「大和ミュージアム」 課題・見学記
V、講義「戦争と技術、戦艦大和の最後」 要旨
2005年9月12日、大和ミュージアムにて
(平成17年度 広島大学公開講座 「広島から世界の平和について考える」第T回)
戸高一成 呉市海事歴史科学館 館長
維新後の日本が、西欧から最も積極的に導入したものは産業技術、中でも軍事に関わる技術であった。日清、日露の戦役を最新兵器の導入で、辛うじて勝利した日本は、兵器と言うハードウエアーに偏った一種の技術信仰に陥っていった。
国防戦略の部分として存在すべき軍備が、本来の目的である国家の要望とずれて行った経緯を、戦艦大和に見ることができる。(以上は案内文より)
(以下は講演要旨)
西洋科学の受容の経過と結果が、戦艦大和に象徴されている。
この戦艦大和を展示(研究)することで、日本の近代(技術)史を解明できる。これが当館の存在理由である。
(因みに、「技術と平和」が展示のテーマである。桑原功一学芸員の案内説明)
幕末明治の文明開化の仕方に問題があった。「和魂洋才」の間違いを指摘したい。
幕末、身分制の下でも職人への評価は高く、西欧技術の摂取が早かった。
他国は製品をカタログ化し、購入するのみだが、日本は技術を摂取する職人が居たので、工場を作ったとき、技術を持って働く職人が居た。
だから20年後には、いきなり東洋一の呉工廠を造り、1930年代には戦艦・大砲・潜水艦、ゼロ戦などが製造できる西欧と同一水準の、最高度の技術水準に達した。
図面は何処でも描けるが、造る人が居るかどうかが問題。ワシントン条約時代に戦艦の改造や修理を続けて仕事作りをし、養成工を育成した。
海軍軍縮以降、一点豪華主義で戦艦を4隻建造した。これは、大和を造るドックの設備があり、大砲・防御鋼鉄の設計技術などがあったからできたが、46C鋼板など無駄な設計もあった。
一般的に、どの軍艦でも出来るだけ大きな大砲と、出来るだけ標的にならない小さな船体を求めたので、大和のコンパクト化は、大和だけの特色ではない。大和の技術は、最先端の新技術はあまり導入されず、安定的な既成の技術を利用していた。
問題は、植民地化の危機の中で、軍備(ハード技術)を最大目標にして和魂洋才でマスターし、ソフト(科学的・合理的な運用)面を放置してきたことにある。
工業立国を急ぎ、運用面のソフトが欠けていた。だから例えば、戦艦大和の最後に観られる様な、西欧では考えられない使い方をした。
幕末明治の技術導入の際、科学と技術を分離した(和魂洋才)。軍艦などは自然科学、運用戦術は人文科学。大和をどのように使うか、何のために造るのか、の研究がない。
(戦艦の役割は、海戦で相手艦を砲撃することにあるが、大和はを旗艦(後備)に使って会戦させず、昭和19年、航空機時代になり、大和・武蔵は役に立たず、使うチャンスを失った。
技術のみでやってきた海軍が技術を放棄し、最後は特攻艦にして全く役に立てなかった。作戦目標が低く、大和の沖縄出撃を昼間にしたり、米軍を沖縄から駆逐する目的になっていない。間違った和魂洋才になった。)
しかし、戦艦大和は、何処の国も出来なかったものであり、今後も作られないから、空前絶後の世界一の戦艦である。
ただ、航空機時代に入った時代の大艦巨砲主義の問題は、時代の制約もあるが、技術導入と利用の仕方、技術と思想の統一がないこと、ハードとソフトの乖離の問題があった。
以上
(講義への感想)
技術史を全般的に観て、その中で、戦艦大和を象徴的に位置づける視点で一貫した筋立てになっている。
しかし、アジアで日本だけが特別に工業技術が急速に発展したのは、日本が優れていて、職人の技術があったから、西欧技術の摂取が急速に行なわれたとする論調は問題がある。
世界史を観ると工業技術(産業革命)は、社会体制が資本主義的な自由・平等を取り入れたときに発展するものである。そして、和魂洋才のハードとソフトの乖離の問題も、日本の社会体制・絶対主義的天皇制の問題から生じているものだ。
幕末の日本も、中国の清朝も問屋制(一部、工場制)手工業が発展し、共に職人の技術は高度に発展していた。
その中で、日本は明治維新で資本主義的な産業の自由・平等が実現し、農民や職人が工場労働者になれる条件が生まれ、官営の工場制から民営工場へと発展し、工業化への道が開かれていった。
中国の清朝では、封建社会が温存され、王朝官僚による中央集権的体制で自由・平等が抑圧され、資本主義的な自由がなく、産業(工業化)の発展が阻害されていた。
日中両国とも職人の技術は同じようにあったが、政治・社会体制の相違がその後の工業化・資本主義化の発展の相違をもたらしたのである。
たしかに日本は欧米の植民地化の危機の中で、軍需工業中心の技術摂取を急いだが、「資本主義的な自由」を絶対主義的天皇制の形成の中で抑圧し、西欧社会の基本理念である「民主主義・自由・平等」を罪悪視し、弾圧したので、技術的な自然科学しか発展できず、合理的な科学思想・ソフトを欠落させる和魂洋才になっていったのである。
絶対主義的な天皇制の下で、軍国主義を鼓吹し、アジアに対して軍事的な侵略戦争を継続した日本の軍需産業は、資金と人材を投入したから、当然、急速に発展し、早く世界水準に追いついた。
しかし、その技術の根底は、民主的で自由な合理精神を欠いており、宗教的な精神主義と国粋主義的な独善性に犯され、国民的な英知を集めることが出来なかった。
言われる様に、戦艦大和の最後は、この日本的でいびつな工業化の行き着いた姿であるが、それは絶対主義的な天皇制の下での、硬直した軍部官僚の行為の結果を示したものである。
多くの国民に計り知れない災厄をもたらした日本の軍国主義とそれを支えた軍需工業、その代表的な呉海軍工廠は、多くの技術を生み出し、蓄積した技術が戦後の民生用技術に転用された点も有るが、反面、その持つ本質から視野の狭い政治風土をはぐくみ、海軍・自衛隊に依存して生きる社会・産業構造に陥ってしまい、呉市の衰退を招いている。
このように戦艦大和の技術を世界史的な視野・資本主義の発展過程のうちから見るべきで、日本人の優秀性とか、職人が居たとか、個々の技術の優秀性を云々する狭い視野での発想は持つべきではない様に思われる。 以上
「大和ミュージアム」 課題・見学記に戻る
トップページ総目次に戻る