B.映画(ビデオ)「赤い月の街ー呉空襲ー」の鑑賞

  映画「赤い月の街ー呉空襲ー」 あれこれ鑑賞の手引き・用語

1、呉空襲関係の映像フイルムの入手

 アメリカ軍は戦時中、日本を空襲する際、多くの偵察写真や空襲中の写真・映画を撮った。
 戦後も、米国戦略爆撃調査団が爆撃の破壊効果を調査して記録し、ワシントンの国立公文書館に保存ていた。
 アメリカ国立公文書館は30年経過すると関係書類・写真・フィルムなどを一般公開します。
日米の戦争記録も1945年の終戦後、30年を経過しはじめ、順次公開されてきました。
 東京空襲を記録する会・全国空襲戦災を記録する会の代表・松浦総三氏らが渡米してコピーを入手した。
 その時、呉戦災を記録する会も入手を依頼し、貴重な映像フィルムを入手した。

2、10フィート運動の高まり

 1980年代になり、国立公文書館に保存してある資料を、プリントの実費を払えば日本に持ち帰ることが可能であることがわかり、
10フィートのコピー代金3千円の寄附を集め、買い戻す運動が起こりました。
 当時、全世界を十数回破壊してもあり余る程の核兵器が地上にあふれ、その数は4万発、広島型原爆の100万発以上の量と云われ、反戦・核軍縮を求める民間の運動が起こり始めた。
1882年、10フィート映画「人間をかえせ」や「予言」などが作られ、平和映画を作る10フィート映画運動が広まった。
 このような運動に刺激され、呉でも1985年「1フィート運動呉市民の会」を結成し、1口千円の寄付(完成後の映画鑑賞券代)で映像フィルムを買い戻し、呉空襲の映画を作る運動が始まった。

   《1フィート運動のポスター》

   《1フィート運動の参加募集ビラ表》    《1フィート運動の参加募集ビラ裏面》

3、入手した映像フィルムの利用

 1、約30分の映像に映し出された呉海軍工廠と撃沈・大破した軍艦の映像に解説を加えた。
 特に、呉海軍工廠の映像は、判り難いので、関係者に集まってもらい、映像を見ながら、解説してもらい、
それを基に、呉戦災を記録する会が、編集して、呉市内各地で上映し、1フィート運動を進めた。
 2、映像フィルムから写真を複製し、呉空襲・戦災展を開催し市民にアピールした。
 3、入手した映像フィルムをもとに、呉空襲の映画を製作しようとした。
  おりから、10フィート映画運動が行われていたので、呉もこれに倣い、
「1フィート運動呉市民の会」を結成し、市民各層の協力をえながら、
「赤い月の街ー呉空襲ー」の映画制作と上映運動に取り組んだ。

4、「1フィート運動呉市民の会」

 呉戦災を記録する会と呉映画センター(平和プロダクション)が核となり、呉市内の各層・各団体に協力を呼びかけた。
 映画制作への協力と、映画制作費の募金(1口千円で完成後の映画鑑賞券代)運動、
これらの運動を通して、平和運動を発展させ、各団体の親善・協同を深めようとした。
 この運動に賛同し、結集した団体・グループ・個人は、約30団体・300人にのぼった。
美術団体・画家、詩人、書家、音楽団体・オーケストラ・作曲家・演奏家・コーラスグループ、
影絵や人形劇のグループ、朗読・童話の話し手、映画同好会、寺院の僧侶、自治会・婦人会、
高校生の平和の集い、教職員組合・平和教育の運動家・歴史教育者、地方史研究団体、
平和団体・労働団体・民主団体、など、多彩な人々が結集した。
当時の呉の文化の最高水準を結集した感があり、文化運動としても特筆されるものだった。

