「ある郵便局員の回顧録」


                           三上勇夫

 私は昭和13年5月に通信書記となり、郵便主事に任命せられた。月俸四十七円である。
その頃の昇給は事務員が六ヶ月に二銭、書記補が一年に二円、書記は三円であった。
 煙草は敷島が十二銭、朝日が十銭、バットが七銭であった。葉書は一銭五厘、手紙は三銭であった。

1、呉駅改札口の突破
 第二次世界戦争は益々急を告げ、局員はどんどん應召し行った。その上、呉海軍工廠では戦時態勢を強化し、従軍員を多量徴用した。これに便乗して集配員がどんどん工廠に工廠にと転出し、仕事が滞るようになった。
 特に集配員の不足は日々の郵便物の配達に影響を生じ、繁華街、官庁中心地は一日三回配達が二回となり、二回が一回となる状態となり私等郵便課主脳陣は頭を痛めた。
 又、内勤者も次第に減り今では内外共、極めて憂慮すべき状態に至った。やむ得ず、補充人員を上局に要請した結果、女給、芸者、人妻等を徴用し臨時者が雇用されたが仕事は遅々として捗どらなかった。
 その内、海軍は敗戦の色濃くなり、何事にも神経質になって「郵便物が遅延する事は軍の戦略に非常に支障をきたすもの」と鎮守府副官部から抗議を受ける。局長以下我々幹部は「如何に対処していくべきか」を日夜苦心した。
 しかし、集配員の軍需産業への流出は益々激しくなり、ややもすれば一回配達を欠くようになってきた。
 その反面、海軍への應召兵は次第に増え、一時は三千名から五千名という膨大な人員となり、その都度、入團時に着ていた衣服を家に送り返す小包が局内に山のように積み重ねられている。しかし人員は不足し私は途方に暮れる。
 会議の結果、やっと他課より若干の応援者を得てこれを捌いたが、これを逓送する逓送自動車は小包を満載し、郵便列車に積載するため主任以下全員が自動車に乗り込み駅に向かった。逓送自動車は局から駅間を幾度となく往復した。
 駅では列車への積込み作業に全員懸命であった。汽車の発車時分は迫った。停車時間の五分間に数十個の重い郵袋がどんどん積み重ねられ殆ど満載になっている。
 最後の自動車が局を発車したのは列車発車時分三分前である。私は最後の逓送自動車に飛び乗り直接指揮をとった。
 時計は刻々と時を刻む。若しこれだけの郵便物を「フケ(不搭載)」した場合の後の処理を考えると、どうしても積み込まなければならない。私の心は矢のように焦りが出る。
 「駄目だ、通用門を迂回していては到底間に合わない。改札口を突破しろ」と命じた。「改札口をぶっ壊すのですか」と運転手は驚きながら云った。「かまわん、改札口から入れろ」私は命令した。
 「ドタン」大きな音と共に改札口が破壊され、車はプラットホ−ムに入った。駅長や助役が飛んで来る。
 私は駅員の抗議を聞かず車から郵袋を降し郵便列車に積み込む「ワッショ−ワッショ−」と掛声もろとも積み込む、一人が中に這入って積み重ねる。
 郵便係員は「無茶だ、これ以上積載はできぬ」と云うのを聞かず積込み作業を続ける。郵便係員は中から扉を閉める、若い局員は無理矢理に扉を開ける。
 ベルはジャンジャン鳴る。一分、二分定刻は過ぎた。助役が飛んで来て「郵便物はまだ済まないのか」と云っている。
 「もう少しだ、もう一寸待ってくれ」三分過超している「もう、待てぬ」と発車させた。 郵便列車は郵袋を満載し扉を開けたまま走り去った。
 皆は汗を拭きながらあんど安堵した心持で局へ帰った。帰ると課長が「君、駅の改札口を破ったと駅からひどい抗議があった。どうなっていたのか」と云った。
 「あれだけの郵袋の積込みは普通の手段では到底不可能である。非常手段を取ったのだ。責任は私が取ります」と答えた。

