第1信「呉海軍工廠へ学徒動員」

福山市で、中学校の英語の教員を長くし、定年退職、現在75歳です。
私は、呉市で生まれ、当時の町名・草里町、沢原さんの別荘がありましたが、その近くで、戦災に遭いました。
海軍に応召されていた父親は、敗戦の年の1月17日に戦死。
母と妹を連れて、初め、防空壕にいましましたが、息苦しくなり、炎の中を、防火用水の水を頭からかぶり、山の方に逃げました。
翌朝、未だ、くすぼっている我が家に帰りました。跡形もなく、焼けていました。
当時、私は、呉港中学校の生徒で、呉海軍工廠水雷部航海工場で羅針盤の調整、修理などに従事していました。
防空壕で作業していて、閃光に驚いて外に出、暫くして、耳が痛くなるような爆風を受け、真っ赤な火柱、黒くなり、白くなり、キノコ状になりました。
グラマンの機銃掃射、爆撃、空中戦、軍艦内で修理中に空爆にあったこともありました。
テレビで言っていましたように、「大和」だけがクローズアップしていることに、反対です。
敗戦後、学徒動員を解除され、家を焼失した私達は、母親の里である福山市に、移転しました。とりあえずの報告です。
                             2004/07/07.

  第2信「道路を炎が走った」

 呉市の朝は、港に停泊する艦船から聞こえてくる「ウオーッウオー」という蒸気を吐き出す巨大な音で始まる。
 灰が峰を背にして海に沿って広がる街並みは、海軍さんの街であり、海軍工廠工員の街でもある。
 呉市で生まれ呉市で育った私にとって、灰が峰は、懐かしい故郷の山だ。
 呉市蔵本通で生まれ、神田町、片山町、胡町と移り住んだ私達一家は、罹災当時、草里町に、母と一つ違いの妹と住んでいた。
 日常生活では、隣組組織が機能しており、回覧板が、組内に回された。
 防護団や国防婦人会などが組織され、防火訓練としてのバケツリレーによる消火訓練がなされたり、様々なことへの動員がなされた。
 出征兵士を見送りに呉駅へ行き、日の丸の小旗を振りながら「勝って来るぞと勇ましく誓って国を出たからにゃ手柄立てずに死なりょうか」とか
「天に代わり手不義を討つ 忠勇無双の我が兵は」などと誠に勇ましい軍歌を歌い、「バンザイ! バンザイ! バンザイ!」と万歳を三唱して見送った。
 戦争中は、「非国民」という言葉が大流行で、すべての人が同じ一つの方向に向かうことを強いられた。
 「鬼畜米英」「贅沢は敵だ」などのスローガンが巷に溢れ、「非国民」という言葉で、服従を強いられた。
 大衆の狂気ほど怖い物は無い。髪の毛を縮らせた女性を見かけると、「パーマネントに火がついて、見る見るうちに禿頭、パーマネントは止めましょう。」と誹謗した。
 中学一年生の英語の授業をハワイ帰りの若い先生から受けていた最中、校内放送で、日米開戦を告げる真珠湾攻撃のニュースが流れた。
 軍艦マーチの勇ましい音楽と共に、大本営発表がなされ、私達は歓喜した。
 やがて、英語は敵国語となり、英語の授業数が減り、軍事教練の時数は増え、そのうち、英語という教科は廃止となった。
 そして、街から、カタカナ言葉が追放された。現在のカタカナ言葉の氾濫と反対の現象である。
 ベースボールのストライキは、野球の直球となった。ドレミハは、ハニホヘトイロハとなった。
 英語を学習することは、非国民のすることであり、同盟国であったドイツ語の学習は許された。
 ラジオから「ニッポンのみなさん。こちらはベルリンです。」とベルリンからの日本語放送が、ヒットラーユーゲントの歌声と共に流れた。
 書店から英語関係の本が消え、ヒトラーの「我が闘争・マイン・カンプフ」がベストセラーとなっていた。
