「大和ミュージアム」 課題・見学記

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   2、「大和ミュージアム」見学記T

       見学記U. 企画展


  T、総論「大和ミュージアム」をどう見るか  (開館にあたって)

  U、講演「軍事と科学技術を語る」 岩井忠熊 立命館大学名誉教授

  V、講義「戦争と技術、戦艦大和の最後」 戸高一成 大和ミュージアム館長

  W、大和ミュージアム シンポジウム『戦後60年「戦艦大和」を語る』

  X、大和ミュージアム開館 1周年を経て判ったこと

  Y、戸高一成館長の改憲推進論には問題がある

  Z、戸高一成館長は、「館長としての資格」を問われている



  T、総論「大和ミュージアム」をどう見るか  (開館にあたって)

 「戦争は、発明の父である。」とよく言われる。
 生命と財産、自由や命運をかけた戦争に勝つために、最大限の努力や能力を発揮するから、
当然に、武器を中心に発明工夫が行われ、それが民生に転用され、文明は進化し発展する。

 しかし、いくら文明を発展させても「人殺しの道具」を誇示する事は、「人の道」に反する「人間の恥」ではないでしょうか。
 本来、このような物は無い方が良いに決まっている。
やむを得ず造ったにしろ、人道に反した「恥ずかしい物」だという「人間的な反省」が必要ではないでしょうか。
 このような「人殺しの道具・兵器」を造ったことを「誇り」にする感覚は、自分では自慢かもしれないが、
他から見ると「人間的な理性」を失った「哀れな存在」と映るかもしれない。

 ましてや、設計思想において防御を軽視し、パイロットを無駄死にさせ、
中国侵略の尖兵として非人道的な無差別爆撃を行った「ゼロ戦」や
「世界三大馬鹿」(ピラミッド、万里の長城+?)と陰で酷評される「時代遅れの戦艦大和」は、
ただ、膨大なお金と人命を無駄遣いした「時代錯誤」の見本ではないか。

 20世紀で最も大きく科学技術を発展させ、後世に巨大な工業技術の遺産を残したのは、「原爆」である。
「大和」の功績は改良という「量」的な発展だが、「原爆」は「質」的な発展を人類にもたらした。
「原爆」の歴史的な有効性は「大和」の比ではない。
 「大和」と同様に、改良により「量」的な発展をさせたB29爆撃機は、現代の大型旅客機の原型・遺産として
大きな工業的・産業的、社会的な貢献をしているが、
呉や日本の市民を無差別に焼き殺し、ヒロシマに原爆を落とす役割を果たした。

 この人類史上最大の科学技術の発展をもたらした「原爆」やB29「エノラ・ゲイ」号を自慢げに展示することをしたら、
「ヒロシマ」の人を始め、日本や世界の人は何と思うであろうか。


 《 以下を追記》2017年4月1日

  「軍都広島と呉の近代化遺産の継承状況の比較」

 戦前、陸軍の軍都・広島市と海軍の軍都・呉市は似通った都市であった。
勿論、広島市は県都であり、歴史的にも藩政時代からの経済的・文化的な中心都市ではあったが、
呉軍港市の発展で、当時は、ほぼ似通った市街地や人口・産業構造を持っていた。

 戦争末期、米軍は空襲を効果的に行うため、事前に航空写真をとり、各種資料を集めて 近隣の両都市の「情報」を要約、比較検討をしていた。

 米軍の戦略爆撃計画の要請順位から、呉軍港の艦船、広11航空廠、呉海軍工廠、呉市街地へと一般兵器で空襲し、
比較のために爆撃しないで残しておいた広島市を原子爆弾で空襲した。

 戦後、比治山のABCCや呉共済病院のABCC分室で被爆者調査をするとともに
米国戦略爆撃調査団が被害状況を詳細に比較調査をして以後の戦争技術の発展に備え、
朝鮮戦争・ベトナム戦争・イラク戦争などでその成果を誇示し、人道無視の無差別爆撃を 普遍化させていった。

 戦後、米ソを中心にした冷戦対立のなかで、原水爆は特別な意味を持ち、ノーモア・ ヒロシマを合言葉に
平和運動の一環として広島市では原爆ドームを始めとして旧陸軍施設などを「負の遺産」として保存した。
 つまり、多大な惨禍を被った、あってほしくない存在だが、歴史の教訓として敢えて残した遺産である。
 これら「負の遺産」と平和祈念館などは多くの平和を求める人々の願いを示しながら、特に原爆ドームは世界遺産となり、
広島市の観光産業の一翼をも担って広島市の経済発展にも貢献している。

 これに対し、呉市の近代化遺産や大和ミュージアム、鉄のくじら館は、旧海軍の施設や技術を「正の遺産」として
将来に継承し発展さすべく位置付けている。
 つまり、戦後日本の歴史の展開のなかで、海上自衛隊がかっての施設・歴史遺産を継承して利用し、
民間産業もその軍事技術を継承し発展させてきた、呉市民の誇るべき優れた「正の遺産」だと市民にアピールしている。

 戦後70数年のなかで、よく似た近隣の広島市と呉市は大きく状況を変え、
広島市は軍事遺跡や戦災遺跡は「負の遺産」との立場を守り、平和都市として発展したが、
呉市は軍事遺産を「正の遺産」として誇示し、海上自衛隊と共存共栄の道をたどりながら、戦災遺跡や慰霊事業は敢えて放置してきている。

 軍事都市であったために、呉市は数千人の市民が焼き殺され、街は焼かれて廃墟となった歴史的な経験から
何を学び、何を後世に残し、どのような施設を創るべきか、よく考えてみたいものです。

 その意味で「戦艦大和」をどう見るか。「正の遺産」か「負の遺産」か。

 「ヤマト」は多くの技術的な遺産を残し、日本(海軍)の誇りある「正の遺産」と して伝承する考え方と
 多大な費用と人材をつぎ込んで時代遅れの建艦競争を行い、沖縄特攻で3000余名の兵士を犠牲にした「負の遺産」と見るか、
歴史を冷静に見つめ、どのような教訓を受け継ぐべきか、後世からその立場を問われています。


  呉戦災を記録する会   メール宛先 : kure-sensai@nifty.com


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