2、国民への幼稚な軍部指導
 その頃から時々敵機が呉の上空を飛来することがあった。しかし、素通りで何時も西北方面に姿を消した。
 郵便配達はついに一日一回の配達も不能になった。そこで幹部が非常時宣言を発して海軍関係、繁華街地を除いて学童配達する事とした。
 小中児童に自宅附近を区域と定め放課後配達させ、また各隣保班長に自分の受持区内の居住者へ配達を行せ辛うじて一日一回の配達を保った。
 一面、市内では婦女子が竹槍の稽古や馬穴リレ−が盛んに行われた。服装は女子はモンペ、男子は国民服にゲ−トル姿で戦時態勢は漲ぎっていた。
 私は暇があれば防空壕を掘った。前庭から家の下を通って裏庭に出るように計画し夜遅くまでコツコツと掘り続けた。
 また、非番の日に青松葉を取りに山に登った。青い松の枝を剪り取って裏庭に積んでおき、万一空襲があった際はこれに火を点け上空を煙幕とした。
 他愛のない児戯に等しいものであったとは後日実施した際はっきりした。一時的には煙によって煙幕らしき状態となったが、その上空は晴々としており、やがてこの煙幕は衰える。
このような幼稚な指導が公然と行われていた。

3、呉大空襲
 毎日、戦災都市が局報で通知され、その都度私は地図上の戦災都市に赤丸を付けていたが、もう全国で目星しい都市は幾等も残っていなかった。
 しかし、不思議に廣島、呉、長崎、京都、奈良等は未だ戦災を受けていない。私は戦災地に如何して郵便物を逓送するか心を砕いた。
 昭和二十年七月、呉に爆彈が投下された。それまでは敵機来襲があり、その都度燈火管制をし退避壕に逃げ廻った。しかし、数分後には敵機は廣島方面に飛び去っていった。
 この日は午后九時頃急にケタタマしく空襲警報が鳴り響いた。私達は警報には最早マンネリズムになっているため「またか」と思いながら貴重品や必要品を袋に詰め何時でも持出せるようにして退避の準備をした。
 非常袋を担いで出る妻は、眞一郎(長男)を背負って両手に持てるだけの物を持って崖下の退避壕に入った。所が私達が壕に入った途端、バラバラと雨の降るような音がした。
 「月が出ているのに雨が降るなんて」と皆が不思議に思った。その時、ビカリと照明彈の光が周囲を眞昼のように明るくて照らしたと思った瞬間、ドカンドカンと爆彈が投下され見る間に全市が火の海となった。
 壕には熱風が吹き込んで来る。私達は壕の奥に播りながら不安な気持で肩を寄せ合った。見ると前の三宅酒造場が勢いよく燃え上がっていた。
 暫くして「皆出て来て下さい。馬穴リレ−に出て下さい」と警防團の人々が叫んで廻っている。飛行機は逃げたらしい警防團があんなに云っているのだ。
 私はバケツリレ−に出ることにした。そっと崖上の私の家を見た。家は未だ異常は無かったが、崖下から街の一面は火の海である。
 三宅酒造の傍では、男も女も馬穴リレ−で長い列をつくって「ワッショイ.ワッショイ」と掛声と共に送水をしている。
 しかし、猛火の前には馬穴一杯や二杯の水ではシュンともいわず、かえって火を呼び立てるようだった。私は馬鹿らしくなってやめた。
 長い間訓練した防火訓練も猛火の前には何の役にも立たない。空襲の戦火を知らず幼稚な手段しか考えない軍上層部に対して我々は呆れる外はない。
 「防空壕を掘れ掘れ」ときつい通達によって、身を隠すだけに掘った防空壕は、家が焼け落ち、蒸し殺しになった人が幾百人いたことか。
 特に海軍から召集された日本赤十字の看護婦幾十人もが、寺西町の明法寺前の防空壕で蒸し殺しで、窒息死した惨状は眼を伏うものであった。
 こうした状態で数週間過したが、やっと火が下火になり我家に帰った。市中では、戦火のため家を失った人々は、跡形もない自分の家の前に、吊然とし放心したように佇んでいた。
 長かった一夜が明けた。天野(義兄)はどうだろうか、敏子(妹)のところはどうだったか。私は焼け爛れた道を歩いた。
 天野は無事、敏子の所、附近は一物も無いまでに焼け失せていた。無事で逃げてくれればよいが、子供を二人抱えた敏子の身が案じられるが、混乱した状態の中では探すあてもつかず空しく帰って来た。
数時間過ぎて敏子等の消息が判明した。皆無事であった。家は焼かれても、身体に異常がなかったことは、何より幸いな事であったと思った。

