現在の呉軍港と呉市の現状
広島県平和委員会の報告(基地ガイドブック)
2012呉基地ガイドブック表紙  目次・購入先



  《 呉軍港の関係部分を抜粋して紹介します。以下、改定編集中 2012.8.》
    【臨時・特別資料】 2012呉基地ガイドブック

  海上自衛隊 呉地方総監部

   09艦艇配備状況 呉基地配備の艦艇数は全国で最大である。

   米軍呉司令部 看板1   米軍呉司令部 看板2

潜水艦桟橋  ひびき5201  日新製鋼

広島県内の米軍・自衛隊・軍需産業の関係地図

呉・江田島地区の海上自衛隊の地図

呉港内の米軍・海上自衛隊の地図

   イラク戦争参戦と広島県内基地の危険な動向

I.地球的規模の米軍再編に呼応した三つの危険な動き

第一は、「日米同盟」の世界化というべき動きです。

 1996年の「日米安保共同宣言」は、日米軍事同盟を「アジア・太平洋地域」へと拡大することを主眼にしたものでしたが、いま進められているのは、「日米同盟」の文字どおりの地球的規模への拡大にほかなりません。
 イラク戦争のような先制攻撃の戦争に、世界のどこでも参戦していく態勢づくりがすすめられようとしています。

第二は、米軍と自衛隊の一体化の動きです。

在日米軍と自衛隊の基地の共同使用の拡大、演習と運用の一体化の推進がはかられています。自衛隊の本来任務に「国際活動]を位置づけ、「海外派兵」への本格的な変質をはかる自衛隊法改悪のだくらみも、この流れのなかに位置づけられたものです。
 日米支配層の憲法九条改悪の強い衝動もこのことに由来するものです。

第三は、在日米軍基地の司令部機能、機動性の強化です。

神奈川県では米軍座間基地への米陸軍第一軍団司令部の移設、横須賀基地への米原子力空母の配備計画が、また、山口県岩国基地の拡大とNLP(夜間離着陸訓練)移設の動きも重大です。

 呉軍港とテロ特措法
テロ特措法問題をみる

《具体的な課題と展望》

1、基地の問題でも憲法の問題でも、国民との根本的矛盾がある

「日米同盟」の侵略的な大変質路線は、様々な形で国民の抵抗に直面しています。
 特に、沖縄や神奈川の座間、横須賀、静岡・東富士、岩国など各地で米軍基地再編強化に対する自治体・住民ぐるみの反対運動が生まれています。
 この背景には、異常な米軍基地国家の下での深刻な基地被害とのたたかいの中で、
「基地の削減を」「これ以上の被害・増強はいや]という広範な自治体・住民の合意が形成されている状況があります。
 憲法九条を焦点とする憲法改悪も広範な国民世論との深刻な矛盾に直面しています。  各種世論調査でも、日本の外交の方向として安保強化より国連重視を望み、アメリカのイラク戦争や単独行動主義、それに追随する政府の姿勢に対する反対も多数を占めています。
 しかしアメリカの要求でいま進められようとしている憲法改悪は、まさにアメリカの海外での戦争に自衛隊を参加させ、海外で武力行使できるようにするものです。
 ここに国民との根本的矛盾があります。
 日本政府の侵略戦争無反省の姿勢に対し、中国、韓国はじめアジア諸国から厳しい批判がむけられています。それはこれが憲法改悪や海外派兵の動きが結びついていることにもむけられています。
 日本がこうした道を歩み続けることは、アジアと世界の中でいっそう孤立を深めるものです。

2、岩国基地と呉基地の一体性

(1)広島県西部5市町、岩国基地強化反対を国へ要請
  米厚木基地からの空母艦載機部隊と大黒神島への夜間離着陸訓練(NLP)の移転問題で、
岩国基地に近い広島県西部の廿日市市、大竹市、江田島市、大野町、宮島町は「断じて容認できない」と移転反対の要請書を、国へ共同で提出することをきめました。

