A.「7月1日・呉空襲慰霊の日」  (学齢にあわせて語句にルビを振って下さい。)

   「呉空襲と学童疎開 Q & A 」

Q1.「7月1日」は、呉では、特別な日なのですか?
 A.「呉空襲犠牲者慰霊・恒久平和記念の日」です。

Q2.いつ、あった出来事なのですか?
 A.日本がアメリカや中国など、世界の45ヵ国と戦争していた、
1945(昭和20)年7月1日(日)深夜〜2日(月)です。

Q3.どんなことが、あったのですか。
 A.アメリカの爆撃機・B29.が150機飛来して、呉の市街に、焼夷弾を1千トン余り、12万発余り落とし、旧市街を焼き尽くしました。

Q4.どんな被害があったのですか?
 A.2千人余の人が焼き殺され、呉市街の中心部の337haが焼かれ、 12万5千人余が家を失いました。

Q5.なぜ、アメリカは呉を爆撃したのですか?
 A.呉は、呉海軍鎮守府のある軍港で、日本中の主要な軍艦が結集し、 戦争の拠点になっていた軍都でした。
また、東洋一の海軍工廠で軍艦や兵器を製造しており、呉を潰滅させて戦争に勝つためです。

Q6.呉の空襲を防ぐことは、できなかったのですか?
 A.呉の周りの山・灰が峰・休山などに砲台が置かれ、松山の海軍航空隊も防御をしたが、 B29の飛行高度が3千mと高く、高射砲も飛行機も届きませんでした。

Q7.呉市民は、どう防御しようとしましたか?
 A.床下ゆかした式防空壕を作ったり、横穴式防空壕を掘って、避難しました。
 焼夷弾が落ちて火災が発生したら消そうと、隣保班ごとに防火訓練をし、 町内の各所に防火水槽を作り、建物疎開で防火帯を作った。
 子どもは、縁故または集団疎開をして呉から避難した。→Q11参照

Q8.実際の空襲の時、それは役に立ちましたか?
 A.全く役に立たないどころか、逃げ遅れて、被害を増大させました。
 密集した木造家屋が燃えると、バケツの水では消せないで、物凄い熱風と煙が 防空壕の中に入り、
避難していた人たちはブロイラーのように蒸し焼きになり、黒焦げになりました。

Q9.焼夷弾とは、どんな爆弾ですか?
 A.集積焼夷弾E46は、38発の小型焼夷弾M69を内蔵して、地上3百mで分解され、 雨あられのように落下した。
 M69焼夷弾は、直径8cm、長さ50cmで中には膠化ガソリン (ナパーム)が詰まり、爆発すると火を吹いて、温度が千数百度になり、周辺数mが焼き尽くされた。

Q10.当時の子どもの生活はどうでしたか?
 A.すべて配給で、食べるものが無く、空腹で、つらい生活をしていた。
 学校へは、防空頭巾を被って集団で登下校し、勉強よりも軍事教練や勤労奉仕をしていた。
中学生は学徒動員で、工場で兵器などを造っていた。
家では、夜、灯火管制で光を戸外へ漏らさぬようにし、家の白壁は墨を塗って、敵機の目を晦まそうとした。

Q11.学童疎開はいつから、どのように行われましたか。
 A.1944年(昭和19)6月に、国民学校初等科(当時の小学校)3年以上6年までの児童で、
縁故疎開のできない児童を集団で疎開させることが、閣議で決定された。
 こうして、この年の8月ごろから東京をはじめ、全国の都市で、学童疎開が始まった。
 呉では、1945年(昭和20)3月19日の初空襲の翌日、20日に集団疎開の実施を決め、
3月31日に、鍋・坪内・宮原・横路の各国民学校が出発したのをはじめ、市内27校の3年生以上3732人が、
広島県高田郡など7郡の寺119ヵ所へ疎開した。
 疎開先の生活は飢えと不衛生に'悩まされ、年端もいかぬ児童たちの苦しく悲しかった 体験話にはことかかず、敗戦後の9月8日から10月にかけての引き揚げで終わった。

《呉空襲の特色》

 空襲は、「艦載機」(グラマン、ロッキード)や「B29戦略爆撃機」により行われた。
 艦載機による空襲は、日本海軍の艦隊集結地・兵站基地としての呉軍港を壊滅させる 目的で行なわれた。
 B29爆撃機による空襲は、軍事施設の破壊と一般市民居住地の焼失を期すアメリカ軍の 対日戦略目標に従って行われた。

 特に呉空襲の特色は、

1、日本本土で 沖縄戦と共に唯一の本格的な戦争が行われた。
 3月19日と7月24-28日に呉軍港の日本海軍艦艇を襲ったのは土佐沖まで接近してきた 航空母艦から発進した艦載機群で、呉は日米両海軍の本格的な戦闘が行なわれた「戦場」となり、戦闘には一般市民が巻き込まれ、多くの犠牲を出した。
 その点、呉空襲は沖縄戦と似た性格を持っている。

2、中四国地域の軍事と工業の中心都市だっため、中四国地域で最初の本格的な空襲が行われた。

3、呉空襲は、まず、沖縄の米軍上陸作戦に備え、呉港に結集していた帝国海軍連合艦隊との本格的な戦争である
呉軍港海空戦(1945.3.19.)に始まり、広海軍工廠の航空機工場(5.5.)、
呉海軍工廠の造兵器工場(6.22.)、 市街地への夜間無差別焼夷弾爆撃(7.1-2.)、
残存している帝国海軍連合艦隊を壊滅させようとする呉沖海空戦(7.24-28.)が行われた。

 特に7月1日-2日の呉市街地への無差別爆撃は、3月9日-10日の東京大空襲に始まり、
日本中の都市を焼き払った非人道的で残虐なジェノサイド(みな殺し爆撃)の一つとして 位置づけられるものだ。
 アメリカ軍は、日本側の「労働力の弱体化」「戦意喪失」を無差別爆撃の大義名分としていたが、
それに対して空襲の恐ろしさを国民に知らせようともせず、バケツリレーによる初期消火などといった方法で立ち向かわせようとした日本側の無策ぶりも被害を大きくした要因だ。

《米軍による呉空襲の規模》

・ 飛来爆撃機数(B29、艦載機、その他)
  (1)東京 3.129.機   (2)大阪 2.670.機
  (3)呉   2.148.機
    ・呉空襲機=2.148機のうち、    第20航空軍・B29=470機、
      艦載機=1.563機・・・本格的な戦場だったので艦載機の飛来数は1位。
      沖縄基地(第5、第7軍)=115機

・ 爆弾投下トン数
  (1)東京 16.561トン  (2)名古屋 14.689トン
  (3)大阪 11.217トン  (4)神戸   6.174トン  (5)呉 3.820トン

・ 高性能爆弾投下トン数
  (1)名古屋 4.068トン  (2)東京 4.000トン
  (3)大阪   3.431トン  (4)呉  2.634トン

《呉空襲の被害の概略》(県警資料から) 実態は未解明。

 死者 市民 2.071人 軍人・工員 1.629人
  重傷 1.992人 軽傷 661人 行方不明 67人
 家屋 全壊 503戸 半壊 718戸 全焼 22.148戸 半焼 139戸

 罹災者 126.571人
 ○小学3年以上疎開集団 4.062人(昭20年4月より)




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