「手記」

                                   増田恭人(やすと)

 (一、手記  二、手記補綴  三、酒中の記  四、ラジオ聴取  は割愛)

五、敵機動部隊

 三月十一日(日)

夜業。朝上り。
昼間は馬鈴薯の植付。(腹が可愛いから、眠いのをこらえて、協力するなり)
新婚羽田夫婦と一緒に夕刻から街に出る。
夜。敵機大挙来襲のおそれあり、今夜は男子は服のまま脚畔着用のこと、女子はもんぺのまま寝につけとの通達がくる。
今日は無事だつた。

三月十五日(木)

その後もマリアナ基地のB29は活発に動いているが、ここではさしたることもなし。
只毎夜のように一、二機が偵察に来ている。

三月十八日(日)

04030 警戒警報発令。
八時頃、朝食を済ましての帰途、神原の坂道を登りをがら、サイレンを聞く。汽笛かと間違いかけたが、空襲警報だつた。
下宿に帰つてリユツクに身のまわり品を詰めたが、その後何のこともなし。
今日は非番だから本来なら工廠に出る必要は無いのだが、羽田君とも相談して一緒に出掛けた。
12.55 空襲警報解除。
非番なので作業にはつけず、いささか手持ち無沙汰に時間をすごす。
16.10 空襲警報発令。
直ちに防毒隊員として部署につく。(情報、徳山上空を二十一機が東に向う、と)
ーー間も無く解除。ーー
敵機動部隊に対し我方の納めた戦果、戦艦、空母、巡洋艦各一隻を撃沈。
(特攻機によるものの由、又人の話によると、今日の敵機来襲は、延千三百機にも及ぶと。)
最近は特攻隊の攻撃以外で、戦果のあがる話を闘かない。戦況は不利に傾くばかりである。

 三月十九日(月)

夜間は第三警戒配備。何事も無く夜が明ける。
七時十分、朝礼中に轟音。はじめは地下工場拡張作業のハツパの音と思った。
サイレン。空襲警報。
黒田組長と二人、大急で東門を飛出した。
東門から坂道を駆け登るうちにも、対空砲火が、熾烈の度を加えた。耳をつんざく普だ。
高射砲弾の炸裂する白い煙が次々花のように開き、見上げた視線の中に敵機編隊が飛込んで、急降下してくる。十八機。艦上攻撃機グラマンだ。
命中。二機が火炎を吹いて落ちて行った。
敵機の編隊は広方面に向う。
しかしどうも高射砲弾の破片が降つて来るので、坂道を途中から引返えし、地下工場の横穴に待避した。
地下工場の中は重く湿った空気が澱んでゐて、砲声が重い空気の塊になって、ずしんずしんと、押寄せてくる。
少時、砲声のおさまるのを待って、地下工場を出て坂道を駆け登り、神原食堂へ飛びこんだ。
ここの屋根は丈夫だから砲弾の破片で破れる心配はない。大急ぎで飯に味曾汁をかけて早飯をすます。
神原は坂の町だ。急ぎ足で登ってゐると、「松山上空を百機が北進中」ラヂオがせい一杯の声で叫んでいる。
道の両側の家々では、床を揚げて、床下の待避壕に潜りこんでゐるようだ。
家では大事な物を待避壕へ入れる作業に大童だった。
ーー敵機来襲ーー砲声高まる。
待避壕に入る。羽田君の母、羽田君の細君、羽田君、私、隣家の竹森さん。ーーおばあさんは、早くから山の横穴へ行つてゐるそうだ。
砲声が熾烈を極める。松山上空を北進して来た百機らしい。
まだ爆弾を投下した気配はない。
軍港をかこむ山の砲台が一斉に砲門を開いて射っている。激しい砲声だ。
三十分もつづいたろうか。砲声が止み時避壕を出た。
壕を出たところに砲弾の破片が三個落ちていた。
屋根に登ってみた。
灰が峰の山腹と市内数か所に煙があがっている。足もとを見ると、砲弾の破片で瓦が割れている。灰が降って来る。近所の家でも屋根にあがって壊れた瓦を直している。
ーーまた、砲台が一斉に射ちだした。空圧でズボンの裾が震え、耳が痛い。
今日の目標は広航空廠であるらしい。
石槌山の向うに黒煙が、あがっている。黒煙はいつまでも消えなかった。大分ひどい。
敵機が去り、砲声が止むと、嘘のように、静かになる。何時も変らぬ朝にかえる。
服のまま床に入る。
読みかけている尾崎一雄の『暢気眼鏡」を読みかけた。
10.50、再び空襲警報。異状無し。12.05解除。
16.20、再び空襲警報。異状無し。17.OO解除。

三月二十日

昨日は、あれから市街に出て、原田綾子君が勤めている本通の泉眼科医院の前を通り、岩方通の堀内へ寄った。
どちらも無事で安心した、宮原通では、校舎が兵舎と閤違えられでもしたのか、被弾していたので、少し気を揉んだのだったが、市街は意外と、平穏だった。
堀内では床下の待避壕のなかに、兄さんが布団を敷いて寝ていた。
郵便局の前に大きを貼紙がでていた。
ーー当局発表以外の被害状況を書いた通信は受付出来ない。ーー
警察署のまえに、ーー呉市空襲情況概要ーーの貼紙がある。
ーー来襲機数、二百五十機。撃墜、三十機、損害を与えたもの、二十機。ーー
途中、山根君に出あった。焼夷弾五本を処理したと、自慢していた。
今回の空襲は軍港内の艦舷をねらったものとぽかり思つていたが、工廠へも爆弾を落して行ったことを出勤して知った。
受持の防毒臭具格納庫を見に行ったら、飛散した器材のなかに防毒面が破損して飛んでいた。
海岸へ出て見た。『当方の損害は極めて軽微』と、言ひたいところだが、海上で傾むいている艦が何隻も見える。
戦艦の数も巡洋艦の数も少くなっているから、空襲を受けているうちに、港外へ避難したのであろう。守衛がやって来たので工場へ引返した。
爆弾は50キロだったと思う。
機銃掃射も可成なものだった。急降下しては艦めがけて爆弾を投下し、さっと急上昇していく技術もさすがだった。
ーー誰もが自分の見たことを興奮して話合った。
壊れている工場の壁を、トタン板と遮光幕で修理し、夜業のあかりが外に洩れないようにして、作業にかかった。
敵機動部隊の艦載機による本格的な空襲を、初めて受ただけに、これから先の不安が誰の胸中にも、重くのしかかっていた。
明け方から雨がしとしと降りだした。雨が、気持を和ませてくれた。構内も雨で、煙っている。
敵機動部隊の艦載機(ヘルキャツト)による攻撃目標は、広の航空隊と十一空敵、そして呉軍港内の艦船だった。工廠の被害は軽微。鉄道には被害無し。
宣伝ビラを撒いたらしい。
人心は決して動揺などしていない。
ーー米軍の上陸はまだ先のことだ。ーー
                          19.03.20朝

