1 平和教育教材

  平和教育への取り組み例

 A、 「反戦水兵と戦艦大和で語る日本国憲法」の授業例

 「反戦水兵と戦艦大和で語る日本国憲法の授業」
         是恒高志(これつね たかし) (中学校教師、歴教協会員)

《注記》
 《2009年、日本国憲法の授業として、呉市の戦前史に記録される反戦水兵のたたかい、
呉で建造された戦艦「大和」を教材に取り上げ、紙芝居を利用した授業をされました。
 この実践は、月刊誌『歴史地理教育』09年5月号、広島教育研究所発行の
『ヒロシマの子育て・教育』第210号(09年7月)に紹介されました。》

《以下、本文》

 今日、改憲して「戦争をできる国」に変えようとする勢力は、歴史認識をゆがめるさまざまな策動をめぐらしています。
そんな中、呉でも「世界一の戦艦大和」で町おこしがはかられ、今や町のシンボルとなり、
特攻が美化され、その陰で侵略戦争の真実がかき消されています。
 私たち社会科教師は、2010年以降、もしかしたら《憲法改定の》国民投票をするかもしれない若い世代に、
悲惨な戦争を体験した人々が焼け跡で「戦争放棄]を支持し、平和な国で生きていけると感じた希望を、
その歴史的な背景とともに丁寧に教えていかなければならないのではないでしょうか。
 以下の内容は中学校公民分野の「日本国憲法の基本原則」の授業実践を、
「反戦水兵と戦艦大和」に関する資料を用いて行ったものです。

 一 憲法は国民に対する政府の誓約書

 まず、次の発問から授業に入る。

 310万人、1000万人、2000万人というのはどういう数字でしよう?
 15年戦争を学習しているので「戦争で死んだ死者の数字」という答えがでます。
 310万人は《広島、長崎の被爆死者を含め)空襲や飢餓、戦禍で亡くなった日本人の数。
1000万人は満州事変以来、日本帝国と一番長く戦った中国人の死者数。
そして2000万人はアジア全体の死者数です。
 そういう歴史の授業を踏まえた上で、「だから日本国憲法前文に『日本国民は…
政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないよう決意し…」と書き込んだ」ことを説明します。
 さらに「この前文と第九条で、政府に対して『戦争をしないこと』を、国民が命令し、約束させ、しばりつけたのだ」と話し、憲法そのものの意味−政府の国民に対する誓約書−であることを明確につかませます。

 二 国民主権を戦艦大和から考えてみる

 つぎに、戦艦大和の写真を見せて以下の質問をします。

 ◎ 戦艦大和はどこの国と戦うことを想定してつくられたのでしょう?
 ◎ いつごろから建造が始まったのでしょうか?
  A 日中戦争を始めた1937年
  B ドイツがポーランド侵攻を始めた1939年
  C 真珠湾攻撃をおこなう前の1940年

 最初の質問には「アメリカ」と答えるが、次の問いに対して生徒の答えはAかBに集中する。
「さてBならば1〜2年で巨大戦艦が建造できるだろうか」と、いろいろ考えをめぐらす。
 答えはAの1937年の11月である。
この年の7月7日、日中戦争が日本軍によって起こされ、11月といえば短期決戦の方針の下、
上海から南京にむけて遮二無二に攻めていた時期だ。
ということは日中戦争がやがて日米の対立を深め、太平洋を戦場とすることは想定内だった。
つまり「蒋介石とルーズベルトの策略にひきずりこまれた戦争」(田母神元空自幕僚長)という
歴史の歪曲は明白で、実は日中戦争のころから来るべき対米戦争に対して主体的に準備していたのである。

 さらに、次の質問を重ねてゆく。

 ところで、大和の建造を国民は知っていたでしょうか?

これには「知っていた」「知らなかった」と意見がわれる。
今日の常識で言えば、長さ264mもある巨大戦艦を国民の目の届かないところで建造することのほうが難しいから、
「隠しようがない」ということなんだろうが、この時日本中からシュロ縄が消えたと言われている。
そのわけは日本中のシュロ縄を買い集めて巨大な大和のドッグをシュロ縄のカーテンで覆って、
何を建造しているのか見えないようにしたからだ。
それでも呉の海軍工廠で働く工員の目には入っただろうに。
しかし、工員には一切「見たことを口に出さないように」と緘口令が布かれた。
さらに、大和のドッグが見下ろせる道には通称「目隠しの塀」が築かれ、
呉線の列車の窓はブラインドが下ろされた。
すべて「軍機保護」の名の下に。つまり、当時の日本は「国民は黙って国家に従うもの」という体制になっていた。
国民主権ではない時代、戦争は国民の意思とは関係のないところで準備されていた。
そのことを歴史の教訓にして、日本国憲法は「主権が国民に存することを宣言し、
この憲法を確定する」というように、主権をもった国民が政府の行為をきびしく監視することを原則にした。

 三 反戦水兵で基本的人権について考える

 話はさかのぼって、1932年1月、前年の満州事変に続いて上海でも
「日本人僧侶殺害事件」という謀略によって戦闘がはじまった。
日本海軍は「帝国の権益確保」のためと称して、呉から陸戦隊や軍艦を出撃させた。
そして、小学生をふくめた数千人の呉市民が日の丸の小旗をふって「万歳、万歳」の声で送り出した。

