追跡ドキュメント
墜落したB29を追って

             前田祐司(ひろし)(高知市在住)

 昭和二十年・六月二十二日、この日の高知市は朝から梅雨の合間の曇り空か広がり、 雨が降らない分今日は蒸し暑くなるだろうと誰しもが予想していた。
 そんな日の午前十時過ぎ、突然空襲警報が鳴り響き、市民が不安気に空を見上げると、北の山の方角から(注1)ハ〜九機のB29が独特の唸る様な爆音を響かせ現れたのだった。
内一機は損傷しているのか薄く白煙を引いている。どこかの都市を襲った帰りと思われる編隊は南に向かっており、このまま洋上に離脱するものと思われた。
ところが白煙を引いた機は高知市郊外、福井の上空あたりより徐々に編隊から離れ始め、直後に機体が火を噴くと翼が千切れ、神田・吉野の山中へと落ちて行ったのだった。

  証言一(注2)、兵士

 空襲のちょっと前の六月二十二日のことでした。私たちが今の(注3)国立病院の入り口の前で演習しておりましたら、突然空襲警報が鳴り出しました。
そこで、上空を見ますと、中国地方へ空襲に行った帰りのB29が、空中分解を起こしてキリキリ舞いながら落ちていきました。

  証言二(注4)、高知新聞カメラマン

 突然、一機の速度が落ち編隊から離脱するやいなや片翼が飛び機体から火をはき、たちまち炎に包まれた。
その一瞬、四個の落下傘が聞いた。機はそのまま墜落する。
 私はB29北上の情報で国防カメラマンとして朝倉の部隊に詰めていた。直ちに墜落現場に向かうトラックに同乗する。
 現場は鷲尾山登り口付近で、真っ黒に焼け焦げた残がいが散乱、逃げそこなった搭乗員の死体が見える。
落下傘の四人の米兵は神田びわ谷に二人、岡本村に一人、B29の近くに一人が降下した。
 当時日本各地の都市を焼き尽くし、多数の人命を奪ったB29搭乗員に対する国民の憎しみは非常に強く、
捕虜となった搭乗員が虐待を受けたり、又場合によっては(注5)軍(特に陸軍)により密かに処分、つまり虐殺されるケースが相次いだ。
そしてこれが戦後問題化し、多くのBC級戦犯を生む結果となる。
はたして捕虜となった四人のその後の運命はどうだったのか、どこかの収容所で終戦まで生きのび無事帰国出来たのか、
それとも彼等も又、軍の手でご処分されてしまったのだろうか。

調査

 私は県内に残る戦災記録にこの機体や搭乗員に関する記述がないか調べてみた。
しかし、先の証言以外にめぼしい記録は見つけられなかった。県内での資料収集はむつかしいと判断した私は調査をインターネットに切り替え、国内外に検索を広げてみた。
 そんな折、アメリカで(注6)墜落した軍用機の研究・調査を行っている団体のHPの一つ
  "AIR FORCE.COM"で注目すべき書き込みに出合ったのだった。
そこにはパットという人物から上記の調査依頼文が書かれてあった。
パットのEメール

 どうやら、大戦中に爆撃機搭乗員であった祖父のW・マロニー中尉について調べている様なのである。
そして六月二十二日といえば高知市神田に墜落した日と一致する。
もしかして・・。私は期待に胸が高鳴った。
 そしてこの書き込みに対して、次のようなメッセージが寄せられてあった。

パットへの返信

 メツセージには "MISSING AIR CREW REPORTS No14672" がネルソン機についての報告書であると記されてある。私は急ぎアクセスしてみた。

