「人生」を考えるきっかけを作ってくれた空襲」

                        斉藤久仁子

一、開戦の日
 一九四一(昭和十六)年十二月、日本が米英をはじめ連合国を相手に第二次世界大戦に参加した時、私は小学校(当時は国民学校)三年生であった。
 一九四五(昭和二十)年八月、敗戦の時は女学校一年生であった。
 その間の三年八ヵ月は私にとって私の七二年の生涯の半分の重みをもって私の中にずしりと存在する。時間的には十八分の一でしかないのに。
 その間は私の感性に重大な影響を与え、何に目を向けたいかを自分に分からせてくれたから。あの四年問の出来事は不思議なくらいよく覚えている。
 開戦の前年、つまり昭和十五年は皇紀二千六百年だとして国は祝いの気分を盛り上げるのに随分の力を払った。
 私達尋常小学校二年生は、運動会の時、日の丸の旗を持って「紀元は二千六百年、あゝ一億の胸は鳴る」と踊った。天皇中心の軍国体制が完全に出来上がっていたのである。
 翌年、昭和十六年から私達は国民学校三年生となった。開戦の日の出来事をあざやかに覚えている。
 あの日、昭和十六年十二月八日、私は何も知らずに、いつもと同じように学校に出掛けた。クラスの誰も、先生までもいっもと変わらなかった。
 小学校でも、あの頃は男子組と女子組に編成されていたが、私達の六年間であの年だけ三学級編成で、男女組というのがあった。私達の組がその男女組であった。
 あの日の午前中、何時間めだったか大事な放送があると知らされていた。その時間、皆スピーカーの方を見ながら緊張して放送の始まるのを待った。
 やがて音楽が鳴り話が始まったが、何を言っているのかさっぱり分からない。そのうちあっちでもこっちでもしゃべり出し、教室じゅうががやがや賑やかになった。
 数え年十歳の子供にはかなりの時間に思われた時、誰かが「先生を見てみんさい」と言った。見ると、教壇の真ん中だった先生は、いつの間にか教壇の端っこ、スピーカーの真下で顔をひきっらしてじっと聞いていらした。
 その顔を見ると一人黙り二人黙り、ついに教室じゅうがしんとなった。全体緊張の中、やっと放送が終わった。ゆっくり教壇の真ん中に戻ると先生は静かに今の放送の内容を話して下さった。
 日本が戦争を始めたこと(相手国の名「英米両国と戦端を開くに到れり」を知ったのはもっとあとからのことで、その時は先生が国名をおっしゃったかどうか覚えていない)、
太平洋(この海は歌でよく知っていた)の真ん中の島で日本の潜水艦が敵国の軍艦を沢山沈め、飛行機でも爆撃したこと(ハワイとか真珠湾とかの名が出たかどうか理解出来ていないのだから覚えていない)、
日本の潜水艦五隻も乗組員とも犠牲になったことを、三年生にもよくわかるように話して下さったのだ。
 井手本さんが「恐ろしい」と一言った。遠くのことだと思って聞いていた鈍い私は、井手本さんの「恐ろしい」で、そうかと気付いた。
 先生は仰った。「恐ろしいことはありません。敵が攻めて来ないように守ってもらえます。」と。もっと詳しく話してくださったようだが、とにかく恐ろしくないのだと納得出来る説明だった。
 三年も経たないうちに日本の空から鉄と火の雨が降らされることになろうとは児童は勿論のこと先生も想像だに出来ないことだったのだ。

二、軍国乙女に育つ
 私達が小学一年生の時の国語の教科書は、あの有名な「サクラ」教科書である。「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」で始まる、文学的と称されているあれである。
 多くの子供たち(少なくとも私の友達は皆そうだった)は国語の教科書の最初からおしまいまで全部諳んじていた。
 誰に勧められることなくそうさせるだけの力を、あの教科言は持っていたのである。それが「紀元は二千六百年」から変わった。国語と修身が戦時色一色になり、国史は、「大東亜戦争」推進は「大東亜共栄圏」をつくるための正義だとの理論の流れに持っていくためにあった。
 日本は「現人神」(あらひとがみ)のお治めになる「神国」であった。そして、どんな試練にも耐えていると最後には元冠の時のような「神風」が吹くと信じ込まされた。
 戦争が始まって間もなく、わが家の玄関に世界地図が張られた。地図には日本海から日本列島中央を抜けて太平洋の真ん中まで真っ直ぐに「大日本帝国」という文字が大きくあった。
 当時、太平洋の西半分真ん中あたりのほぼ台形をした海に散らばる島々は日本の信託統治であったから。
 地図の隅には小さな砲弾や日の丸が沢山準備されていて、日本軍が爆撃した所には砲弾を貼り、占領すると日の丸を貼っていった。アジアのあちこちは日の丸だらけになった。