3、呉郵便局の惨劇
翌朝、局に出てみることとした。勿論、家から見ても局が完全に在るとは思えない。ただ電話課の(当時は電話局でなかった)鉄筋建はポッンと焼野原の中に立っているのが見えた。
 未だ、市内のあちこちに余燼が残り焼けていた。私は焼け爛れたアスファルトの道に靴が粘り付くのを意識しながら困難な道を歩く。
 平坦部は全焼で、町内の方向は見当がたたない。私はただ電車道に副って歩いた。電車の軌道は飴のようにへし曲がり電車の残骸は所々に醜くい姿を止めている。
 ふと、人垣の間から見ると女の人の焼死体である。小さい子供を両脇に抱えて・・・。私は見てはならないものを見たという悪感がしてその場から去った。
 また、道端に男の焼死体がある。金庫を持ち出そうとしたものらしく、平棒金庫が死体の傍に転がっていた。そうして次から次へと転がっている焼死体の間を通ってやっと郵便局跡に辿りついた。
 来てみると数人の局員の姿が見えた。私か着いた途端、若い局員が私の姿を見て走り寄って来た。
「主事さん」と泣き顔をして私に取り縋って来た。「無事であったか、よかったなぁ、皆の消息は判らないか」と云った。
 「よく判りません、あれを見てやって下さい」と彼は指差した。見れば疎開地跡の広場に幾つもの筵が並べてある。
 「あれは何だ」私は歩きながら彼に聞いた。「〇〇君も△△君も死にました。見てやって下さい」筵を取って私は思わず息をのんだ。
 眞黒くなった顔は人間の顔とは思えない程膨上がって一見誰か判明がつかない。私は暗然として思わず涙が落ちた。
 「これは誰なのか」「よく判らないので持ち物を調べたら〇〇君でした」「あの日彼は宿直だったなぁ・・・可哀想なことおした。こちらは」
 「△△君です」私は次から次と変り果てた部下の姿を見て合掌して回った。全部で七人である。宿直者は十名と定めているので、三人は助ったものと思えた。
 「どうして、こんな事になったのか」と私は聞いた。その時、彼は目をしばたきながら
「空襲のサイレンが鳴ったので皆急いでこの防空壕に逃げ込みました。局は直撃彈を受けて見る間に火の海となり、皆が退避している防空壕に煙が入り込み呼吸が苦しくなったため、反対側の出口から飛び出して裏の溝に飛び込み三人は無事に溝に沿って逃げたが、
四人目から熱風に耐えかね一度に溝(この溝は幅三米.深さ四米)へ飛び込んだ途端、裏の民家の土蔵が焼け落ちたため、溝の中で蒸し殺しになってしまったのです」
「可哀想なことをしたなぁ」と私はその状況を想像しながら戦争の悲惨を今更ながら強く感じた。