 風雲急を告げる中、ハワイから帰国した日系アメリカ人二世が同級生や先生達の中にも何人かにいたことなどもあってか、英語にひどく魅せられ、英語という教科が大好きで、英語ばかり勉強していた。
 外国人が吹き込んだ英語の音声教材は、どこにも無く、井上十吉という日本人の吹き込んだ美しいイギリス英語のレコードが古書店にあり、私はそれを求めて、蓄音機で何度も何度も、聞き惚れながら聴いて、その英語を真似た。
 英語の教科書を家で大声で音読することもあった。すると、私は、非国民呼ばわりされた。
 開戦と同時に、敵を理解する為にと、優秀な人材を集めて、アメリカ国内に作った日本村に収容し、日本語漬けにし、あらゆる方言の日本語でも理解でき、どんなに崩された日本文字でも読める能力をつけたアメリカの施策と大きな違いである。
 文化人類学の分野でも、ルース・ベネデイクトという女性は、一度も日本に来たことが無いというのに、「菊と刀」という名著を著した。
 日本人とは、どんな民族なのかを分析し、後に、日本占領に役立ったということである。また、語学将校の中から、日本文学や日本文化を広く世界に紹介したサイデンステッカーやドナルド・キーンなどが育った。
 話はそれるが、捕虜になったらどうすればよいのかを教え込まれた米軍と違って、捕虜になることは想定できなかった日本軍の場合は、捕虜になると、いとも簡単に、軍の機密になることも、ぺらぺらと喋ったそうである。
 閑話休題。初戦は、破竹の勢いで東南アジアの国々を占領し、日の丸の小旗を打ち振って旗行列をしたり、提灯行列を行ったりして、戦勝気分に酔っていた。
 この頃は、東南アジアの国々からのニュース報道をラジオやニュース映画で見たり聞いたりして、美しい、のどかな南の国への憧れを抱いており、インドネシア語を囓ってみたりした。
 工廠構内でも、ハワイ帰りの灰田有紀彦が歌う「友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学校の街
 やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」という甘い歌声が聞かれた。「鈴懸の径」という歌だ。
 紀元二千六百年は、呉海軍練兵場に集まって盛大な祝典が催された。「紀元は二千六百年。あーあ。一億の胸は鳴る。」と歌った。
 戦局が芳しくなくなると、敗走を「転戦せり。」と大本営は発表した。
 私達中学生は、男手が不足している農村に動員され、農家に分宿して暗渠排水工事を厳寒期で凍結した田圃に素足で入り、雪が降る中、スコップやつるはしで深い溝掘りををした。
 食事は近くの小学校の講堂でした。稲刈りなどで農村を訪れたこともある。蒸かしたサツマイモを頂いたが、とても美味しかった。
 中学三年生からは、学校へは全く行かなくなり、呉海軍工廠へ動員された。しかし、警戒警報が発令されると、私達は、呉海軍工廠構内の奥まった所にある職場から駆け足で、私達の学校へと向かった。
 生徒は、学校防衛隊を組織していた。停泊している軍艦から上陸して遊郭で遊んでいた軍人だって同じことで、警戒警報のサイレンの音を聞くと、彼らは、何をしていようと、駆け足で自分の軍艦に駆けつけた。
 そんな時、父は、応召兵として第十五輸送艦に乗り組み、敗色濃い昭和二十年一月、奄美大島北方で、米潜水艦タグウッドにより撃沈され、戦死した。
 呉海軍工廠水雷部航海工場で、計器員として様々な軍艦の羅針儀調整・修理などの仕事に、学徒動員で携わっていた私は、父の最後の出航を、呉海軍基地で見送った。
 その日の朝、熱心な仏教徒だった父は、私を仏壇の前に座らせ、お経を挙げた後、私に遺言を書いた紙の入っている封筒を手渡し、
「この度の出航が私の最期になると思う。どうか母を大切にして欲しい。兄妹仲良くし、親に心配をかけないようにして欲しい。」と言った。