 叔母は結婚するまで、女子挺身隊員として呉海軍工廠に出ていたが、着物を着て紺の袴姿であったのが、筒柚もんぺ姿となった。
 母はもんぺの上から白い割烹前掛けをあて、国防婦人会のたすきを掛けて火消し訓練や、横穴防空壕掘り(各家の防空壕とは別に、共同の避難壕が、横穴を掘れる場所には掘られていた。)に出掛けるようになった。
 それらが至極当たり前のこととして次々におこっていくので、大人はともかく、子供の私としては、そんなことは平常であって、危機感なんて少しも感じなかった。
 私達が国民学校三年生から六年生まで受け持っていただいた先生は、あの当時多かった、 歴代天皇の名前を覚えさせるとか、教育勅語を覚えさせるとかはしなくて、本当の学力を身につけさせることを中心にした、数少ないやり方をした方だった。
 それでも初めの方の天皇の名は数代まで言えるようになっていたし、教育勅語は全部言えた。それだけでなく、あの長い開戦の詔勅もかなり言えた。それほど何度も聞かされていたのである。
 教育の徹底とは、そこまで出来るものである。わけも分からず覚えて、やがて思想の中心となっていくのである。
 東京が空襲されたことはとっくに知っていたが、私の心にはまだ「やられる」という実感がなかった。
 空襲は報道されたが、十万人死んだなんてことは知らされなかったのだから。次々にふえていった地図の日の丸はそのままに、アッツ島・キスカ島・サイパン島と次々に玉砕「転進」が増え、「恐ろしいことはない」はずの戦争が始まって三年め、北九州が爆撃された。
 この時、呉にも空襲警報が出された。近所のおねえさんが、「空警讐報発令」とメガホンで触れて廻る声がうわずって震えていたのを覚えている。
 うちでは庭に一bほど四角く掘り下げただけの、青天井の防空壕と名付くものがあったが、それに入ってがたがた震えていた。私の体が危機感を覚えた最初である。
 そのうち、わが家の防空壕は納屋の下の引き落としに床が張られ、椅子や布団が持ち込まれて、長時間待機出来るものになっていった。
 掘り下げただけでは、降ってくる焼夷弾や高射砲の破片は防げないことが分かってきたのである。
しかし、二階建ての納屋の下では破片は防げても、納屋が燃えたらおしまいだ。たまたま我が家では破片で屋根はがたがたに雨漏りするようになったが、焼夷弾は消し止められたので一家は助かったのだ。
 いつの頃からか、わが家には兵隊さんが何日か置きに泊まりに来るようになった。それは敗戦まで続いた。「上陸」と称して、休暇に灰が峰の兵舎から下山してくる兵隊さんである。
 軍艦を住所とする海軍の言葉はおもしろいもので、山上の兵舎へ帰るのは「帰艦」だった。兵隊さんは次々と人が替わった。
 ある時、結婚式をうちで挙げた兵隊さんがいた。式の様子を母が祖母に語ったのを私も横から聞いたが、それによると、出席者は新郎新婦の両親だけで、そこにうちの両親が臨時仲人として座った。
 ところが、「上陸」してくるはずの新郎が来ない。床の間の前に椅子を置いて、それに新郎の寝巻きを掛けて、それを新郎に見立てて結婚式をした。
 その日から、新郎が灰が峰にいた数カ月問、新婦はうちの納屋で暮らしていた。

三、空襲が我身にも
 大都会が次々空理されるニュースを度々聞くうちに、広が空襲されたのでは、よその街がやられたくらい遠くのことのように感ずるほどにまで私の感覚は鈍っていた。
 国民学校卒業間近の一九四五年三月十九日は私が受験した女学校の合格発表日であった。  ところが早朝から艦載機が何度も海軍工廠を波状攻撃した。高射砲はぼんぼん撃つし、灰が峰山麓の惣付にあるわが家は破片がばらばら落ちて来て、防空壕から出ることが出来ない。
 警戒警報が解除になるとすぐ出掛けようとするのだが、またすぐに空襲警報になる。
海の方、工廠の上には艦載機がかなりの所まで下りて来て爆撃する。つい四〜五か月前には、北九州が空襲されてさえ、防空壕に入って、あんなにがたがた震えていたのに、もう目の前の空襲を見に出るほどに神経が太くなっていた。
 鎮守府の方でも、北九州爆撃でさえ空襲警」報を出していたのに、もう敵機が頭上に来てからでないと空襲警報を出さなくなっていた。
 当時、ラジオはつけっぱなしだったから、まわりはすべて空襲警報が出ていても、呉だけ警戒警報も出ていないことが度々あった。
 その日は夕方まで空襲が続いた。この空襲で、後に女学校でクラスメイトのひとりになる人のお母様が亡くなられたとは、入学後しぱらくして知った。
 三月十九日から数日後、ある私立女学校の入学試験があった。進学するところが決定していた私は担任の先生から連絡係りを頼まれた。
