「呉戦災の全てを体験した私の学徒時代」

                           佐藤 裕(さとう ゆたか)

1、呉軍港へ出入りする船

 開戦当時、私は、呉市片山小学校の中学年であった。男の子の将来の夢は、海軍兵学校 予科か陸軍幼年学校に合格することだった。
 学校の名称は、『国民学校』に改称され、鍛練方式の教育が導入され、授業では、鉄棒運動・兵式体操・ラジオ体操・マット運動・相撲・騎馬戦・棒上旗奪い…などや体力章検定種目の基本的なものが取り扱われていた。
 体育は、当時、「体操科」と呼ばれていたが、やがて、「体錬科」に名称変更された。
 徴兵制度のあった時代であるから、なにより『強健な身体作り』が重視された。水泳は、すべて臨海実習で私たちは、「狩留賀(かるが)」の海水浴場で遠泳を行った。
 体の弱かった私は、先生の勧めで、海洋少年団に入った。水泳は、呉海兵団の施設を使い「水兵の訓練用のプール」へいきなり二人の指導員(水兵)に放り込まれたのを覚えている。
 背の立たない深い紺碧のプールの中でもがき苦しみ、水面をみながらガボガボ水を飲み、必死で犬掻きで泳いだのを覚えている。
 この時、初めて背の立たない水の中で泳ぐことができるようになった。また、手旗信号の訓練やカッター訓練や甲板掃除やマストヘの登攀訓練なども行われた。
 訓練は苦しかったが、何より楽しかったのは、水交社にあった海軍の酒保=売店で自由に買い物できたことだった。
 当時は、キャラメルも手に入りにくかったが、海洋少年団の団員は、自由に水兵と同じようにお菓子が購人できることだった。
 夏休みには、呉からガソリンカーで狩留賀海水浴場まで行き水泳をしたが、途中、車窓は すべてシャッターを下ろし、呉軍港内が見れないように規制された。
 それでも、海水浴場で泳いでいると、沖合を戦艦や巡洋艦・駆逐艦・航空母艦・潜水艦など様々な艦船が通るのが見えた。それを眺めながら、艦種を当てっこして遊んだのを覚えている。
 印象に残っているのは、珊瑚海海戦の直後であったろうか…沖合を一隻の航空母艦がゆっくり呉軍港の方へ入ってきた。
 よくみると飛行甲板の後部が裂けてめくれ上がっていた。恐らく、敵の空爆を受け被弾したのであろう。
 修理のために帰還したのである。そうした光景をみるにつけ、次第に戦局が厳しくなって行く気配を子供心に感じ取っていた。

 中学校の一年生になると、勤労動員で呉海軍工廠の工場内の防空壕を掘る作業援助に行 った。もっこを担いでヨロヨロしながら土運びした。
 また、戦場から帰還してくる軍艦の塗装剥し作業の奉仕活動をした。黒ずんだ煤を落として新しくペンキ塗装をするのである。
 しかし、私たちが焼け焦げた塗装を剥がしている時、水兵から「君達の剥がしているのは、被弾して飛び散った人間の肉の焦げたものだ」と聞かされて慄然としたのも記憶に生々しく残っている。
 また、工場内を走る列車に乗ってドックのそばを通る時、窓を閉めるよう厳しく指示された。内緒でそっと隙間から見て驚いたのは、巨大な三本の砲塔と、横に膨れた船腹と、うねり上がった甲板に針鼠のように並ぶ機銃を装備している大戦艦であった。
 これが、私の見た『戦艦大和』の姿であった。後に、見覚えの特徴ある戦艦が静かに航行して出港する姿を見た。
 その姿をスケッチしたがスケッチブックは焼却してしまった。

 当時のことで印象に残っているのは、飛行機雲の紹介記事である。

『飛行機雲』
 当時、B29爆撃機が開発され、日本の軍需工場や市街地は大型爆弾や焼夷弾による重爆撃を受けていた。
 大型化した爆撃機は、大量の爆弾を搭載することができ、4発のエンジンで高高度(1万メートル以上)を飛行し、スピードも航続距離も一段と進歩していた。
飛行雲を引いて飛ぶB29は、『空飛ぶ要塞』といわれていた。地上からの高射砲の弾も届かず、撃墜するには、戦闘機で酸素マスクを付けて高高度まで舞い上がり攻撃するしかなかった。
 この記事は、日本の戦闘機の訓練中に出た飛行機雲を撮影したものである。
 呉や広の爆撃時にも、広島原爆投下のおりにも空には飛行機雲がかかっていた。


2、第二次世界大戦末期の呉

 日本本土の空襲が激しくなった頃、まだ、呉市は健在であった。恐らく、日本で最も防 衛の強化されていた都市であったためだと思う。
 ミッドウェー海戦当時、叔父は、航空母艦『加賀』の航海長であった。その叔父が、私たちに言った言葉が記憶に残っている。
 それは、出撃の時、『呉は最も防備の堅い町だから、大丈夫だよ。もし、呉が爆撃を受けるようになったら日本は戦争に負けるよ』と言った言葉である。
 それから後に、私たちは、「強制疎開』という事態に直面した。私の居住していた町は 『浜田町』と言う町であった。
 呉駅から真っ直ぐに「今西通り」という真っ直ぐな幹線道路が走り、その東側に「浜田町」があり、突き当たりは、「セーラー万年筆の工場」があった。  ほぼ呉市の中央に位置していた町である。米軍の日本本土への焼夷攻撃が始まった頃、類焼を防ぐための空き地を作るために、軍が住民に強制的に疎開を命令した。

