岩方国民学校の第一次集団疎開児童は、昭和二十年四月十一日、
 国鉄呉駅を出発した。児童数は、百三十六人。
 このうち、三田村の三田西国民学校へ向かうのは、先生の稲田茂、浅野マキ子の二人。寮母二人。児童は五十人。

  子供たちの太平洋戦争
―呉市岩方国民学校児童の集団疎開―

                   山崎 優

一、プロローグ

 昭和二十年三月に入ると、「音楽」の時間は、卒業式歌「花かをる」の練習。
文部省の制定歌だが、戦争を忘れさせるような詞と曲である。

  卒業式歌の練習が終わると、ピアノの和音を利用して、敵機の爆音を聞き分ける訓練。
敵性語廃止で「ドレミ」を日本語式に言い換えた「ハニホヘトイロ」から選んだ三つの音で「グラマン」「B29」などと聞き当てる。

  三月十九日、グラマン戦闘機多数が私たちの村の上空に現われ、呉方面へ向かい、金属音を残して急降下。
高射砲の炸裂音。漂う弾幕。敵艦載機延べ三百機が来襲した。
  私は、広島県高田郡三田村(現・広島市安佐北区白木町三田)の小規模校・三田西国民学校の六年であった。

  広島市から東北へ二十キロ。三田村は、人口二千人の純農村。
「三田三里(みたさんり)」と呼ばれるように、村は東西に細長く、
三方を田んぼに囲まれた真宗福長山順覚寺。
その前方を太田川の支流三篠川が流れ、太田川を通じて瀬戸内海へ注がれる。
この三篠川ともつれ合うように、国鉄芸備線と県道が走る。
村役場の屋根には、敵機の襲来に目を光らせるための防空監視所がある。

  岩方国民学校の第一次集団疎開児童は、昭和二十年四月十一日、国鉄呉駅を出発した。
呉駅では多数の父兄や学校関係者が見送る。児童数は、百三十六人。
疎開先は、広島県高田郡の三田、秋越、市川、それに志屋の四か村。
このうち、三田村の三田西国民学校へ向かうのは、先生の稲田茂、浅野マキ子の二人。寮母二人。児童は五十人。
この中には、六年の小西良三、同じく六年の三木利枝子、五年の稲田雅胤の何れも元気な 姿があった。

  中三田駅前広場で、歓迎会が開催される。
村長や校長らに加えて、これから、共に学び、共に働き、且つ、共に遊ぶであろう三田西国民学校の児童たちが出席。
六年の私もこの中に。向かい合わせに並んで立つ岩方国民学校の児童五十人の姿を、
私は一人ひとりゆっくりと見渡す。無論、相手も同じ仕草を試みるであろう。

  集団疎開児童は、男女を問わず、総じて賢そうに見受けられる。服装や履き物には、天と地の隔たり。
集団疎開児童の履き物は、申し合わせたように、真新しいズック靴。

  私を含む私達の履き物は、手づくりの草履。歓迎会を終わると、私たちは集団疎開児童の荷物を持ち、各々の宿舎の寺へと向かう。
足元に目をやれば、「ズック靴」と「草履」の奇妙な歩み。
私自身、誰とどんな言葉を交わしたのか記憶がない。

  集団疎開児童が三田西国民学校への通学を始めた。
三田西国民学校の児童数は、一挙に百三十五人に膨れ、九十年の歴史の中で最多に。
二つの複式学級があるので、教室数は四つしか無い。二つの複式学級を解消し、
一挙に五十人の児童を受け入れるには、二教室の増設が必要。
校舎近くの職員住宅と、福永荒神杜の拝殿を改装し急場をしのぐ。

二、集団疎開の日常生活

 五十人の児童は、二十五人ずつに分けられ、宿舎としての二つの寺へ。
その一つ、小高い丘の上に建つ、真宗経尾山西福寺。
先生の稲田茂と児童二十五人は、三篠川に架かる釣り橋の西詰めへ到着。
ここで県道と別れる。、無人踏切を渡り、二十の石段を登ると、真宗経尾山西福寺。
寺の西側を流れる西福寺川の岸辺には、計三基の、米搗き用の水車「そうず」があり、
辺りに、のどかな音を聞かせていた。本堂が寝室。食事は庫裏と決定。
稲田茂が畳敷きの本堂に全員を座らせ、一目の時間表を述べ始める。
「ノミが跳んでいる」と女子児童の声。「先生が話しをしている最中に声を出してはいけません」と、きついお叱り。
声の主は六年三木利枝子。三木は先生にひたすら謝ったが、ノミやシラミは日毎、増える一方。ノミやシラミに悩まされるのは西福寺だけではない。