 敵機動部隊の行動調査
二月十六日  関東地方へ千六百機来襲。米軍硫黄島上陸を援護。
二月二五日  関東地方へ六百機来襲。B29と共同。
三月 一日  南西諸島へ六百機来襲。
三月十八日  九州、四国、中国、阪神地方来襲。千四百機。
   十九日  主として呉へ千百機が来襲。

六、『死の嵐』前秦曲

五月五日朝、十時頃だったろうか、警戒警報につづいて、煙幕用意のサイレンが鳴り、すぐ又空襲警報になったと思うと、高射砲の音がして、矢庭に、しゅるしゅるという爆弾の空気を切る落下音がし、次には爆発音と地響きだった。
ノノノノォーン。地軸をゆるがす不気味を音響だ。
私は拡脹工事中の待避壕の中へ飛込んだ。
三月十九日、艦載機二百五十機が一せいに突込んで来た時には、聞かなかった音響だ。
60キロ爆弾は、至近距離に落ちてもこんなに大きい音でも地響でもない。これは、漢口以来一年余、御無沙汰だった音と地響だ。
「危ない、早く壕の中へ。おぱさん、大至急だ。」
少し空襲憤れして、まだ家の中で、なにかやっているおぱさんを呼んだ。
壕内に居ても、艦載機の時のように、さほど喧騒さが無い。
敵機は、機銃の届かない高々度を飛んでいるのだ。三月十九日のときのように山上の機銃砲台が、のべつまくなしに射ちまくったあの喧騒は今はまったく無い。
B29がはるかを高空を、ゆうゆうと飛んでいるに違いない。
壕内に居て割と平気で居られるのは、砲声が少ないからだ。
高射砲弾の破片は落ちてこないようだ。
爆弾の落下地点はかなり離れてゐる。山一つ向うのようだ、
それにしても、この地鳴りは、ひどい。しゅるしゅると弾道音が切れ目無く聞えて、ノノーン、ノノノノーンと、地軸をゆるがす爆発音が続く。
一応の区切がついたと判断したあたりで、屋根に登って見た。
敵機の一編隊が雲の彼方に消えていくところだった。他には何も見えない。
再び高射砲が鳴りだした。
屋根瓦を壊さないようにそろそろ歩いていたら、巡洋艦あたりの主砲らしいでかい発射音と共に、あたりの空気がビリビリ揺れた。大急ぎで二階から駆け降りた。
壕の入口に立って、空を見た。
B29だ。9機。高い。綺麗な編隊を組んで飛んでいる。銀色に翼が光る。
一編隊の空襲時闇はせいぜい五分位のものだ。
大型の爆弾を、かなりな高度から投下して過ぎる。爆弾が大きいから、何回も旋回してきて、何度も爆弾を落すようなことはしない。
艦載機がこぜわしく飛びまわった前回とは、まったく趣がちがう。
何編隊来たか覚えなくなった。山の向うに黒煙が空一ぱいにひろがって、動かなくなった。重い雲の様に見える。

今日午前の空襲時には工場に居た。
空襲警報が発令されると同時に待避壕に入った。
壕は防火隊員と共用で工場の床下一メートルに20ミリ鋼板製の円筒を埋めてあり、円筒の上には、一メートルのコンクリートがあり、その上にニインチの鋼板が二枚敷いてある。
小さい爆弾ちら直撃弾でも心配いらない強度になっている。
円筒の直径はニメートル程もあって十人入っても窮屈さは無かった。
円筒の上部に監視塔があり、床上に三十センチだけ頭をだしている。
軍港内に居る艦が主砲と高射砲を一斉に射ちだした。
地下に居ても監視塔の覗窓から入って来る空気の振動で、鼓膜がしびれるように痛い。
誰も口を利かないでいる。
爆弾は落していをないようだ。
砲声がやんで、見張員が便所へ走った。
又、艦砲射撃が始まった。一人が様子を見に出た。
爆弾投下は無いらしい。砲弾の破片が落ちて来る様子も無い。
見張員が帰って来た。
「多分、今日も敵さんは広をねろうちょるらしいで。」大型機が編隊で、自分達の真上を通過したと言う。
「なら、今日も、命拾いしたのおー」
皆、昨日の広工廠の被害の様子を知っている。工場内に残っていた防火隊員の悲惨な死にようを人伝に聞いているのだ。ーー酸鼻を極めたものだったらしい。
それにしても、今日は、無事らしいと分って、ふっと壕内の空気が弛んだ。
私は、新聞を広げた。
記事は、ドイツ軍の降伏を伝えている。
詳しくは、読む気になれず、新聞と取替えに、岩波文庫のトルストイの「性欲論」を取出した。

五日、六日の来襲情況を、呉鎮が談話で発表した。
呉地区(正しくは広)に延百二十五機が来襲。損害は軽微なり。

広航空隊と十一空廠がやられた。
沖縄を攻撃中の敵は、特攻機の出撃を阻止しょうとして、飛行場と航空機工場をねらったのだ、吾特攻隊は沖縄で、五百隻以上を撃沈破したと言うのだが。…
  迫り来る「死の嵐」、無事で居られたら、私は運の良い男だ。
                              20,06,06