 (閑話休題…挿入体験記1) 強制建物疎開に消えた濱田町

 B29の焼夷弾爆撃に備え、強制的に建物疎開をさせられたのは、昭和19年〜20年のことであった。私が中学校へ入学した時は、浜田町から黒い風呂敷の鞄や柔道着や剣道具を持って三津田の丘にあった呉一中に通っていたから、終戦の年か、その前年であったと思う。
 夢中で緊急疎開したので、何故か、この時期の事が克明な記憶として残っていない。
 記憶に残っている話では、軍の戦車が来て、ワイヤーロープで引っ張って家を壊すのだと言う事であった。
 浜田町の家は、私が生まれ、『ルンビニ幼稚園』に通った幼少時の思い出、自動車の後を追いかけて、「片山小学校」へ通った少年期の思い出。
 呉で博覧会が開催された時、家に従兄弟や祖父や伯父が来て泊まった思い出、大演習の時、路上で陸戦隊の兵士が軽機関銃を打ち、戦車が走った光景など思い出の詰まった場所であった。
 その家が無残に倒される光景は観たくもなかった。したがって、三津田町に疎開してからは一度もこの場所に行った事はなかった。
 しかし、疎開して住所を変わったために、焼夷弾による焼失を免れた。いや、実際に呉 市が焼夷弾の爆撃を受けた時には、疎開先の三津田の家も焼失していた筈であった。
 焼け残ったのは、親子爆弾のうち、小型の油脂焼夷弾(八角の筒に爆薬の入った小型爆弾)が町内に数発落下したのを隣保班の大人達が必死で消し止めた事と、小型焼夷弾が風に流され、投下数が少なかった事によるものだった。事実、走って五分程度の場所にあった呉第一中学校は焼失した。
 隣焼を防ぐために強制疎開させられたが、実際に爆撃を受けたら、さっぱり役にたたな かったというのが実情であった。
 戦後、呉市で同窓会があり、すっかり様変わりした街を見て驚いた。思い出の浜田町も、どの辺りか見当が付かなかった。三津田町の家の町並みはそのままで、私の借家していた家も石垣など昔の面影を残していた。
 消えた浜田町の思い出や記憶をたどって描いてみたのが資料の私の記憶図である。どん な人達が住んでいたのか記憶を辿って再生してみた。
   『浜田町記憶図』

 生き残っている人達の記憶を辿れぱ、完壁な町内図ができるであろうが、名字や町の漢字、位置関係、遣路の細かい図、などには多少記憶違いがあるかもしれない。
 戦災で人々が離散した現在では、そこに住んでいた人がどこに生きているのか探す術すら無い。
 ただ戦後、連絡の取れた人に、呉市の名誉市民となられた岡田善雄(阪大名誉教授)勅くあった。家が近所であったため、海兵受験のしかたや参考書をお借りした事もあった。
 私の脳裏にはこうした地図が残っている。

                    (閑話休題…挿入体験記1)終わり

 私たちは、あちこち借家を探し、三津田町に疎開することになった。そこは、小高い丘 になっていて、庭から佐久間艇長の記念碑のあるお宮と両城地区の見渡せる場所で、細い 石段伝いの紆余曲折した坂道の上にあった。
 当時、私は、呉第一中学校の1年生であった。中学校までは、家から坂道を駆け降りると、5分間くらいで正門に到着するくらいの距離であった。
 当時は、既に食料難の時代に突入しており、わずかな庭に芋や鶏頭や南瓜を植え、野菜 の代わりにしていた。
 サツマ芋や南瓜はもちろんのこと、芋蔓の茎や鶏頭の葉を食ぺた。南瓜の茎は、表面の皮を剥いて茹でて食べた。
 配給されるペッシャンコに潰れた家畜用飼料の大豆は、わずかの米に混ぜ、麦の代わりにした。勉強していると、夜の11時ごろ、玄関でドサッという音と共に、親父が戦闘帽をかぶって汗びっしょりになって息をついて帰ってきた。
 リュックサックにはサツマ芋がいっぱい詰まっていた。農家に行き買ってきたのである。その芋は、蒸して塩や醤油を掛け、お茶漬けにして主食にした。
 「おやつ」など全く手にはいることは無い。それでも、ご近所の息子さん(航空隊)が帰って来た時には、航空兵用のキャラメルや葡萄糖のお菓子の裾分けを頂戴した。
「欲しがりません、勝までは…」と言う標語の掲げられた時代である。

3、初めての空襲体験

 それは、たしか、3月19日であった。呉軍港が初めての空襲を受けた。
 当時、私たちは広にある11航空廠に学徒動員されていた。
 汽車通学で、家から呉駅に到着した時、最初の艦載機の空襲に直面した。

  (閑話休題…挿入体験記2) 学徒動員の際利用した交通機関

 これは、戦時中の呉線の時間表である。当時は、蒸気機関車が走っていた。
   『呉線の時間表』

 向洋・広島方面へは、ガソリンカー(ジーゼルエンジン)も走っていたのが記憶に残っている。
 中学校の頃の定期入れに入っていたから、学徒動員中、11空廠への通勤に使用したものである。

