呉で散布された米軍ビラ

 《 ビラの背景》

1941(昭和16)年の米英等との開戦2年後には、米英等は勝利を確信し、
1943年11月にカイロ会談、テヘラン会談を、1945年2月にヤルタ会談、
1945年7月にポツダム会談を行い、連合国の対日政策と戦後のアジアに
関する方針が決定された。

これらの会談や宣言は世界にラジオで宣布され、日本の新聞も大要を
報道したが、詳細は報道せず、無視する態度を執る中で、日本国民は
政府軍部の戦争遂行政策のもとに米軍の爆撃に耐えていた。

米軍は非人道的な空襲の正当性や降伏後の日本の占領政策を日本国民に
知らせるため各種のビラを撒いた。

 戦後、1945(昭和20)年12月の米軍による呉市民尋問調査による回答では

 市民のほとんどがビラを見たことがないという回答をしている。

 当時、憲兵や特高警察などが回収した結果と思われ、歴史的には価値があっても

 効果はほとんどなかったと思われるが、戦後の日本の進路を示唆していた。

 《 呉に撒かれた米軍ビラ》     (呉市入船山記念館所蔵)

 (1)爆弾ビラ・表

    爆弾ビラ・裏

 (2)ポツダム宣言・表

 (3) トルーマン大統領からのメッセージ・表, メッセージ・裏



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