5、「赤い月の街ー呉空襲ー」の映画制作

   《赤い月の街ー呉空襲ー」のチラシ表側》  《赤い月の街ー呉空襲ー」のチラシ裏側》

 あらすじは、呉市民の戦争・空襲体験記を基に、米国戦略爆撃調査団の撮影した映像フィルムを利用して、
セミ・ドキュメンタリー・タッチで描くことにした。
 足りないところは、影絵劇で補い、呉市の歴史や日本全体の戦争体制については、
「入船山記念館」や呉市史関係の刊行物の写真、ニュース映画の映像を利用することにした。
 大変だったのは、影絵の人形作りと撮影で、毎日深夜まで作業をし、演出にも苦労をした。
 例えば、空襲の時の煙は、数人がタバコの煙をむせながら吐いて、それらしく見せた。
 経費節約のため、プロは、監督・キャメラマン・フィルム編集者だけ雇って、他はすべて市民の協力で製作した。
 途中で、表現方法などで対立し、製作を中止する危機もあったが、監督・キャメラマン・編集者を交代し、監督を平和プロダクションの代表者がした。
 映画撮影のキャメラも平和プロダクションの物を使おうとしたが、壊れて写らず、レンタルで借りた。
 いろいろ困難はあっても意気に燃え、皆さんの献身的な協力で、完成させました。
 最大の難点は、資金不足で、1口千円の協力券は、約2千人が出資してくれましたが、約1千万円の制作費は回収できず、個人負担となりました。

6、「赤い月の街ー呉空襲ー」の主題歌

 その当時、「呉地区高校生平和の集い」の活動が活発で、呉戦災の遺跡めぐりをしていた。
そのなかで、6月22日・呉海軍工廠の空襲で亡くなった女子挺身隊員476人を悼んで立てられた「殉国の塔」に深い関心を寄せた。
 同じ年頃の女学生が、遠くは松江など、故郷を離れ、空襲で無残な死を遂げ、今も当時の年齢のまま、
防空頭巾の形をした石の下に眠っていることに心を痛めた。
 広高校2年生の鈴木君の作った「殉国の乙女の詩ー女子挺身隊の碑に捧げるー」が、
平和の集いで人気を博し、ギターを弾きながら歌っていた。
「赤い月の街ー呉空襲ー」の主題歌をこれにしようと決め、高名な現代詩の詩人・五藤さんに手を入れてもらい、
広島交響楽団の高田龍治さんに作(改)曲を依頼した。
出来た曲が「殉国の乙女に捧げる詩」で、わかりやすい歌詞と叙情的なメロデイは、映画の主題をよく表現している。


《用語解説》

1、鎮守府と呉海軍工廠
 1886年、海軍は全国の海面を五海軍区に分け、各区の軍港に鎮守府を置くことにした。
 これに先立って、1883年から測量を始め、第2海軍区の根拠地に呉港が最適と決定し、用地買収を進め、1986年から工事が始まった。
 1889年7月1日、呉鎮守府は開庁し、翌1890年4月23日、明治天皇も出席して正式の開庁式が行われた。
 艦船23隻が配備され、沿岸の警備と呉軍港の防備に当たった。
呉軍港は、艦隊の出撃基地・補給基地として、近代日本の対外戦争に大きな役割を果たして来た。
 呉鎮守府には開庁と同時に、軍艦を造る造船部と兵器を造る造兵部が置かれた。
日清戦争を境に発展させ、造船廠・造兵廠となり、日露戦争直前の1903年2つの廠が合併して呉海軍工廠となった。
 造船・造兵・造機・製鋼・会計の各部と需品庫がおかれ、艦船・兵器・弾薬の製造研究、改造と修理を行った。
1907年には、職工2万4千人を擁する東洋一の大工廠になった。さらに、1923年に広海軍工廠が発足し後に、広11航空廠が設立され、航空機の生産を始めた。
 敗戦時の労働者数は、呉海軍工廠で従業者が8万2千余人、学徒・女子挺身隊が1万8千余人、計10万余人、
広海軍工廠で従業員が4万2千余人、学徒・女子挺身隊が1万余人、計5万6千余人、総計で、15万2千8百余人と言われている。
 敗戦までに建造された艦船は、「大和」など戦艦5隻、航空母艦7隻、巡洋艦11隻、駆逐艦59隻、潜水艦59隻、
その他25隻、特殊潜航艇「蛟竜」百数10隻と言われている。

