。呉の戦災遺跡
1.戦災遺跡・記念碑

@呉地区の旧日本海軍の主な軍事施設・戦災遺跡
呉鎮守府関係...海上自衛隊・米軍がほぼ現在も使用
  呉鎮守府建造物...海上自衛隊呉総監部
  港湾施設..大型係留ブイ、桟橋(大型艦基地Fバース、潜水艦基地、
       掃海艇基地、小型艦基地)、揚陸場は現・呉市中央桟橋
  弾薬庫...麗女島補給所(自衛隊)
       秋月弾薬庫(米軍)・川上弾薬庫(米軍)..東洋一
  貯油施設...吉浦貯油所(地下式、米軍・自衛隊)、麗女島補給所
  補給施設...軍需部跡は払い下げ民間工場・日立
  兵学校...江田島海軍兵学校、海兵団..海上自衛隊呉教育隊に
  病院...呉海軍病院...国立呉病院に
  水源地・発電所...現在は、呉市水道局・中国電力に
  練兵場...現在は、呉市民広場で自衛隊も利用
  試射場...亀ガ首水雷発射場と防空砲台...廃虚
  防空砲台...灰ガ峰・休山・高烏山・大空山などは公園化
  特攻基地...大浦崎(現水産試験場)、大入発射場跡
  飛行場...広11航空廠..現・工業技術試験場や工場地帯に
  防空地下壕...戦闘指揮所(海上自衛隊呉総監部内)
         各地区に多くあり、入口を閉鎖している
  墓地...呉海軍墓地・現・長迫公園で、軍艦の顕彰碑が林立
 呉海軍工廠関係...民間に払い下げで現在は工場地帯
  造船施設...民間に払い下げで現・IHIが使用
  造兵施設...現・日新製鋼・淀川製鋼、潜水艦学校・自衛隊宿舎にも
  地下工場・格納庫...広11空廠・現・米軍黄幡弾薬庫に利用、
      各地に巨大なレンガ・コンクリ造の隧道....宮原・警固屋・長郷・
      冠崎・串山・名田・長浜・切串など、一部は中に入れる
  工員宿舎...呉市営住宅や民間に払い下げ
  病院...呉海軍工廠共済病院・現・呉共済病院
  防空地下壕...工場近辺の山裾にトンネル多数・入口を封鎖しているが
      一部地区では中に入れる…長浜・黄幡など
 民間防空壕...横穴式防空壕(多く現存・一部は入れる)・簡易貯水槽
 空襲で焼けた石垣・墓石・銃撃の弾痕跡、墨塗りの家壁、など
      現在見学できるのは、亀山神社境内の狛犬の焼夷弾被爆の状況


A呉戦災関係の記念碑
(1)呉市戦災遭難者供養塔(呉市本町 寺西児童公園)
     空襲地蔵
 1945年(昭和20)7月1-2日の市街地空襲で死亡された約2000人の方の冥福を析り、人類の平和を念願するために、この地区の有志が「呉市戦災死者供養奉賛会」を結成し市民からの篤志を得て、1950年(昭和25)9月23日に建立されたものです。
 呉空襲の市民犠牲者の聖地であるこの地では、毎年7月1日に地元主催の慰霊祭が行なわれています。

 7月1日は「呉空襲犠牲者慰霊・恒久平和祈念の日」です。
 この日、慰霊祭が行なわれました。

《 資料 》「空襲地蔵の慰霊祭」例 (2006年7月1日)
 寺西公園の呉市戦災遭難者供養塔 慰霊祭
  戦災死者供養地蔵尊  祭壇  戦災死者名簿  寺西会館での慰霊祭

(2) 地蔵尊・供養塔(呉市本町 和庄児童公園)
 この近辺にはたくさんの横穴防空壕があり1945年7月1-2日の市街地空襲の時には多くの市民が逃げ込みましたが、煙にまかれて大勢の方が亡くなりました。
 特に、この地蔵尊のすぐ奥の防空壕は550人という多大の犠牲者を出した場所です。この事実を後世に伝え死者の冥福を祈念するために、1963年(昭和38)7月1目地元の方々によって建立されました。

《 資料 》「空襲地蔵の慰霊祭」例 (2005年7月1日)

 和庄の八幡公園の戦災死者供養地蔵尊が新しく建て替えられました。
  新地蔵、左は旧地蔵  戦災死者名簿  式典挨拶  旧・八幡防空壕前で読経




(3) 殉国の塔(呉市警固屋町1丁目)
     殉国の塔  新「殉国の塔」

 この塔は、1945年6月22日の呉工廠空襲によって亡くなられた動員学徒・女子挺身隊476人の冥福を祈って、警固屋町仏教婦人会の方々により1965年(昭和40)11月23日に建立されたものです。
 ここには以前、1トン爆弾の落とされた穴があり遺族の判明しない遺骨が埋葬されていました。
 呉における「ひめゆりの塔」であるこの地を訪れる人は滅多にいません。

 そこで多くの人が尋ねやすい場所への移設運動が起こり、2008年に「鍋山第一公園」へ新たに整備して移設された。
 バス(警固屋線)鍋峠の道路を南下(警固屋方面)100余b下ると西(右)側に「鍋山第一公園」があり、「殉国の塔入口」の標識が出ている。