  戦時中の通勤用国鉄の定期 『国鉄の定期』

 汽車通学のおりに使用した定期。学徒用に発行されたもので、裏面には広工廠の認め印がおされている。

  戦時中の通勤用呉市電の定期   『市電の定期』

    電車通学のおりに使用した定期。西本通六丁目は、二河川を渡つた三津田(地名)にあった電車駅。交差点は、広の交差点にあった駅名である。


    工員電車通勤者章 『通勤者章』

    学徒用に発行されたもの。所属は『造機部機械工場』となっており、裏面には第11海軍航空廠報国団となっている。(報国隊という言い方もあった)

   身分証明書 『身分証明書』

    学徒動員令が発布されると、市内の中学生は呉海軍工廠と広工廠へ勤労奉仕作業に動員された。
 これは、入廠証明書である。広工廠では、実際に武器生産活動に従事した。

                     (閑話休題…挿入体験記2)終わり

 3月19日の呉軍港の空襲

 私は、友達と一緒に呉駅の構内にある荷物倉庫に逃げ込んだ。菰に包まれた荷物の間から生まれて初めての戦争の実態を目にした。
 高角砲と機関銃の炸裂音が沸き立つ中、灰が峰の稜線から蚊が沸き立つよつに呉湾に向かってメリカの艦載機が急降下して来た。
 見る見る青空は、高射砲の炸裂する赤・黄・茶・白・黒色の煙に覆われ、絵の具をぶっつけたようになった。胸を揺するような炸裂音はすざまじいものだった。
 「灰が峰の稜線」も「石槌山の稜線」も瞬時にして真っ赤になり、対空砲火の激しさを初めて眼にした。
 弾幕の色が変わっていたのは、恐らく、どこの高射砲陣地のものが敵機に命中したかの識別をするためであったろう。
 その弾幕を潜って一直線に艦載機が突っ込んでいく。中には、直撃弾を受けて木っ端微塵になる飛行機もあった。
 翼がきりきり舞いながら落ちていく、粉々になるのもいるが…なかなか当たらないものである。

 やがて静かになった時、私たちは倉庫を飛び出した。家に帰るしかない、。しかし、やがて第2回の空襲がある筈である。一目散に走って帰宅した。
 予想通り、敵機はやってきた。今度は、自宅の縁の下に掘ってある防空壕へ母親と避難した。家の庭からは、呉湾が一望に見渡せた。
 第1回の攻撃で呉湾に停泊している艦船に被害が出ているようだった。再び激しい対空砲火の轟音が上空に鳴り響いた。
 防空壕から首を出して、湾の様子を見た。家の屋根すれすれに艦載機が次々に通過していく。
 上空で炸裂する対空砲火の破片と、急降下しながら敵機から射撃する機銃が一緒になって、パシパシ音を立てて屋根に落ちてくる。
 艦載機が真っ直ぐ停泊している艦船に突入する。真っ白い水柱が艦船を包む。水柱が消えた後には、傾いた艦船の姿だけが残っている。
 ふと頭をよぎったのは、開戦当初の日本軍の真珠湾攻撃の様子である。それと全く同じ光景が、今、自分の前で展開されているのである。
 ふと、頭に浮かぶのは、「呉が空襲を受けるようになったら日本は負ける」と言い残した叔父の言葉だった。
 数回にわたる空襲で、呉湾に停泊していた艦船は壊滅的な打撃を受けたことは一目瞭然であった。

4、2回目の空爆体験

 広の11空廠に通い始めて生まれて初めて、1トン爆弾の絨毯爆撃を受けることになった。そして、この時、一緒に通勤した学友、相馬君を失った。
 この頃、私たちは、鋳物に青写真を見ながら烏口を使って加工する「芯出し」する作業を行っていた。通常、これは厚い常磐といわれる鉄板の上で行っていた。
 当時は、B29が飛行機雲を引いて単機で上空を偵察飛行するのは慣れっこになっていたので余り気にしていなかった。
 しかし、この日は、警戒警報に引き続き、すぐ空襲警報のサイレンが鳴るという異常な 事態であった。
 何時もは、厚い鋼鉄の常磐の下に掘られた防空壕に避難していたが、この日に限って何か嫌な予感がした。
 友達と顔を見合わせると、二人は一気に工場の道を隔てた地下工場へまっしぐらに走った。そして、工場の鉄の扉にたどり着いた時、最初の爆発音を耳にした。
 逃げ込んだ工場は、堅い岩盤の山をくり抜いて横穴を掘った工場であった。
分厚い鉄の扉は固く閉じられ、外で炸裂する爆弾と高角砲の射撃音が岩穴に響いた。
 穴の中は轟々と音を立てて唸り、岩の破片が爆弾が落ちるたびにボロボロ落ちてきた。
 腹の底を揺するような爆風に、思わず口を開け、目を押さえて小さくしゃがみ込むしかなかった。爆風が人ってくるたびに、内臓が外にはみ出てくるような振動を受ける。
 生きた心地がしない。そのうち、工場の電灯が消え、闇の中で轟音と落石と爆風と戦うことになった。
 女子挺身隊の女学生が悲鳴を上げ、防空頭巾を被った身を寄せてくる。気を取り直して、暗闇の中で「大丈夫!」…と思わず叫んだ。
 何時間も激闘した感じがした。やがて静まり返った世界になった時、明りを頼りに、恐る恐る外に出た。
 驚いたことに分厚い鉄板の扉はひんまがり、大きな口を開いていた。それを潜って外の光景を見た時、唖然としてしまった。
 倒壊した工場に白煙が立ち登り、その向こうに全く見えなかった海が見える。
 そして、隣の組み立て工場にあった組み立てられたばかりの飛行機は吹き飛んで残骸だけを残していた。
 工場内に入ってみると、何時も逃げ込んでいた鋼鉄の常磐は、真っ二つに割れ、あちこちに大きなクレーターが口を開けていた。
 物凄い爆撃である。もし、この中に逃げ込んでいたら…と思うとゾッとした。散り散りになった学友があちこちから現場に帰ってきた。
 皆、緊張のため顔色が変わっている。人員点呼が始まったが人数が揃わない。
 皆で探す。…数名がどうやら防空壕に至近弾を受け爆死していると言う情報が入った。
 その中に親友の相馬君がいた。
 先生の指示で、取り敢えず三人の学友が相馬君の自宅へ行き、彼が今日の爆撃で亡くなったことをお母さんに報告した。
 「今朝は、皆さんと一緒に元気に出て行ったのに…」と絶旬されたお母さんの姿が脳裏に刻み込まれている。
 そして「皆さんは無事でよかったですネ」と言われた言葉が胸に刺さった。心に残る思い出である。