順覚寺住職の長女 楢崎綾子

  「寮母さんが、たびたび五右衛門風呂の熱湯の中に、布団のシーツや枕カバーを浸けていました。
でもノミやシラミが、一向に減りません。効果があったかどうか」。

  稲田茂が説明した児童の一日の時間表は次のようになっている。

午前七時起床。谷川の水で洗顔。本堂での礼拝。
朝食。午前八時登校、二列に並び学校へ。
昼食は寺で。(粥は、弁当に詰められないので)午後六時夕食。午後十時消灯。

  順覚寺の一日の時間表もぽぼ同じであった。


岩方校五年 稲田雅胤

  「西福寺では、夕食後、六年の小若博子さんが本堂で流行歌を歌ってくれました。
小若さんの十八番は「花摘む野辺に日は落ちて…」で始まる「誰か故郷を思わざる」。

  いつの間にか「誰か故郷を思わざる」がみんなの愛唱歌になりました。
時には三篠川の川原に出掛けて、思い切り歌を唄いました。さすが私もジーンときました。
当時、ホームシックにかかり、寺を何人かが抜け出しました。
狩留家駅にいるところを見つかり、追いかけた稲田茂先生に伴われて、すごすごと寺へ引き返しました」。

三、空腹

  集団疎開児童の一番の悩みは空腹。続いては親元を離れてのホームシックであった。
 食糧確保のため村、先生、児童、寺が一致して努力した。米は少ないながら配給に依拠。
 両寺とも副食物の確保に心を砕く。決められた日程と当番に基づき集団疎開児童が、リヤカーか車力を引き、村内の集落を回る。
一つの車に三人。男子児童だけでなく女子児童も輸送作業に参加。
この野菜の確保と集荷に活動したのが今中肇。常会会長や農家を訪問する日々が続く。
「三田三里」を動き回る今中肇の足は、専ら自転車。
パンクの修理に追いまくられる毎日だった。


岩方校五年 稲田雅胤

 「野菜を貰うため、二、三人が一組となり、大八車かリヤカーを引いて、決められた集落へ向かいます。
三田村は東西に細長く、往復の距離が二十キロに及ぶ事もありました。自分で編んだ草履を履いていました。
貰ったキャベツ、ジャガ芋、玉ネギ等の野菜をかますへ。
帰途、喉が、酷く渇くので、田んぼの水を両手のひらで掬って飲みました。
腹痛は起こしませんでした」。


順覚寺住職長女 楢崎綾子
「ご飯は三升釜で炊きます。薪は一週間に一度、馬車で運ばれました。
米と野菜に加えて、調味料の、醤油、みそ、酢、砂糖が、極度に不足していました」。


岩方校六年 小西良三
「西福寺の、一日の献立です。

朝食・・・野菜の沢山入ったご飯。具の少々入ったみそ汁。
昼食・・・米粒の殆ど入っていない雑炊。
夕食・・・野菜の沢山入ったご飯。野菜の煮付け」。


三田西校六年 梶山唯信

 「自宅は順覚寺と隣接しており、しょっちゅう寺へ遊びに行き、疎開児童と雑魚寝をしました。
疎開児童は私に、空腹を訴えることは無く、ギスギスした雰囲気もありません。
学用品と、食べ物を交換してくれ、という児童もいません。
強いて言えば、私が煎り大豆と煎りえんどうを持参。
疎開児童が持っているビスケットや乾パンと交換しました」。

 その当時、私の住む広島県高田郡三田村でも、食糧は極度に不足していた。
米を生産しても、配給米と同量の保有米しか家には残せない。
あとの米は、国の割り当て通り供出する。
三反農家の我が家では、一握りの米とさつま芋で炊いた芋粥が、半ば常食。

 三人の母子家庭であった私の家に、昭和二十年四月、遠戚の、子供四人を含む六人家族が、広島市竹屋町から縁故疎開。
敗戦直後には、五人の子供のいる、母子六人家族が南朝鮮から我が家に引き揚げた。
やがてその夫がビルマから復員。一時は、一つ屋根の下に、三家族十六人がひしめく超過密状態。
照明は、十燭光が三灯。五十メートル離れた井戸から、飲み水と風呂水を桶を使って運ぶ。
ニュース源は、配達しながら読む、薄っぺらの新聞と、感度超不良の三球式ラヂオ。それに他人の噂話。