 私達公立の試験の時にはまだそんなに切迫感はなかったのに、ほんの数日で空襲が日常化していたのである。
 私は担任の先生と受験生のお母さん達といっしょに、運動場で行われる体育の試験、跳び箱や幅跳びを見ていた。
 試験が終わって帰ろうとしている時に空襲警報が鳴って、すぐに飛行機の爆音が聞こえた。近くの防空壕に入って時を過ごし、警報が解除になると一人で家へ帰った。
 一人歩きでも恐ろしいとは思わなくなっていた。

四、動員
 入学した女学校では、雨天体操場が工場となっていて、白鉢巻きを締めた上級生が旋盤を回すなど、工廠の仕事をしていた。
 五年生の従姉がそこにいたので見に行ったら、近寄るなと言われた。時々、製品か部品か知らないが、布で覆った物を手押し車に乗せて重そうにどこかへ運び出すのを見掛けた。  教室の一部、北校舎は海軍の兵舎になっていた。この女学校の出身者である母が、あそこ北校舎には階段教室や弓道場もあると教えてくれた。
 あゝ小学校にはなかったそんな設備のある学校へ来たのだな、という思いと、見たことのない階段教室と弓道場に憧れる思いを持った。
 その階段教室も弓道場も見ることなく三ヶ月後には焼失してしまおうとは。
 同じクラスに沖縄海軍の総指令官の五女さんがいたので、彼女を交えて、沖縄戦のことは関心が強く、かなり話題になった。
 陥落に際しての母上の軍国の妻らしい発言に関しては、お母様は何も言わないのに新聞が勝手に書いたのだと彼女は言った。
 女学校では、勉強をするのは一・二年生だけで、三年生以上は動員で、雨天体操場の工場で働く者以外は皆工廠に働きに出ていた。
 動員の引率で出ていらっしゃる先生もあるから、教科すべての先生が揃わなくて芸術科は何もなく、国語は講読、文法、作文と週に七時間あり、自習の時間もあった。
 私達も時々お菓子工場へ、お菓子の袋詰め作業をしに出掛けた。誰から教えられなくても、お菓子は前線の兵隊さんに送られるものと理解した。
 だから、お国に役立っ仕事をしているのだという誇りがあった。とは言っても極度に食料難の時代、お菓子なんてもう久しく見たこともない。
 おなかをすかせた数え年十三歳の子供にとって、ふんだんにあるキャラメルやせんべいをたゝ袋に詰めるだけの作業を数時間続けるのは酷だった。
 だが、この作業の終わり頃ー空襲でお菓子も工場も灰になるまでーの二〜三回は、作業を終えて帰る時に一袋ずつお菓子をもらった。もらったお菓子は家への大切なおみやげだった。みやげを家族に分けてあげられるのは喜びだった。
 お菓子の袋詰め作業より外に、農作業の手伝いに出掛けたことがあった。私の組の行った先は仁方の農家だった。どんな仕事をしたか覚えていない。今思うに、農作業をしたことのない女学生が大勢やって来て、農家はかえって迷惑だったろう。

五、避難
 女学校へ入ってからは、毎日数回空襲警報が鳴った。登下校は同じ方向の者が一緒にするようにと言われ、単独行動は禁じられた。とはいっても一人歩きをしなければならない場合はかなり多かった。
 試験は白紙が配られ、先生が黒板に問題を書かれたのを見て、答えだけを記入するのである。ある時、問題が全部書かれた時点で警報が鳴った。すぐに防空頭巾をかぶって防空壕へ駆け込む。
 手には何も持ってはいけないことになっていたが、この時は皆教科書を抱えて駆けた。先生も気付いていらっしゃるに違いないが、何も仰らない。暗い防空壕の中で字が読めるわけはないから、わいわい試験問題の答えを言いあう。
 壕の外は空襲だろうが何だろうが気にも止めない。それからは、試験になると問題が書かれた時点で、警報が鳴らないかな、などとささやき合うくらい、空襲に慣れっこになって、さして緊張感もなくなっていた。
 私達の女学校は、現在の二河中学校にあった。道を隔てた東向かい、今アパートのある所は動物園だった。空襲で檻が壊されたら危ない動物は皆殺されて、あの時いたので私が覚えているのは猿と小鳥である。
 学校の運動場にも防空壕は掘ってあったが、生徒全員が入るにはほど遠い大きさのものだった。
 防空壕は二河公園、今の二河競技場の東の小山に横穴が掘ってあった。兵隊さんが毎日まだ掘り進めていた。二河国民学校、五番町国民学校、女子高等国民学校、私達の第一県女と、それぞれ入る穴が決まっていた。
 生徒たちが壕まで駆け込むには何分もかかるから、敵機が来てから空襲警報を鳴らすことが多くなっていた敗戦間際には、集団で壕に到達する前に爆弾を狙い撃ちで落とされるってことがなかったのが幸いであった。
 ぎゅうぎゅう詰めの真っ暗い壕の中では、算盤の上手な人が読み上げ算を唱えて、私達は一生懸命暗算をやったり、漢字当て、つまり単語を言って、何偏の何冠の何足のなになにという字などとやっていた。