ネルソン機報告書

 墜落地点は高知県高知市・神田町吉野とある。この機体に間違いない。私は捜し求めていた機体とめぐり合えたのである。
 どうやら捕虜となった四名の内、三名は戦後、無事帰国出来たようだ。
 しかしこの簡潔な文章では彼等の姓名まではわからない。マロニー中尉はその中にいたのだろうか。
 もっと詳しい資料は無いものかと思った私は国内各地の戦災に関する情報を片端から検索してみた。そしてそんな中で極めて注目すべきウェブに出会ったのだった。
 青森県で活動している”青森空襲を記録する会”が主宰するHPの中に戦時中日本国内各地に墜落したB29に関する詳細なデータが纏められてあったのだった。
 私は急ぎこの調査を行った中村和彦氏にメールで連絡を取り、拙文中に転載させて頂く旨の快諾を得た。
前ページの下が氏の作成された調査書の内、神田・吉野に墜落した機体#44−70084号機に関する部分である。

B29#44-70084墜落調査報告書

 爆撃手であったマロニー中尉は機と運命を共にしていた。

  プリンス軍曹事件

 戦後、米軍は日を置かずして連合軍捕虜虐待の実態調査に乗り出し、BC級戦犯起訴の為の資料収集を始める。
 (注7)次の文章は昭和二十一年、第一復員省(旧陸軍省)がGHQ法務局に提出した#44−70084号機搭乗員捕虜に関する報告書である。

連合軍飛行搭乗員生存移動状況の件報告

昭和二十一年一月三十日 元高知地区憲兵隊
            陸軍憲兵中尉 山本 丈夫

憲兵司令部残務整理部長 宛

昭和二十年六月二十二日高知市神田に降下せる連合軍飛行機搭乗員四名の移動状況左記報告す
   左記
一、捕虜年月日 昭和二十年六月二十二日
二、階級氏名認識番号
   陸軍軍曹 アルビンイン スタイン
   同    スタンリービーセンド ヒートリック
   同    セオドール ダブリュープリンス
   同    氏名不詳
  何れも認識番号不明
三、移動目次
 アルビンアインスタインリーヒードリック及び氏名不詳一名の移動
 六月二十二日十二時乃至十三時頃高知市神田付近に於いて各捕獲し
高知地区憲兵隊に連行取調べの上同日十九時頃四国第百五十五部隊に収容
 六月二十六日呉鎮守府司令長官より搭乗員引渡しの要求あり
第五十五軍参謀部を経て中部軍管区参謀長の許可を得て同日四時三十分
受領員呉海軍警備隊分隊長海軍大尉原田太次以下六名に身柄を引渡せり
 セオードルダブリュープリンスの移動状況
 六月二十二日降下に際し顔面胸部に火傷を負えるを以て 十三時高知陸軍病院に収容手当を施したる後
十六時頃四国第百五十五部隊医務室に収容手当を施したるも
六月二十四日二十三時三十二分遂次に死亡せり
六月二十五日高知市朝倉陸軍用地に埋葬せり
四、受領取扱責任者微官氏名
   取扱責任者 陸軍憲兵大佐 横田 昌隆
   受領責任者 海軍大尉   原田大次
五、証明物件
   連合軍飛行搭乗員受領に関する呉海軍警備隊加藤参
   謀の事実証明書
セオードルダブリュープリンス軍曹の死亡診断書
別紙第五

死亡診断書

 実は、この文書のプリンス軍曹に関する部分と死亡診断書は改竄されてある。
 彼は捕らえられた時、顔面と胸部及び手にひどい火傷を負う重傷で、
一旦は高知陸軍病院に収容されるが、その日の夜の内に病院から営倉に移され、 (注8)三日後の二十五日に死亡する。
この事実を隠蔽する為、報告書と死亡診断書では二十四日に部隊医務室で死亡した事にしてある。
隠蔽については元高知地区憲兵隊・寺石由雄軍曹の証言が残っている。
 (注9)左の文書は寺石元憲兵軍曹が昭和二十一年四月十七日、GHQ法務局に提出した上申書の内容の一部である。

 九月十九日私カ招集解除ノ日ノ午前十二時頃
山本中尉ハ搭乗員二関係シター同ヲ集メ
俺ノ進駐軍二提出シタ報告書ハ営倉デ死亡シタコトニシテナク
医務室ノ休養室テ死亡シタコトニシテアル
軍医トモ連絡済ミダカラオ前達モ口述ヲー緒ニセネバ駄目ダト申シテ居リマシタ
ー部ノ憲兵ハ、ハイハイト答ヘテ居リマシタカ
私ハ間違ッタ事実ハ社会二通ズル事ハナイト考へ
今頃ニナッテ上官カ苦シンデ居ルノカト心ノ中テ笑ッテ聞イテ居リマシタ。

