を埋め壷している徴用工員宿舎の指導員として住み込み、寝食を共にし、朝晩の点呼や隊列を組んでの出勤の指導に当れとの命令です。
 昼は各自の職場での作業です。火工部の工員が多く居たのは、現在の二河球場の1塁側スタンド辺りで13寮だった。
 当時は現在の二河プーノレー帯に的場宿舎もあった。的場宿舎は後に火災発生で焼失したこともあった。
 その年の7月、吉浦町狩留賀に新しく工員宿舎が完成し、13寮の全員は狩留賀の5寮へ移転した。
 狩留賀から隊列を組んで、今度は工廠吉浦北門への行進です。下駄の音をがらがら響かせて吉浦駅裏の花街を通ると、何事かと覗いて見る者が多かった。
 花街の邪魔になることと、若者を刺激するので駅裏は通らせないようにした。
11.昭和17年4月
 4月から養成所補修科へ行くことになるので、前年(昭和16年)末から呉共済病院の近くに下宿していた。この昭和16年12月に目米開戦に突入した。
 17年4月に補修科生として入学すると、また人事係りに呼び出された。
 当時は養成所隣地に忠誠寮という大きな寮と、両城の丘の上(現在の両城中学校隣地)に少し小さな両城寮とがあった。
 両城寮には吉浦地区の火工部、砲煩実験部の見習工員と本廠の造船部、造機部の見習工員が入っていた。そして、その火工部見習工員の指導員を委嘱された。
 再ぴ2年間(補修科卒業まで)規則に縛られる生活となった。
 この頃は電気部、水雷部の上の丘に大きな養成所が建っていた。ここでの様子は養成所同窓会発行の「見習工の記録」という本に種々掲載されているので省きます。
 水泳…唯一つ、水泳について説明します。
 昔から海軍は艦乗りが仕事となるので、水泳は必須科目となっていた。但し、現在のような温水プールは無いので真夏だけの練習だった。
 見習科の2年間は工廠の引き船に乗り、秋月と大柿間の海軍射撃場跡らしき海岸で泳いだと思う。以前は高須で泳いだ時もあるようだった。
 田舎では池か川で泳いでいたので、海水は良く浮くことから楽に泳げたように思う。 海兵団の50mプーノレは真水でもあり、大勢が入って泳ぐので不規則な小波が多く泳ぎにくかった。
 然し、なんとか50mは泳げる組にはいれた。泳げない者は赤帽組に廻され、午睡時間(当時海兵団には盛夏の季間30分くらいの午睡時問があった)中にプールに入れられ、竹竿の先にロープを結び、一方の端で水泳帯(自揮)の後ろ側を吊り上げ、プール内を引き廻されて練習をさせられていた。
 補修科時代は見習工員と共に、坪の内の養成所から徒歩で長郷海岸まで、週に2回くらい往復して沖の浮標間を泳いでいた。
 夏季の最終日は、音戸の波多見海岸迄の往復の遠泳が合格点とされた。幸い2年間共合格できた。
12.昭和18年9月
 補修科の2年間が、1年半の9月に繰り上げ卒業となり卒業できた。これで寮生活から開放されて川原石へ下宿をすることができた。
 そして腰を落ち着けて工員としての本職に励むようになった。本職は火工部第一装填工場工事班で図面係りの組長となった。
 下宿して自由時間が増えたと喜んだが、その頃になると残業時間は多くなり、諜報防止のため宿直当番の回数が増え、夜中の巡回回数も多くなった。
 それに若い技術中尉の防火隊長の下でポンプ長となり、夜問警戒警報で工場へ駆け付けなければならなくなった。
 この頃、目本軍の戦況は目増しに消耗戦となり、軍人、軍属が前線へ送られ、吾が工場も男性工員が続々と応召して抜けていった。
 9月頃全国に女子挺身隊が結成され、呉市内の女子挺身隊の内、約200名(概数)が火工部に配属されてきた。そして12月には学徒出陣が始まった。
13.昭和19年6月
 学徒動員が始まり呉市内はもとより、中国、四国地方の中等学校の男女学生が動員されて呉に集まって来た。
 呉市内の生徒は自宅から通勤し、市外からの生徒の大半は狩留賀の寮へ結集された。以前から入寮していた男性を天応寮及びその他の寮へ移動させたあとに入ったのである。
 この寮から隊列を組んで火工部北門から入廠し、また、一部は吉浦駅から汽車で、一部は吉浦桟橋から船で呉の本廠へ通ったのである。