 勉強のことはあまり言われないで、作業と避難ばかりに多くの時間をとる毎日だつた貧我々仲間は結構勉強が好きだつた。
 英語なんかは敵性語として教科書もなく、英語の先生は口でただ教えるだけ。黒板にも書かれないし、ノートもとってはいけない。頭の悪い私なんか覚えられはしない。
 先生の仰ることをこっそりポスターの裏(当時はノートもろくになかったから、行政が配っていた防空や戦争遂行のポスターは、適当な大きさに切りそろえて、綴じてノートにしていた。)に書いて叱られたことがあった。
 そんなある日、五月だったか六月だったか、空襲がいっもより長引いて、しゃべり好きな雀娘たちもしゃべる元気もなくなって、真っ暗い中でじっとしていた。誰かが気分が悪いと言った。私の近くにいらした先生がマッチをつけようとして擦りなさったが、つかない。何度か擦ってつかないので「外へ出なさい」と言われた。
 外へ出て涼しい空気を胸いっぱい深呼吸していると、「みんな山側へ、へばりっいていろ」とどなられた。斜めに後ろへ倒れかかって、見るともなく木の間から空を見上げると、飛行雲を引いてB29が日に輝きながら飛んでいた。
 灰が峰から撃つ高射砲弾がはるか下でぱっぱっと炸裂した。山に沿って防空壕の前にはもみじの木がずらっと植わっていた。もみじの青葉は互いに重なり合って、日に透けてうす黄色いのから濃い緑まで、たくさんの葉が、緑色ってこんなに多くの変化色をもっているのかと驚くほど豊かな影を私達に与えてくれていた。
 そのはるかかなたに抜けるような曇りない青空が広がっている。あゝきれいな青葉だな、と思った時、ふと私は、最近きれいなものを見ていないな、と思った。
 きれいなものを見なければいけない、きれいなものを見ようと思った。脇を見ると、今さっきまで私達が入っていた壕の口から白い靄のようなものがもくもくと出ていた。あの靄のようなものの中で死にそうだったんだな、と、まるで人ごとのように考えながら出てくる気体を見ていた。
 気分が悪いと、自分の状態を敏感に感じて先生に告げた人のおかげで命拾いをした日に前後して、私は同じ町に住む二年生と二人で学校から帰っていた。
 途中警戒警報が鳴った。早く家へ着こうと急ぎ出した二人は、町なかを通って帰るより、山側の道が危なくないだろうと判断した。
 龍王神社の横を登って、二河上井手に沿った新道路を通って帰ろうとした。隠れもないその道は、飛行機から丸見えであることなんか二人の子供は気がつかない。
 お宮の松林を抜けて新道路への登りにさしかかった時、爆撃が始まった。
 ばらばらっと、頬といわず頭といわず、砂嵐が当たった。とっさに二人は側溝へ倒れ込むようにしゃがみ入った背から小石混じりの砂がだだつと打ちつける。
 あとから考えるとそんなに長い時間ではなかったろうと思うのだが、しゃがんでいる間は、かなりのあいだ打ちつけられ続けていたように感じた。
 やがて静かになったので、そっと顔を上げると、相手の二年生は、その大柄な体が頭から顔から服から砂まみれだ。相手から見た私も砂の中から誌いていただろう。
 砂を払って気付くと、道路の私達がしゃがんでいた反対側に機銃弾が斜めにずらっと並んで突き刺さっているではないか。
 飛行機から明らかに私達二人の子供をねらい打ちしたものだ。ほんの数bの差で、手足の掠り傷だけで済んだ。

六、七月一日
 一九四五年七月一日は日曜日だった。なぜ曜日をはっきり覚えているかというと、あの日は、日曜日なのに全校生徒が学校へ集まったからである。日頃海軍工廠で兵器を生産している上級生も集まった。
 私が入学してから初めて全校生徒が運動場に並んだ。学徒隊の結成式を上げるためである。
 沖縄が陥ち、民間人は中学生・女学生まで軍人のもとで働いて大勢犠牲になった。本土決戦に備えて女学校一年生まですぐに出動出来る態勢を整えようとしていたのであるが、戦勝気分の一九四七年からもう敗退に向かっていたのだから、じわじわとやって来てことこゝに到ってもまだ私達は危機感を持っていなかった。
 少しずつ慣れていくほど恐ろしいことはない。事態の変化に気付かないのだから。防空壕の中の空気が、マッチの火がつかないくらいにまで炭酸ガスが増えていても、一人を除いて誰も気がつかなかったように、じわじわとやって来るものは、危機感どころか警戒感も抱かせないくらい、人間に当たり前のこととして受け取らせてしまう。
 だから七月一日の学徒隊結成式でも私達は、それぞれの担任の先生が、たぶん初めて掛けられるであろう号令「右向けーみぎっ。かしらーなかっ。前へ1進めっ。」と声を上ずらせて掛けられるのを笑っては叱られ、次の先生はどんな調子だろうとおもしろ半分の期待をして待っていた。