5、焼夷弾爆撃を受ける頃

 昭和20年呉市が焼夷攻撃を受ける頃、戦局は末期的症状を呈していた。艦載機が初めて呉湾を攻撃してきたのは、3月19日である。
 記録によれば、艦載機約350機が数回にわたり一定間隔で飛来し爆撃を行った。続いて、5月5日には、B29約120機が広の第11空廠を絨毯爆撃した。
 私の父親は、当時、呉第一県女の教師だったので女子挺身隊の引率教師として呉工廠へ 通つていた。
 私は、広の空廠に学徒動員されていたので、毎朝の朝食が別れの水杯同様の生活であった。
 6月22日には、B29約180機が呉工廠を目標に猛爆撃を行った。
 既に、広11空廠で爆撃を受けた体験をしていた私は、呉工廠内の現状がどのようになっているか…想像することができた。
 そして、恐らく父は今回の爆撃で、生徒と共に生きて帰っては来ないだろうと覚悟していた。帰宅して、呉工廠から立ち昇る爆撃後の白煙を空しい思いで眺めていた。
 しかし、幸いなことに、父は生きて帰ってきたのでほっとした。
 この3回の空襲で私たちは、戦争の悲惨な現実を直視することができた。毎日、夜にな ると電気に黒布がかぶせられ、わずかな照明を頼りに生活する暗闇の日々の連続である。
 空襲に備えて、貴重品を入れた鞄・戦闘帽・防空頭巾・ゲートル・水筒を枕元に置き、空襲警報が鳴ったら何時でも退避できる態勢を整えて就寝した。
 少年の読み物雑誌は、この頃は配給制度で、早く申し込んで置かなければ手に入らなか った。
 軍事一色になった頃であるから、『若桜』(陸軍進学向けの受験雑誌)と『海軍』(海軍進学向け受験雑誌)があったが、全国が艦載機の爆撃範囲になってからは、こうした雑誌も手に入らなくなっていた。
   『若桜』   『海軍』
 軍関係の受験も空襲のため試験ができなくなっていたから、各中学校へ受験人数が割振りされ、各学校での成績順位と面接試験だけになっていた。
 呉一中の場合は、海軍兵学校予科は60人の枠があったので、海兵希望の生徒は校内順位60番以内に入ることを目標に猛勉強をしたことが記憶に残っている。

  (閑話休題…挿入体験記3) 戦時中の中学生の進路

 当時の教育制度は、中学校を卒業すると、高等学校進学(…帝国大学または私立大学)、あるいは専門学校へ進学するのが一般的であったが、  軍関係の諸学校は、別の教育制度があった。これを示したのが資料である。これは、『海軍』7月号に掲載された軍関係諸学校の教育制度である。
   『軍関係諸学校の教育制度』   『軍関係諸学校の教育制度』

 昭和19年当時は、広島の陸軍幼年学校へは、中学1年生で受験した。海軍兵学校は中学4〜5年生から受験したが、終戦直前には、海軍兵学校予科が2年
 とくに、軍関係諸学校においては、『体格検査・学力試験・体カテスト』が重視された。したがって、病弱な者は、軍関係の学校を敬遠して高等学校や専門学校を受験した。
 しかし、大学進学を果たした学生も、戦争末期には、学徒出陣兵とし戦場に赴くことになった。
 呉市は、軍都であったため、親が軍関係の子が多く、多くの中学生は、陸軍や海軍の軍人になることを希望していたようだ。
 呉第一中学校の場合は、江田島の海軍兵学校や広島の陸軍幼年学校や陸軍士官学校希望者が多かったが、飛行予科練習生(予科練)希望者も多かった。
 この資料は、雑誌[若桜』2月号の巻末ぺ一ジである。昭和14年10月14日第三種郵便物認可となっている。ここには、品不足のため、一冊を回し読みするよう書かれている。
 また、雑誌・書籍の直接販売を中止するとも書かれている。こうした中で、朝鮮・台湾・樺太・満洲・支那においては現地組合の公認販売を認めている。
 とくに、このぺ一ジには、陸軍の諸学校が記載され、中学生の受験入校を勧誘している。大量の兵士を失い、後続兵士として中学生を用意することが考えられていたことを示す。 雑誌購入金額は、○許で50銭となっている。
 雑誌[海軍』新年号は、昭和19年6月16目第三種郵便物許可となっており、同様の趣旨が書かれている。
 巻頭のグラフには、特別攻撃隊(敷島隊)の戦闘機が離陸し、帽子を振って見送る出撃風景の写真が掲載されており、特別記事として、山岡荘八の『神風特別攻撃隊敷島隊』が掲載されている。
 ここには、スルアン島の東方沖のアメリカ機動部隊に特攻機が突入し、航空母艦1隻沈没、1隻炎上、巡洋艦1隻轟沈と書かれている。