 《トピックス》

  沖美町大黒神島へのNLP基地誘致計画
 …即座に盛りあがった反対世論で1週間後に白紙撤回・‥

 03年1月30日、沖美町長が米軍厚木基地の夜間発着訓練(NLP)施設を、同町大黒神島へ誘致することを町議会で表明。当日は早朝からNHKのトップニュースで報道され、広島に大きな衝撃が走りました。
 夜間発着訓練は、戦闘機が滑走路を空母の飛行甲板と見たてて、着陸と離陸を繰り返すタッチアンドゴーを行うなど、通常の訓練に比べて騒音が大変激しく、住民に耐えがたい苦痛を与えるとして、厚木でも三宅島でも、住民の大きな反対の声があがりました。
 一昨年(02年)10月には、第三次厚木基地騒音訴訟で、横浜地裁が27億円余の損害賠償の支払いを命じる判決を言い渡しています。
このような重大な問題をもつNLP基地を、基地交付金をエサに広島湾の入り口に造ろうとしたことに、広島の人々の怒りが爆発したのでした。広島では直ちに多くの団体が抗議行動に立ちあがり、県平和委員会も早速抗議文を政府に送付しました。
翌31日には、「広島共同センター」として、22名が県知事に要請行動を行い、これをマスコミが大きく報道し世論づくりに貢献しました。
 地元の沖美町でも、2月1日に漁協が理事会で誘致反対を決議。2日(日曜日)には町民有志が「沖美町の生活を守る会」を結成し、反対署名を集め始めました。
 次の週の初め3日(月曜日)からさらに反対の声が高まり、沖美町議会も「誘致反対」を申し合せました。「広島共同センター」も、4日の江能4町訪問行動、5日の昼休みデモと立て続けに抗議と宣伝行動を展開しました。
 大柿町など近隣の自治体の首長や議会も反対の声を上げ、ついに沖美町長のNLP基地誘致の「白紙撤回」表明を勝ち取ることができたのでした。  (以上)

(2)岩国の「殴りこみ」海兵隊 呉基地の輸送艦
  岩国に常駐しているのは、米海兵隊の航空部隊(FA−18「ホーネット戦闘攻撃隊」など)は、他国への「殴りこみ]を任務とする部隊です。
この部隊を輸送するのが、佐世保の「ベローウッド」などの揚陸艦です。この佐世保の揚陸艦と共同訓練をしているのが、呉基地の「おおすみ」などの第一輸送隊です。

(3)岩国の海自掃海ヘリと呉の掃海母艦と輸送艦は一体
  岩国の海自には、掃海ヘリMH−53Eが10機いますが、離着陸甲板を持つ呉の掃海母艦「ぶんご」や輸送艦「おおすみ」などが呉基地に配備されて、セットになり初めて実力を発揮できるようになったのです。

(4)岩国と呉の両基地の直線距離はわずか30キロメートル
   岩国・宮島・大黒神島・呉 周辺地図
  山口と広島と県が違うため、遠く感じるが、実は直線距離は極めて近い。
  その上、世界最初の被爆地「ヒロシマ」や、世界遺産の「厳島神社」を囲むこの広島湾の基地強化を絶対に許してはなりません,