 集団疎開児童は、食糧を他に依拠するだけではなかった。自給にも立ち上がる。
西福寺に近い弓場(ゆんば)の荒廃地五畝を借用。私たち地元の児童が応援して、開拓の鍬を振るう。
三田西国民学校校庭の種苗場で採取したさつま芋の苗を植える。九月に入り、早や物のさつま芋が、収穫期を迎えようとしていた。

四、里親と里子

 食糧対策としての「里親、里子」制度が実施された。集団疎開児童を、一泊二日の日程で農家へ預ける。
少しでも、食い扶持を減らそうという物悲しい制度であったが、現実的には、里親と里子がふれあう機会になる。


岩方校六年 小西良三

 「二度、農家を訪ねました。何れも、お客様扱いでした。ご飯を、腹一杯頂きました。
そのうち一回は西福寺に近い、七十八歳の山出長太郎さんの農家です。
お年寄り夫婦に加えて、昭和二十年三月、満州国から帰国したばかりの、三人兄弟がいました。
その中で中学四年の英雄さんの印象がそれは強いです。英雄さんは、風貌といい、語り口といい、如何にも大陸的でした」。

五、面会

集団疎開児童の悩みは、慢性的な空腹と共に、呉市に残している父母に会いたい、とのホームシックであった。
父母たちが残る呉市が、アメリカ空軍機の空襲にさらされていることが疎開先の三田村から、手に取るように分かると、疎開児童による父母たちへの思いは、更に募る。


岩方校六年 三木利枝子
「四十二歳の母松枝が、面会に来てくれました。モンペを履いていました。
持参の土産は一旦、先生へ渡した後、先生から分けて貰います。
母が持って来た煎り大豆が、おいしかったです。そして母に対して『いつもお腹が空くのよ』と、つい本当のことを言ってしまいました」。


岩方校六年 小西良三
「五十二歳の母ミツ、二十歳の長兄康雄の二人が、面会に来ました。長兄が熊本の陸軍への入隊が決まったからです。
何故かこの日は、母と兄に対して、普段の思いを一気に喋りました。
来る日も来る日も、お腹が空いていることや、母、兄弟との離ればなれの生活が寂しくてたまらないことを」。


岩方校五年 稲田雅胤
「六月頃、面会の名目で、四十歳の父満治が十六ミリ・カメラを持ち、二十九歳の母ミサオ、八歳で三年の妹尚子を連れて西福寺へ来ました。
西福寺と順覚寺の集団疎開児童や先生の姿を中心に、フィルムに収めました」。
「一か月後、父は現像済みのフィルムと映写機を持ち、再び西福寺へ。
西福寺で夜、映写会がありました。映写会への参加者は、集団疎開児童と先生が殆ど。
画面は白黒。時間は十分。フイルムを巻き戻しては、何度も繰り返して、映写されました」。
学童たち 村人と」 学童たち

六、呉大空襲


岩方校五年 稲田雅胤

 「西福寺にいる女子児童が、僕に、『今度の空襲で自分の家が、丸焼けになったよ』と言いました。
自分の家の事が気がかりでしたが多分、焼け残っただろうと想像しました」。

岩方校六年 小西良三

 「歯の治療のため、呉市に帰宅中偶然、空襲に遭遇しました。
長兄は既に熊本へ。母と十五歳の次兄良治の二人が、留守を守っていました。
空襲警報発令と共に母と私は、自宅から三百メートル離れた防空壕へ。次兄は、一人で自宅の防備に当たりました。壕内には、薄暗い電灯が点灯。
深夜、自宅が全焼したと、次兄が自転車を走らせ、防空壕内の母と私へ伝えてくれました。
一夜が明けて、自宅へ帰りました。木造の自宅は焼け落ち、余燼がくすぶっていました。家財道具を疎開させていた吉浦の、母の実家も、焼夷弾の直撃を受け、これまた全焼。
狩留賀の別宅を、当面の落ち着き先にしました。私は、歯の治療どころではなく、四日後、三田へ戻りました」。


岩方校先生 窪谷ミツ子

 「空襲警報発令と共に、六十歳の母、十八歳の妹、それに私の三人が、三軒共用の防空壕へ。
壕内は避難の人々で動きが取れません。病弱であった母は、私と離れ、壕の入り口付近にいました。
母は深夜、窒息状態に陥りました。海軍衛生兵により人工呼吸を受けましたが、助かりませんでした」。
「高台にある私の自宅から、勤め先の岩方国民学校の校舎が焼け落ちているのが、一目で分かりました」。