                  (閑話休題…挿入体験記3)終わり

 広が空爆を受けてからは、兵器関係の資材はすっかり来なくなった。そのうち、円筒形 の資材を一定の長さに切断する仕事が入った。
 その後、ブリキの筒と木製の蓋を作る作業が入ってきた。当時は、飛行機の機体の一部にベニヤ板が使用されていたので、どこの部品なのか皆半信半疑で作業していた。
 技術主任から聞いた語では、『簡易迫撃砲』の部品らしい。米軍が本土上陸をして来た時に、簡易迫撃砲を使うのだと言う。
 鉄製の円筒は、迫撃砲の筒。ブリキ円筒と木製の蓋は中に火薬を詰めて砲弾にするらしい。信管は金槌で叩いて発射させると言う。
 この語を聞いた時、もう日本は戦争に負けると直感した。
 猛烈な艦砲射撃を受け、砲弾の炸裂音が鳴り響き、敵の上陸用舟艇が波を蹴立てて突進 してくる。それに向かって簡易迫撃砲を打つ姿を想像するのは余りにも惨めな光景であっ た。
 その時は、肉弾特攻攻撃の覚悟をするしかない。どうせ生きてはおれないだろうから…。当時の中学生は、そうした戦時教育を受け、報国隊として社会的に位置づけられていたように思う。
 そして、やがて呉市は、7月1日未明に焼夷弾爆撃を受けた。

6、焼け野が原の呉

 空襲警報が鳴って母親に起こされた。朦朧として縁端でゲートルを巻いていたら突然、 ザァッという雨の降るような音がした。
 そして向かいの山裾に提灯行列のような灯が暗闇の中に浮き上がった。最初は、何のことか分からなかった。
 灯火管制の中で明りを点して…と思った。その時、母が『爆撃よ、早く用意して、皆逃げましよう』と叫んだ。咄嵯に、焼夷攻撃だと思った。
 私は逃げかけたが、物象の教科書と数学の教科書をそのまま机に置いていたのに気づき、慌てて部屋に引き返した。
 そのうち、再びザ…ツという音が降ってきた。『何をグズグズしているの!早く!』という母親の叫び声を聞いた。
 石段を降りるとその下には町内の横穴式防空壕がある。私は急いで階段を駆け下りたが、その時、既に上空ではパチパチ音がして、炸裂した油脂焼夷弾が燃えながら上空から降ってきていた。
 外は、探照灯の光と、高角砲の炸裂音と、爆弾の炸裂音が混じりあって轟々と唸っている。
 防空壕の中には、老人や親子連れの母親でぎっしり詰まっていた。親父は、家に残っているが、どうなっているだろう。気に掛けながら暗い壕の中で案じていた。
 炸裂音と共に壕の入り口が赤く燃えている。気の弱い母親が悲鳴を上げる。気丈夫な老婆が『泣くぐらいだったら、南無阿弥陀仏でも唱えときナ!』と叫んだ。
 幸いなことに三津田地区は焼夷弾が風に流されたため、数発落ちてきたが、男達によって消火したらしい。
 重苦しい恐怖の時間が経過し、轟々音が響く中、私は自宅に帰った。幸い、隣保の親父たちは皆健在であった。
 その頃、呉の町は真っ赤な炎に覆われ、天を紅色に焦がしていた。私は、縁端に座って呆然とその光景に見入っていた。
 すり鉢の底のような市街地は炎が渦巻き、轟々と燃え盛っていた。一体、町はどうなっているのだろう…想像がっかなかった。

 呉の焼夷弾爆撃は、一般市民を巻き込んだ戦略爆撃であった。最初に焼夷弾が投下され たのは、宮原・警固屋方面。それから三津田・両城方面。そして広町に通じる呉越峠に投下された。
 これで逃げ道を全部塞がれたことになる。その後、中央市街地に焼夷弾を集中的に投下したらしい。
 横穴式防空壕は、火災の際に煙突の役割を果たしたようで、ここに退避した市民が大量に犠牲となった。火は一週間燻ぶるり続けた。
 あちこち、煙が立ち上ぼり、呉の町は完全に焼け野が原になっていた。焼け焦げた水道から滴り落ちる水と焼け焦げた匂いが漂う。
 わずかな食料を土の中に埋め保存した物を掘り出している人もあった。
 被災後、トラックで海軍の兵隊たちが握り飯を配ってくれた。米と大豆が半々の大きな握り飯であったが、その時の味は忘れられない。
 漢文・国語の岡田先生は、大変な勉強家であったが、先生の蔵書は一週間燃え続けたと聞いた。先生は落胆され放心状態だったと聞く。
 呉一中は焼失したが、同じ三津田町の私の住家は、風に流されて焼け残った。
 この恐怖感は、一般市民に心理的ストレスをもたらした。焼夷攻撃をした後に、米軍は 飛行機からビラを撒いた。
 憲兵が諜報活動を厳しく取り締まる中、ビラの中身は口伝えで市民の耳に入った。上空を偵察した結果、焼け残っている部分が航空写真で判明しているらしく、ビラには、『トラ刈りになっているので、今度は、丸狩りにして上げます』と書いてあったと言う。
 それからは、焼け残った町内の市民は、警戒警報が鳴る度に山腹に退避する行動が日課になった。