七、「死の嵐」その一

待避壕に居る。
ーー急降下の爆音ーー轟音ーー地鳴りーー。砲声が止んで静かになったころ、物を打壊す乱暴を音が聞えて来る。
先刻射った高射砲の弾片が落ちてきてトタン屋根を破る音らしい。
軍港内にいる艦艇の全部が一斉に砲門を開き、仰角一ぱいで射ちあげている様子を想像してみる。
主砲、高射砲が、天に向って、噛みつくように咆吼している姿だ。敵機から投下した大型爆弾の爆発音は耳がしびれて聞えない。
地鳴りの振動の中にすべての音が掻消されて、不思議を静寂の世界になる。
「地獄の門が開いたらしいぞ」
「たしかに、地獄の門が開く音だ」
爆弾が地面に到達する瞬間は、尻の下に小さな小銃弾のようなものが、ぷすツと、突きささるような感じだ。
尻が下から叩かれる。体が少し浮いたかと思うと、持上げられ、しこたま揺すられる。
「三途の川は波が荒いぞ」
「うむ、やつら、モチアゲが上手になりやがったな」
言っているうちに、生湿かい爆風が入ってくる。
大型爆弾の落下地点がだいぶ近いようだ。
また、地鳴りと、大地震の襲来だ。
「なんやら、よその方へもって行かれるようを気がするなあ」
例によって、岸本が心細がる。
「出て見れぱ、だいぶ世の中が変っとるだろう」
西野が言うまでもなく、誰もが頭の中に変り果てた地上の様子を描いて、命ながらえて、 無事に此処から出られた場合の期待に心を遊ばせているはずだ。
「来たぞ、来たぞ」
又、尻の下にぷすっ、と来だした。体が浮いて揺れる。
「これ、これだ。やだ、どう我慢しても、いい気持じゃないよ」
「大丈夫か」「ーーああ、整理つかんのおーー」いつもは剛毅なはづの澤川だ。
皆、同感なのだ。気持の整理が、つきようが無い。何か早く”きり”がついて欲しい。
機械工場の一般工員八百人は、絶対安全な横穴の地下工場に避難していて、工場内に残っているのは、此処と他にニケ所ある待避壕の三十人足らずだけだ。
朝の九時に始った空襲が、まだ続いている。ーー
ーー九時に始った爆撃は、十時三十分になってやっとおさまった。ーー
不気味な静けさがしばらく続いた。
空襲警報解除のサイレンが鳴ったのは、十一時少し前だった。
とにかく生残れた思いが、皆の頬を弛めた。声高に話しながら、待避壕を這い出した。
私達の工場には、何事も無かったようだ。屋根のトタンに穴が見える以外はーー。
「救護隊員、直ちに集合。救護隊員は、直ちに工場南の所定の位置に集合して下さい。大至急」
伝令が慌しく駆けて行った。
やられたのは工廠本部の向うだと、早くも話が伝って来た。
工場の南口へ出て見た。黒煙があがっている。空全体に塵が舞上ったように煙っていて、建物の姿は見えなかった。
眼の前を、救護隊員を載せたトラツクが、何台も走って行った。
遠くで、二発、三発時限爆弾の破裂するらしい音がしていた。音は割と小さいようだった。
四時二十五分の終業前になって、工廠本部の手前にも一トン爆弾が落ちていると知らせる者があって、私は、不安になった。
工廠本部の手前の工場は瀧口馨君の居る造船部の機械工場なのだ。私は、終業時間になるのを待たずに走った。
工場の壁が無くなっているのが、遠くから見える。やられたのか、私の胸は激しく動悸がうちだした。
工場に近づくのが恐しくなった。壁の無い工場は中がまる見えだった。
驚いた。始めて見る光景だった。惨憺たるものだった。
ところで、これはどうしたことだ。工場の中に直径五十メートルもある大きな池があって、一人の男がゆうゆうと泳いでいるのだ、。
爆弾は五百キロ以上だろう。爆弾が作った大きな穴に水が一杯たまつているのだ。おそらく水道管が破れたのだろう。
水面には油が浮いている。機械工場だ。油が工場全体に染み込んでいるんだから当然のことだ。
男は、油の浮いている水で体を洗いだした。褌一本のその男が此方を振向いて、顔が合った。
「タキグチ、ーーオマエハ、ーーおどかすじゃないか」
「やぁ、ますださん、すみませんーー」

東門を出たところへ、工廠従業員の家族が大勢ならんで待っていた。退廠して来る人の中に自分の父や兄やわが子を見つけようと、不安をな眼を注いで立っているのだ。
犠牲者の数は例によつて、少く発表されるだろう。
                        20.06.22

