現在の呉軍港と呉市の現状

現在の呉軍港と呉市の現状

    《目次》

3.4.特集:現在の呉軍港風景
  D.16年ぶりのBlueRidge,LCC-19 が寄港(2013年3月)
  C.118年ぶりの中国海軍が寄港(2009年11月)
  B.ロシア艦隊の初寄港(2004年9月)
  A.2004.盆休みの呉港(2004年8月)

1、戦後の海上自衛隊呉総監部 (このページ)

2、付・広島県平和委員会の報告


5、呉軍港見学コース紹介


6、付・「大和ミュージアム」問題



  1、戦後の海上自衛隊呉総監部

 かって呉は、海軍基地が設置されたことによって人が集まり、やがて「呉市」になりました。
侵略戦争の拡大とともに基地は大規模化し、人口は増え、市域は拡大していきました。
このことは、よく「発展」ということはで表現されますが、同時に
「海軍に依存せざるを得ない」という、呉の体質ができあがっていったことは否めません。
 そして、アジア・太平洋戦争の末期には、呉は激烈な空襲をくりかえして受け、海軍とともに壊滅したのです。


廃虚と化した呉海軍工廠造兵部と呉港遠景



爆撃で破壊された呉海軍工廠の惨状


 戦後の呉の最大の課題は、海軍が消滅してしまったところからどうやって立ち直るか、でした。
 その悩み・迷いのなかから、海軍施設の平和的利用をしようという考えが生まれ、
1950年(昭和25)6月に「旧軍港市転換法」が呉市民の圧倒的支持をえて、公布されたのです。
それは「平和産業港湾都市」として呉があゆんでいく第一歩でした。
 しかし、同じ1950年に始まった朝鮮戦争は連合国軍総司令部(GHQ)の
対日政策を変えてしまい、戦後日本の再軍備化を促進させました。
それにともなって、呉には再び軍艦の姿がみられるようになり、
やがて海上自衛隊の設置により「基地の街」という姿に戻って、現在にいたっています。
 海軍施設は、かなりの部分が産業用地として転用されましたが、
現在も基地のある場所は、そのほとんどがいわゆる[一等地]であり、
また呉湾内中心部の140万平方メートルが自衛隊占有海域となっており、
民間船舶の立ち入れない場所となっています。
市内の国道を、弾薬を積んだトラックが走ることもあります。

戦艦大和のブリッジを模した呉市役所

 呉市は「平和産業港湾都市」、そして「非核平和都市」を名乗り、
同時に市の基本姿勢として、基地との「共存共栄」をうたっています。
 軍事基地・軍事施設とともに歩んできた呉の歴史を振り返ることにより、
私たちは、呉の平和的な発展を思い描いていくことができるはずです。

(2) 海上自衛隊の沿革
 呉の海上自衛隊の前身は、旧海軍出身者で編成され、艦船は旧海軍の残存艦船でした。
戦争中にアメリカ軍によって投下された機雷の処理をする掃海艦艇と、
侵略戦争の政策で海外に行っていた日本人(軍人、軍属など)の
引き揚げをする復員艦船が、その中心でした。

 以下、呉海上自衛隊の設置までの過程を示してみます。

1945(昭和20)年12月1日……海軍省は「第二復員省」、呉海軍鎮守府は「呉地方復員局」となり、
            掃海艦艇は呉地方復員局の掃海部所属となる。
1948(昭和23)年1月1日……掃海艦艇は運輸省海運総高の掃海艦艇部所属となる。
1950(昭和25)年6月4日……「海上保安庁」設置で、掃海艦艇は、
              第六管区海上保安本部所属に変わる。
       6月25日……朝鮮戦争が始まる。
       10月11日……朝鮮・元山神で、掃海開始。
        17日…掃海艦艇MS14号艇、元山沖で触雷沈没。死者1名。
    ※この年「警察予備隊」(陸上自衛隊の前身)が設立される。
1952(昭和27)年4月26日……海上保安庁が「海上警備隊」に改称される。
       8月 1日………「保安庁」が設置され、海上警備隊は「警備隊」に改称される。
       11月1日……10個の掃海隊が結成され、「呉航路啓開隊」となる。
1954(昭和29)年 7月11日……「防衛庁」が設置され、保安庁警備隊は「海上自衛隊」となり、
              「海上自衛隊呉地方総監部」が発足。

(3) 海上自衛隊・呉基地の特徴

@海外派兵の出撃基地
 1991年4月26日、自衛隊としては初めて掃海母艦「はやせ」、補給艦「ときわ」以下、
掃海艇4隻が呉基地からペルシャ湾へ派遣されました。
 独立した主権国家としての初の海外派兵となったのです。
さらに1992年9月17日には、カンボジアPKOとして補給艦「とわだ」以下、
輸送船2隻が派遣されています。
 湾岸戦争時にペルシャ湾へ掃海艇群を派遣、アフガン戦争時に補給艦群を、
東チモールPKOに補給艦を派遣しています。