4、死体の当番
 線香が微かに細い煙をあげている。死体は六月の炎天下に僅か一枚の筵を覆ったまま並べてあった。枕元には一枝の草花が供えられ、半ば燃え尽き
夜は停電のため暗黒街となり、町角の各所には海軍の警備兵が武装して警戒し一層陰惨を極めた。所々に餌を漁る野犬の群れの姿が見られ、焼け残った残り火は人玉のように青い光が暗夜の中にチロチロと燃えていた。
 電話課に集まった幹部は協議の末、一名づつ死体番をすることに決定し至急選衝するよう連絡があった。
 やむなく、ここに集まっている五人の者に話し、午后八時から午前六時まで二時間交代で死体当番をする事にした。
 私は晝間見た黒焦げになった異形の姿が頭に浮び思わず戦慄を覚えた。
 死体はその翌日もそのまま筵に覆ったまま放置されていた。筵を開けると腐食していく死体はますます醜悪に変貌し凝視する事が出来ない状態になっていた。
 私はたまりかねて庶務課長に喰ってかかった。「何時まで、此の侭にしておく積もりか」と怒りを込めて抗議した。
 「警察に早く検視に来るように再三頼んだが、警察では余り死者が多いので手が回らんと言っている」
 「そんな事では困るではないか、市役所の衛生課に行って相談してみたらどうか」と更に強硬に主張した。やっと四日目に検視が終わった。
 火葬場は呉の西北の山の中腹に急造されていたが、そこまでどのようにして運ぶかをいろいろ論議した。
 勿論、市内では車という車は殆ど無く、僅か他の都市より流入した車と海軍のトラックのみが動いていた。
 庶務課長が「三上君、死体を運ぶ運搬車が無いが、逓送自動車に頼んでみたらどうだろうか」と云った。
 私は「逓送車に死体を載せることは嫌がるが、一応話してみよう」と答えた。逓信会社に話をしたら案の定断った。
 「死体を車に載せると車が穢れ、いろいろな事故が起ると云われているので辞退する」として応じてくれなかった。
 私は再三頭を下げて頼んだところ、ようやく不承不承で了解してくれた。そうして、やつと荼毘に付した。