八、「死の嵐」その二

羽田君の声で眼を覚した。生返事のまま私はまだ寝床にいる。連夜の警報でひどい睡眠不足なのだ。十二時少し前だ。
六月二十二日のB29による工廠の空襲以来、こんどは何時、街に焼夷弾攻撃を受けるか分らないと覚悟をきめてゐる。
「ーー豊後水道を北上する十二目標ありーー」
これは来る。起きあがって、服を着た。
羽田君の母と祖母を、先ず山の横穴へ行かせた。
雨戸を繰り、障子を外す。
B29らしい爆音が聞こえてきた。
ーー閃光ーー市街地の空が、一瞬にして、昼の明るさになった。
山。すぐ眼の前の山裾にはげしい火花、火花。
山裾から、焼夷弾がまるで雨、にわか雨の走って来る勢で此方へ攻めてきた。
爆弾は混用していないようだ。庭の待避壕へ飛込んだ。
驟雨のような焼夷弾の雨が、通り過ぎた。
急いで壕を出た。
汚れた靴下を脱ぎ靴をはく。物干竿に私の作業服とシャツがあった。まだ乾いていないがそのままリュツクに詰める。
非常持出のトランクもまだ玄関にあったので一緒に待避壕へ投げ込む。
羽田君と二人、もうとても家を守ることは出来ないと判断して、家の中の物を可能な限り待避壕へ持ち込むことにした。
照明弾が中空にあつて、手元は真昼の明るさだ。しかし、時間は無い。
ザァーと不気味を焼夷弾の落下音が襲ってきた。
羽田君につづいて待避壌壕へ潜る。
焼夷弾の一本づつの落下が確認出来るほど、今度は近い。
ついに我家に二本の焼夷弾が落ちた。眼の前で家が燃えだした。
「おい、出よう」
「待て、まだ危ない。」
出かけた私を、羽田君が止めた。
身近に焼夷弾が降っている。
「ちくしょう、やりゃぁがった。ーー」
土足のまま、縁側にあがり部屋に入ろうとしたが、火炎と熱風と黒煙に遮られて、立ちすくんだ。
その瞬間、私の眼に写ったのは、つい先刻まで私が寝ていた布団だった。
私の枕を火炎の赤い舌がなめようとしていた。その光景は、はっきりと眼底に焼付いた。
(何時、夜間の焼夷弾攻撃を受けるかわからなくなってから、私は、羽田君と相談の上、二階から階下へ降りて寝ていた)
ーー庭に飛び降りた私は、防火用水に頭をつっこみ、傍らのバケツでもって、全身に水をかぶった。羽田君も私にならった。
二人のバケツリレーで防火用水の水は直ぐ無くなった。残念ながら、まさに「処置なし」であった。
燻っている私の掛布団をひっぱりだして、待避壕の入口に蓋をした。
山へ逃げることにした。
走りながら、息苦しくなると、立止ってふりむき、燃えている市街地を見下した。家を焼れたと思うと何か気落ちして、二人並んで小便をした'
「油の匂いがしないか」羽田君が言った。
「やつら石油を撒いといて、火をつけやがったらしい」
三方を山に囲まれた呉の市街地は、今や全く火の海だ。全市が燃えている。
風が出た。
摺鉢の底を成す市街地の火勢が風をおこし、風は、山裾を這上っている住宅地を舐めるように、山裾から上に向けて吹上げている。
敵機の爆音が聞こえ、砲声がそれを追掛けるが、疎らな砲声が頼りない。
気がついて見ると、何時か照明弾の照度が落ち、空一面が曇って、月が出ていた。
戸板が坂道を登って来た。壕の入口に下した戸板の上の病人は、青白い光茫に照らされて、静かに空へ視線を投げていた。
横穴の中の人達に声をかけてから、戸板のまま病人を担ぎこんだ。十七、八才の若者だった。
全然動けない病人が、このまま此処で死なせてくれといってきかないので、家の者も諦めてそうしていたが、隣家で叱り付けて、連れて来たのだそうだ。
羽田君の祖母は捜してすぐわかったが、母の方が見付からない。
「家が心配で、下の横穴に居るのかもしれんーー」
「すぐ行け、下の穴は煙にやられるかもしれんぞ」
羽田君が駆出そうとしたところへ、坂道をゆっくり登つてきた一団があり、その中に羽田君の母がいた。
「義信、家は又建てりゃええけえの。気を落すな」
羽田君の母は気丈なひとだった。焼落ちた家を自分の眼で見て来たと言う。
市街地はまだ火の海である。豪勢な仕掛花火を見るようだ。風はまだ強く吹いている。
午前二時。山を降りた。家は全焼し、別棟の風呂場だけが焼残っていた。
眠らぬまま朝を迎えたが、七時の出勤時間には工廠へ出た。
罹災者は家事片付の為退廠してよいと通達がまわって来て、十時に退廠した。
羽田君にことわって、私は焼野原になっている市街地へ向った。
建物ひとつ無くなった市街地は、碁盤の目に走っている街路で自分の歩いている位置が一目で分つた。
私は、急ぎ足で、岩方通をめざした。しかし其処には堀内の兄さんの姿は無かった。
堺川通の藤本商会を目当に急いだ。其処が堀内の兄さんのかっての職場で、ずっと以前、私も其処の二階に間借していたことがある場所であった。
建物疎開で藤本商会の建物は取壊されて、建物のあった位置は、今防空壕になっていた。
その防空壕のそぱに堀内の兄さんは立っていた。うれしかった。声をあげて走りよった。
昨夜来の火の中で、よく助ってくれたと思った。堺川の両岸の建物疎開後の空地が役立っていた。幸いにも風が海から吹いて、火炎は川と反対に向ったのだ。
すぐ近くに石鹸工場があって、焼落ちた工場の下に大きな棒石鹸がそのままになっていた。
堀内の兄さんはその石鹸を掘り出した。私も兄さんにならって炭にまみれた石鹸を拾った。
分れ際に堀内の兄さんは防空壕の中から、ビスケットを持って来て私に呉れた。
焼野原になつた今、呉にはすべての生活物資が無くなっている。
ビスケツトも今拾い集めた石輸も、大事な貫重品であった。
ここで堀内の兄さんに会えたことは、此の上ない救いであった。
焼跡の町には、今迄お世話になっていた食堂が一軒も残っていなかった。完全な丸焼の町であった。貰ったばかりのビスケットを食べながら歩いた。
亀山神社前では、屍体を集めていた。硬直した屍体は、棒切を運んでいるように見えた。気味悪かった。
正午前に神原町の家(と言っても焼跡なのだが)へ帰った。食事は、と羽田君が気を使ってくれた。待避壕にわずかの食料が確保してあるのは知っていても、食事はまだだとは言えなかった。
カンカン照りつける陽光の下で、まだ熱い焼跡を掘り返す作業は楽ではなかった。それでも弱音は吐けなかった。
家を失なった羽田君に比べれば、私はまだ気が楽な筈なのだ。
茶椀が出てきた。それは昨夜の食事に使った茶碗であった。腹立たしさ悔しさがこみあげた。羽田君には私の何倍かがあると思った。
焼跡から馬鈴薯の丸焼がでた。沢山出た。炭のくっついた馬鈴薯を、壊れて流れ放しになっている水道の水で洗って食べた。
炭が口の中で音を立てた。お美味しかった。腹一ぱい食べた。腹が一杯になった頃、炊出しの握飯が配給でまわって来た。 日暮になり、陽が落ちると、疲れた体とともに気持も沈んで自然と身を投出していた。
風呂場が焼残ったのは幸いであった。疲れた体をゆっくり湯に沈めることが出来た。
市街地はニ日、三日とも夜になると、赤い火がちろちろ燃えているのが見えた。
羽田君の家には借家があって、どのような段どりでか、近くの一軒に移ることが出来た。
その家は、電気も水道も駄目で、雨露をしのぐ屋根の下と言うだけであったが、とにかく寝る所があると言うだけでも、有難いとせねぱならない境遇であった。
しかし、ひとまず落着くと同時に、不自な家の中で、間借人の立場の私は、何時までも羽田君の好意に甘えていることは、不自然と思はないわけにはいかなかった。
二日、三日とも夜中に空襲警報が出て、睡眠はほとんどとれなかった。
三日、四日は平常通りに出勤した。
四日、罹災者に休暇が許可された。私は独身なので三日の休暇だった。
二時間残業が終るとその足で呉駅へ走った。乗車は軍公務と罹災者だけに認められ、証明書が必要だった。
広島での乗換も時間が遅れ、汽車は志和口までしか走らなかった。それでも汽車に乗れただけは幸運だった。
罹災者ぱかり三十人が志和口駅でごろ寝した。蚊に攻められて眠れなかった。
それでもくたくたに疲れ果てていたから一時間ぐらいは眠ったかもしれなかった。
幸い汽車は早く出て、九時に庄原へ着いた。
家へ着くとすぐ、母と祖母に心配させてすまないと思いながらも、「ねむたいから……」と、一言言ってそのまま突込むように寝た。
今回の焼夷弾攻撃は、七月一日(日曜日)夜半、足摺岬を北上し来襲したB29、八十機によるもので、約二時間、単機波状侵入し、市街地の外周を焼き、逃げ道を無くしておいて中心部へと迫る惨忍なやりかたをした。
呉の市街は完全に焼失した。

