1、 平和教育教材


 B. 「呉の戦災の実態と意義」

(1)呉空襲の概況・経過

1、 3月19日午前7時20分から11時まで、米海軍第58機動部隊の艦載機(グラマンF6等)350機が、
沖縄上陸作戦の事前作戦として、呉港内の主力艦隊を主目標に飛来。
併せて海軍工廠、広工廠、江田島兵学校も機銃掃射、爆撃が行われ大損害を受げた。
とぱっちりは民家こも及び、海岸通、宮原通りも被災し、市民29人・工員61人の死者、
163人の負傷者、347人の罹災者、その他、建物・山林の焼失をだす中国地方最初の空襲であった。

2、 5月5日10時から約30分間、マリアナ基地第58・73部隊のB29戦略爆撃機約148機が
広工廠、11空廠等、航空機関係施設を主目標に、594tの爆弾を投下。
広駅・名田・大新開・長浜の民家も被災し、市民28人、工員120人の死者、155人の負傷者があり、
学徒動員の呉一中の生徒4人も、犠牲となった。

3、 6月22日9時半から約1時間、B29・162機が呉工廠を主目標に、爆弾841tを投下。
工廠を大破すると共に、死傷者325人、市民69人を出し、宮原原・警固屋・音戸で被害が大きく、女子挺身隊約150人も、悲惨な死をとげた。

4、 7月1日23時50分から翌2日2時30分頃まで、マリアナ基地第20空軍・第21爆撃兵団発進の152機のが、
豊後水道から呉上空に達し、宮原・八幡・和庄・寺迫等、休山の山麓から手始めに、まづ周辺部から無差別の「じゅうたん爆撃」を加え、
ついで、灰ケ峰から本通・中通りと焼夷弾攻撃を加えて、市街地全域を炎上させ、 その後、阿賀・広・仁方地区を攻撃した。
投下された焼夷弾は1.081t、約8万発、死者1.117人、負傷者453人、家屋22.052戸が焼失、罹災者は122.535人に達し、
官公庁21、学校18、病院3、社寺10、工場33、軍施設27を焼き、2日午前7時頃、焼き尽して鎮火した。
市街地の防空壕で蒸し焼きになり、井戸・道路でも焼かれて多くの人が悲惨な死をとげた。

5、 7月24日6時から12時、7月28日6時から16時半頃まで、艦載機延870機、
950機がそれぞれ来襲し、残存軍艦は「呉沖海空戦」と言われる1日にわたる攻撃で全滅し、
826人の戦死者を出したが、当時、日本軍艦が民家間近に停泊していたため、
この「海空戦」のとばっちりは、呉周辺の市民に及び、警固屋、音戸、倉橋で、119人が死に負傷者は249人に達した。

(2)呉空襲の規模と被害

飛来爆撃機数(B29、艦載機、その他)
 @東京 3.129.機  A大阪 2.670.機  B呉 2.148.機
 B呉空襲機=2.148機のうち、
   第20航空軍・B29=470機、艦載機=1.563機、
   沖縄基地(第7,第5軍)=115機

爆弾投下トン数
 @東京 16561トン A名古屋 14689トン B大阪 11217トン
 C神戸 6174トン D呉 3820トン

` 高性能爆弾投下トン数
 @名古屋 4068トン A東京 4000トン B大阪 3431トン
 C呉 2634トン

死者 市民2071人、軍人工員1,629、重傷1992、輕傷661、行方不明67、
全壊家屋 503戸、半壊718、 全焼22,148、半焼139、 罹災126,571人

(3)呉空襲の性格

@ 他都市との共通点は、 総戦力の一環として銃後の軍需工業への爆撃(5・5,6・22)
   国際法無視の市街地に対する残虐な無差別焼夷弾攻撃(7・1〉

A 他都市との相違点は、 「戦場」としての空襲(3・19,7・24,7・28)
   沖縄の地上戦、本土で唯一の呉での海空戦、が日本の中での戦場だった。

(4)太平洋戦争および呉空襲略年表

1931(昭和6)年  9・18事件(日中15年戦争はじまる)
 31(  8)年  ナチス政権成立、日本は国際連盟を脱退
 37( 12)年  7・7事件(日中全面戦争はじまる)
 38( 13)年  国家総動員法制定(綿、ガソリン切符制)
 39( 14)年  第2次世界大戦はじまる、国民徴用令
 40( 15)年  政党解散、(砂糖、マッチ切符制)
 41( 16)年  太平洋戦争はじまる(出版統制、米配給制)
 42( 17)年  ミッドウエー海戦(日本の敗退はじまる)
          米機動部隊の東京初空襲
 43( 18)年  イタリア降伏、学徒動員はじまる
 44( 19)年  サイパン陥落、神風特攻隊出撃
          B29、北九州を中国も成都より空襲
          工業施設に対する精密爆撃
 45( 20)年1月、ルメー将軍、無差別攻撃を主張
        3月、硫黄島が陥落、B29夜間低空無差別焼夷弾攻撃により、
           大都市攻撃
        3月19日 呉軍港空襲、機雷投下がはじまる
        5月、ドイツ降伏、東京・大阪・名古屋など6大都市が焼失
          5日、広第11航空廠、呉海軍工廠など、工業目標を攻撃
        6月、中小都市への焼夷弾攻撃はじまる
          22日、呉海軍工廠造兵部を爆弾攻撃
        7月1日、呉市街を夜間・低空・無差別・焼夷弾・攻撃
         24日、呉沖海空戦、日本帝国海軍の残存艦隊を攻撃
         28日、呉沖海空戦、日本帝国海軍は全滅
        8月6日、原爆ヒロシマ投下
          9日、原爆ナガサキ投下
         15日、ポツダム宣言受諾(日本敗戦)

(5)日本全体の空襲被害

 * 来襲米軍機(B29及び艦載機)
    400回 66,000機、投下爆弾16万t
 * 被災都市
    約150都市、うち100t以上68市、72市は軍事施設のない「平和都市」
 * 被害状況
    死者31万、不明2万4千、負傷35万1千、全焼家屋231万戸、罹災者2.100万人、
    軍需工場600箇所大破、疎開人口850万人
 * 学徒勤労動員
    小学生163万人、中学生160万人、大学等19万人、計343万人

(6)呉市の防空体制

 * 横穴式公共防空壕 26.000箇所、工場内防空壕 100箇所
   盛り土の退避壕 2.800箇所、工場内退避壕 702箇所
 * 個人待避壕(床下式防空壕)43.256箇所、横穴式防空壕 1.200箇所
 * 防空法による強制疎開 6.051戸(24,204人) 消防道路3本、小空地82箇所
   小学生3年以上集団疎開 4.062人(昭和20年4月より)

  (注記) 統計数字は、今も不十分なもので、資料により、まちまちです。



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