 この狩留賀寮の跡は戦後吉浦中学校となり、その校門内の左側に「呉海軍工廠女子動員学徒寄宿舎跡」の記念碑が建立されている。
 この碑文によれば、県内の高女15校、島根県4校、愛媛県6校等の碑文が残されている。 その他にも数校(倉吉高女、増川学園他)あったように思う。
 これらの女子学徒は錨印の入った白鉢巻を締め、両肩には鞄と防空頭巾を掛けてモンペ、ズボン姿で隊列を組み高声で、動員学徒の唄「花もつぼみの若桜五尺の命ひっさげて国の大事に殉ずるは我等学徒の面目ぞあぁ紅の血は燃ゆる」と、斉唱しながら整然と市街行進する姿を見ては、誰もが深く感動しながら見守ったものである。
 吾が工場にも数百名の学徒が配属されてきた。これら学徒の作業は主として腰掛けて手作業でする仕事で、それ程力の要る仕事ではないが、根気の要る作業で辛かったと思う。 作業場の一部には横穴防空壕に機械を据えて、数十名の女子学徒が2班に分かれて、昼夜交替で作業をする組もあった。
 娯楽…ささやかな娯楽
 何も娯楽の無い寮生活の夜勤は、随分辛く淋しかったことと思う。夜中の短い食事休憩の折には、宿直当番をしている私達を見つけては一緒に唄わされたものである。
 始めは「学徒の唄・予科練の唄・空の神兵(落下傘部隊)・ラバウノレ小唄」等から「支那の夜・蘇洲夜曲・愛染かつら」等に進み、興が乗れぱドラマのせりふが飛び出すこともあった。
 こんなことで束の間の開放感を味わっていたのである。これも数十人の一団だけの気易さの勢で、出来たことと思う。
14.昭和20年女子学徒のスポーツ
 吾が第一装填工場の工場長江原大尉は元気の良い人で、時々班対抗の競技をさせていた。 各工場に呼びかけて工場対抗の排球(バレーボール)大会を行ったことがあった。
 吾が工場は女子学徒の生徒も多い関係か、何時も優勝をしたものだ。工廠内で私が写っている
   『バレーボール大会記念写真』
 写真はその時の1枚のみである。(前列右端の中腰姿が当時22歳で、製図の組長をしていた私です。工場の行事等には、何時もなにかと狩り出されていた)
防空指揮所
 昭和19年末から20年にかけて空襲警報が発令されるようになり、火工部内の防区地域が 制定され、第一装填工場(一装)東半分が第一防空地区となり、指揮官は江原工場長で、私は指揮官付伝令に任命された。
 指揮所は地区背後の高台の中腹(高さ80mくらい、旧国道吉浦峠の若葉バス停の海側で目新若葉寮入口の小山)にあり、背後から南側絶壁の中腹へ横穴を掘り、呉湾一帯が見渡せる位置です。
すぐ西隣の高台(現在の目新若葉寮の位置)には、警備隊の高射機関砲陣地があった。眼下に受け持ち地区があり絶好の指揮所であった
。  警戒警報発令の度にこの山の上へ駆け上り、拡声器で防火指揮官の命令を伝える役だったが火工部への空爆は無く訓練だけで終わった。物足りない思いもあるが幸せなことだった。
15.昭和20年3月19目空襲時の思い出
 7時30分〜11時頃、作業開始間もなく警戒警報が発令され、防空指揮所へ上がった。 問もなく左手背後(灰ヶ峰方面)あたりから、艦載機(グラマンと思われる)の大群が波状攻撃を仕掛け、
湾内いっぱいに停泊していた艦隊(戦艦の伊勢・目向・榛名の他に、空母3隻と巡洋艦の利根・大淀、その他小艦艇多数)に急降下爆撃を敢行しては、江田島の小用方面の上空へ抜けて飛び去って行った。
 私のいる防空指揮所の真向かい(潜水学校沖合)にいた空母(龍鳳?)は、阜々と甲板中央 に被弾し、爆弾は甲板を貫通して内部で爆発し、火災を発生した。飛行甲板は高く援ね上がり火柱を高く吹き上げていた。
 その他の各艦艇もそれぞれに多数の命中弾が爆発していた。艦船からは猛烈な対空砲火を浴びせているが、なかなか当るものではない。それでも数機は火達磨になり、海中に突っ込む機もあり、途中から落下傘で飛び降りる者も数人いた。
  すると、警備隊方向からランチが現場に急行し、救い上げて連行して行った。黒煙を吐いて逃げていく機もあったが、それは間もなく落下したものと思う。