 専攻科(五年生)から四年生と順々に下の学年へ、それもイ組、口組と一組ずつ歩調をとって歩いて、正門から動物園前の道へ出て公園を回って帰って来るのであるが、一年ホ組であった私達は最後なので、先生達一人ひとりの号令のおもしろさを充分堪能したあと、最初出た組が帰ってくる頃に校門を出た。
 本土決戦に備えての自覚を促し、態勢を整える目的の学徒隊結成式は、少なくとも一年生の私達にとってま平素と違う、ちょっとしたお察り騒ぎの気分だった。
 軍需工場で働いて日本の生産現場の実態を知り、三月十九日の空襲で潰滅的な破壊を受けているのを目の当たりにしながら一言も洩らさなかった上級生たちは、この日の学徒隊結成を差し迫った感で参列したのではないかと思う。
 その夜、私達きょうだいは父から起こされた。父は寝ないでラジオを聞いていたのだ。警戒警報も発令されていなかったが、呉の回りはすべて空襲警報が発令され、敵機はそこまで来ているという。
 すぐにわが家の防空壕へ入る。その頃のわが家では、納屋の引き落とし(昔、祖父の時代、牛糞などから堆肥をつくるために地下を掘って石垣で囲んだ土間で、数十年間物置として使っていた所を空襲が頻繁になって床を張り、布団類も入れてあった。)を防空壕としていた。
 その頃母が腎孟炎を患っていて、毎日高熱を出していたので、空襲になるとベッドの上に、裏の竹藪の孟宗竹で父が太い簾を造ったのを掛けて、破片や物が落ちてくるのを避ける覆いとしていたが、その夜の空襲はよほど大規模なものと父が判断したのだろう、母をも防空壕へ運び込もうと、母自身を竹の簾に巻いていた。
 祖母は幼い弟妹を連れて入る。私は裏の山水を引いた水槽からバケツに水を汲んでは家の縁側の前に並ぺていた。燈火管制に慣れていたので暗くても仕事は出来る。
 飛行機の爆音が聞こえていた。水滴のようなものが顔にかかった。あとで分かったのであるが、水滴と私が感じたのは街の上に米軍機が撒いた油だったのだ。
 まだ警戒警報も出されていない。その時、空じゅうにばあっと光が広がって、一瞬庭の木々の姿が黒い影として浮かび上がった。私は「爆弾が落ちたー」と、まだ家の中にいた父母らに裏口から叫んだ。
 空襲警報が鳴った。わが家は灰が峰の南西斜面にあるので、旧呉市街が一望出来る。表に出ると、街の上の中空に光がふわふわ浮かんで揺れている。
 照明弾を初めて見た。と、光の雨が降り出した。爆撃が始まったのだ。灰が峰からは高射砲を撃ち出し、破片が降り注ぐ。
 当時の隣組、隣保班には防衛係が決めてあった。うちの班では父とSさんだった。当時成人男子が少なかったので父は防衛部長と呼ばれていた。
 防衛係は空襲になると辰川小学校に集まり、何かの役につくらしかった。具体的なことを聞いていないので、みんなあの世に行かれた今となっては聞きようがない。
 ご主人が亡くなっていられたSさんは、警報が鳴ると幼い二人のお子さんをうちへ連れて来ておいて役に着かれた。
 立てないはずの母は壕の入口の柱に縋って外を見ていた。そして、「こっちへ落ちて来る。しっかり伏せて」などと指示を出しながら私らの様子を見張り、外の状態を観察していた。
 警報が鳴ると、「上陸」して街に散らばっていた兵隊さん達がうちの前の道を急いで灰が峰へ「帰艦」する。
 しかし、あの七月一日の夜は空襲が始まってから警報が鳴ったので、鉄と火の雨が降る中だから、上惣付の家のあたりまでたどり着くと動けなくて、そこらの家の防空壕へ入っていた。
 その兵隊さんたちが、家や木に降りかかった火の粉をたたき落として消してくれたので、うちのあたりは焼けなかった。
 街の真ん中ほど多くの焼夷弾が落とされなかったせいもあろうが、初期消火がよかったというか、女・子供だけでなく、「帰艦」出来なかった兵隊さんたちがいたおかげでもある。
 焼夷弾の落ちる音と、高射砲を撃つ音と、破片が屋根に当たる音で、少々の話し声は消えてしまう。もう何箇月も前から空襲中でもがたがた震えることはなくなっていた私は、母に叱られながらも母の横から外を覗いて見ていた。
 空一面に、花火を何十倍も派手にした火の粉が光の糸となって降ってくる。暗かった街は、しばらくするとまっかになって燃え出し、山の斜面に位置するうちのあたりもうす明るく地面が見えるほどになった。
 と、シューと音を立てて落ちてきた火が、真正面から私を目がけて来て、もうだめだ、としゃがんだ。ん?、我身は吹っ飛ぱない。恐る恐る顔を上げると、三bばかりの幅の川向こうのわが家の畑で焼夷弾が火を吹いている。