 実は寺石元軍曹も、プリンス軍曹を陸軍病院から営倉に搬出するのに係わった一人である。
彼が”間違ツタ事実ハ社会二通ジル事ハ無イ”と(注10)本気で考えていたかどうかはわからないが、文面に山本中尉を庇う気持ちは全く無く、むしろ冷淡に突き放している。
 そして、これが決定的な証拠となり、結局中尉をはじめ部隊付軍医や陸軍病院医官など、計四名が起訴され有罪判決を受ける。
 こうして、テニアン基地を発った#44−70084号機の搭乗員十二名中生還出来たのはわずか三名。
もし今も生きていれば八十歳を越えているはずである。彼等にとってもこの爆撃行の結末は生涯の苦い思い出として心に刻まれたに違いない。

陸軍病院と兵営の位置関係

 そして私はこの追跡調査を行う中で、ある方から信じられない資料を見せて頂く機会を得たのだった。
               (つづく)

インターネット資料
       青森空襲を記録する会
       本土空襲墜落B29調査・中村和彦
       AIR FORCES.COM MISSING AIR
       CREW REPORTS DEPARTMENT OF
       VETERANS AFFIARS

注1 目撃者からの聞き取り調査。十数機と書かれた本もある。
注2 百五十人が語る高知大空襲・ここも戦場だった 高知新聞社刊
注3 当時ここには陸軍病院があった。
注4 一発勝負 浜田豊繁著 高知新聞社刊
注5 憲兵隊により虐殺されるケースが相次いだ。
注6 アメリカは過去に軍用民間合わせて約十万機近くの航空機を戦闘や事故で失っている。こうした墜落機の調査・発掘を行う航空考古学という研究分野がある。
注7 国会図書館・憲政資料室GHQ/CSAP文書法務調査レポート
注8 同じく捕虜となり、営倉で同室だったジョン・ムーア軍曹の証言によると、 プリンス軍曹は二十五日の夜死亡したとある。
   国会図書館・憲政資料室GHQ/CSAP文書法務調査レポート
注9 右同じ。寺石元軍曹の証言によると、プリンス軍曹の移送命令は当時高知地区憲兵隊副官の山本丈夫中尉が出したとされている。
注10 プリンス軍曹事件に係わった憲兵達はGHQによる戦犯追訴を恐れていた。誰もが”蜘蛛の糸”を掴もうとしていたのである。
  ※ 神田にB29が墜落した時、現場には多数の住民が駆け付け、二人の子供が亡くなった事もあり人々は殺気立っていた。
中には日本刀を持った者もおり、憲兵達はそんな彼等を懸命になだめ、群集から捕虜を守ったのも事実である。
注11 当時ここにいた四国第百五十五部隊は善通寺、策十一師団の補充部隊と思われる。
長くここを本拠地としていた歩兵第四十四連隊は本土上陸に備え春野方面に転出していた。

    (以上は、2007年7月発行「土佐史談235号」所載)