7、敗戦末期の呉

 当時、既に日本海軍の艦艇は重油が不足し、動くことができない状況であった。呉軍港 の島々に停泊している艦艇は陸地のように偽装し、松の木を植えていた。
 上から見ると、偽装に使った木が枯れてくるのがよくわかった。人の噂では、米軍機が『木が枯れたようなので、そろそろ植代えたらどうか』というビラを撒いたと言う。
 空爆後は、動員学徒たちは疎開し場所を変えるため、荷物の運搬や工場で細々とした生産活動を行っていた。
 しかし、米軍は、この残存施設や係留されて動けない航空母艦・戦艦・巡洋艦などを目標にして徹底した空爆を繰り返してきた。
 これが、7月24日と28日二回の空襲であった。24日は艦載機約870機の空襲、28日は、艦載機約950機・B29とB24爆撃機約110機の爆撃を受け、呉軍港施設と艦船のほとんどが壊滅状態になった。
 その頃、敵の艦載機は、通勤している市民や学徒にも無差別に攻撃してきた。同僚の中には、無掩蓋の防空壕に逃げ込んだが、そのすぐ側を急降下して来た艦載機の機銃掃射の弾が打ち込まれて来たと言う。
 B29と艦載機に追いまくられる日々が続いた。
 8月6日、工場内に紫色の閃光が走り、耳を押し込むような爆風を感じた。慌てて機械のスイッチを切り、同僚と横穴に退避した。
 何事もないので外に出てみたら広島方面の山の稜線から土色の雲が沸き立っていた。一瞬、瀬野の火薬庫が爆発したのだろうと思った。
 帰宅を命じられ、呉駅に到着した時、晴れ渡った紺碧の空に、真っ白い巨大な茸雲をみた。
 笠の上はピンク色に輝きモクモクと広がっていた。初めてみた原爆雲であった。

8、終戦の時……一学徒の記録…

 ああ、この日(8月15日)、歴史的な敗戦を迎える。我々学徒は、勝利を信じて血みどろの生産活動に従事し続けて来た。
 正午に、重大ニュースがあるとの連絡があったので電車を下りてラジオを聞いた。悲憤の籠った特徴のある抑揚の玉音を耳にし、戦いに敗れた無念の気持ちが湧き上がった。
 その日、工場の能率カーブは愕然として落ち込んだ。今まで頑張ってきたが、申し訳ない気持ちでいっぱいである。
 今日、出撃される特別攻撃隊の人もおられるであろう。将兵の心中を察すると絶句せざるを得ない。
 この日、既に陸軍大臣は責任をとって割腹自殺された。最後まで決戦を要請しての自殺である。天皇陛下の心痛はいかばかりであろうか。
 皇国3000年の歴史はここで一幕下ろした。
 学徒動員の指導員である井原中隊長・青野・西村小隊長は、我々に、「これからは、お前達が日本を再建する力にならなけれぱならない」と言われた。(日記より)
 8月16日。日本軍の戦闘機が呉上空に飛来した。新鋭の戦闘機「ゼロ戦」や「月光」や「彗星」それに旧式の戦闘機も混じっていた。
 数機が我々の頭上を低空で爆音をとどろかながら飛び回る。思わず、空を見上げると、パッと真っ白いビラが薔薇の花びらが散るようにヒラヒラと舞い降りてきた。
 ビラを拾い上げて見たら、次のように書かれていた。

1 赤鬼に惑わされた侍従どもは、天皇をお騙し申して、天皇が詔書を出されるに至った。
2 わが天皇は、絶対的の御方なり。
3 わが海軍航空部隊に、必勝の堅心あり。
4 天皇皇軍に、絶対降伏無し。
5 ポツダム条約を受け入れるは、大和民族消滅を招くものなり。
6 ポツダム条約を受け入れば、戦争当時の苦痛より、百倍千倍の苦痛あること火をみるより明らかなり。
                      海軍航空隊司令
注)
 終戦直後の世相の混乱を示している。とくに、軍部の中では、「本土決戦」を主張する 派と「ポツダム宣言受入れ」派との間に対立軋轢葛藤があり、第二次世界大戦の終結を巡 って様々な情報が軍都呉を駆け巡った。