  呉軍港から出撃していく艦隊の絵
 (紙芝居「呉の歴史物語―戦争と闘った水兵たちと戦艦大和―」より)

しかし、中国軍と上海市民の抵抗は激しく、出動から6日後には最初の戦死者の無言の帰還が始まり、
その後も手や足をもがれたり、盲目になった負傷兵が送還されるようになり、
それらの人は呉海軍病院(現国立呉病院)に収容された。

※ 1/28〜5/5までに戦死者769名、戦傷者2322名、合計で3091名、損害率17%という犠牲を出した。
そしてその時、上海事変がはじまって間もない2月中旬、「帝国主義戦争反対」を訴える
ガリ版4ページだての新聞「聳ゆるマスト」が阪口喜一郎元水兵らによって発行され、
呉軍港内の現役水兵たちによって配達されていった。

  聳ゆるマストを印刷する阪口たちの絵

 坂口たちはどうして反戦活動をおこしたのだろう

 当時の軍隊内では、「いざというときは天皇のために死ぬ」という忠君愛国教育を土台に、
「上官の命令は天皇の命令」(軍人勅諭)で絶対服従の精神が叩き込まれていた。
しかし、1920年代の大正デモクラシーや労働運動の空気を吸って育った阪口たちは、
「働く者が貧しいのはどうしてなのか」という素朴な疑問から社会のしくみを真剣に学習し、
その結果、人が人として大切にされる社会に自己の存在を懸けるようになっていった。
また、水兵の中には、「天皇の赤子(せきし)と言うくせにどうして上官は暴力(ビンタ)をふるうのか」とか、
「読書の自由」や「外出の自由」がないこと、または「親兄弟からの手紙を検閲」することに対する不満が渦巻いていた。
さらに、第一次山東出兵(1927年)の時、
日本資本の工場で中国人労働者を銃剣で監視する任務に就かされた水兵の中には、
「これじゃあ中国人を苦しめる資本家の雇い兵じゃないか」と軍隊のあり方に疑問を持つ者もいた。
そんな水兵たちに、
「戦争で死んだり傷ついたりして働けない身体になるのは実につまらないことだ」、
「そうなったら年老いた親をだれが面倒みてくれるのか」、
「そもそもこの戦争は一体だれのための、何のための戦争なのか」、
「団結して戦争をやめさせよう」と「聳ゆるマスト」で訴えた。
それは水兵の手から手に渡り、「乾いた土に水がしみこむように」読まれていった。
その数100部、これは呉軍港内の1万水兵の1%にあたる数であった。

さて、この反戦水兵たちのその後の運命は?

 「殺された!?」と生徒。

そう、もし反戦活動が広がればその後の日中戦争からアジア・太平洋戦争はなかったわけだから、
戦争反対を唱えるだけで存在が許されなかったわけだ。
このように戦争は自由な意見表明や考えを押しつぶして遂行される。
そして、自由な思想や言論を封殺するために機能したのが治安維持法である。
阪口たち反戦水兵はアカの思想犯として逮捕され、投獄された。
その後阪口喜一郎は1933年12月、広島刑務所で看守に殴り殺された。

   拷問される阪口の絵(前掲の紙芝居より)

こういう歴史の教訓にたって、日本国憲法は
「思想・良心の自由」「表現の自由」をもった自由な個人が社会の基盤であり、
その個人は人として尊重されなければならないこと、
つまり基本的人権の尊重を3つ目の原則としたのだ。

 四 子どもを盾にして何を守ろうとしたのでしょうか

 さて、「戦争反対」を言えば「非国民」とか「アカ」といわれて捕らえられ投獄されるようになると、
誰もがそのレッテルを貼られたくないがために、いやおうなく戦争に協力させられるようになった。
そして、子どもも戦争に駆り立てられていった。
そのことを学徒動員の絵、米軍の捕虜となった沖縄の鉄血勤皇隊の15歳と16歳の少年の写真、
知覧特攻記念館の子犬を抱く少年兵の写真で語った。
さらに御前会議の絵を見せて、
このとき「国体が護持されることを条件にポツダム宣言を受諾する」といって戦争をやめた。
国民の生命よりも国体(天皇制)が優先されたのだ。
その後、この国体(天皇制)は「象徴天皇」という形で残ったが、憲法研究会の鈴木安蔵らの努力で
「将来、その問題は主権者である国民自身がこれを決める」という意味で
「その地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」となった。

 五 生徒の感想

 テストに次のような問題を出した。

「日本国憲法の基本原則について、それらの原則が取り入れられた歴史的背景を説明しなさい。」

これに対して、
「阪口喜一郎ら水兵が戦争に反対する活動を行ったが、逮捕され、治安維持法違反で刑をうけた。
<中略>この反省から人の権利は尊重すべきという考えになった」と、
「反省」つまり歴史の教訓にたって日本国憲法を捉えられた生徒が多かった。
また、阪口喜一郎は刑を受ける前に殺されたが、彼らが願ったことは日本国憲法で実現した。
その意味で、今後さらに阪口喜一郎を顕彰し、この地域にも日本国憲法の源流があったことを、
生徒達が戦艦大和以上に誇りに感じていけるようにしたい。

※ 絵は拙作の紙芝居で、下記『「紙芝居」を見る』をクリックすれば見れます。

参考文献:山岸一章著「聳ゆるマスト」新日本出版
池田太郎作「小説日本の青空〜安蔵そして作造・悦三郎」



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