昭和二十年一月来の日記「血奨の幕列」と日本文学全集「一葉透谷集」、水上滝太郎の「月光集」を消失した。
                          20.07.06

九、日曜日の一日(焼跡風景)  (七月二十九日)

 散髪

正円寺前の坂道を登ったところにある銭湯の前の理髪店へ入り、腰をおろすことが出来たのは、『休業仕候』と木札を掛けている店を三軒も『歴訪』した後であった。
先客が二人だけなのも嬉したった。
いつもは亭主とお内儀と娘三人の店なのだが、今日は娘ひとりだった。
このあたりは運良く焼残った山の手の一帯だが、丸焼になった市街地に遠慮しているがのように、ひっそりと静まりかえっていて、表の戸を締めたままの家もある。
二十才位の娘の白く太い首が汗をかいている。時刻は十二時を少し回ったところだった。
近所にあるらしいラヂオに中部軍情報が入りだした。
ーー「防空壕に待避していたら、壕のすぐ近くに爆弾が落ちて、出て見たらその辺の壁に、人の肉が牛糞を投げつけたようにへばりついていた。」と空襲の体験談に熱をいれていた四十男が、ラヂオの放送に注意を向けて、話を中断した。
「警戒警報が出たら、わるいけど仕事中止です。」娘は怒つたように、ぶっきらぼうな言い方をした。
「空襲警報になって、頭半分刈ったところで止めるわけにいかんでしょーー」
神原町に居た頃はよくここへ来た。しかし、今居る西鹿田町からでは、一時間も歩く距離だ。
ラヂオの声が一段と大きくなった。近所へも聞かせようと、親切にボリユームを上げたらしい。
「豊後水道を北上する大型機十七機がありますーー」
「ちくしょう…」散髪中の男がうらめしそうに、舌打した。
 ーー警戒警報。追いかけて、ーー空襲警報ーー
娘の敏捷さに驚いた。
椅子を持つて来る。その上に乗る。コードを外す。手提袋を取る。その中へ電気バリカンを入れる。かみそり、せつけん、その他もろもろ、実に早い。
「これだけあれば、どこへ行っても、御飯にありつけるんじゃ。お客さんも、早う逃げんさい。おじさん、ぐづぐづしよりゃBにやられるよ。」
白豚のようによく肥えた体に似合ぬすばしこさで、駆け出した。
−−−閉店ーーー

 食堂

どの行列に並べばよいのか見当がつかない。
ーー定食の方はこちらへーー
ーー代用食ーー
ーー一品料理ーー
ーー清酒(一級酒)一合二円ーー
これだけのはり紙がまづ目に入ったが、さてそのはり紙の所へたどり着くためには、いったいどの列の後へ並べばよいのだろう。
焼跡のトタン板を拾い集めて屋根をつくっただけの堀立小屋の食堂である。
食堂の中も外も、人間でいっぱいだ。
食券に三十銭をつけて出して、やっと定食にありついたのは、行列の尻に立ってから約一時間半の後だった。
西洋皿に盛った飯と、小皿に大根の葉っぱの煮付、二皿を受けとって『食卓』の前に立った。勿論、椅子はない。
私はかつて、これだけの蝿を一度に見たことがない。
長方形の食卓上は真黒だ。食卓の木肌がまったく見えないのだ。
先刻、この定食を受取つた調理場では、人が動く度に蝿が、トラツクが走り過ぎるその後に砂塵が舞上るように、蝿がわっと飛立っていた。
西洋皿に盛った飯と言ったけど、実は飯を盛るところを見たからそうと知っているわけで、皿の上も飯粒は見えはしないのだ。
箸を使えば飯の中から、十匹、二十匹の蝿は出てくるだろう。すごい蝿だ。蝿は体にもたかっている。
まず一人あたり五百匹は引受けているだろう。
箸を使つて飯を口に運ぶと、その飯に蝿が五匹、十匹はとまってついてくる。
どうにも口へ入れかねる。しかし食べないではいられない。
見ると、先客達は食べている。よく見ると、飯にとまった蝿達は飯が口にはいる瞬閤にぱっと飛立つている。なるほどこれなら大丈夫なわけだ。
私もおそれず食事にかかった。二た口、三口はよかったが、そのうちひどく嫌な味になった。正体は飯粒の中に埋没している蝿が飯といっしょに口の中へ闖入したのだ。
それに蝿の中に死期の近い老蝿がいるらしく、口に入れる瞬間に飛立つはずが、そのまま飛ばずに大人しく飯と一しょに口の中へ入るらしい。こいつは要注意だ。
先客達を注意して見ると、彼等は、皿の上から何かを箸で飛ばしていた。
空腹を満すことに夢中で食べたが、考えてみれぱ、この蝿どもの『故郷』は、せんだっての空襲の時、堺川に浮かんだ死体や、横穴防空壕の中の何百人もの屍だったか、知れないのだ。しかしこんなことを、気にしていては、今のご時世を生きてはいかれまい。
市街地は消失したが、就業人口の数はさほど少くなっていないのだ。
家族を疎開させて、私が羽田君の家から今お世話になつている中村組長の家へ移動したように、彼等も”つて”をたよって知合いの家へ転り込んでいるのだ。転り込んだ家で食事の世話になれる御時世ではない。どんなに親しい間柄であってもだ。

 −−代用食ーー
勿論またもう一ど行列の最後尾について一時間の立ちんぼである。
米糠でつくった団子らしいものに野菜をたくさん入れた汁で一杯三十銭なり。
給食係の女は、釜の中から蝿の死骸を捨てるのと、汁を食器に注ぐのと、半々に杓子を使つている。
ーー 一品料理は、煮魚一尾に野菜サラダで五十銭だ。
蝿も減らなければ人間も減らない。
給食の女たちの化粧が気になる。申し合せたように紅白粉がやけに濃い。何時死が迫って来るか分らない今に、せい一杯抵抗して生きている彼女たちの思いがそうさせるかに見える。
彼女たちは、金切声を上げる。男たちを叱り付ける、
家を焼かれ、妻子と離れて暮し、腹を空かしている男たちは、少しの酒に溺れてむずかりだす。
ここは、焼跡の中心に位置している。町中の飢えた人間が押し寄せて来る。
黒焦げた樹木と煙突が立っているだけで、視界を遮る物はない。
罹災者が手製でつくったトタン葺の小屋の、屋根の錆色が痛々しい。その屋根のほとりから細々と白い煙があがっているのが見える。
この喧騒と盛況は何時果てるとも見えない様だが、もうおっつけ静かになる。日没と共に静かになるはずだ。なぜなら、ここにはまだ電灯が点灯かないのだから。…