【コメント記事】
 同じ戦争犠牲者でも、慰霊は?
 軍港であるがゆえに・数多くの犠牲者を出した呉。
呉市内はもとより倉橋島・江田島・能美島などにも慰霊碑が建立されています。
軍関係の慰霊碑は大きく立派で、行政の援助もあり広くその存在が知られているのに対し、
市民の戦争犠牲者の慰霊碑は小さく、行政の援助もなく、その存在さえほとんど知られていません。
 軍関係の碑文は「英霊」「勇戦敢闘」など、戦争を懐かしみ軍の栄光をたたえる内容がほとんどです。
軍隊の論理を至上のものとした戦時中の思想が、戦争犠牲者の慰霊にも見事に反映され、次代に引き継がれようとしています。

(4)呉海軍墓地(呉市上長迫町)
     海軍墓地
 海軍軍人・軍属の埋葬地として、1890年に海軍が設置した墓地です。
 戦後、整備されて1986年に呉市に無償譲与されました。
 ここには個人墓碑164基、慰霊碑88基があり(1994年9月現在)、慰霊碑は近年も相次いで建立されています。
そのほとんどが、市民の戦争犠牲者の慰霊碑よりも大きく、碑文は海軍の「栄光」をたたえる内容になっています。
慰霊祭には自衛隊の儀丈兵も参加しています。 

(5)入船山記念館(呉市寺町4)
     入船山記念館
 この地は長らく、亀山神社の鎮座地でしたが、呉海軍鎮守府の設置によって1889年には軍政会議所水支社、1905年からは鎮守府歴代長官の官舎として使用されてきました。
 戦後、1956年まで占領軍が使用していましたが呉市史跡となり1967年から一般公開されています。
 海軍を懐かしみ、賛美する内容の展示が多く、鎮守府長官の官舎は巨費を投じて1905年当時そのままに復元される予定です。

(6) 第6号潜水艦殉難顕彰碑(呉市西三津田町 鯛乃宮神社)
 1910(明治43)年4月15日に岩国沖で遭難した第6号潜水艇の佐久間艇長をはじめとする乗組員14人の慰霊碑です。
 「死ぬ寸前まで任務を遂行した」として、佐久間艇長は「軍神」とされ、軍歌や、戦前の教科書にも登場し「国民精神の鑑」とされました。
 毎年4月15日には呉市関係者も出席して慰霊祭が行なわれています。

(7)工僚神社(呉市広両谷3丁目 舟津神社)
     工僚神社
 1945年5月5日の広工廠空襲での犠牲者の霊を慰めるために建立され、1946年(昭和21)11月24日に建立鎮座祭が行なわれました。
 それ以来、一般に広地区工業関係殉職者の霊も合祀されています。
 毎年5月5日に慰霊祭が行なわれています。

《 資料 》「広第11海軍航空廠戦災犠牲者の慰霊祭」(例 2005年5月5日 )
 例年のように、空襲記念日に工僚神社(広高校前 船津神社内)で慰霊祭が行われました。
   船津神社鳥居  船津神社由緒  船津神社  工僚神社
   祭殿  祭神  慰霊祭  慰霊祭
   祝詞  「祝詞」(読み下し文)

(8)戦死者の碑(呉市広黄幡町)
  戦死者之碑

 米軍費幡弾薬庫の区域内にある山の上にあります。
 1945年5月5日の広工廠空襲での一般地域の犠牲者を慰霊するために、
長浜・津久茂振興会によって1950年(昭和25)5月5日に建立されました。
 碑の裏側には、「昭和20年5月5日戦死」として12人の方の名前が、また、発起人の方の名前などが刻まれています。

(9)殉職者招魂碑(呉市二河町 スポーツ会館前)
     殉職者招魂碑
 この碑は1922年(大正11)12月23日に建てられました。
 1893年(明治26)から1945年(昭和20)までの呉海軍工廠での殉職者を祀る招魂碑でしたが、
1975年(昭和50)8月15日から、呉軍港創設以降の呉海軍鎮守府管下非戦闘員の殉職者が合祀され、名簿も納められています。
 毎年7月1日の呉戦災記念日にはここで慰霊祭が行なわれています。


I謎の地下工場(呉海軍工廠、広海軍工廠・第1海軍航空廠)

1.呉海軍工廠の地下工場
 呉海軍工廠の移転計画は1944年(昭和19)3月に作成され、一部移転はその年内に、主要工場の移転は1945年から開始されました。
地下工場への移転は、空襲を受けても戦争を継続しようとする軍部の強い意志のあらわれでした。
 広海軍工廠・第11航空廠の地下工場への移転も同時期に行なわれています。
呉海軍工廠の最大の地下工場は「宮原第一地下工場」です。幅370メートルの間に少なくとも19の入り口があり、奥行は120メートルありました。

2.広海軍工廠・第11海軍航空廠の地下工場
 広海軍工廠・第11海軍航空廠は、日本海軍の航空機エンジン生産の拠点でした。
 空襲をさけて生産を続けるために、この軍需工場は中国・四国地方に幅広く分散疎開され、また工場周辺の山ぞいには多くの地下工場が造成されました。
 その数は88ヵ所にもおよんでおり、5月5日の空襲後もそこで部品生産が続けられました。
 この地下工場や防空壕の掘削には、徴用されていた朝鮮人も使用され、広地区には多くの朝鮮人用の宿舎がありました。
 現在のアメリカ陸軍の広弾薬庫も、この地下工場の跡を利用して造られています。

3.その他
 現在使用されている長の木トンネル、魚見山トンネル、旧黒瀬トンネルなども、もとは海軍の地下工場・軍需倉庫として造られていたものです。
 他にも、呉市内各地・倉橋島・江田島・能美島などに、地下工場の跡は数多くみられます。


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