 玄関を出る時、父は私に、「呉海軍工廠まで一緒に行こう。」と言ったが、私は照れくさくて、父の申し出を断った。
 今にして思うと、父は、どんなにか寂しかったことだろう。申し訳ないことをした。その父は、白木の箱に爪と遺髪だけになって、私達の所へ帰ってきた。
 私は、草里町の家から、毎朝、未だ暗いうちに、徒歩で、呉海軍工廠構内の奥まった所にある私達の職場に通っていた。
 工場に着くと、白い作業服に着替え、その日その日の指示に従い、工場内でモーターのガバナ調整やメッキ作業などをしたり、小型の船で沖に停泊している様々な軍艦を訪れ、艦内の羅針儀室や艦内のあちこちにあるレピータのある所で仕事をした。
 時には、試運転で近海を航海する軍艦に同乗して、羅針儀の状態を調べることもあった。戦艦の時もあれば、巡洋艦の時もあり、航空母艦や駆逐艦、そして潜水艦の時もあった。
 航空母艦では、艦内が余りにも広く、大きくて、道に迷った。戦艦・大和のような巨艦になると、艦橋から艦底まで往復すると、息が切れた。
 潜水艦の場合は、潜行試験などでは、事故無く浮上できるのか不安に襲われた。同盟国として、時々、ドイツのUボートが寄港し、その艦内で仕事をすることもあった。
 沖に停泊中の軍艦の艦内にいて、米軍のグラマンの攻撃にあうこともあった。
 敵機来襲となると艦外に出るためのハッチやドアは固く閉じられ、被弾する音が聞こえても、どうしょうもない。敵機が去り、無事に艦外に出られた時には、ほっとしたものだ。  でも、仕事で軍艦を訪れると、乗組員達は、私達にカルピスをくれた。当時、甘い物に飢えていた私達には、とても嬉しいもてなしだった。
 食事時になると、軍艦内の食堂で乗組員達と同じ食事を頂く。食糧事情が悪かった時だが、軍隊内では違っていた。特に、海軍や空軍では、食糧事情が良かった。
 学徒動員の生徒達には、時々、饅頭などの甘い物が支給された。みんな大喜びだった。市民生活では、日に日に食糧や日用品は不足し、すべて配給制だった。
 不足する食糧は、母がタンスから取り出した衣料品をリュックサックに詰めて、私達母子は、山深い農村の知人宅を訪れて、米や芋に変えられた。
 終いには、食料と交換するための衣料が底をついた。みんな飢えていた。「欲しがりません。勝つまでは。」というスローガンがあちこちに貼られていた。
 やがて、グラマンの波状攻撃が始まり、工場で仕事をしていた時、近くの防空壕に避難していた私達は、日本軍との空中戦を見たり、撃墜されて落ちていく敵味方の飛行機を見たり、花火の破裂のような大きな音を立て、土煙を上げて地上を走る機銃掃射に震え上がったり、被弾した日本の軍艦から火柱が上がるのを見た。
 呉工廠大空襲の時は、分厚い鋼鉄で覆われた巨大な防空壕に避難していた女子挺身隊員達が、直撃弾を受け、全員が亡くなり、その棺桶が、私達の工場の近くに積み上げられ、工場前の広場で油をかけて何日もかかって焼かれた。
 広島に原爆が投下された時、私達は、近くの防空壕内で仕事をしていた。ピカッと青白い光で、何かがショートしたのかと、私達は、外に飛び出た。
 鼓膜が痛くなるような爆風を感じ、その方角を見ると、真っ赤な火柱が上がり、それは次第に色を変え、やがてむくむくとした白い雲となった。
 私達は、何処で、何が起こったのか、さっぱりわからず、貯油タンクかガスタンクか、それとも弾薬庫か何かが爆発したのではと思ったりした。
 何日かたって、広島に特殊爆弾が投下されたと報じられ、それからは、空襲警報でなく、警戒警報で、防空壕に避難するようになり、白い物を着ていると良いと伝えられた。  私の体験でも、あれは、まさしく「ピカドン」である。