5、仮局舎「片山小学校」の恐怖
それから間もなく各課が分散して仮局舎に移った。勿論、市内は全滅であり、焼け落ちた家屋を整理して局舎を急造することは到底困難であるため、各学校の教室の一部を借用して仕事をした。
 郵便課は呉市の東北にある片山小学校に移った。この小学校は戦災者の死体の収容所であり、校庭には筵や毛布をかけた死体が何列も並べられていた。
 その内、校庭に収容し切れなくなった死体は各教室に収容されるようになった。
 カンカン照りの校庭には無数の青蝿が群がり飛び悪臭を発散し、私達は吐気を催す状態であった。
 宿直の日は死体が各教室に収容されているので、なるべく便所に行かないようにしていたが、偶々尿意を催すと身が細る思いがした。
 二十觸の電燈が廊下の要所要所に点いており、死体が収容されている教室の前の廊下を怖る怖る通って行かねばならなかった。
 廊下には魂の抜けた死体から死霊が私達を取り巻いているようで戦慄を覚えた。
 その後、次第に死体の数は減っていった。海軍のトラックが数台来ては死体の頭と足を掴んで荷物のようにトラックへ投げ込んでいく。
 私達は死体が持ち去られた後を掃除した。海軍病院(仮病院)から若干の消毒薬を貰って散布したが、臭気に謂集するし青蝿は当分絶えなかった。
 戦争は益々苛烈を極め、その後、屡海軍基地の爆撃が行われた。この頃サイレンが鳴ると私は金庫にある過超金(区内各郵便局より送られてくる資金を一時郵便課で保管)を袋に入れて防空壕に移し、敵機が去るとまた持ち帰る作業を毎日何回となく繰り返していた。
6、八月六日からの廣島
 八月六日。呉が空襲を受けて二ヶ月後、私が出勤して自机の椅子に腰掛けると同時に「ダァ−ン!」と大きな音響と共に校舎が揺れた。
 私は叱驚して「どうしたんだ、吉浦の火薬庫が爆発したんじゃあないか」と皆と一緒に窓から首を出した。
 「西の空から、あんな雲が昇っています」指差す方向を見ると桃色の雲が菱形に拡がっていく。
 一時間位経って駅に行っていた逓信自動車が帰って来た。
「幾ら待っても郵便列車が来ないので、駅に問い合わせたところ廣島が大変な事になっているそうだ。今のところ列車の開通見込みは全然たたないそうだ」
 私は直ぐ廣島駅前郵便局(郵便の集中局)に電話をかけた。廣島方面全部不通、電報も駄目だ。直ぐ本局にその旨を報告した。廣島方面の様子が全く判らない
「なんでも廣島は壊滅状態で多数の死傷者が出ているらしい」という漠然とした情報以外に入って来ない。
「当分、状況が判るまではしかたがないが、自動車を出して見てきたらどうか」と云うと「自動車は今連絡に行ったらしいが海田市から先は這入れんようです」と云っている。
 不安な状態のまま午后になった。午后一時頃から、ぽつぽつ情報が入って来た。避難民の話しによると
「廣島の上空から一発の爆弾が投下され『ピカッ』と閃光と共に地軸が裂ける音がして、同時に全家屋が倒潰し死者累々となった。
 その惨状は全く眼を覆う状況である」と断片的に知ることが出来た。その内、続々と避難民が呉に来て次第に廣島の惨状が判った。
 局では再三幹部会議が開かれ対策が協議された。三日目、私は郵便課長から
「ご苦労であるが廣島に行ってみてくれないか、あらゆる通信機関が途絶し逓信局からも未だに何等の指示も無いしどうにもならない。廣島に行って連絡を取ってみてくれ」と云われた。
 私は逓信自動車に乗って廣島に向けて出発した。呉街道を進むに従って避難民の行列は続いている。
 避難民は何れも半裸体で顔や身体は黒ずんで眞赤に赤チンなど塗り、両手を前にぶら下げてとぼとぼと歩んでいた。
 その姿は幽鬼のようである。私達の車はこれら避難民の横を徐行しながら、大洲の入口に達した。
 突然、兵隊が車の前に飛び出し「待て・・君等は何処に行くか」と怒鳴った。私は車を降りて説明したが「帰れ、今、廣島はそれ所では無いのだ」と言い張った。
 私はこの兵隊に通信の重大性を説いて特別に廣島に這入ることを許された。
 廣島に這入って第一に驚いたことは、一面荒涼たる焼野原となっていることだ。
 ただ、ポツン.ポツンと鉄筋建の家屋の残骸が空しく残り、電車の線路は飴のようにヘシ曲がり焼けた電車の残骸が残っている。
 罹災者の死体は黒々と重なり河の橋果には筏のように死体が浮んでいる。予想以上の惨害に私自身が地獄の底に落ち込んだような恐怖と錯覚に陥いった。
 アスファルトの道は溶け爛れ幾度か車を止めながら廣島駅前に出た。廣島駅は焼け落ち外核が僅かに残っていた。
 廣島駅前郵便局跡に行った。未だ燻っていたが、ふと見ると小さな板に消炭で「廣島駅前郵便局はこの裏の天満宮の境内にあり」と柱に打ち止められてあった。
 私等は焼け跡の散乱した道を北に進んだ。見ると高い石段のうえに朱塗の天満宮の門が見えた。不思議なことに天満宮の朱門は無事であった。
 社の前は避難民の収容所であり多くの老若男女が色々の方向に向かって坐っている。皆頭髪は抜け身にまとった衣装はボロボロに焦げ落ち殆ど半裸体姿となっており、私等に向かって「水を下さい」「お願いです、水を・・」と取り縋って来る。
 中には見る間に絶命する者や断末魔の苦痛に土をかいている者など全く静視が出来ない有様で有った。
 私な何を施す術も無くそのまま通り過ごした。右側を見ると騎兵五聨隊は焼滅し厩舎の馬は幾百と死んでいる。
 天満宮の石段を登ると右側に「廣島駅前郵便局避難所」と書いた紙片が貼り付けられており、来意を告げると奥の方から局長以下幹部が出て来た。
 見れば局長は片足が靴で片方は下駄を履いている。「見られる様な状態ですから、今はどうにも仕方がない。一応落着いたら改めて当局の方から連絡する」と云っておられ、現状としては取るべき手段が無いと思った。
 「逓信局の方はどうか」と聞いたところ「逓信局も被害が甚大で被災者が多数出たと聞いるが詳しいことは判らない」と云っていた。
 私は直ぐに呉に引き返した。道筋は相変らず避難民が長蛇の列であり、その中に元呉局庶務課長であった「森重静夫」氏の姿も見かけられた。
 (戦後、被爆者認定を申し入れたが承認されなかった。従って、昭和24年次男が生まれたが原爆二世認定も無い)