 私は汲んで置いたバケツを持って行って水を掛けた。兵隊さんが来て、スコップで土を掛けた。当時は油脂爆弾がどうの、なになに弾はどうのと、種類とその消し方がポスターで示されて子供でもよく見ていた。
 しかし、目の前に落ちた弾をとっさに見分ける判断力はない。消されたり不発の弾は、あとで兵隊さんが集めて行った。長さ五〜六十a、太さ十aくらいの筒だったように覚えている。敗戦後数カ月経って、神山峠の畑を耕していて不発弾に当たり、亡くなった人もあった。
 どれくらいの時間が経ったか分からない。街の火事は、燃える火の明るさだけでなく音も聞こえるほど激しくなっている。いつの間にか火と鉄の雨は降らなくなっていた。
 その頃になると、街からどんどん人が上がって来て、うちへ水を飲みに来られ(わが家の出水はかなりの人に知れていて、道路からかなり奥まっているのに、通りすがりの人や訓練の兵隊さんたちが飲みに来ていた)、その人達が休むので縁側から座敷までいっぱいになった。
 毎日数回の空襲があるようになっていた当時は、いつでも飛び出せるように、夜でも縁側の雨戸を締めることはなかった。
 貴重品の入った非常持ち出しのリュックサックはいつも縁側に置いて、警報が鳴る度、解除になる度に防空壕と縁側の間を行き来していた。
 開けっ放しのわが家へ入る余地のない私達は、ずっと庭をうろつくか防空壕の中にいるかしていた。その時聞いた被災者の話し声。
「こんな大火事で皆焼けたのに、うちだけ残っていたら嬉しかろうね」。私は驚いた。そして腹が立った。
 今、焼ける街から逃げて来て水を飲み、挨拶もなしに家へ入って、疲れて横になっている人達に私は、気の毒に思うと同時に、わが家が焼けていないことに子供ながら引け目を感じていた。それが「うちだけ残っていたら嬉しかろう」とは何事ぞ。
 あの頃、「とんとんとからりと隣組」という歌がはやっていた。その隣組精神、助け合いの精神は子供だから素直に心に入っていた。だから「うちだけ」に腹を立てたのを六十年経っても忘れない。
 父とSさんは、火と鉄の雨の中を何度かうちへ帰って来ては声を掛け、無事を確かめてはまた出ていった。二人は別々に仕事をしていたらしく、お互いのことを知らず、私達が 「さっき帰って来たよ」と言うので互いの無事を知るのであった。
 長い夜が明けた。空気は焼ける臭気が漂っていた。うちで休んでいた人たちはどこかへと出ていった。
 中に知った家族がいた。これから津江まで行くという。ほかに上げる食べ物がない。祖母は大豆の煎ったのを上げた。かじりながら出ていかれる汚れた姿を、今は私達家族だけになって、がらんどうに感じられる家の縁側から見送った。
 何時ごろになってからだったろうか、呉じゅう焼け野が原になったのが見渡せるほどに煙が収まってみると、二河の我が校の校舎が三つ立っている。
 呉じゅう焼けているのに。さすが、兵舎になっていたから、兵隊さんに守られて一県女だけ残ったのだろうと気のいいことを考えていた。
 行ってみたいが、父がとても街へは行けないと言う。二・三日して出掛けたが、下りるに従って、くさいのなんの。
 荒神町までいくと、溶けた道路のアスフアルトが靴にくっついて歩けなくなるので引き返した。こうして私の持っていた最後のぼろ革靴がだめになった。
 三つ残っていたとわが家から見えた校舎は、全部焼け落ちて防火壁だけ残っているのが見えたのだと知ったのは、ずっと後になってからである。

七、焼け跡整理・原爆
 何日か経って、学校へ毎日、焼け跡片付けに通った。跡片付けをする時問と防空壕へ入りに行く時問とどちらが長いか、というほど空襲が頻繁にあった。
 動物園の焼け跡は炊き出しの食料を渡す所になっており、二河公園隅、防空壕のある山の端にあった衛生参考館は炊き出し場になっていた。
 学校へ集まったのは、クラスの半数を少し越える人数だけだった。家が焼けて親戚へ行った者がいる。
 私達一年ホ組では、和庄の防空壕で一人死んでいた。煙を吸ったのと、蒸焼きになって死んだ数の一番多かった壕でである。
 同じ壕で助かったのは、三月十九日の空襲でお母さんを亡くしたSさんだった。彼女の話によると、ぎっしり詰まった人で動けなく、息がつらくてたまらなくなったので、足元の冷たい土を掘ってハンカチに包んでは口に当て、何度も土を換えては口に当てしていたのだそうだ。
 そのうち、懐中電灯を照らした警防団の人が来て、「生きとる者は声を出せ。声の出ん者は手でも足でも動かせ。」と叫ぶので気がついて、おじさんのゲートルの足をつかんだら、外へ出してもらえたという。
 外では、男の人たちが、連れ出した人達の頬をひっぱたいたりつねったりして、生きているかどうか確かめていたという。そのSさんも数年前、同窓会に欠席したと思ったら亡くなったと聞いた。