U、海外派兵の強行と海上自衛隊呉基地の強化

1、出撃基地化進む海自呉基地

  1.補給艦「とわだ」初の「戦時下」派遣

 これまで、呉基地からは次のように、海外派兵が繰り返されました。
(1) 91年4月26日、掃海母艦「はやせ」と掃海艇「ゆりしま」、横須賀からの補給艦「ときわ」と掃海艇2隻、佐世保からの掃海艇1隻の計6隻、510人の掃海艇部隊は、湾岸戦争後の機雷掃海のため、ペルシ湾に派遣されました。
(2) 92年9月17日、PKOの第一陣として、呉基地の補給艦「とわだ」横須賀からの輸送艦「みうら」「おじか」の計3隻は、要員389人、車両23台とその要員である陸上自衛隊34人を乗せ、カンボジアに向け呉基地を出港。
(3) 99年9月23日、トルコ大地震被災者支援を名目に、仮設住宅500戸を積んだ、輸送艦「おおすみ」、掃海母艦「ぶんご」、横須賀から補給艦「ときわ」の乗員430人は、神戸港から出港しました。
ところが、今回の「とわだ」は以上の海外派兵と異なり、初の「戦時下」の海外派兵 です。
「テロ対策特別措置法」に基づき、インド洋に派遣された「とわだ」は昨年11月25日、呉を出港。12月2日から米英艦船に31回洋上で燃料補給をし、4月25日呉基地に帰港しました。
なお、「テロ対策特別措置法」にもとづく米軍支援期限が延長され、インド洋上で海上自衛隊艦隊がおこなっている米英軍への給油支援は、
161億円もの予算が投入され、米軍艦船などに543回・約41万klの燃料を提供してきました(2005.8月末現在)。

2.輪送艦「おおすみ」はPKO支援で東チモールヘ

 3月15日、車両72両と陸上自衛隊員47人を乗せた「海自東チモール派遣海上輸送部隊」 (輸送艦「おおすみ」、護衛艦「みねゆき」で編成)は室蘭港から出港。26日東チモールに到着。
翌27日から「おおすみ」は東チモールのスアイ、ディリ、オクシの3カ所でLCACによる施設器材・車両などの揚陸作業を行いました。
なお、「おおすみ」型2番艦「しもきた」呉配備に伴い、両艦を第1輸送隊に編成しました。

3.護衛艦「いなづま」インド洋へ

テロ対策特別措置法に基づきインド洋で米英艦船を支援している海上自衛隊艦船と交替する呉基地の「いなづま」(4550トン、乗員213人)と佐世保基地の「あさかぜ」(3850トン、230人)の護衛艦2隻が7月1日それぞれ出港しました。
呉基地からの派遣は、昨年の「とわだ」についで2回目ですが、護衛艦は初めてです。
2隻は九州南方海域で合流し、中旬にインド洋に到着する予定で、補給艦「はまな」の護衛任務につきます。

  テロ対策特別措置法で派遣された自衛艦一覧表

 テロ対策特別措置法で,インド洋に派遺された呉基地所属艦艇は、
            (写真は、海上自衛隊新聞社「艦艇と航空機集」から)

「とわだ」(補給艦)
第1回(01年11月25日から152日間)
第2回(02年7月24日から164日間)
第3回(03年7月15日から128日間)
第4回(04年3月14日から190日間)
第5回(05年3月31日から現在も続行中) 「とわだ422」
 2005.8月末現在で、米軍艦船などに543回・約41万klの燃料を補給。161億円相当。

(護衛艦)はそれを護衛するなど、イラク戦争支援のため、呉基地は出撃基地化されでいます。
8カ国が陣形を組み記念写真
   中央「とわだ」、先頭左2「さみだれ」、右3「みょうこう」

「いなづま」(護衛艦)(02年7月1日から121日間)

「ひえい」(護衛艦)
第1回(02年9月17日から132日間)
第2回(03年10月28日から128日間)
「ひえい142」

「さみだれ」(護衛艦)
第1回(02年9月17日から109日間)
第2回(04年2月15日から続行中)

「しもきた」(輸送艦「おおすみ」型2番艦)
(03年2月4日から53日間) タイ寄港、タイ陸軍工兵部隊と20両の車両を搭載。初の外国軍輸送。

「あさぎり」(護衛艦)
(03年7月15日から127日間)
「あさぎり151」

「あけぼの」(護衛艦)
(03年10月28日から148日間)