7、終戦  日々被災地が地図の上で赤丸を付けられた。殆ど地図は赤一色に塗り潰されたが、私はこれによって日本の敗戦に結びつけて考える事は無かった。
 しかし、廣島の惨状を目の前に見たとき、初めて「日本は駄目だ」と思うようになった。
 「八月十五日に陛下の重大ニュ−スを聞くよう」と本局から連絡があり、事務室に古いラジオを据えて皆定刻に集まって来た。
 この時、私達は敗戦に対する宣言ではないかと秘かに考えた。私は「若し敗戦という事になれば,我々はもはや生きる望は失い米英の何れかの下で呻吟するよりは、潔く自決をすべきだ」と皆に計ったところ、皆私の意見に同調した。
 ガラガラ雑音がするラジオに身を寄せ眞摯な顔で耳を澄ませて聞く。陛下の声は雑音の中でかすかに聞えてくる「堪え難きを堪え、偲び難きを偲び・・・云々」。
 私は頬から落涙するままに動かなかった。「戦争は負けたのだ」私は所持した短刀を握って自決の用意をした。
 しかし皆動く気配は無い。時刻は刻々と過ぎた。皆当初の意気込みは消え失せ、すごすごと自分の職場に帰って行った。
 「これからの日本はどうなるのであろうか」と私の心は千々に乱れた。自決する機会を失った私は全く虚脱の状態で瞑想した。

8、需物資の払下げ
郵便課の分室の同じ校舎に海軍の被服工場がある。かっては海軍軍需部として偉容を誇っていたが、被爆を受け今では小学校の一部に僅かに残存していた。
 終戦後、軍は解体し軍規は非常に乱れて従業員は我勝ちに在庫品を窃取し、山ほど積まれた綿布は見る間に無くなっていった。
 私達は窓からこの状態を見ながら人間の浅間しさをつくづく感じた。
 「どうせ米軍が進駐してくれば押収されるのだ、米軍に渡すぐらいなら我ら日本人が取った方が良い」と中には大八車で運び去る者もある。
 我々一般市民は衣服類の欠乏に堪えて来て、そうした状況を見ると憎らしくもあり羨ましくも感じた。二、
 三日後、局長が私を呼んで「軍需物資を放出しているらしいが、海軍に交渉して局員にも少し頒けて貰うよう話したらどうか」と云った。
 私は早速被服工場に出向いて将校に会い「郵便局員も被服類には非常に困っている。綿布かミシン類を配給して欲しい」と頼んだ。
 その将校は私の方を向いて「見られる通り綿布もミシンも全部処理した。ここにはハイバ−が若干残っているので、これでも持って帰ってはどうか」と云ってハイバ−を十個貰って帰った。
 翌日、市役所(焼失)の仮庁舎(二河公園に平屋建のバラック)に行って物資配給課長に面接し海軍から払下げの衣類.食糧品の特別配給を依頼した。
 当時、市役所は敗戦と同時に軍から物資の一括交付を受け倉庫には物資が山積されていた。
 課長は暫く考えていたが「被服工場に出された修理する衣服がある。それで良かったら」と云った。
 私は「それでも良い。被服の修理はやる」と云って貰い受ける事とした。衣服といえばその頃、全く入手が出来ない貴重品であり多少の破損の修理はやむ得ないものと考えた。
 更に食料品の交付を頼んだ。最初は澁っていたようだが干パンを貰うことにして帰った。早速、局員を連れて受け取りに行った。
修理を要する上着.ズボン類八十着分、干パン四?包(百二十袋)を貰い小躍りして帰った。局長に報告し、それらの物を局員に配給した。