2、総力戦・動員体制

 19世紀までの戦争は、戦場で、武器を持った兵士同士が戦っていた。
19世紀末以後、現在では、科学技術・工業が発達し、軍艦・大砲・飛行機など兵器を作るには巨大な経済力や、
それを運用する政治力・思想宣伝など国家の全総力を挙げないと勝利できなくなった。
 国家が、国民をすべて統制管理し、戦争目的に最も合うように運用し、戦争に勝利するやり方を総力戦と言い、
相手の経済力・工業生産を破壊すれば戦争に勝てるから、働く一般国民までも攻撃対象にしだした。
 特に、飛行機の発達は、空襲により、戦場の後方=銃後の非武装の一般国民をたやすく攻撃できるようになり、戦争被害が甚大となってきた。
 第二次世界大戦で日本は、物資の統制・配給制をとり、労働力を統制・動員して軍需工場で働かせ、隣組制度を通して、国民生活を隅々まで支配した。
 学徒勤労動員・女子挺身隊・徴用工として、また朝鮮人などを強制的に労働力に利用した。
 赤紙(徴兵令状)で兵隊が招集されると、工場の労働者が不足し、軍需生産に支障をきたした。
 1939年に国民徴用令が定められ、白紙と呼ばれる徴用令状で国民を軍需工場に徴用(強制労働)していった。敗戦時に、その数は、616万人に達していた。
 呉・広の海軍工廠でも、戦況が悪化すると学徒動員と女子挺身隊の動員が行われた。
14歳以上の未婚の女子は女子挺身隊へ、国民学校高等科以上・中学生は勤労動員された。 約3万人の動員者は、呉市内のバラック建ての宿舎から隊列を組んで通勤した。
 さらに人手を補うために、70万人以上の朝鮮人の強制連行が行われた。
呉海軍工廠には、全羅南道などから強制連行し、1200人を力仕事に使い、約300人を呉市内の横穴防空壕堀りに使った。
広海軍工廠でも横穴防空壕堀りや地下工場堀りに従事させたといわれている。

3、 灯火管制
 空襲に備えて、1938年から灯火管制を始めた。飛行機から地上の目標物が見えないように、電灯を消すか、カバーをかけて、暗くした。
白壁には墨を塗り、町全体を黒くした。戦争が終わった実感は、明るい電灯での開放感のある生活だった。

4、建物疎開

 1944年1月、東京と名古屋に防空法による疎開命令を出し、続いて、各都市でも強制疎開が行われた。
これは、空襲に備え、木造住宅を壊して防火帯を作り延焼を食い止めようとした。
 呉でも1945年に6千戸余が対象となり、2万4千人余が強制的に家を壊され、防火帯道路が3本作られた。

5、防空壕・消火活動
 1939年、警防団が作られ、空襲に対する防空・消防・救護・避難などの任務を担った。
空襲時の家庭防火を警防団の指揮下に置き、隣保班を通して訓練を行った。
 防空頭巾に女性はモンペ、男性はゲートルを巻き、救急袋を持って日常行動をした。
消火方法はバケツと火たたきによる原始的な方法で、じゅうたん爆撃で焼夷弾が雨あられのように投下され、消火活動をしたことで多くの犠牲者を出した。
 空襲に備え、1942年に、家庭用待避所作りが始まった。
 床下に地下壕をつくり盛り土をした。焼夷弾の空襲で、家が焼け、多くの人が逃げ遅れて焼死した。
 横穴式防空壕も造られた。2m位の高さで、奥行きは30m位で、入り口に防護堤か扉をつけた。
 呉空襲のとき、防空壕の前の家が焼け、熱風と煙が入り、多くの人がブロイラーのようになって焼け死んだ。




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