次頁の書類片を見て頂きたい。

田中書類


書類の裏

これは、あのマロニー中尉が死亡時に身に付けていたものである。
 書類片の(注1)コピーを提供して下さった田中加寿夫氏によると、当時墜落現場に駈け付けた憲兵の一人が現場で、クリップボードに挟まって落ちていたのを拾ったものとの事である。
 これを見た時私は偶然とはいえ何か巡り合わせの不思議を感じずにはいられなかった。
 ネーム欄には中尉本人が書き込んだと思われる姓名MARONEY'F.Wや所属部隊番号、爆撃目標のKURE NAVAL BASE(呉海軍基地)や、墜落した一九四五年六月二十二日の日付が見える。
他にBomb Types andFuse settlngのカ所には(注2)M65(M44)nose-tale 1/10 とあり、機体には五百キロ爆弾が搭載され、
その頭部と尾部に十分の一秒と四十分の一秒にセットされた遅発信管が装着されていた事がわかる。
 又、primary(主目標)やsecondary(第二目標)等の項目から、この書類は恐らく爆撃手が爆撃地点や投弾直後の着弾状況を記録する為の用紙でないかと思われる。
 裏面は文字切れで判読しづらいが、航法レーダーの操作について書かれてあるようだ。
 そして大変興味深いのはこの書類、表と裏側の文字の綴り方向か全然違っており一致しない。
内容にも整合性が無く、どうやら表側と裏側が全く別物の書類の様なのだ。
これは推測ではあるが、恐らく元々裏面が本来の書類であり、それが不要になった後廃棄されず、裏を爆撃手の投弾記録の記入用紙として再利用したものと思われる。
重要度の低い書類だった為だろうが、(注3)機密保持や防諜上あまり感心出来ない。
 表側の方に話を戻すと、投弾記入欄はPrimaryに数値記入があるので、マロニー中尉は主目標地点の爆撃に成功したようだ。
しかしこの直後、恐らく彼が投弾表に記入を終えた直後、機体は対空砲火を受け致命的な損傷を被る。
 そこで私は、シリアル番号#44−70084号機の爆撃行を再現してみた。それはおおよそ次のようなものだったと思われる。

  作戦

 昭和二十年六月二十二日未明、マリアナ諸島の各航空基地では広島県呉市の海軍工廠へ爆撃に向かう爆弾と燃料を満載したB29爆撃機が次々と
四基の巨大な二千二百馬力・ライトR−3350サイクロンエンジンの始動を始め、轟音と共に排気管から白煙を吹き上げていた。
 やがて(注4)午前四時を少しまわった頃、最初の一機が爆音を響かせながら、まだ闇の広がる空へと飛び立ったのを皮切りに、サイパン島・イスリート飛行場及びテニアン島西飛行場からは
第二十一爆撃兵団き下の第七十五爆撃団と第五十八爆撃団所属のB29(注5)百九十五機が約四十〜五十秒の間隔で次々と離陸して行った。
(注6)彼等は編隊を組まず、長さ数百キロの帯状の流れとなって一路北上、(注7)硫黄島を目指した。
 そして白々と夜が明け始めた洋上に硫黄島を確認した機は北西に進路を変更、次に四国・足摺岬を目指す。
こうして作戦時にあらかじめ配布される航空地図に描かれた地形を(注8)目視や航法レーダーにより確認しながら目標都市へと侵攻して行くのである。
作戦任務要約

 午前九時半、豊後水道を北上、呉上空に侵入した最初の梯団が(注9)目標の海軍工廠・造兵都に投弾を開始する。
高度、約六千五百メートル、爆撃は一時間二十分にも及んだ。
 この時、第五十八爆撃団・第四百六十八爆撃群所属の一機#44−70084号機は左翼第一エンジンに対空砲火を受ける。
その様子は呉海軍警備隊の(注10)戦闘詳報に記録が残されている。
日本軍戦闘詳報