 呉市大空襲で被災した私達は、広島市白島九軒町にある親戚を訪れ、広島は、空襲が無くて良いなあと言ったものだ。
 もう、その頃になると、呉軍港を出港する軍艦は、帰港しなくなり、険しい戦局が囁かれるようになった。
 アメリカの情報収集能力はとても優れており、日本軍の動向は、すべて筒抜けにわかっており、アメリカの潜水艦が待ち伏せしており、日本軍の艦船はすべて、撃沈された。
 停泊している軍艦は、樹木や草で覆われ、まるで島であるかのような偽装がなされた。木製の飛行機が並べられ敵の目を欺こうともした。飛ぶ飛行機がもう作れなくなっていたのだ。
 飛来するB29の編隊は、かなり上空を悠々と飛び、高射砲陣地から発射される弾丸は、B29の編隊の遙か下の方で炸裂していた。
 当時、こうしたアメリカ空軍の様々な機種のエンジン音を聴いて識別できるよう、それらのエンジン音を録音したレコードが作成されており、それを何度も何度も聴かされた。
 話が前後するが、呉市大空襲までに、毎晩のように空襲警報のサイレンが鳴り響き、私達は、空襲警報のサイレンに慣れっこになっていた。
 昭和二十年七月二日午前0時過ぎの大空襲の時も、空襲警報のサイレンで、いつものように、また、我が家へ帰れると軽い気持ちで、私達母子は、近くの防空壕に入った。
 非常用持ち出しの品物を肩掛け鞄に入れ、防空頭巾を被っていた。暫くすると、いつもと様子が違った。
 爆弾の爆発する音、夜空を焦がす炎と明かり。呉市に投下された焼夷弾は、親子爆弾で、投下途中にいくつもの焼夷弾に分かれ、着弾すると爆発し、焼夷弾の火を消そうとした人達が負傷した。
 私達の近所の人で親しくしていた男の人が、投下された焼夷弾を消そうとして、被爆し、胸を血に染めていた。
 防空壕の近くの家屋も被弾し火災が発生し、辺りは、火の海となっていた。
 このまま防空壕の中にいても危ないと思った私は、怯える母と妹を連れて、防空壕を思い切って出た。
 道の両側の家々も紅蓮の炎を上げており、猛烈に熱かった。途中、何度か防火水槽の水を頭からかけながら、ひたすら、私達親子は、山手に向かって逃げた。
 当時、資産家であったS氏の別荘前の広い通りは、巨大な火災によって生じる強風により、炎が走っていた。
 上空では、B29の爆撃が執拗に続いており、被弾する恐怖と炎に囲まれ焼かれる恐怖に怯えながらの逃避行であった。
 当時、呉港中学校があった丘の上辺りに辿り着き、私達は、燃え盛る炎の中に消されてい呉の街並みを、放心状態で見つめていた。
 気が付くと、周囲には、逃げ延びてきた人達が大勢いた。皆一様に、眼下に広がる火の海を、呆然と見つめていた。
 燃え上がる炎に照らされて人々の顔が暗闇に浮かんでいた。夜通し街は燃え続け、明け方になると、炎はいくらかおさまってきたが、未だ、あちらこちらで、炎が見えていた。
 私達は、我が家があった辺りに行ってみた。熱気で熱く、傍には寄れないほどだった。何もかもが焼き崩れており、灰がうずたかく積もっていた。
 不思議と、悲しみとか怒りの感情は湧かず、ひたすら、ただもう、無心に、我が家の焼け跡を見つめ続けていた。
 隣家の若い主が、幼子に、「○○ちゃん、この仇は、きっと取ってやるからな。」と言っていた。
 私達の家の辺りで焼失は止まっており、私達は、少し坂を上がった所にある父の知人宅に身を寄せ、そのご厚意に甘えて、敗戦まで、その家に滞在し、呉海軍工廠に通った。
 一面の焼け野原になった街を歩くと、かなり長い間、焦土の異様な匂いが鼻を突いた。
 工場では、次第に、防空壕での仕事が多くなった。徹夜で防空壕掘りをエアガン片手にしたこともあった。工場の一部は、防空壕内に移された。
 仕事始めに、私達は、要言という文章を唱和した。