「おおすみ」(輸送艦)
第1回(99年、トルコ地震救援)
第2回(02年、東チモールPKO)
第3回(04年2月14日から4月8日、イラク復興支援でクエートへ、陸自車両を)

「おおすみ4001」

「くにさき」(輸送艦「おおすみ」型3番艦)
(05年1月7日から3月9日、スマトラ大地震の救援でインドネシアのバンダアチエ沖へ、陸自のヘリ輸送。) インド洋での海上自衛隊の給油実績  インド洋での海上自衛隊の活動の意義


2、増強される海上自衛隊呉基地

(1)自衛隊呉病院
 02年3月、昭和町からすこじま地区に着工した呉病院は、鉄筋地上4階地下1階のべ8600hm。05年3月に開院。医療施設を含めた建設費は約40億円。入院病棟は50床を確保。
内科、外科、整形外科、小児科、歯科の5科でスタート。最終的には、皮膚科、精神科など合計13科を予定している。
 自衛隊呉病院の独自施設として、潜水艦事故などによる潜水病治療に使う8人収容の「再圧タンク」や、
遠隔地で行動する自衛隊の医務室と病院をテレビ画像で結ぶ「遠隔医療システム」などが導入されました。
呉病院開設に伴い、江田島病院は規模を縮小し、第1術科学校の「医務室」になりました。
(2)新「Eバース」完成
  従来のE桟橋を撤去して、その東側15メートルのところに、長さ360、帽17、深さ約4メートルの大型鋼鉄製の浮桟橋を04年、総工費約24億円で建設しました。E桟橋の2倍の護衛艦8隻が繋留できます。これまで主に利用した艇は南側に隣接する大型艦艇用バースに移します。

(3)特別警備隊
 01年に発足以来、秘密の壁に包まれていました。
「特警隊」は、「不審船に立ち入って武装解除を求める」といった危険な任務を
担う特殊部隊です。基地は、江田島町大原で、部隊規模は約70人。

(4)1、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)完成・4月開館
  財政赤字に苦しむ呉市が、95億円(資料収集5億円、土地代20億円、建設費65億円、その他5億円)を投じ、約17400平方メートルの敷地に鉄筋コンクリート4階建の戦艦「大和」の造船技術を誇り、それを表看板にした単なる戦争賛美の「大和ミュージアム」を開館しました。
  呉市が東洋一の軍港故に、60年前米軍の空襲で廃墟とされた戦争の犠牲を無視し、「大艦巨砲主義」の誤りの見本「大和」建造を賛美するとは、正に時代錯誤も極まれり、と言わなければなりません。
  このオープンに合わせ、5月29日の日本海海戦100周年記念行事で、帝国海軍が勝利した海戦から「その気概に学ぶ」となっており、それを呉市は後援しています。
 「日本海海戦の圧倒的勝利はわが国の自存自衛を全うし、国際社会にその地位を高め、今日に至る繁栄の基礎を築いた」と日露戦争を評価しています。
  中国の「人民日報」が「ドイツがユダヤ人記念館を作って反省と謝罪を表したのに、日本は正反対に大和を復活させた」と報じたことを重視しなければなりません。

   2、海上自衛隊「呉史料館」(仮称)建設が近くスタート
  計画によると、史料館は「大和ミュージアム」の斜め向かいに敷地約3250平方メートルに、延べ約3400平方メートル以上の展示スペースを設けた建物と、実物の潜水艦を設置。両館を一つのテーマパークとして形成し軍国主義復活の施設とし、国側は19年度から7年間で、30億3千万円支払っていきます。