 ここには警備隊本部の屋上見張りからの電話報告として、0938(午前九時三十八分)”敵大型一機火ヲ噴イテ居ル”とあり、
神田・吉野への墜落が午前十時過ぎだった事を考えれば、これが#44170084号機である可能性が高い。
 機体の損傷は深刻で、機長のネルソン大尉はテニアン基地への帰投は無理と判断、 緊急着陸用飛行場のある(注11)硫黄島へと機首を向ける。
 被弾したエンジン部の火災はおさまったものの完全消火には至らず白煙を吐き、速力の落ちた機体は、
ややもすると編隊から落伍しそうになるのを機長は懸命になだめすかすようにして、まるで緑の巨大な壁の如く立ち塞がる四国山脈の山々を飛び越えてゆくと、
やがて雲間から海岸の白い汀線と太平洋の青い海が見えて来た時には搭乗員全員が安堵の表情を浮かべたに違いない。
海にさえ出られれば、もし硫黄島まで辿り着けなかったとしても海上に不時着し、救難信号により(注12)救難機や海上に待機している潜水艦に救助される可能性が高い。
彼等は(注13)日本軍の捕虜になるのを非常に恐れていた。
そして海上まであとわずか数キロ、時間にすれば数分である。しかしここで機体は力尽きてしまう。
 高知市・福井上空に達した時、損傷したエンジンが再び発火、翼内燃料タンクに引火爆発して翼が吹き飛ぶ。機長は緊急脱出を指示、
四名が機外に飛び出したがネルソン大尉以下七名は脱出出来ず、機体は破片を撒き散らしながら神田・吉野山中へと吸い込まれるように墜落して行った。
 米軍の(注14)爆撃機では緊急時の搭乗員の脱出順位が厳密に定められている。
まず操縦に関与しない機銃手やレーダー手・航法士が脱出、次に機関仕・(注15)爆撃手・副操縦士、そして最後に操縦士の機長という順になる。
 上巻に掲載の搭乗員表によると、機体前部の搭乗員は全員死亡している。助かったのはレーダー手や機銃手など胴体後部キャビンにいた下士官達である。
恐らく後部では緊急時に備え機長の指示で、すでに脱出口近くに待機していたのだろう。
彼等にパラシュート降下するチャンスはあったが、機体の破断が急だった為か、飛行操作に係わる機長をはじめ胴体前部にいたクルーに脱出の機会は無かったようだ。
彼等は義務を果たしたのである。

  報道

 翌、二十三日付の高知新聞を見てみよう。
 ”ざまア見ろB29や””火の王敵機に地上の凱歌”などの文字が踊っている。
そして敵八機を撃墜、撃破二機などやたら景気がいい。
新聞報道

しかし事実は米軍の報告書にある如く、損失は二機のみである。
又、”高知市上空で一機撃墜”と神田に墜ちた機体がまるで高知の部隊による戦果のように書かれてあるが、これも報告書には呉の対空砲火と明記されてある。
高知の部隊は知らぬ顔で戦果を横取りしているのである。
 又、空襲を受けた呉市の状況については、”被害は軽微”と、いたって素っ気無い。
しかし実際は、この爆撃で呉海軍工廠造兵部が壊滅、四百人以上の死者を出している。
そして犠牲者の多くは中国・四国地方の中学校や女学校から動員された十代半ばの少年・少女達たった。
今の感覚で言えば、これはもう報道と言える様な代物ではない。

  墜落現場

 私は墜落現場に行ってみる事にした。そして自転車に乗り、地図を頼りに神田・吉野へと向かった。
 十数年前までは静かな田園風景が広がっていたこのあたりも近年は宅地化か進み、真新しい住宅が建ち並び、今では田んぼの方が家々の間に窮屈そうにポツポツとあるばかりである。
墜落地点の地図

 吉野地区に入った所で、私は杖をつきながら散歩しておられた年配の女性に出会った。
 突然でぶしつけではあったが私はこの御婦人に吉野に墜落したB29について尋ねてみた。
 これは大変幸運だった。私は彼女から墜落現場の非常に正確な場所と共に、当時の貴重な話を幾つか伺う事が出来たのだった。

 女性の証言

一、B29が墜落したのは昭和二十年六月二十二日の午前十一時に少し前頃でした。
二、ものすごい音と共に積まれていたガソリンが大量に飛び散り引火、山火事が発生しました。
三、丁度その時、山桃採りに山に入っていた少年二人が運悪くこの火災に巻き込まれ亡くなったのです。
四、戦後、米兵が墜落現場にやって来て、戦死した搭乗員の遺品の捜索を行いました。
五、遺品は指輪で、吉野地区の住民が動員されて墜落現場一帯の土を篩にかけて探しましたが結局見つかりませんでした。
六、米兵の話によると、捜索は遺族の要請によるものだったそうです。
 私は女性に礼を述べると、教えて頂いた墜落現場へと向かった。
B29墜落現場