 移動演劇隊

貨物自動車が一台、街路だけになった町をゆっくり走って来た。
町角で車をとめて焼跡を掘りかえしている市民に何か尋ねている。
罹災地慰問団の車だつた。
『歌う子芳演劇隊』と旗織に書いている。
角刈の男が口上をのべはじめた。
この場の情景を描写する必要はない。中国大陸で、日本の宣撫班がやったそれを思いだせば足りる。
違うのは、中国の難民達が、うづくまって、おずおずと見ていたのと違って、腹立ち紛れの野次が飛び、芸人達の方が、おずおずと控え目なことだけだ。
日が暮れかかる。こうして見ると、失くなつったものが思いだされる。
呉に来て、初めて映画を見た呉港館、辛い見習工時代の寄宿舎明心寮、一番永く間借生活を送つた藤本商会の二階の部屋、何も彼もが今は無い。暮れなづむ灰が峯を仰いで、文字通り、万感胸に迫る思いである。

                         20.08.02.

十、戦爆聯合

七月二十四日、午前六時、警戒警報が出ないまま空襲警報が出た。順序不同は本物の空襲の前触れだ。
私は夜勤で工場の便所の中だった。解きかけたパンツの紐を結びなおして便所を飛び出した。
地下工場へ一目算に走った。六月の被爆以来、工場内の待避壕は使用しないことになっている。
 ーー江田島上空を艦載機十二機が呉へ向かうーー
マイクの放送を聞きながら走った。
砲声も爆音も聞かないまま、七時半、待避元への指令が来た。 工場へ帰りつくと又空襲警報。それから何度か待避壕と工場の問間を往復して、無駄足を踏んだ。
羽田君の家に厄介になっていた頃と違って、西鹿田町は歩いて小一時間かかる。脚畔をつけ、鉄帽をかぶって、てくてく歩いた。家に着いたのが十時だった。
空襲警報と同時に砲声と爆音。庭の防空壕へ飛込んだ。
昼闇のことだから民家を目標の焼夷弾攻撃はない筈だなど考えていたら、すぐ解除になった。
解除になって出てみると、前の家の二階で、若い女がふたり悠然と空を見ていた。
「工廠の上で急降下していましたよ」と知らせてくれた。
先方が女だけに、吃驚した。後で知つたのだが、前の家では、動かせない重病人が居て、娘さんがずっと付添っているのだと言うことだった。
私は、ここに来て十日程にしかならないので、近所のことは何も知っていない。いささか照臭い思をさせられたので、防空壕へ入ることをやめた。
空襲慣れした素太さも手伝った。
自分の居る所が、敵機の目標より大きく外れている場合は、ゆつくり傍観するにかぎると思った。
午前中だけで、大型、小型合せて、二千機は来たと思った。
大型はB29、小型は艦載機のグラマン。今日ほど繰返し、しつこく来たことは今までに無い。
午後四時に又やって来た。
ぼんやりしていたせいか気がついて見たら、九機の編隊が頭の真上にいた。九機の中の一機は、高射砲弾が命中して落ちてきた。
午後の三波目からは、山へ登って見た。
空襲のこわさは、何も見えない待避壕の中に居る時が、最高だ。
ーー漢口で空襲になると、高橋二郎さんが、屋上の露台へ駈けあがったのを思いだす。ーー
山の防空壕の入口で、双眼鏡を持った海軍士官と一緒になった。彼は小さい声で”ほんとのこと”を教えてくれた。
 ーー燃料が無くて動けない戦艦の「伊勢」「日向」巡洋艦「青葉」「利根」「大淀」「北上」空母「天城」「葛城」「阿蘇」「竜鳳」らが江田島の島陰に身をひそめて隠れているのを狙つて来た今日の空襲だと言う。ーー
 ーーわが身を守ることだけを考えているタイプ、もう総ての希望を失くして諦めている者、いまなお神州の不滅を信じて、悲観論を吐く者を国賊呼ばわりする者、現実を冷静に受けとめてじっと推移を見ているタイプ、今の日本人はこのいづれかだが、自分は、現実を冷静に見ていたいと思う、と士官は言った。
 敗色濃いことは、呉に住む以上誰の目にも明らかだ。しかしそれを口に出して言ふこの士官が不思議と頼母しく見えた。ーー
上甲板に樹を植えてカモフラージしていると言う軍艦を目標に、急降下爆撃を繰返す敵機は、次々と波状攻撃をかけてくる。
敵機は広島方面から来る。
絶え間なしに来る。
急降下する。かなり勇敢に突込む。中にはそのまま海中に水煙をあげて突込むのがある。 港内の艦艇は砲火を吐き続ける。空は弾幕で覆れてしまっている。
呉軍港全体が空も陸も海も、轟音と砲火と黒煙に包まれて、身震いしている。呉軍港は苦悶し喘いでいる。
 ーー面白いでは怒られようが、一巻の絵巻物を見る思いである。ーー
とてつもなく賑かだ。壕内に居るより此方がよっぽど面白くて気が楽だ。自分達の上へ敵機が来る時だけは穴にひっこむ。
あまり面白いのでうっかりよそに気をとられていると、知らぬ間に自分達の近くに敵機が来ているから気をつけなくてはいけない。
随分時間が経ったようだが、敵機はまだ雲の向うからやって来ている。
突込む奴、上昇する奴、上空を旋回している奴、海へ飛込む奴、まるで蝿だ。爆音と閃光と砲声と、山と海がぐらぐらゆらいでいる。
一機、ゆるい速度の超低空で、山の横をすれすれに、右の方へ飛んで来る奴がある。スマートな形の黒い奴だ。
「P51ですよ」士官が教えてくれる。
「翼に陸軍機のマークがはつきり見えます。ーーおや、まだ爆弾をもっていますよ」山裾をまわつて見えなくなった。
「変でしたね。今のはきっと、墜落ちたでしょう」
若い士官が双眼鏡で見て教えてくれるので、空襲慣れした連中があつまってきて、畜生め、とか、やったぞ、とか盛んに『声援』を送ったり、地団駄踏んだりしながら、山腹の道を行ったり来たりした。
多勢で賑かになったので、もう”面白い話”は聞けをないと判断して、私は山を降りた。……