V.「出撃基地化」に向け強化される海上自衛隊呉基地

1、出撃基地化すすむ海上自衛隊呉基地

@ 第一輸送隊の新設

  呉基地に98年3月16日、2隻のエアークッション型強襲上防州舟艇(LCAC)とその母艦「おおすみ」が配備されました。
  LCACは佐世保の米揚陸艦隊の「ベローウッド」搭載の同型をアメリカから2隻購入し(1隻32億円)、呉の海上自衛隊員約20人をサンディゴ米海軍基地に派遣し、LCACの操縦・整備の訓練を受けさせたものです。
  LCACは江田島市秋月の海上自衛隊飛渡瀬貯油支所を基地とするもので、約9万uの敷地内に、高さ約20mのアーチ型の屋根を持つ巨大な整備格納庫(延べ約2,600u)、試運転場や陸上からの発着用の「すべり」など30億円をかけて建設しました。
 LCACは海面ヘガスタービンエンジンで高圧空気を噴射して浮上、後部の2基のプロペラで走り最高時速は約75kmの高速用の上陸用舟艇で主力戦車1両ないし貨物75トンを輸送できます。乗員は5人で母艦の輸送艦に2隻収容されます。
 強襲上陸のさい、兵器、戦闘部隊、軍事物資を積み込み、海岸へ高速輸送し、兵員物資をを降ろす適切な場所をもとめて内陸まで進行して荷を降ろすと、ふたたび荷を積むために帰艦して出撃、これを迅速に続行するのが任務です。
 この米軍のLCACは、強襲上陸作戦の様相を一変させるもので、アメリカが水陸両用戦の強襲対象としている世界の海岸線の70%(従来の上陸用舟艇では17%)で作戦が可能だといいます。
 佐世保に配備されているLCACは9隻で、米海軍の保有する1割ものLCACをかかえる、文字どおり、海から殴りこみをかける米世界戦略最前線基地です。
 佐世保市が運行時の騒音を実態調査したところ最大値は約1km離れた地点で93ホン、(騒々しい工場内と同等)を記録し、騒音問題で住民の反対運動を呼び起こしています。  この2隻のLCACの母艦となるのが、岡山県玉野市の三井造船玉野事業所で建造された超大型輸送艦「おおすみ」です。
 新型輸送艦「おおすみ」(8,900トン)はヘリコプター搭載が可能で、海上自衛隊が保有していた最大の輸送艦(92年にカンボジアPKO第一陣を輸送した2,000トン級の「みうら」)の5倍近く、発注価格は534億円です。
 「自衛隊は『専守防衛』が建前なのに、なぜ、他国を攻める強襲上陸用舟艇が必要なのか」と市民からも懸念の声もあがっています。
 新ガイドラインにもとづいて、米海兵隊の高速機動揚陸能力増強に、日本の海上自衛隊が協力させられている姿を示しているといわざるをえません。
 呉市民や江田島市民の「騒音被害の心配」に海上自衛隊や自治体当局は、LCACは呉湾内や江田島の整備場では自走をなるべく控え、曳航する。また極力騒音を出さないよう努力するし、試運転場には騒音防止装置をつける。などと宣伝しています。
 「おおすみ」は就役以来毎年7月、北海道・浜大樹上陸演習場で行われる北方機動特別演習に参加し、戦車などの上陸演習を続ける一方、99年には、米軍の揚陸艦「フオートマクヘンリー」との共同訓練を戦争法成立後初めて行いました。
 この訓練は日米LCACの相互運用能力の確認が演習目的の一つとされていました。地震災害救援でトルコ派遣の際、トルコやフランス海軍とも共同演習を行い、ねらいが海外派兵にあったことを示しています。
 また、銀座通りを装甲車が、地下鉄には迷彩服の自衛隊員を乗せた特別車両が走って批判を呼んだ2000年9月の東京都防災訓練にも参加しました。
 しかし、「遠く離れた呉基地から、途中自衛隊隊員や救援物資を積み込み、晴海埠頭まで何日もかかる、自衛隊こそ都民の頼もしい味方だとのデモンストレーションだ」との酷評を受けました。
 2001年3月15日、車両72両と陸上自衛隊員47人を乗せた「PKO支援海自乗チモール派遣海上輸送部隊」(輸送艦「おおすみ」、護衛艦「みねゆき」で編成)は室蘭港から出港。 26日東チモールに到着。翌27日から「おおすみ」は東チモールのスアイ、ディリ、オクシの3ヵ所でLCACによる施設器材・車両などの揚陸作業を行いました。
 なお、2002年3月「おおすみ」型2番艦「しもきた」呉配備に伴い、両艦を第1輸送隊に編成しました。
 3番艦「くにさき」は、03年2月26日、呉配備、第1輸送隊に編入されました。なお、2004年はじめ、同隊の隷下にLCACの整備等にあたるエアクッション艇隊が新編されました。