   「我が工場はZ旗の戦場にして大和魂の道場なり
   故に我が勤労には厳として礼あり 粛として和あり
   御稜威(みいつ)のもと我が赤誠を帯して一発轟沈の弾丸となし
   百戦不沈の艦となさん。」
 私達学徒動員の生徒達は、当時の工専の学生で技術将校扱い(海軍将校の制服と制帽を身につけ、将校食堂で食事をしていた。)を受けていた人の指揮下にあり、
気持ちが弛んでいると、全員整列、脚を開け、歯を食い縛れと言われて、全員、拳骨で頬を叩かれたこともあった。
 概してこれら技術将校は、私達に対して、理解があり、親切だった。
 軍艦に使われている羅針儀は、アメリカ製が多く、その使用マニュアルや仕様書は、アメリカの原書で、すべて英語で書かれていた。
 Kという姓の技術将校は、仕事の合間に、その原書の輪読をさせてくれた。一方、技術力があり、経験豊かな徴用工達には、軽蔑されていた。
 団体で行進する時には、学徒動員の歌を歌った。
「 花も蕾の若桜 五尺の生命ひっさげて 国の大事に殉ずるは 我等学徒の面目ぞ ああ紅の血は燃ゆる。」
 そんなある日、私達は、工場前の広場に整列させられ、拡声器から流れる放送を聴いた。それは、天皇陛下の声であり、私達には、何を言っているのか、理解できなかった。
 技術将校が、「日本は、戦争に負けた。諸君は、これから家に帰ってよろしい。もう工場に来なくても良い。諸君は、自由である。」と言った。
 私達は、小躍りして職場を離れ、ゴリと言って恐れられていた守衛のいる門を通って、家路を急いだ。道中、銀行など要所要所には、剣付き銃を構えた海軍の兵隊が立っていた。
 私達は、仕事台の上にあったペンチや絶縁テープなどを持ち帰ったが、その後遅く徴用から解放された人達や軍人達は、トラックなどにどっさり積み込み、持ち帰ったという噂を耳にした。
 どうせ占領軍の物になるのだからと、罪意識は、誰も持たなかった。あちこちに分散保管されていた軍需物資は、うやむやになり、やがて、それらは闇市に並べられた。
 その頃、「闇屋」とか「ブローカー」が活躍した。実直な裁判官が闇物資を手に入れず、餓死したというニュースが、報じられた。いつの世にも、崇高な人はいるものである。
 敗戦の夜から、灯火管制は無くなり、黒い布で覆った電灯は、覆いが取り除かれ、家々から明るい灯りが辺りを照らしていた。怖かったB29の飛行音も聞かれなくなった。
 長い間、忘れていた、信じられないような幸せ感であった。でも、敗戦後、かなり長い間、私は、サイレンの音や空を飛ぶ航空機の音に怯えた。
 灰が峰頂上には、敵機を探査するための電探(電波探知機)が設置され、立ち入り禁止地域だったが、解除になった。
 呉軍港や工廠は、外部から見えないように遮蔽壁が張り巡らされ、呉線の列車の海側の窓は板が打ち付けられていた。
 それらは、敗戦後、撤去され、長い間軍事機密とされていた地域は、丸裸にされた。
 今でも私は、呉線を鉄道で通る時、呉港や海岸線や停泊している自衛隊の艦船が丸見えで、呉海軍工廠跡に自由に入れ、通行できることに、奇異な感じがする。
 敗戦を機に、価値観が百パーセント変貌を遂げる周囲の人間の器用さに、私は、付いていけなかった。人間が、信じられなくなった。
 呉市は、私にとって、ほろ苦い街である。ダグラス・マッカーサー元帥がコーンパイプを口にくわえて厚木飛行場に専用機から降り立った時から連合軍による日本全土の占領が始まり、ラジオが逐一、その様子を報じていた。
 それと共に「大男」(当時は、占領軍による犯罪を、このような表現で報じられた。)による住宅侵入、略奪、暴行が新聞などで報じられるようになった。
v  呉市に住んでいた私達も、占領軍による犯罪を恐れていた。男はすべて殺して、女はどこかへ連れて行かれて、暴行を受けるというような噂が流れた。