「やあ、B29が灰が峰の上で急降下しょる」 子供達の声で目をさまし、窓から覗くと、それらしい一機が山づたいに海の方へ回りはじめている。
低空でゆっくりしたものだ。B29では勿論ない。ヘルキャツトでもない。よく見るとP51だ。
一機だけで後からは来ない。うたた寝していたので、空襲警報が出ているのかどうか、はっきりしない。
今朝から続いた空襲で、神経が空襲慣れしてしまっていて、鈍感になっている。
明らかに敵機なのだが、一機だけでは軍港中がだれきっていて、何の反応も示さないかに見える。敵機の飛び方ものんびりに見える、……
 ーー変だ、と目を向けたとたんに、機銃そう射。砲声、五、六発。……
その後は、今日の一日が嘘だったように静かになって、日が暮れた。
 ーーとうとう昼間はほとんど眠れなかった。工廠は狙われなかったようだが、気のせいか空気が沈んでいた。
暗くなっても電気がこない。停電は十二時迄つづき、作業が出来ないまま、莚を敷いてごろ寝して時間をつぶした。
「艦が大分やられただろう」
「江田島のとこに繋留しとった榛名は沈んだらしい」
「日本はもうおしまいだろう。」
「今の内に寝とこうや。寝ただけ得じゃ」
口をきくのも憶劫だった。疲れていた。

二十五日。昨夜の夜勤は平穏無事だった。
艦載機の編隊がいずれも少数機で三回来襲した。
爆音だけで機影が見えない。見上げていると雲の切れ目から、黒い一団が急降下して機銃掃射をする。その都度、山の火の見櫓の見張が半鍾を乱打して知らせる。もう物憂いまま、待避壕へ足を運ぶこともしない。
砲声も、まばらにしかしない。
機銃掃射はおまけで、敵機の目的は昨日の戦果の確認だろう。
軍港周辺の艦はほとんど全滅らしい。
今までに何回も偵察に来て、主だった艦の情況を写真に撮っていたと言う。上甲板の樹が枯れました。早く植えかえなさいーーとビラを撒いたりしたこともあったそうだ。
マリアナ基地のB29、沖縄のP51、土佐沖の機動部隊の艦載機が総がかりで日本海軍最後の主力に襲いかかったのだ。
 ーー明治二十二年来の呉軍港の栄光は消え失せた。ーー

七月二十八日。今日も早朝六時から夕方まで、サイレンが鳴りつめた。
来襲機数は今日が最高で、大型機百機、小型機六百機である。(呉へ来襲たもののみ)
撃墜四十九機。……
不眠の為すっかり神経が参っている。ここ数日、一日の睡眠時闇間は一時間乃至二時間である。
敵機の来襲は頻繁で、全国の主要都市は完全に焼野原と化した。最近では、交通網の破壊にかかっているようだ。
ーー日米最終決戦は後二、三か月のうちであろう。ーー
空襲警報は毎日だ。
とても詳細に記録することは可能でなくなった。
これからは簡単に書くことにしょう。
                         20,07,29

十一、原子爆弾の恐怖

ーー八月六日、午前八時十分頃ーー
私は、海工会館の食堂部(と言っても、焼野原の中の仮小屋で)朝飯を食べていた。
味曽汁をすすっていると、閃光が来た。目の前が白く光つた。
「B29が照明弾を落した」
「馬鹿を言え、昼間になんで照明弾を落すんか」
「何かなー」
微かに爆音が聞こえてくる。皆が外へ走りだしていく。一機、雲の上らしい。
しばらくして、轟音と爆風が来た。耳がじん、と痛い。爆弾を落したな。だいぶ近かった。しかし一機だ。敵機はもう私達の頭上をとっくに通過している。
慌てることはない。とにかく食べるだけ食べてゆっくり席を立って外へ出た。
ーー大勢が空を見上げている。
誰も不思議な雲を眺めている。海田辺だろうと誰かが言ふ。もっと遠くに見える。桃色が次第に濃くなる。雲は段々背を伸して”きのこ”の形になった。
夕方になって、広島がやられたことを知った。広島の火薬庫に爆弾が落ちたと言うことだった。あの不思議な雲は、火薬庫が爆発して立昇った雲だと聞いた。
夜勤で工廠へでた。
「うちの家内が広島で火傷をしてもどった。」と言う工員が何人かいた。遠目でよくはわからないが、広島の町にはなにも無くなっているということだった。
人々の間に、もうどうなるにしろ成行きまかせの倦怠感のようなものが漂っていた。
ーー軍当局が、敵の新兵器について発表した。
  当局は、防御策ありと言明し、衣類その他白い布で躰を覆えば火傷をしないと教えて、敵機の空襲をうけたら、いち早く待避壕に入れと市民へ呼び掛けた。
ーー広島の被災者が帰って来て、あまりのむごたらしさに、市民は目をおおった。市民は改めて『鬼畜米英』の正体を見たと思った。はげしい憤りに身がふるえた。
私は、布団の敷布をはがして防空頭巾に縫いつけた。敷布は広げると体全部をおおう広さがあった。手に持つ時には敷布を畳んで頭巾の中へしまうようにした。
防空頭巾は綿をたくさん入れてあった。貴重品の綿をこんなにもたくさん入れてくれた母の思いに対しても私は死にたくないと強く思った。
新型爆弾のおそろしさを知った人々は、何時も白い布を身に付けて歩いた。そして、警戒警報のサイレンの一声だけで大急ぎで待避壕へ駆けこんだ。
ーー日本が戦争を終結するの止むをきに至つた原因がこの新型爆弾にある旨、政府が発表した時には、国民は容易にうなづけなかつた。
政府を罵り、最後の一人まで戦うはずではなかつたのかと激昂した。
しかしこの新兵器が『原子爆弾』と呼ぽれ莫大な破壊力をもつことを知らされるに及び愕然とした。
若し戦いを継続すれば、日本人は全滅し、日本の国土は、草木も生えない死土と化したであろうことを知ったからである。
私達は何時ともしれず、この新兵器をピカドンと呼んでいた。ピカドンは、全人類の敵として今世界中から問題にされている。
ーー広島は、完全に無くなった。二十万の死傷者である。傷者は絶対に治癒らない。
火傷者は、癩患者と同じように腐れて死ぬだけだ。
口だけ残して頭全部を包帯で包み母に手を引かれて歩いている小児を見た。この小児は、二十四時間泣きわめきつづけていると言う。
 ーー広島は、永久の死土と化し、草木も生えぬ土地だ。健康者も広島に永く逗まれば、奇妙な症状を呈してくると言う。あの熱光線を吸った土地は、あらゆる生物を寄付けないと言う。
ーー原子爆弾ーー再び起るであろう世界大戦は、一週間の日子をも要しなくなった。