A 海上自衛隊随一の潜水艦基地

 自衛艦隊には、呉基地の9隻の第1潜水隊群と横須賀基地の7隻の第2潜水隊群で構成されている潜水艦隊があります。しかも、呉の第1潜水隊は最新鋭の「おやしお」型3隻で編成されています。その一つ「くろしお」は04年竣工したばかりです。
 さらに、潜水艦教育訓練隊や2隻構成の第1練習潜水隊も置かれています。
 1955年米海軍からの貸与潜水艦「くろしお」1隻で発足した潜水艦部隊は今や、世界トップクラスの電池動力潜水艦「DE型」(ヂィージェル。エレクトリック型潜水艦のことで、水上におけるヂィージェル機関、潜水中における蓄電池動力稼働式のもの)を保有するに至っています。
 93年には海上自衛隊に2隻だけの音響測定艦(潜水艦の音紋情報を収集する艦船)を全て呉基地に配備し、26億円をかけて専用桟橋を完成しました。さらに、94年には横須賀にある「ASW」(対潜水艦戦センター)が日米共同使用となりました。
 有事三法案がねらう情報提供、日米共同作戦に潜水艦部隊(呉基地の第1潜水隊群9隻と2隻の音響測定艦)が大きな役割を果たすことになります。

B 掃海部隊の強化

 アメリカが新ガイドラインで最も自衛隊に期待しているものの一つは、海上自衛隊による機雷の掃海作戦です。
 機雷の掃海は、危険度が高く、米軍が太平洋に配備している掃海艇は、わずか佐世保基地の2隻だけです。一方海上自衛隊は、31隻を保有しています。
 しかも、呉基地の掃海部隊は、戦後帝国海軍が解体されるなかで唯一残されて瀬戸内海を中心とした日本近海の機雷除去に従事しました。
 50年朝鮮戦争が勃発すると、マッカーサー日本占領軍総司令官は、日本の掃海部隊の出動を命じました。日本は占領下という特殊な条件のもとに、元山、仁川などの沖合の掃海活動にあたりました。
 「湾岸戦争]後の91年4月、呉基地の掃海母艦「はやせ]と掃海艇「ゆりしま」、横須賀からの補給艦「ときわ」と掃海艇2隻、佐世保からの掃海艇1隻の計6隻、510人の掃海部隊は、戦後初めて憲法の平和原則を踏みにじって呉基地からペルシア湾の機雷除去に派遣され、イラクが敷設した機雷34個を処分した実績を持っています。
 アメリカとしては、その「試されずみ」の能力を是非とも活用したいと願っているのです。
 94年、北朝鮮の核疑惑でアメリカが軍事制裁を計画したさい、アメリカは日本に掃海部隊の協力を要請しましたが、これは実現しませんでした。
 こうしてアジア・大平洋でもっとも頼りにしている日本の自衛隊に戦争支援をさせる安保再定義交渉の結果、97年9月23口の新「ガイドライン」に結実したのです。
 96年11月、呉の第1掃海隊に新型掃海艇「ゆげしま」、「ながしま」(いずれも490トン、機密の水中探索などで使用される最新鋭の機器を配備)が新設され、すでに舞鶴に移籍された第16掃海隊に変わりました。
 三井造船玉野事業所で建造された掃海母艦「ぶんご」は、98年3月に竣工し、掃海母艦「はやせ」に替わり呉基地に配備されました。
 湾岸戦争後のペルシア湾の機雷掃海に海上自衛隊が出勤したさい、掃海母艦「はやせ]2000トン)が小さすぎて、ペルシア湾まで13,000kmを航海し、無事たどりつけるかが、議論になったことがあります。
 「ぶんご」(5,600トン)はそうした論議のなかで建造がはしまった経過があり、「はやせ」の2.8倍の大きさになっており、掃海ヘリコプターの発着が可能です。
 海上自衛隊は、95年制定の「新防衛大綱」にもとづき、2000年3月、司令部が呉基地にある「第1掃海隊群」と横須賀基地にある「第2掃海隊群」を統合し、「掃海隊群」を新編しました。
 これまでの第1、第2掃海隊群合わせて7掃海隊・19隻体制を4掃海隊・13隻体制にコンパクト化したもの。5掃海隊のうち一つは呉基地を拠点とする「極浅海域掃海隊」となり、瀬戸内海などの掃海を担当します。
 掃海隊群全体の定員は、約1,000人から900人に削減します。