 周辺の山からも、随分砲火を浴びせて弾幕を張っていたが、敵機も怯まず勇敢に突入するものである。大淀が火を吹き上げているのが見えた。
 敵機は二波、三波と襲い掛かってきた。数は定かではないが、200〜300機くらいか…他の艦の被害状況は確認出来なかったが私達の指揮所は絶好の観覧席であり、正に高見の見物と言うものであった。
16.昭和20年5月5目10時30分広工廠11空廠全滅
 この日の朝10時頃、郷原村の浜田橋辺りで、B29の大群が南下するのを目撃した。
 この日は三永の水源地横の松林へ、吾が工場の一部を疎開させるため、分解した建物と機材を馬車5〜6台で運ぱせていた
 それを私は自転車で追いかけていたのです。丁度浜田橋を過ぎた所で空襲警報となり、道路脇の防空壕へ入り様子を見ていた。この辺りを爆撃することはないので安心して覗いていた。
 すると岡条上の(火の用心と書いた)岩山から高角砲を撃ち始めた。然し、砲弾は敵機の遥か下の方で破裂していた。
 B29は今迄想像していた飛行機よりも数倍もの高度であり、悠々と飛び去っている。東京空襲などでB29の飛行高度に関する話は聞いていた。
 海軍の40mm機関砲の打ち上げ高度を上げる為には、現在の薬爽を倍以上にする必要があり、そのための薬爽の図面が出来て、私も受け取っていた。
 私は、その薬爽へ40om砲弾を装着するプレス機を作るべく、その設計図の作成を命ぜられていた。
 そのプレス機を作るにしても全く新しく設計し、外部へ発注して鋳物から作り上げるには長時問を要するので、古いプレス機を探し改造できぬかと、探していたところでした。
 初めてB29を見てその威力に驚き、感心したものです。今から図面を書き上げてプレス機を作り機関砲弾を仕上げても、それを打ち上げる機関砲を全部新しく作らなけれぱ、その弾丸を撃ち上げることは出来ないのです。
 従ってB29を落とすことは出来ないのです。これでは全く太刀打ち出来る話ではないとした次第です。
 そして今から三永水源地周辺へ建物疎開して、工場を整備しても製品の原材料やその半製品を他の工場へ運搬し、完成させて納品する迄の運搬を馬車で運ぶ以外ないようでは、全く話にならないことです。
 更に、その日の私の目的は三永水源地周辺の民家を尋ね、女子工員(学徒)寮を借り上げることなのです。
 1軒に10名づつにしても、5,6軒は要るし、風呂や便所も増設しなけれぱならないのです。それでも、とにかく数軒の予約を取付けて、改造の見取り図も書き、夜になって呉に帰ってきました。
 翌朝になって、広工廠と11空廠が全滅したことを知りました。
17.昭和20年6月22目呉工廠爆撃
 9時頃警戒警報が発令され、高台の防空指揮所へ上って待機していた。間もなく空襲警報となり、左側後方(灰ヶ峰方面)に気を敢られていると、
急に右側後方(広島方面)からB2の大群が現れ、頭上遥か上空を平然と南下し、工廠造兵地区(砲煩・製鋼・電気・水雷)への爆撃を始めた。
 北半分の造船・造機方面は最後まで無傷のままだった。
 右隣の機関砲はもとより、周辺の山々から盛んに砲撃を始めていたが、何れも遥か下方で破裂して、その破片が海に落下して小さな飛沫を上げるのみだった。
 爆撃は2時間くらい続いたと思う。二波、三波と襲い掛かり、平然と飛び去って行った。土煙は立ち込めていたが火の手は上がらなかったと思う。
 唯、遠目ながら建物は骨組みだけ残っているようで、全体が薄墨色から薄灰色に変わっていたように思う。同時に米軍は良く考えて爆撃したと感心した。
 造船地区は残しておいても、船を作るには相当の時間が掛かるので、直ちに兵カ増強には繋がらないと思い、占領後の米軍の利用を想定したものと思う。
 この日の正午で呉工廠の息の根は止められたのである。 18.昭和20年7月1目,2目呉市街、焼け野原となる
 1日は日曜ひで、前日の宿直開けで湊町小学校上の下宿で一日寝た後だったと思う。
 夜中の11時過ぎに「足摺岬上空敵大型機編隊北上中」とのラジオ放送があった。間もなく警戒警報が発令された。平素は、警戒警報発令で火工部の防火隊長伝令として集合することになっていたが、宿直明けの日曜日なので代役が決められていて、集合は許されていたように思う。