 そこは住宅地から山あいを小川に沿って約四百メートルほど入った所にある一面杉の植林に覆われた山の急斜面で、すぐ下には小川が流れ、防妙用の堰堤が見える。
 六十三年前、ここに私が探していたB29が墜落したのだ。
 その日、このあたり一体は墜落時の猛烈な劫火と黒煙に覆われ、ジュラルミン製の巨大な破片が一面に散乱し、その間には米兵の焼け爛れた無残 な遺体が横だわっていた。彼等の多くはまだ二十歳代の若者達だった。
 今、かつての凄惨な墜落現場は静かである。木洩れ日の差し込む杉林の中を風に乗って小鳥たちの平和なさえずり声が聞こえて来る。
 私は帽子を取ると静かに黙祷した。ここで命を亡くした七人の米軍将兵に、そして勿論、火災に巻き込まれ死亡した不運な二人の少年遠のために。

B29墜落現場報告書

 戦後、収容所から解放された#44−70084号機搭乗員三名の内、
Stanley v.Petricはオハイオ州・ユークリッドヘ、
JohnとAlvin J.Einsteinはニューヨーク市ブルックリンのそれぞれ家族の元に帰った。
 又、マロニー中尉とプリンス軍曹はハワイ州・ホノルルの太平洋国立記念墓地に、 機長のネルソン大尉はアーカンソー州・リトルロック国立墓地に眠っている。
最後の審判と復活の日のために。

 なお、この文章を書くにあたり幾多の御教示と共に多くの貴重な資料を提供して頂いた中村和彦氏と田中加寿夫氏に心よりの謝意を表したく特にここに記した。

インターネット資料 青森空襲を記録する会
          本土空襲墜落B29調査:中村和彦
          ATR FORCES.COM
          MISSING AIR CREW REPORTS
          DEPARTMENT OF VETERANS AFFIARS

《注》

注1・残念な事に、元の書類片は元憲兵の方が亡くなった時に
   遺族が処分されたとの事である。
注2・正確には1〇〇〇ポンド爆弾であるが、日本では一般に
   五〇〇キロ爆弾と呼ばれているので、その表記に従った。
注3・当時、陸軍は無線傍受により、サイパン・テニアン基地に
   展開するほぼ全てのB卸一部隊の機体 コールサインの
   割り出しに成功していた。
注4・巡航速度とマリアナ諸島から呉までの距離から計算、
   割り出した。
注5・故障・その他の理由で三十機が途中から引き返した。
注6・爆弾と燃料を満載した二百機近くの機が夜開聞の中を旋
   回しながら編隊を組むのは極めて危険な行為である。
   その為、離陸した機は編隊を組まないまま各自目的地に
   向かった。
注7・関東への昼間爆撃の場合、次は富士山を目指す。
   これはヒロヒトロードと呼ばれていた。
注8・地文航法という。
注9・爆撃は主に兵器工廠で、造船部は米軍が占領後使用出来るよう、
   爆撃しなかったと言われている。
注10・呉警備隊機密第四号ノ四 憲政資料室資料(YFIA8)
注11・テニアン基地に帰還するなら須崎付近上空を通過すると
   思われるので、これは損傷やその他の理由で硫黄島に向かう
   編隊だったと思われる。
注12・作戦中はスーパーダンボと呼ばれる救難機や潜水艦が
   必ず洋上に待機しており、救難信号を受信すると、直ちに
   現場に向かうようになっていた。
注13・日本軍、特に陸軍の残虐行為は広く知れ渡っており、
   もし捕虜にならなければならない場合は洋上に着水し、
   なるべく海軍の捕虜になるよう教えられていた。
注14・大空戦No.1 ワールドフォト社刊。
注15・爆撃手はB29に搭載されてある当時米軍の最高機密の
   一つであったノルデン型照準器を敵の手に渡らないよう
   破壊する任務がある為、脱出はかなり後になる。
注16・B29の燃料搭裁量は約三万五千四百リットルあり、復路の
   燃料がまだ一万数千リットル残っていたと思われる。
   これは例えて言えば、タンクローリー車一台が空から落
   ちて来たと同じである。

      (以上は、2008年3月発行「土佐史談237号」所載)

空襲に戻る
トップページ総目次に戻る