 占領軍に「ホルト! ホルト!」と三回言われたら立ち止まらなければならない。そうしないと、撃ち殺されると、回覧板で伝えられた。
 私達は、占領軍を恐れた。軍都・呉市から一日も早い脱出を私達は望んだ。
 焼け出された私達母子三人は、父の出征時に「万一のことがあったら、私達が、責任を持って後に残った者を預かるので、安心して戦地に行って欲しい。」と言ってくれた父の兄夫婦の家に転がり込んでいった。
 道中の列車の旅は、天井のない貨物車であり、米軍の爆撃を受けた国鉄は、未だ十分復旧しておらず、目的地まで行けるのか不安を抱えての旅であった。
 車窓からは、一面の焼け野原が展望された。勿論、駅舎も、焼けただれ、鉄骨はぐにゃりと曲がっていた。当時、鉄道を使っての移動は当局の許可書を必要とした。
 本格的な農業を営む彼らの家での、町育ちの私達の同居には、少なからず無理があった。
 母と妹は一足先に、母の実母の里である芦品郡新市町に移り、従兄弟の家に間借りした。
 その家の二階には従兄弟の子供達が住んでおり、私達はその一階部分の六畳の間で暮らした。
 私がおじ達の家から新市に向かった時、新市は河川の氾濫による水害に遭っていた。
 母が生活を始めるために揃えていた僅かな家財道具は、すべて泥だらけになっていた。軒下まで水に浸かっていたのだ。
 福山駅から出る福塩線も、途中で不通になっており、私は途中の駅の土間で一泊して、翌日、泥だらけの我が家に着いた。
 そして、私達の貧しいその日暮らしが始まった。そのうち、占領軍相手の商売に英語ができる私に手伝って欲しいと言われ、私は、英和・和英辞書を片手に、初めて耳にする本物の英語に触れた。
 いくら英語が好きであったとはいえ、中学二年生までしか学校で習っていない英語である。語彙は、話にならないほど少なかったし、英文法力も乏しかった。
 その上、GI「ジーアイ」(その頃、米兵のことを、このように呼んでいた。)の話すアメリカ英語は、俗語だらけで、聞き取りもできず、紙に書いて貰った。
 それでも、未だ、わからないことがあった。今では、中学生でも知っていることだが、彼らは、しきりに「ハーイ」と言う。
 日本語の返事の言葉を彼らは知っているのかと思った。でも、辻褄が合わないので、ある日、日系アメリカ兵に尋ねてみた。
 そして、やっと「やー。」と言う挨拶言葉だとわかった。
 「ハバ、ハバ」とか「サマ、サマ」とか「チチ・パンパン」など、どんなに調べても、当時の日本の辞書には出ていない言葉も、頻繁に耳にした。
 それにしても、彼ら占領軍の所持している物資の豊かさには驚いた。
 チョコレート、チューイングガム、濃度の濃い練乳、レーションと呼ばれていた米陸軍の携行食品の旨さ、匂いの良いアメリカの石鹸、そして、街を走るジープから流れ聞こえてくるアメリカ音楽や耳に心地よく響くアメリカ英語とガソリンの匂い。
 当時、日本の車は、木炭を焚いて走っていた。とても臭かった。
 私達が、つるはしやスコップで掘り、もっこや手押し車で土砂を運搬し、整地を行っていたのに、彼らは、ブルドーザで、あっという間に、やり遂げてしまう、機械化された現実を目の当たりにして、こんな彼らと戦った無謀さを、思い知らされた。
 呉市の近くに広という街があり、戦争中は、日本軍の飛行機を作っていたが、そこは、爆撃で跡形無く破壊され、「虹村」という米軍家族の村ができ、そこには、学校も作られた。
 柵の彼方は、まさに、アメリカであり、私達敗戦国の人間には、眩しかった。
 私は、その後、呉市にあった英連邦軍放送局でレコード仕分け作業に携わったり、福山市の大津野という所にあったオーストラリア軍将校食堂で勤めたりして、様々な英語に触れた。