 「今晩あたり愈々呉に来るか、焼夷弾なら消してやるぞ」と意気こんで待っていた。
 間もなく空襲警報となり、爆音が聞こえてきた。灯火管制で真っ暗な中空で、一瞬花火が裂けたように明るくなり、火の粉が四方に飛ぴ散るように見えて落ちていった。
 亀山神杜方面らしき辺りから火の手が上がった。続いて、両城尾根の蔭ながら休山の山麗らしきあたりを、次々と火の手が北方へ延びて畑方面へと拡がって行った。
 私は湊町小学校の上に居たのですが、数人の警防団員が残っているだけで、殆どの人達は手荷物を提げて北塩屋の射的場辺りの畑や山に避難して行った。
 初めの内は警防団の伝令が三条辺りから見た火災の様子を知らせてくれたが、火災が市内中央部に延焼する内にその伝令達もいなくなり、気が付いた時は、私1人だけになっていた。
 やがて火災は二河川を越えて三条方面迄来たらしく、金比羅さんの屋根がくっきりと浮かび上がり、すぐ近くまで燃えて来た様子に変わっていった。
 上空には火災に映し出された敵機の機体が、次々と来ては焼夷弾を落として逃げて行く様子が見えた。
 愈々火災は両城を越えて川原石地区へ延焼して来ると覚悟しましたが、私一人残っていたのでは、次から次と落ちてくる焼夷弾は防ぐことは出来ないと思い、ぼつぼつと、射的場へ向かって上って行きました。
 中間頃迄行った辺りで爆音が消え、火災の延焼も止まったようでした。山に避難していた人達もぞろぞろと降りて来て、無事だった我が家へ帰り着き喜びあっておりました。
 翌朝、工廠へ出勤しましたが、電車・バス・汽車が不通で、出勤者は1/3くらいだったかと思います。自宅が焼けた人でも出勤して来た人もいたように思いました。
 私は、吾が工場の工員名簿を提げて、班長に従って工員の安否確認のため焼け果てた市内へ出て行った。街中は方々でまだ焼け残りの煙が上がり、建物の残骸が道を塞いでいる所も多かった。
 夏の日差しの中、余熱の残る道を回り道をしながら訪ね歩いた。中央部の工員宅は皆焼け果てて、本人に会うことは出来ず、生死の情況も不明な者ばかりでした。
 それで主として市内周辺部を丁寧に探し、家の存亡と生命の安否を求めて廻った。
 14時頃、上内神の班長宅へ立ち寄り、昼食をご馳走になった。その頃では珍しく良く冷えたビールを戴いた時の味は、その後にも無い忘れ得ぬ味となって今でも喉の奥に残っております。
 その後、二河・両城と廻り、16時過ぎに工場へ帰着しました。調査結果を整理するのに類焼家屋は早く解ったが、生死の確認は数目後になったと思う。
 そしてその折の消失家屋数や死亡者の人数などは、記憶に残っておりません。
19.昭和20年7月24目艦載機500〜600機、呉湾周辺に疎開係留していた残存艦船襲撃される。
 3月19目の被弾で呉湾停泊中の艦艇の大部分は、戦カを消失していたようだ。
 その後4月始めに大型機数機が夜間に呉湾内に機雷を投下していた。その折、1発の爆雷は、食糧営団の川原石販売所(当時は海軍工廠購売所)裏の下水溝に落下していたのを見に行った記憶がある。
 この爆雷と重油不足で艦船の移動ままならず、損傷したままの姿で呉湾内外の島陰へ曳航、係留されていた。
 岸壁から艦船へ網を張り、その網や軍艦の甲板へ松や竹などの枝を取り付けて迷彩を施していた。2,3目すると変色してしまう、そんなことで米機の眼をごまかすことが出来るのかと、疑問に思っていた。
 24日、早朝から警戒警報・空襲警報が断続的に発令された。早朝から夕刻まで6〜7回艦載機が来襲し、残存艦船に集中攻撃を仕掛けて来た。爆撃と銃撃を交互に来襲した。
私の任地である第一防空指揮所から見られる範囲に、7艦(出雲・榛名・葛城・天城・龍鳳・青葉・伊勢)と係留地を知っていた2艦(磐手・目向)目掛けての猛攻撃である。
24日の攻撃で・青葉・天城・伊勢・葛城等が大破して転覆又は、着底したように見えた。
 伊勢と青葉が盛んに反撃する砲火を望見することが出来た。24目の攻撃で殆どの艦が再起不能の状態になっていたようだ。
