「大和ミュージアム」 課題・見学記
2、「大和ミュージアム」見学記U
「明治の青年と日清・日露戦争 ー明治の呉と海軍ー」
はじめに
大和ミュージアムを設置した小笠原市長に替わって、選挙で勝った小村市長が2005年に就任し、
各種の改変が行われ、2007年4月から、大和ミュージアムは民営化された。
学芸員も、市史編纂室と共に入船山記念館と一体化された。
もともと大和ミュージアムは商工観光部の展示施設で、正規の博物館ではないが、
民営化されることにより、「商工観光」の側面が強調されてきた?、かどうか。
そんな事を考えながら、久しぶりに大和ミュージアムを訪れてみた。
企画展は、放映が始まった司馬遼太郎原作のNHKの大河ドラマ「坂の上の雲」に合わせて企画され、
3部構成で3年にわたり展開する予定で、長期企画の統一テーマは「明治の呉と海軍」らしい。
《見学の感想》 会場は撮影禁止なので、状況風景をお見せできません。残念!
率直な感想は、「看板に偽りあり」です。
展示主題は、「明治の青年と日清・日露戦争」ですが、「青年」は出てきません。
いや、僅かに正岡子規と秋山真之の簡単な資料が出ていたが、基本的には、功なり名を
遂げた中高年の有名人で占められていた。
日清・日露戦争当時の「青年」と言えば、殆どが兵卒と労働者です。
彼ら若者の働きや生活、思いというものが全く描かれていない。
描かれていたのは、都合の良い国威の発揚と呉海軍工廠の栄光だけでした。
例えば、日清戦争の勝利の原因を、清国より「軍隊の訓練度と新兵器の装備が勝っていた」からと解説しているので、
学芸員に「新兵器の装備が勝っていた」という話は初めて聞いた、具体的には、どんな新兵器ですか、と訊ねると、
「12センチ速射砲を清国より多く装備していた」。呉海軍工廠で、日本で始めて製造された。」と言い、
展示では、12センチ速射砲関係の展示が沢山されていました。
呉海軍工廠の兵器生産は、日清戦争後の明治30年代からで、日清戦争当時の海軍は、
英仏などの外国製でした。
また、日清両国の兵士の士気や訓練度の違いは、社会体制(近代化)の違いにあり
(注:清国は封建社会の専制社会で、将校は地主、兵士は農奴などで意識や目的が薄弱)
いかにも日本人や呉工廠が優れていたように描くのは、誇大表現であろう。
日清戦争の有名な絵に、水兵の傷ついた絵があるが、たとえば、一例を紹介すると、
(画面が出るのに、長い時間がかかります。)
黄海の海戦における松島 艦内の状況 などを見ても、心ある人は、公正に記述し、
都合の良いものだけ記述するような歴史の偽造をしたりしないものです。
今回の特別展は、常設展の戦争部分を詳細化したもので、NHKの大河ドラマに便乗した
悪しき商業主義の流れの中の展示で、「民営化」の一つの帰結かもしれない。
展示内容は少ないし、展示内容・方法も悪く、「400円は高い」という感じでした。
2009.12.4. 朝倉邦夫 記
企画展示「原爆と呉」展が、2005年8月6日から8月末まで開設されたが、
見ごたえのある、優れた展覧会であった。
この展示はもっと長期間、できれば常設して欲しかった。
そこで少しばかり印象に残った展示風景を紹介したい。
「原爆と呉」
目標候補都市
B29飛行経路
原爆投下地図
原爆投下と救援
救援活動
救援調査
救援陸戦隊
陸戦隊
米国の報道
北川報告
戦後呉では
原爆の構造
日本の原爆研究
被災図1
被災図2
(2005.8.9.記)
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