A掃海部隊基地
 呉は、現在日本に2群ある掃海豚群のうち第1掃海豚群「はやせ」以下10隻の基地です。
掃海部隊は、「実戦」経験を積んだ唯一の海上自衛艦隊です。

B潜水艦部隊基地
 呉は、現在日本に2群ある潜水隊群のうち、第1潜水隊群「ふしみ」以下の
支援艦2隻と、潜水艦9隻の基地です(第2潜水隊群は横須賀)。
1980年代後半から、潜水艦部隊基地の施設は強化されています。
 また、潜水艦の音紋(スクリュー音)情報を収集する音響測定艦
「ひびき」「はりま」の2隻は呉にのみ配備されています。

C海上自衛隊教育の中枢基地
 呉には、呉教育隊と、海上自衛隊唯一の潜水艦教育訓練隊があります。
江田島には旧海軍兵学校の流れをくむ幹部候補生学校と、第一術科学校があります。
練習艦隊司令部も1994年1月、横須賀から移転してきました。
 呉は海上自衛隊教育の中枢基地といえます。

D海上自衛隊最大の燃料・弾薬補給基地
 旧海軍の地下タンク・トンネルタンクを利用した吉浦貯油所の貯油能力は
11万5400キロリットルであり、海上自衛隊最大の燃料基地となっています。
 給油は陸上・航空自衛隊や、アメリカ軍に対しても行なわれ、
艦船が接岸できる燃料補給専用桟橋もあります。
 また切串弾薬庫(江田島)には、1993年1月に海上自衛隊初の弾薬補給桟橋が完成しました。
呉補給所は、貯油量で、海上自衛隊の50パーセントをしめる、最大の貯蔵能力・補給能力を持っています。

EIDDN(防衛統合デジタル通信網)の基地
 IDDNは、東京・市ケ谷(防衛庁所在地)を拠点にした、太平洋側と日本海側の
2つの本線と、本線から枝分かれした支線であり、
全国の陸上・海上・航空自衛隊基地を統合しています。以前は別系統であった、
陸・海・空の指揮および通信系統が、これにより一本化されたのです。
 1990-1991年にかけて、呉総監部には2個のパラボラアンテナが設置されました。
パラボラアンテナ基地は全国8ヵ所にあり、呉はそのひとつです。

Fアメリカ海軍・核兵器積載艦の入港基地
 アメリカ海軍艦船の母港となっている横須賀・佐世保に次いで、
呉にはアメリカ海軍艦船がよく入港してきます。
 その中には核兵器積載の疑いがある艦艇も多くあり、その数は1971年以降、1994年まで56隻にのぼっています。

(4) アメリカ陸軍秋月弾薬蔽
   (在日米軍・第9軍・第17地域支援軍・第83兵器大隊)
 アメリカ陸軍秋月弾薬廠の司令部は、呉市昭和町・海上自衛隊潜水艦基地の隣に
置かれています(1983年3月に江田島から新築移転)。
 傘下に広弾薬庫(呉市広黄幡町)、秋月弾薬庫(江田島町秋月)、
川上弾薬庫(東広島市八本松町)、知花サイト(沖縄県)があります。
 広島県内3弾薬庫の弾薬貯蔵量は11万5千トンで、アメリカ軍が太平洋戦争中に
日本に投下した爆弾総量16万トンのおよそ72パーセントにあたります。

@秋月弾薬廠の役割
 秋月弾薬廠には、1988年からアメリカ前方展開軍(実戦部隊)用の事前集積船に対して
弾薬を補給する任務が変わり、実際の戦場と直結する度合いがより強化されました。
 1991年の湾岸戦争の時に、広弾薬庫からペルシャ湾のアメリカ軍艦船へ
弾薬が運ばれたことは、記憶に新しいところです。

A住民生活と弾薬庫
 民家や公共施設と弾薬庫の間の保安距離は、アメリカ国防省の規定では
660メートルですが広島県内の3弾薬庫から660メートル以内には1000月以上の
民家があります(ちなみにアメリカ軍岩国基地では弾薬庫から
660メートル以上離して兵舎などが建てられている)。
呉市議会が過去6回議決した全面返還要求も、これまで無視されたままです。



海上自衛隊 呉地方総監部

09艦艇配備状況 呉基地配備の艦艇数は全国で最大である。

米軍呉司令部 看板1

米軍呉司令部 看板2

潜水艦桟橋

潜水艦




現在の呉軍港と呉市の現状に戻る

トップページ総目次に戻る