七、供出された梵鐘

 既に、呉市はアメリカ空軍機の空襲にさらされていた。
それに比べて、三田村は、上空をアメリカ空軍機が飛行するだけで、爆弾や焼夷弾を投下せず一見、のどかに見えた。
だが内実は姿、形を変えた戦争が村に進行していた。

 西福寺では、住職の長男大内定麿が静岡県浜松陸軍航空隊へ。
順覚寺では、住職の娘婿楢崎正英が陸軍に応召するというように。
それだけでなく、国の金属回収令により、二つの寺とも、梵鐘と、喚鐘(かんしょう)を供出。
順覚寺の、二階建ての山門の梵鐘と、本堂の喚鐘が、供出されたのは開戦翌年の昭和十七年。順覚寺は、二つの鐘が鋳造される昭和二十四年まで、鐘の無い寺に。


岩方校の先生 浅野マキ子

 「鐘が無いので、体操用ホイッスルを使いました。ピーと鳴る、あの笛です。集合や解散の合図の時に吹きました。
ホイッスルの音は、寺の雰囲気には、合いませんでしたが、やむを得ません。
結局、私は寺でも、学校でも、ホイッスルを常時、携帯する事になりました」。

八、三田から呉へ

家路

 昭和二十年九月二十四日、呉の岩方国民学校の集団疎開児童を迎える為のトラック一台が呉市を出発。国鉄狩留家駅へと向かう。


三田西校六年 山崎 優

 「枕崎台風の影響で三田村は、県道の橋や国鉄芸備線狩留家駅ー中三田駅間の鉄橋が落ち、交通はマヒしていました。
集団疎開児童の荷物を運ぶ私たちは、宙づりの線路をはうようにして渡りました。
怖かったです。疎開児童は大事をとって、山道を通りました」。

 狩留家村役場まで迎えに来たトラックの荷台へ五十人の集団疎開児童を乗せ、父母たちの待つ国鉄呉駅前に着いたとき、日は暮れていた。
焼け野が原で再会を喜ぶ感動的な風景が展開された。


岩方校五年 稲田雅胤

 妹で三年の尚子の帰りを待っていたのは、四十歳の父満治と二十九歳の母ミサオ。
尚子は、七月空襲で家が焼けたのをきっかけに兄のいる西福寺へ。
六月、兄雅胤との面会のため、両親と共に西福寺を訪ねる。

 この時、父満治が動画撮影用カメラを持参。集団疎開児童らを十六ミリ・フィルムに収める。その中に尚子が、母ミサオと並んで写る。

 呉市の繁華街にあった稲田家の自宅兼写真館は、七月空襲で全焼。
望地町にある遠戚の納屋の二階へ引っ越す。
六月、三田村で撮影・現像した集団疎開児童の十六ミリ・フィルムは、被災以前に、この遠戚に預けており、焼失を免れる。

 稲田家が身を寄せる遠戚までニキロ。四人は、夜の焼け野が原を歩き始めた。

九、エピローグ

 昭和二十年四月十一日  呉出発。来村。
 昭和二十年九月二十四日 離村。呉帰着。 終戦の詔勅


 百六十六日に及ぶ「子供たちの太平洋戦争」――呉市岩方国民学校児童による集団疎開――は、いままさに終わろうとしている。

 友人長船友則さんから貴重な資料提供があった。昭和十九年に政府情報局が国民向けに発行していた「週報」四〇六号、四〇七号の二冊。   「週報」

 その中に学童疎開問答が掲載されている。

問「食糧は大丈夫ですか」。
答え「とにかく、食糧については全く心配はいらないわけです」。

 岩方国民学校の集団疎開児童が語ったこととはまるで違う。この事実をどう考えたら良いのだろうか。

 六十年前、呉からやって来た児童の苦悩は、「空腹」であり、「ホームシック」であった。どれ一つとっても手助けも救援もできなかった。
 好転しない世界の核状況。平成十五年以来続くイラク戦争。
このイラク戦争でも疎開、避難があったのだろうか。
将来、日本では、戦争に伴う疎開、避難の心配はいらないのか。
 「子供たちの太平洋戦争」――児童の集団疎開――を再現させてはならない。

(広島市安佐北区白木町三田五八九九)

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