 大津野のキャンプ(兵舎)には、スコットランド兵やターバンを巻いたインド兵もいた。バグパイプの演奏も耳にした。  廃墟の駅舎に、RTO(米陸軍鉄道運輸事務局)があり、米軍専用列車が運行しており、板製の硬い粗末な座席の日本人用の座席に対して、クッションの良い座席の美しい、綺麗な車両だった。
 彼ら米軍軍用貨物列車は、荷物を車両に積み込む時、荷物を停車している車両の所へ持って行って積み込むのではなくて、車両の方を荷物が置かれている所へ移動させて、積み込む。
 占領軍の特権であり、日本は、まぎれもなく占領されていることを実感させられた。  当時、日本の田舎町でも、米軍の民間情報局事務所があり、多くの場合、日系アメリカ兵が勤めており、情報収集と宣撫活動に携わっていた。
 ナトコの映写機が学校の講堂などに置かれ、アメリカを紹介したり、民主主義を定着する取り組みがなされた。
 都市には、アメリカ文化センターが設置され、英書に飢えていた私たちに、アメリカやイギリスの原書、雑誌、新聞などを貸し出してくれた。
 戦争中、敵国語として学習を禁じられていた英語であるため、英語を教える者が少なく、ある知人から、できたばかりの新制中学で英語の教員を募集している、
英語の教員にならないかと勧められ、昭和二十二年八月三十一日から、深安郡の新制中学の英語講師となった。
 私は、未だ、十七歳だった。当時の生徒には、お恥ずかしい限りの英語教員である。指導法などの知識は無く、文部省が作成した薄っぺらの、粗末な紙の教科書である。
 学びながら教えるというお粗末さ。情熱だけは、漲っていた。
 一般市民は、自転車が唯一の乗り物で、アメリカでは、各家に自動車があると、夢のようなアメリカ文化を、教科書を通じて生徒たちに語ったものだ。
 青年学校が併設されており、中学校は、小学校の校舎の一部を借りていた。
 用紙は、泉貨紙という極めて粗悪なもので、鉛筆の芯も消しゴムも石か砂が混じったような質の悪い製品で、文字を書いても、消しゴムで文字を消しても、紙が破れた。
 教員の多くは、カーキー色の軍服を着ており、軍靴を履いていた。生徒は素足に草履を履いており、ゴムと布でできた運動靴が、配給で与えられた。
 農繁期や村のお祭りの日は、学校は休みとなった。夏休みは、四十日間、ほとんど学校に行くことが無く、クラブ活動も、今のように、あれこれクラブが無く、バレーボールぐらいが、夏休み中に、のんびりと練習していた。
 教員も、この期間中、学校へ行くことはほとんど無かった。実に、のどかな時代であった。今よりも貧しかったが、豊かな時間が、ゆったりと流れていた。
 教員としての正式な資格を取得するために当時始まった大学の通信教育を受講開始。夏には、スクーリングといって、大学で講義を受けた。
 東京滞在中、連合軍総司令部がある宮城前に行ったことがあるが、総司令官ダグラス・マッカーサーがその建物に出入りする時は、すべての車両は交通ストップさせられ、彼の乗った高級車は、先導車と共に、ノンストップで全速力で走った。
 総司令部前に着くと、彼は、車から降り、大股で建物の中に入って行った。威厳に満ちており、とても格好が良かった。
 東京の街には、占領軍の物資が売られており、闇市が賑わっていた。多くの日本人は貧しかった。
 「赤いリンゴに唇寄せて 黙って見ている青い空 リンゴはなんにも言わないけれど
 リンゴの気持ちは良くわかる リンゴ可愛や 可愛や リンゴ」
 でも、どこか底抜けの明るさ、開放感があった。
                            2005.1.17.  終



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