引率教師の体験記

呉市立岩方小学校
               稲田 茂(引率教師)
疎開先  高田郡三田村 三田西小学校
引受校  同       順覚寺

 昭和二十年三月には米軍機による呉市の初空襲があり、呉工廠など軍施設が破壊され、
戦局はいよいよ不利、学校付近の建物疎開が強行されるなど緊迫した情勢であった。
 四月より学童疎開が始まり、岩方小学校は高田郡内三か村に分散、
寺院を寮として、集団生活をすることになった。
子どもたちは、当初はまるで遠足か修学旅行に出発するかのような軽い気持で、
全く暗いかげは見られなかった。駅頭での別れもむしろ親の方が悲痛な顔付をしていた。
 三田村入村の時も、芸備線三田駅頭には、村長さんはじめ村の有力者、
学校職員多数の出迎えがあり、暖い春を浴びながら、まるで遠足の行列のように
八十名(三年1六年生)の児童と教員二名、保母二名が付添って、足どりも軽く徒歩で寮に向かった。
 第一日の夕食に銀めしが供せられ、こどもたちは、はしゃぎながら何度もお代りをし、
腹一ぱい食べたことが印象に残っている。
 村民はひじょうに親切で、主食、野菜など不自由をすることがなかったが、
村に甘えてばかりいられないので、休耕地を借りて、いもやなすなどを植えて 食糧を補うことにした。
 しかし二、三か月もたつとそろそろホームシックにかかる者が出はじめ、
数名が父母に引き取られて帰って行った。
が七月一日の空襲で岩方校区は全焼、児童の家は灰塵になり、帰呉の見通しのないまま九月を迎えた。
さらに九月十八日の猛台風のため、芸備線はズタズタに分断され交通杜絶、
全員が寮を引揚げたのは九月の末であった。
 五年後の四月、かっての寮生が集い、お世話になったお寺さんへお礼にあがり、
当時の思い出話に花を咲かせたことがあるし、
現在でもお寺さんと交情の絶えぬ者も数名いるようである。  以上


呉市立岩方小学校
                 開内一嘉(引率教師)
疎開先  高田郡志屋村 志屋小
引受校  同      正林寺

 昭和十九年頃から、大東亜戦争も戦況が、急激に我が国に不利となり、
本土空襲を受けることも頻繁となり、学校も白壁に墨汁をぬったり、
階下教室床下に避難所を作ったり、教室の天井板やガラス窓のガラスの取り除き作業、
校庭に防空ごうを掘ったり、職員は消火訓練に汗を流したりで刻々と危険が
身近に感じられるようになり、児童も防空頭布、モンペ姿で登校し、
空襲警報のサイレンの音と共に退避したり、自宅へ帰らせたりで、授業も次第に困難となり、
呉工廠、広十一空廠のB29の爆撃、市内機銃掃射も盛んになり、
私たち職員は校庭の防空ごうに逃げこみ、念仏を唱えるといった状態になってきた。
 そこで呉市でも各学校で農村に個人で疎開するいわゆる縁故疎開者が続出し、
遂に昭和二十年四月から岩方小は高田郡志里村、市川村、三田村、秋越村の四か町村に学童集団疎開が始まったのです。
 当時結婚二年目の私と機略先生という娘さんと二名で、
三年生から六年生までの男女児五十名を引率、
高田郡向原駅から二里の山坂を歩いて志屋村の正林寺という寺に到着、
翌日から志屋小学校へ入校、夫々の学年に分かれて農村の子と共に勉強が始められました。
 私は六年生の担任に任命され、農村の児童と疎開者といわれた呉市の子を一緒にして、
授業をしたのですが、学力差に驚いたのですが、反対に体力となると雲泥の差でした。
 「勝つまでは頑張ります」と父母と涙で別れても、やはり子どもです。
夜毎母恋しと泣きじゃくる三年生、夜中の十二時に一斉に小便に起こす苦労、
寺の裏側にある淋しいまっ暗な便所へ誘導、懐中電燈で照し出して用を足させるつらさ、
朝起きると布団一面に描がかれた大地図の後始末、本堂の前に誰かがしている大便と
それを見つけての院持さんの説教、ジャガ芋のおかゆとジャガ芋のお八つ、
どれ一つとってみても苦難の連続でした。
 更に私達を苦しめたのは、ノミとシラミの大群で、夜ふとんを敷くと、ノミが何十匹とピョンピョソはねまわり、
子どもの頭髪や衣類にゾロゾロと身の毛がよだつ程のシラミがわいて出たとしか表現のしようがない程で、
院持さんにお願いして、風呂を借りきって熱湯でぐらぐらやって、物干ざおにほしたのですが、
生き残ったのが洗濯物の上をはいまわっているといったショッキングな事もありました。
 今一つは農村にいながら、配給米だけの生活でした。時には「先生今日は魚屋さんが、
魚をカゴ一ぱいかついで帰えりよったよ」と子どもの声がとんで来たので、
寮母さんに全部買って来て食べさせて下さいといった思い出、
ある日曜日には五十名の子どもたちで、村中の鶏卵を買いに行かせて食べさせた思い出、
又ある日のこと、私が職員室で例のジャガいもご飯をパクつきながら、
「昼前になると腹と背が、くっつきそうだ」ともらしたことを志屋小の女の先生が聞いて帰えり、
おじさんにあたる村長さんに話されたとみえて、翌朝の朝ごはんの時、
いつものおかゆをすすっている現場を視察されて、即日米俵四俵を下さったことは、
児童とともに生涯忘れえぬ感激でもありました。
 昭和二十年七月初めの日曜日は疎開児が待ちに待った第一回の面会日であったのですが
七月一日未明の呉市空襲で岩方小学校区は全焼し、その上疎開児の内二名の家族まで焼死したという悲報によって、
面会日の喜びが置きかえられたという大悲劇があり、引率者としてこの上もない心痛な出来事であり、平和な今日では想像もつかないことでした。
 八月六日はよく晴れわたった日でした。夏休みといえ、疎開先の学校では授業を続けていましたので、
いつものように午前八時に寺の前に集合して登校しようとした時、ピカッドソという光と爆音が広島市上空であり、
B291機が広島上空を旋回し、落下傘が何かぶらさげて浮いているのを五十人の子どもと見ながら、何だろうと話し合いながら登校したものですが、あれが決定的な一瞬であり、 やがて苦難に満ちながらも平和が甦える原因ともなったのだと思えます。
 何としても平和を維持し、戦争は二度とあってはならないと、この疎開誌の編集にあたっている一員として、平和を願いながら執筆にあたったわけでず。   終

出典:「呉市 学童集団疎開誌ー勤労動員ー」 呉市小学校校長会編



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