 八月六日も焼け跡整理に運動場へ集まり、朝礼が始まる前で、生徒は(その時点では二年生も動員で出ていたから、一年生だけ)ほぼ並んでおしゃべりしていた。
 前で、先生方が輪になって職員朝礼をしていらした。その時、あたりの空気全体がうす紫に光った。おや、と思っているとドーンと音がした。
 爆弾だと思ったすぐ、防空壕へ行け、と言われた。壕へ入っていたが、何事も起こらない。学校へ帰ることになり、気が抜けてぞろぞろ帰って行くと、校門のところでは後から登校してきた者達が、登校日を間違えたのだろうかと言い合っていたという。
 と、誰かが「あれ」と西北の方、吉浦の方の山の上を指差した。その空には傘のような入道雲が出ていたのである。坂の発電所が爆発したのだろう、などと言う者もいた。
 入道雲は、少し揺れ、形をいくらか変えながらも、夕焼け色になり宵闇に見えなくなるまで、辺りが薄暗くなっても、高い空で橙色に輝いていた。
 家へ帰ると、父が広島駅の前に大型爆弾が落とされたのだと聞いたと言った。新聞やラジオが新型爆弾と報じ出してから、うちへ「上陸」の夜泊まられる兵隊さんが、灰が峰から見ていると、広島の上へ白い煙のようなものが一すじ下りて来たので、
「毒ガスを落としたな。卑怯なやつだ」と言っていると、ピカッと光って、そのあと爆音とかなりの爆風が来たという。白い煙のような一すじは、開く前の落下傘だったのだろうとは、戦後になってからの我が家での話である。
 父は翌七日から毎日、海軍のトラックで広島へ遺体収容作業に出かけていた。宇品の河口で水中から遣体を引き上げる作業については、「女の人の細いはずの腕が、太股より太くなっていた」と言ったのがすべてで、毎日多く見たであろう惨状については生涯語ることはなかった。
 父はその後しばらく経ってから微熱が続き、内科医の親戚のおじが、風邪の症状だが風邪でもないので治療の方法がない、お茶を飲んでいるしかない、と言ったので、祖母が、鎮さんはよう診ると評判だが、重雄の病気はよう治さんのかのう、と言ったそうだ。
 おじも、その時はまだ二次被爆による被曝症なるものを知っていなかったのだ。
 父はその後夏になると具合が悪くなり、日に当たるとよけい悪くなるので傘をさして歩いていた。

八、終戦
 八月六日から一、二日して、二河公園の衛生参考館に近い石碑の台のほとりに、濃い焦げ茶色の皮膚の腫れ上がった人が寄り掛かっていた。炊き出しを行っている衛生参考館に近いからだろう、と私達はうわさしていた。
 何日もしないうちに、その人は溝に入って死んでいた。東京では一夜にして十万人が、広島では一瞬にして三十万人が、長崎では--と、まさかそんな莫大な数とは、報道されないせいもあって思いもしなかったが、死は子供にとっても日常の出来事であった。
 夏休みなんてことを考えもしない毎日で、相変わらず灰まみれになって学校の焼け跡整理に通っていた。
 もう焼くところもなかろうと思うのに、日に数回も空襲があるという、非日常が日常化している毎日であった。
 そんな非日常の連続の八月十四日、明日は天皇の重大放送があると聞かされた。相変わらず空襲警報が夜に入っても何回か響いたが、夜中の0時、十五日になったかという時から警報が鳴らなくなった。
 子供だから夜にはそんなことに気付くはずもなく、学校へ行ってから「今日は空襲がないね。どうしてじゃろう。」と話し合った。空襲がないのを不思議がるという自分たちの異常さには互いに気付いていない。
 やがて昼前になると、校庭の防空壕の前で兵隊さんがラジオをいじり始めた。ガーガージージー雑音ばかりが入る。焼ける前に比べるとすっかり少人数になっていた兵隊さんとラジオの回りを私達一年生(二年生以上は勤労動員で工場へ行っていた)と先生がとり囲んだ。
 同じ敷地内にいても、兵隊さんと生徒が近い所に並んだのは初めてである。十二時になったが、相変わらずジージーガーガーばかりだ。声が出ていることは分かるのだが、雑音がひどくて言葉として聞き取れない。
 時間が経って、やっと重大放送が終わったということだけは分かった。重大放送内容が分からない点に於いては四年前の十二月八日と同じ。違うのは、今度は雑音のせいで先生にも聞き取れなかったことと、私達が小学校三年でなくて女学校一年になっていたので、一言でも判るところがあるかと、耳を澄ませていたことだ。
 しばらく誰もものを言わない。やがて先生が「帰りなさい」と言われた。
 家の近くまで帰ると、坂道を近所の国民学校五年生の男の子が下りてきていて、「戦争負けたの、悲しいね」と言った。
 え、なにっ、負けた? 私が知らないのに、どうして私より小さい子が知ってるの?