20.昭和20年7月28目艦載機波状攻撃多数
 この日は主として榛名を目掛けて急降下している。水煙が高く上がり開戦当時の真珠湾攻撃を術佛させるようだ。
 榛名も怯むことなく勇敢に砲火を浴ぴせていたが、衆寡敵せず、午後になって遂に大破、着底したらしく砲火は沈黙し、敵機の襲撃も終わった。
21.昭和20年8月6目広島に原爆投下される
 朝、女性の朝礼が終わった頃と思う。事務所の中で図面を引いていた時に、何処かで電線がショートした感じの強い光が射し込み急に明るくなった。
 光の元は何処なのか、皆んなが不審な顔をして周囲を見廻していた。しぱらくすると今度は地の底から湧き出たような音と揺れを感じた。是、また、その原因が解らなかった。
 何分か経った頃、外の方が騒がしくなった。大勢の人が西海岸の方へ走っていくのである。西海岸の工場で爆発でもあったのでは…と、思い、私もつられて走った。
 西海岸へ行くと丁度、狩留賀のトンネノレの上空辺りの山の向こう側に、異様な形(例の茸雲)の白い雲がむくむくと競り上がっていた。
 人々は、坂か矢野辺りの陸軍の火薬庫か、ガスタンクが爆発したのだろうと言う人もあり、また、他の人は、軍用列車の火薬の爆発などと、さまざまな議論が始まっていた。
 暫くすると、今度は火工部の本部の方が騒がしくなった。何でも広島へ新型爆弾が投下されたらしい。広島の街が破壊されて燃えている、至急、負傷者救助用のトラックに作業員を乗せて広島へ直行せよとのことだった。
 丁度、居合わせた空車が一台あったので作業員を乗せて出発して行った。私も命ぜられたら直ちに出動する心算で心の準備をしていましたが、空車が無くて後続の救助隊は出動できなかった。
 後から感じたことですが、これも重大な運命の分かれ道だったように思います。
22.昭和20年8月15目終戦の日
 この日の朝「我が工場を疎開させる為の防空壕が安浦方面に出来つつあるので見に行こう」と言われ、工場長の技術大尉と班長の技手に従い3人で出かけました。
 吉浦駅から汽車に乗り安浦駅に着きました。安浦海兵団の沖にある海軍施設部の現地事務所に着き、完成間近の防空壕の視察を申し込んだ。
 防空壕は船で20分程南方の、目の浦海岸(現在のグリンピア安浦の手前の入り江)に在るが、船は13時でないと出港しないということで待つことにした。
 早めに昼食を済ませ待っていると、ラジオで重大放送があるので一緒に聞きましょう、と言ってくれた。どうせしっかり頑張れと言われることだろうと、話しながら待っていた。
 12時になって愈々放送が始まったが、ラジオが悪いのか、テープが悪いのか雑音が入って良く解らなかった。
 唯、なんとなくポツダム宣言受託かなということだった。これが本当なら防空壕も何も要るものかと話したが、降伏の真偽が解らないので折負来たのだからと、船に乗り込んで日の浦海岸へ行った。
 場所はグリンピアヘ行く途中の、日の浦トンネルを過ぎた下りの坂道辺りの海岸で、海から直接壕内へ進入出来るような大きな横穴が数本掘ってあり、奥はかなり広く繋がっていたように思う。簡単な見取り図を作ってその船で直ぐに帰った。
 夕方17時頃、吉浦駅に着いた。すると隊列を組んで帰寮する女子学徒の最後列に出会った。学徒達は眼を赤く腫らしていた。工場長や私たちを見つけて声を上げて泣きながら取り巻いて来た。
 てんでに「これからどうなるのか」「これからどうすれぱ良いのか」などと訴えてきた。
 私達は返す言葉に窮し、唯々「家や学校に帰って本来の学生に立ち返り、挫けずに元気を出して頑張ろう。辛い仕事に研えてくれて有難う、ご苦労さんでした」と言うのがやっとでした。
その後大多数の学徒達とは再会出来ない儘になっていますが、あの当時の動員学徒の真蟄な姿は、私達おとなに深く、大きな勇気と感動を与えてくれていたのです。
 80歳を過ぎた現在でも、私の胸の奥で燃え続けている感動なのです。
23.昭和20年8月25目退職
 16日は女子学徒以外は、大方の工員(罹災者以外)は出勤していた。朝礼後は気の抜けた身体故、何をする気にもならず動きが悪くなった。