9、終戦直後の呉……進駐軍のサーバントに動員された中学生……

 人間の記憶の曖昧さを補うために資料を確認すると、呉に、進駐軍が進駐して来たのは 昭和20年(1945)10月6日となっている。
 この日、アメリカ占領軍の輸送船団約30隻が広湾に入港し、翌日19500人の米軍が上陸している。
 そして昭和21年(1946)2月13日に第34オーストラリア歩兵旅団など英連邦軍の主力部隊が呉に到着している。
 この時私は呉第一中学校の2年生だった。
 当時は、呉一中は焼夷攻撃で校舎を失い、呉から広へ通じる俗称「呉越え峠」の上にあった呉工業学校へ仮住まいして授業が再開されていた。
 学級担任から、進駐軍が中学生にキャンバス内の労務奉仕の協力を求めてきたという話があり、希望者は申し出るように言われた。皆、戦勝国の米軍の使用人になることにはいささか抵抗を示した。
 近所に、英語の先生がおられたので応募してよいものかどうか相談したら、会話の勉強にはなるだろうから行っても無駄ではないだろうと言われた。
 私の記憶では、20名数名くらいはいただろう。各中学校から動員された生徒は海軍の鎭守府内の広場に集められ、米軍の兵隊の指示に従って担当場所に割り当てられた。
 大部分の生徒は、一般兵卒の食堂の皿洗いの仕事になった。運よく、私たち数名は、昔の高官宿舎へ配属された。
 呉進駐軍(米軍)基地への通行証明書 『通行証明書』
 その高級官舎には一軒に4名の大佐クラスの高官が入居していた。連絡員の伍長の兵士と、通訳の兵士が配属されていた。
 日本間の畳の上を土足で歩く外国文化には違和感を感じたが、彼等の生活からすれぱ畳は絨毯と同じ感覚であったろう。
 私の任務は、将校のベットの清掃と毛布の取替え作業、バスを沸かし、洗濯すること、将校の帰宅までの住居管理であった。
 諸連絡は通訳を通じて行うので心配はなかったが、朝将校を送り出してからタ方までは、言語の通じない伍長とお互いの意思を伝えるのに苦労した。
 会語テキストを片手に、身振り手振りの応戦。最後は紙に横文字を書きながらの実践会話特訓となった。
   『高官宿舎で大佐直属の軍曹Whiteが私に示したメモとサイン』

 お互いに言語の通じ合わない者同士なので、彼は、私に、「君は英語が書けるか?…」とメモを渡してくれた。片言の言語を使いながら、二人の筆談が始まった。
 戦時中、英語は敵国語だと言って、時間数を減し、外国人教師まで追放した。会話能力が不足していたのもこうした国策が影響した。しかし、よい実践勉強になった。
 シーツ洗濯は、盥の中で脚踏み。日本の五衛門風呂の焚方と入浴方法を教えるのには苦労した。
 なにしろ、風呂の浮き板を片脚で沈めてその上に体をのせて入浴する技術は、文化が違う彼等には無理である。実際に実演して入浴方法を教えるのに苦労した。
 また、大きなセパード犬に馴れるのにも苦労した。寝具の清掃方法は伍長が教えてくれた。この時、驚いたのは既に彼等は虫除けのスプレーを持っていたことである。
 また、昼食とタ食には二つの缶詰と煙草が配給された。煙草は「ラッキーストライク」「キャメル」「チェスタ一フィルド」だった。
 一つの缶詰にはコンビーフがぎっしり詰まっており、もう一つの缶詰には、キャンディー・インスタントコーヒー・レモンチョコレートなどの糖源がぎっしりと詰まっていた。
 この時・初めて彼等の『戦場での常備食の内容』を知った。孤立した戦場で、ジャングルを這いまわり、木の根・草の根・野鼠や蛇、皮バンドを食べて戦った日本の兵隊と比較すると、体力的にも摂取カロリーは格段の差がある。
 食生活でも日本は米軍に負けたのである。
 今一つ驚いたことがある。進駐軍の高級官舎には電気冷蔵庫が持ち込まれていた。
 通訳は、冷蔵庫を開いて中を見せてくれた。上段には、分厚いチョコレートとキャンディーがぎっしり詰まっており、下の段には、冷凍された鳥脚(チキン)がぎっしり詰まっている。
 氷を入れた冷蔵庫は、当時の日本でも生活水準の高い家庭にしかなかったものである。 通訳は、驚く私の顔を見てニッコリ笑いながら…ベッドの片付けや洗濯がすんだら、欲 しい時には何時でも冷蔵庫の中のチョコレートを食べてもいいよ…と言った。
 兵卒の食堂の皿洗いに配置された連中が用事で来た時、目を丸くして驚いた。連中が一本チョコレートを失敬した時、通訳に見つかった。しかし、通訳は笑顔でOKといって見逃してくれた。
 1週間ばかりの奉仕作業であったが、思い出に残ることがあった。将校の一人が帰ってきてから通訳が私を呼びに来た。Duck大佐の部屋は洋室だった。
 彼は私に姓名・学校名・学年を尋ね、年齢を尋ねた。そして、静かに頷くと…自分の息子と同じ年齢だと言って私をしげしげと見つめた。その翌日、再び私を呼んだ。
 その後、私(ユタカ)をユタコと呼んで、声を掛け、数学はどんなことを勉強しているのか?…と質問するので、2次関数まで習っていると答えたら、明日から数学を教えてやるといって洋室で数学を教えてくれ、課外学習が始まった。
 言葉が十分通じないので不安に思ったが…心配はなかった。彼が問題用紙に問題を書き、私に渡す。私が解答して彼に渡す。
 もし間違っていたら、彼が数式を書きながら私の側で説明しながら解方の手順を示してくれる。お互いに納得したら握手する。
 このコミュニケーションは、私に数字は万国共通の記号で、理解し合う言語であることを認識させてくれた。
 私は、終戦後、家の都合で、3年生から、両親と郷里に帰り、福山誠之館中学へ転校した。二人の関係はその後途絶えていた。その後、彼の住所へ手紙を出したが、住所不定で返送されてきた。
 別紙封筒には、ダック大佐は、朝鮮戦争で戦死したと書かれていた。恐らく自分の息子を思いやりながら亡くなったのだと思う。
   『ダック大佐サインと返送された手紙』
 進駐にともないべ一スキャンプは、三津田町の焼け跡に黒人兵のテントが並んでいた。 夜、外出禁止の伝達があった頃である。
 時折、揉め事が起き、銃声が聞こえる時もあった。
 占領後の不安定な時期がいつごろだったか、正確な日時は記憶が薄れてしまったが、どこの国の敗戦状況にも見られるように、その頃の子供は、米軍のジープに集まってチュウィンガムをねだっていた時期である。
 そして、焼け跡には、進駐軍の缶ビールが転がっており、蹴飛ぱすとコロコロ空しい音を立てて転がっていった。しかし、遊び用具を失った子供たちは、「缶蹴り遊び」を作り出した。
 戦い終わって、平静に帰った時、なぜ忌わしい壮絶な殺し合いが始まったのか……思い起こさざるを得なかった。
 私の叔父はミッドウエーで米軍の爆撃で撃沈された。私は米軍の爆撃を受け命を長らえた。その米軍将校が私に数学を教える優しさを示す。そして、彼は再び戦火に引きずり込まれ、私と同年齢の息子を残して戦死する。
 そうした関係の中に何か不思議な因縁を感じ取る。攻撃する方も、攻撃を受ける方も命を懸ける戦争。そこには、『空しい死』だけが残される。
 戦争のひぶたは、僅かな国家的システムの歯車の食い違いから生じる。そして、多くの国民が悲劇に巻き込まれて行く。
 戦争の記録も悲劇の回想だけでなく、その中に『平和の手段を発見する記録』でありたいと思う。