 あ、さっきのガーガー放送がそれだったのか。私の頭は目まぐるしく回る。私はものが言えなかった。走って家へ帰るなり台所にいた母に「戦争負けたん」と言った。
 母がどんなに驚くと思いきや、「ほうよ。」、あれ、ガーガーだけでなく、言葉が聞き取れるラジオもあったのだ。
 「それでお父ちゃんはゲートル(それは夜寝る時もはずしたことがなかった)をはずしてそこへ投げるなり、街を見てくる、と出掛けちゃったんよ。」と言う。
 焼け跡を歩いてどれだけの情報が得られたものか知らないが、居ても立ってもいられなく、とにかく何かをつかみたくて父は出て行ったのだろうことは、今にして想像がつく。
 晴天の霹靂とはこのこと。
 「神国、国体の精華、本土決戦、神風、欲しがりません勝つまでは。」
 いきなりラジオで開戦を知らされた国民学校三年生からたたき込まれたこれらの言葉は私の体に生きていた。
 今また、いきなりラジオで敗戦を知らされる。いつも結果を過去形で知らされる。それを受け入れようと受け入れまいと、厳然とそこに存在する事実に変わりはないのだ。
 開戦の時の幼児だったのと違って、聖戦ということが、頭にでなく体にたたき込まれていた女学校一年生にとって、敗戦はただの驚きだけでなく、小学三年生の時とは比べものにならない痛みを伴った悲しみであり、これから生きていくことが出来るのだろうかという不安感であった。
 その八月十五日、疫痢にかかっていた従妹が死んだ。私は従姉と二人で、津で焼け出されて子供を連れて叔父の実家へ帰っていた叔母にそのことを知らせに吉浦まで歩いて行った。
 汽車もバスもなかった。魚見山燧道は両側から掘り進められていたが、開通しないまゝ途中で作業が止められて、防空壕として使われていたので、海岸道路をぐるっと回って行くのである。
 今海上保安大学校になっているあたりの工廠から、私達の学校の上級生が出てきた。ネクタイでそれと知れる。(私達の学年は物資の無い時に入学したので、服装は自由であった)。
 眉の上に真横に白鉢巻きを締めている。歩調をとって歩き、門衛の前へ来ると、ばっと止まって、さっと挙手の礼をした。兵隊さんと同じように挙手の礼をするとは聞いていたが、女学生がするのを見たのは初めてである。しかも敗戦数時間後に。
 その夜、電灯の回りを覆ってぶら下げてあった黒布をはずして、部屋の隅まで照らせる明かりのもとで、心はかぎりなく暗かった。縁側の天窓に張られた黒い紙が剥がされたのはもう少し経ってからであった。
 その夜、縁側から眺めた空は、燈火管制がなくなっても、焼けて真っ暗い街の上に広がり、鉄も火も降らせなくて、何の音も立てなく満天の星が天の川を真ん中に収まるところに収まっていた。
 小学五年生の時、国語でならった夏の星座、二年前、母が実際を見上げて教えてくれた、もわっと広がる天の川を見た感動が蘇った。
 白鳥座、琴座、鷲座、大犬座、さそり座…。分かれていた懐かしい友に再会した思いだった。
 たった二年前にはあんなに感動して天の川が眺められたのだ。以後まる二年、星どころか、空から降るのは火と鉄の雨だった。
 それが今夜、火の粉騒ぎは夢だったように、ずっとこんなだったよ、と言わんばかりに静まり返っている。「星降る夜」という言葉を聞いたことがあるような気がする。
 星降る夜、星降る夜と何度も繰り返した。どこまで続く黒く深い夜の空だろう。その大いさ。そしてちっぼけな、ちっぼけな人間。広い夜空の星は全く変わっていない。
 だが私はこの四年間で全く変わった。これからどう生きていくのだろう。戦争後半の二年間は、死なないこと、殺されないこと、逃げ廻ることが日々生きていく目的だった。
 それが、殺される恐れがなくなった今、自分はこれから何を目的に生きていけばいいのだろうと思った。
 この広い夜空のどこもつかむところのない不安。「人生」ということを考えた最初だった。
 あれから六十年。老いを口にする歳になっても、戦時中の四年間は濃密で重い。
 窒息寸前の防空壕から出、見上げた空に透ける新緑の瑞々しさに感動して、美しいものを見なくてはならないと思った空襲の日。
 私の星好き、本好き、書くこと好きは、あの鉄と火の雨をくぐって育った。
                         完
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