十五日、大詔を拝した後、一時ざわめき立った国内も、今は鳴りをしずめた。
阿南陸相は自刃した。辞世は、「大君の厚きめぐみに浴し身は、言い残すべき片言もなし」であつた。特攻隊育ての親、大西中将も割腹した。
有為の人士が続々と死を急いだ。思えば三千年の歴史が我々の時代で終ったのだ。
二十八日、敵将マツク・アーサーが東京へ来た。連合国軍の日本本土進駐が進んでいる。……

ーー呉工廠ーー

ーー十六日、早朝から特攻機が来てビラを撒いた。戦争を継続する、と言うのだ。軍港内の特殊潜航艇『人間魚雷』の乗組員が工場に来て、土佐沖へ出撃する。部品の修理をせよと私達に軍刀を突きつけた。
一切の作業を停止せよと通達は来ていたが、応じないわけにはいかなかった。
『菊水』の印を司令塔に付けた潜水艦が幾隻も出港するのを見送った。

 晴天霹靂勿心虚 悲憤痛恨畷血涙 時佞奸排正気放光
 臥薪嘗胆滅碧眼 神州護持道突入

十七日朝、嵐部隊の士官が工場の洗面所の壁に白墨で書付けて行った詩である。

ーー戦いは終つた。ーー
ーー二十四才の男児、幾度か死を覚悟しつつ、遂に生残った。ーー

ーー昭和十七年十一月から十九年二月の中支従軍中にも、度重なる空襲を経験し、帰国して間もなく本土も空襲を受けるようになった。
ーー運に恵まれ、母に守られて、生残ることが出来た。ーー

ーー私が広島へ本を買いに行って、大学前の古本屋で「露西亜三人集」と「ナナ」を買って来たのは、ピカドン三日前の八月三日のことだったが………

十二、休戦

ーー知らなかったのだ。ーー
ーー今日、八月十五日。正午ーー
昼食を食べて間も無く、まだ休み時間中、服装を整えて集合せよ、と口伝が来た。
私達は、ソ連との交戦及び本土決戦近きを思い、いよいよと、緊張した思いで所定の場所へあつまった。
地下工場前に集合した私達を、夏陽が真上から照りつけた。
「正午より十分間、重要放送があります。」
ーー拡声器が「国民」に向つて謹聴するように、と注意した。鉄道も一斉に停車するようにと、全国の駅向けの放送もマイクから流れた。
 ーーただごとでない不安が人々の声を押えこんだ。
「……全国民ご起立をお願いします。只今より……」
ーーたどたどしいお声であった。マイクに雑音が入って、聞取れない部分もあった。
しかし、戦争が終ったことだけはよく分った。玉音放送であった。ーー
誰もが肩を落し、涙を流した。異様なざわめきが全体を包んだ。絶叫に似た泣声もまじった。
内閣総理大臣の訓諭も放送された。昨日、八月十四日正午、既に事は決せられていたのである。
次いで造機部長の放送があった。一所懸命働いてくれたことを感謝すると結んだ。
工場主任が壇上に立った。工場主任も、造機部長と同じ言葉を重ねた後で、生活に関しては、今迄どうりに面倒を見る。あくまでも日本国民としての衿度を失しないよう、軽挙せざるようにと注意した。
技手、技師、判任官以上が一団になっていた。工手、組長以下の工員が七百人位居て、その右手に動員学徒のひとかたまり、左手に女子挺身隊の女学生がかたまっていた。
判任官以上の褐色の服、工員の鼠色、学徒の黒い帽子、そして女子挺身隊の白い鉢巻と、色分けされているそれぞれの塊りが、今の放送に、それぞれちがった反応をしているのが見てとれる。
「忘れるな。絶対に忘れるな、この仇を絶対に忘れるな。……」 若い教師の絶叫の後に少年達の慟哭がおこった。
セーラー服ともんぺ姿の女子挺身隊の泣声は、一段と高い。工員はこれからどうなるかを一番不安がっているように見えた。
工場長以下の技術士官は、ある程度、いまの事態を知らされていたのではあるまいか。特に上級の佐官クラスは、知つていたのではをいか。
しかし、これから先がどうなるかは、誰にもわかってはいない。…
ーーつい先刻まで自分達が動かしていた機械が目の前にある。それをじっと見ながらだれも口をきかない。
先刻聞いた放送の中味をはっきり思い出そうとするのだが、ぼやけてしまって、ただ、戦争が終ったのだということだけがはっきりしている。
工場内では、各組毎に人が集まり、物音ひとつせずひっそりと静まりかえっている。
工具類を片付けるように、と指示が出ているのだが、それに手をつけようとする者は居ない。
松本粗長は、隣の黒田組長と大分前からずっと立話をしていて、時々此方へ心配そうな視線を向けている。
ーー戦争は終結った。
ーー休戦の条件は、どうなっているのか。
ーー米軍は何時、やってくるのか。
ーー自分達はこれからどうなるのか。
ーーあの放送はアメリカが仕組んだ課略だつたのではないか。
「……えらいひとがいうようにしとるより、やりようがなかろうが。これからさきのことは、てんのおへいかさんでも、しつとっちゃーないよ。……」
松本組長は言う。「もうじたばたせんこっちゃ。」
私達は定時の四時二十五分迄、何もせずに坐り続けた。
明日からも、平常どおりに、出勤するように、言って来た。今日限りに残業も、夜業も、昼夜交替も無くなるだろう。そしてその次ぎには:…
工廠の門を出た。
数万の人が門から吐き出され、広い道路を川の水が一つ方向へ流れるようにどっと歩いていく。
日本国全体に一大異変が起きた今日を、まったく素知らぬていの目の前の光景である。
短剣を吊った士官が歩いている。兵は士官に敬礼をして行く。
誰かに何かを話掛けたい気持ちを誰もがもっていながら、それが言えないで黙って歩いているのかも知れない。
私のように……。
中村組長は私より先に帰宅していた。
「増田君、よかったじゃないか。弟に切符を心配させるから、くにへ帰れや。早い方がええ、……」
「ありがとうございます」
心からお礼を言つた。呉駅に勤務している弟さんの配慮で、先月も私は死期の迫っている母の元へ帰つてくることが出来たのだった。
ーー庄原の家で、母は、病魔と闘いながら、私の身を案じていてくれている。−−

                            20.08.15.夜記


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