 戦後、日本の敗戦を素直に受け入れられない人々の中には、戦時中の洗脳教育(鬼畜米英)を丸出しにして、進駐して来た、米兵や豪州兵に投石したり、やじったりしていた人もいる。
 お互いに緊迫した国際関係の中で、歯車が狂い、真珠湾攻撃に始まって、原子爆弾投下で生死を賭けた戦いは終わった。彼等も狂った歯車に抗し切れず戦争に加わった。
 しかし、一人一人の人間に接する時、別の意味での「戦争の悲劇」を痛感ずる。
 私にとって、米軍への奉仕活動に参加したことは、今になって考えると、この時、『国 際協調の意味』を教えられた体験であったのかもしれない。
 幸いにして、私の家は、焼夷攻撃を免れ、原爆にも合わなかった。親兄弟も失うことはなかった。
 したがって。その体験認識は、明らかに家を焼かれ、原爆に晒され、親兄弟を失った人の苦渋とは異なる。しかし、「戦争の悲劇を回避する願い」は同じであろう。
 記録を送ったことに戸惑いながら、悲劇の事実と未来の在り方を語るのも戦争体験をした私たちの使命だと思って記録した。

10、戦後処理と学徒

 昭和20年12月1日
 今日は、江田島へ作業に行くので7時30分、船着き場に集合した。今日の作業は、藁の運搬作業であった。
 三崎先生が米兵と打ち合わせをされた。流暢な会話能力に舌を巻く。
 海軍兵学校もよく焼けていた。飛行場に飛行機が降りたが、発着距離の短いのに驚いた。

 同12月2日
 午前11時。江田鳥の秋月の火薬庫が爆破された。午後3時、米兵のワイトが来た。通訳と一緒だった。
 彼は、私が米軍キャンパスヘ奉仕作業にいった時、一緒に高官の官舎付きで作業した兵士である。
 彼等は、私の机にある英語の教科書をみて「大変難しい本ですね」と言った。
 ワイトは、水曜日にアメリカヘ帰国すると言う。彼は何も欲しがらないおとなしい兵士。
 帰国の土産に着物をプレゼントしたいが、女姉妹の居ない私にはどうすることもできない。何かいい土産を考えてやりたい。
 彼等は、分厚いチョコレートとチュウインガムを一袋、キャラメルー個をプレゼントしてくれた。

 同12月3日  今日は学校へ登校した。5時間目の授業後、家まで歩いて帰った(呉越え峠から三津田まで)。ワイトがお別れの挨拶に来て、今先程帰って行ったのだと言う。残念である。
午後6時に呉湾を出港すると言い残していた。思わず、呉軍港を見つめる。僅かな交流だったのに、家には、グリーンの彼の軍帽が記念に置いてあった。
 数学を教えてくれた大佐といい、一緒に下働きした伍長といい、みんな人間的ないい人物だったのに。
 何で、こんな人間と戦闘状態になり、殺し合いをしなけれぱならなかったのか…。複雑な気持ちである。

 同12月6日
 朝、少し遅かったので、12丁目行きの電車に乗って、後は歩いて登校した。今日は4時間授業だった。早く帰って勉強する。
 試験も近づいている。もう一息で準備完了する。今日は、火薬庫の爆破が三回あった。家が揺れた。

注)  日記は、とぎれている。学用品が不足していたので、メモ帳に断片的に書き残されてい た。
 メモ帳の表紙には、『紀元二千六百二年昭和十七年夏季錬成日誌』となっているから、夏休み用の日誌に書いたものであろう。
 表紙の絵は、「マレーピナン港」のスケッチが描かれている。
 最初に「彼等を撃っ」(高村光太郎の詩)各ぺ一ジの上段に、大東亜戦史・大東亜戦争歌日記・七月八月の農芸・乏しきに耐える意義・十二月八日・日本を愛す・軍神を仰ぐ・昭南島小史・高岳親王の御偉業・蛍・旅行者の心得・大東亜圏を流れる油脈・ビルマ・落下傘部隊の話・バリー島人の信仰・名前で判断できる米国軍艦の種別・浄瑠璃に現れた大東亜構想・小人の島アンダマン・ニューギニヤ・編隊飛行の話・空襲下の心得が書かれ、末尾には、夏季休業の回顧と日誌のまとめ方が記してある。



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