 その内に敗戦処理の作業が、ぼつぽつ始まった。先ず、各現場周辺の火薬類は全部集めて、それぞれの火薬庫へ収納する。
 その他の材料類も総合倉庫へ保管する。私達事務所の者は殆どの書類は焼却処分にした。
 その後、数目の間に処分する仕事も無くなり、徴用工員には先に給料を支払って帰郷させた。
 軍隊へ応召して国内に居た人は「無罪放免され、唯今帰参致しました]と大きな声で嬉しそうに挨拶して帰ってきた人もあった。
 工場内は絶対に火気厳禁の防空壕内に小型ヒーターを持ち込んで、薬缶で水割りアルコール(中にはメチルもあったようだ)を呑んでいる人もいた。
 賄所に顔の効く者は炒子を貰ってきては、ちびりちびりやる人もいた。私は勧められてもアルコールは苦手で、口が受付なかった。
 飲む人は始めは炒り子の頭を落としていたが、仕舞いにはその頭も拾っては飲んでいた。
 守衛を買収して色々と器具、材料を持ち出す話を聞いたが、私は勇気?が無く、自分用の製図器一式等を持ち出すことが出来た。
 防空壕へ退避する度に、女子工員に持ち運ぱせていたタイガー計算機1台を狙って、隠し持っていましたが遂に実行できず、机の引き出しに置いた儘になった。
 あとから聞いた話では、守衛と組んで夜間船を乗り付けて、工作機械を大量に持ち出したという話を聞いた。そんな人は早死にしたに違いありません。
 その頃はコピー機のような物はなく、極く一部数名の住所を書き合ったのみで、その後の消息が掴めず、再会出来ないこととなりました。
 終戦後一週間くらいで整理も終わり、25日頃殆どの人と別れを告げ、僅かな退職金(額は覚えていません)を貰って退廠致しました。
24.昭和20年9月終戦後
 終戦後は、鬼畜米英の占領軍が来るというので、大方の女性達は縁故を頼って農村へ退避したようで、私の組に居た数人の女性の避難先の有ることを確認して、私も一応郷里へ帰りました。
 帰郷したものの仕事はなく、占領軍が呉に進駐してもそれ程の混乱も無い様子なので、10月になって、また呉へ出てきました。
 同郷の知人が食糧営団に勤めていたので、その人の紹介で食糧営団へ就職することが出来ました。
 一生食い外れはないと思った工廠で食い外れたので、今度は米屋なら絶対に食い外れはないと思い就職したのです。
 然し、米屋といえども肝心な米が無く苦労しました。そして半世紀を過ぎた現在は米余り現象で、米屋だけでは食っていけない時代になっているのです。
 全く世の中は常識通りにいかないものです。終戦迄、食糧営団で食糧運搬に従事していた半島出身者が、集団帰国した後任として就職出来たのです。
 工廠で図面書きをしていた身体で、60kg入りの玄米の運搬は苦労しましたが、負けるわけにはいかず頑張り通しました。
 年末の食糧調達に苦労した体験を、呉市編纂の(呉市制百周年記念)体験手記集「呉を語る」に発表しております。
 軍国教育を受けて育った私達は、当然と思って進んだ道が大間違いであったことは残念なことでした。然し、私個人としては、幸せな生涯であったと感謝しております。
 70歳過ぎまで病気や事故等で休むことも無く、米穀業界に無事勤めることが出来ました。 丈夫な身体に育ててくれた両親に感謝するものです。
 農村からは進学できる者が殆どいないという中で、難関を突破して工廠へ就職出来たこと、それ程優秀でもなく、体力も無い私が、唯巡り合せが良くて疾病、負傷にあうことも無く若くして兵役を済ませて、常に指導的立場を与えられたことは、唯々、幸運の一語に尽きると思います。76歳の現在も至極元気で、まだまだ世間のために出来得る限り、報恩の道を歩む心算でおります。

参考資料:呉空襲記 昭和50年 中国新聞
解説日本史年表 昭和61年 研文書院
呉海軍工廠見習工の記録 平成2年 呉海軍工廠工員養成所同窓会編集委員会
呉の歴史 平成14年 呉市史編纂委員会
体験手記集「呉を語る」平成15年 呉市史編纂室


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