9、食糧不足と残飯雑炊
 終戦後は食糧が著しく不足し局では「食糧休暇」を与えて物資の買い出しをやらせた。
 私は四粁もある山村の焼山に知人を訪ねて食糧の買出しをやったが、それも行詰り野草採取を行った。
 野草も喰れるものは取り尽くし僅かに蓬が生ているだけである。宿明けの日にはリュックを負って山野を巡り蓬つみをした。
 雑炊に蓬を入れて嵩を多くし、それで餓をしのいだ。終わりは蓬も尽き、中には鉄道草を喰べる者もあった。
 家内も長男を背にしてよく山村に買い出しをした。当時は食糧管理法によって闇の買出しは厳禁とされ、拾々運よく大根.人参などが入手できたとしても見張りの警察官に見付けられ没収される事が屡あった。
 配給物資は、旧来は牛馬に喰わせた飼料の大豆粕、大根一本、砂糖が若干程度で一家の飢餓を救う事は出来なかった。
 この頃、昼食に局員が多数外出した。私は不審に思い、或る日「何処に行くのか」と尋ねた。「進駐軍の食糧が賣出されている。
 貴方も一度、一緒に行って見てはどうですか」と云う。私は不思議に思い「今時は、そんな処があるのか」と思いよく聞いてみると「進駐軍の残飯を業者が払下げを受け、炊き直して売る」と云っている。
 誘われるまま私も着いて行った。飯盒を下げた行列が長く続いている。長い間待った揚句ようやく一杯の雑炊に有り付いた。炊き立ての熱い雑炊が飢えた私の喉を快く通る。
 その時、隣の席で雑炊を喰べていた者がスプ−ンで柿の種を取り出した。進駐軍の兵士がドラム餡の中に柿の種だけで無く、柿のへたや煙草の吸殻等色々なが捨てられ、これを日本人が喰べるのだ。
 敗戦国の惨めさがこうしたと所もあるのだ。
 或る宿直日に郵便局の筋向いの民家から出火した。私達は直ちに馳せつけて消火に協力した。
 翌日、火災現場を見ると未だに倉庫がくすぼっている。その中で二、三人の男が頻りに袋に何かを入れている。見るとそれは玄米である。
 米の上側は焦げているが中程は僅かに鼠色に焦げている程度である。この倉庫は聞くところによると海軍が民家に米を分散保管させていたものであり、終戦後もそのまま保存されていたと云われていた。
 私は局から郵便袋を持ち出し出来るだけ焼けていない米を郵便袋に一杯詰めて持ち帰った。家に帰って砂と選り分けるため家内と共に夜更けまで選別を行った。
 それから後は一般市民も局員も群がって焦げた玄米の採取をするようになった。余りにも人出が多くなり警察も厳戒を初めた。
 やがてその騒ぎも落付いたが、警察では玄米採取の犯人捜査に乗り出したようだ。私も内心ビクビクしていたが、終戦直後の混乱時であり、それ以上の進展はなくウヤムヤのうちに済んだ。

10、、広郵便局と進駐軍
 広郵便局は木造二階建てで町の中心地にあり、電信線一回線、電話加入者五百余りで眞に小さな局であった。
 当時、広は進駐軍の駐屯地で、米国、欧州、印度、アイルランドと種々の人種が町に溢れていた。
 街路には眞赤な口紅をつけネッカチ−フをかぶった得体の知れない私娼が昼夜の別なく公衆の面前で進駐軍を引く。風紀がこうした環境の中、私は赴任した。
 或る日、受付で豪州の兵隊三人来て何やら話している。言葉は皆目判らない。窓口では局員が手まねで対応していたが、いきなり日付印と番号器をポケットに入れ出て行った。
 全体的に進駐軍兵士は程度が低く、見るものが全て欲しいらしく何処でもそうした事件が発生していると云われている。
 窓口員は叱驚りして後を追ったが話しが通じず、警察に届出ても何とも手の施しようがなくスゴスゴと帰って来た。
 私は警察の無力を嘆くと共に戦争に破れた国の惨めさをつくづく思い知らされた。


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