C 補給一海上自衛隊最大の吉浦貯油所と弾薬庫

 貯油能力115,000klへ海上自衛隊隊最大の燃料基地である吉浦貯油所には補給艦や護衛艦が接岸できる燃料補給桟橋もあり、ローディングアームでらくらく給油できます。
 1980年から米軍と自衛隊は燃料の規格を統一したため米軍にも補給可能です。現に95年の日米共同演習では呉基地の補給艦「とわだ」は、7日間で1,680klを米艦に洋上給油しています。
 97年11月、下北半島沖の日米共同演習で、補給艦「とわだ」が米ミサイル巡洋艦「バンカーヒル」に約50分間に373kがの軽油と9klの航空燃料を洋上給油しました。
 これは「日米物品役務相互提供協定」(ACSA)にもとづくものですが、このACS
 この敷地内に現在、付近住民による住環境を守るための抗議を無視して、3LDK、138世帯加入居できる14階建ての妻帯者用高層住宅を27億円をかけ、98年に建築しました。

海上自衛隊最大の弾薬庫
 呉港に浮かぶ「大麗女うるめ島」と江田島市切串の弾薬庫は山腹に掘ったトンネル式の弾薬庫加中心ですが、貯蔵量や貯蔵弾薬の種類は機密事項として発表されていません。
 切串弾薬庫には、併設して魚雷、機雷、爆雷などを整備する呉水雷整備所もあります。ここでは、水上艦、潜水艦用の魚雷と機雷を主に整備しています。切串弾薬庫にも91年に8,000トン級の大型艦が横づけできる岸壁が16億円で完成。弾薬や魚雷の積み込みが飛躍的に便利になりました。

D 米「太平洋港湾記録」の呉港湾利用計画
 すでに米海車の駆逐艦「オーデンドルフ」が1989年7月呉港に入港したとき「下見」をして報告した米太平洋艦隊諜報センターの「太平洋港湾記録」では、呉港湾地域について
「広い保護された停泊所がある」「燃料のぜいたくな供給は毎時6万ガロンという配達率の艀(はしけ)により可能」「IHI(石川島播磨重工業)には大きな造船施設と修理施設がある。
電気装備の修理、エンジン修理はすべて可能だ」「港湾労働者は山陽海運から供給される」「冷凍スペースを除いて5つの公的な倉庫(呉市営)がある」「25の小さな戦闘艦を停泊させること可能」「港湾区域の道路は良好で、トラックは波止場に接近可能、鉄道輸送は卓越している」など使い勝手の良さを評価しています。
 つまり、有事呉の港湾にはアメリカの艦船が入港して給油を受け物資を調達し、故障した艦船はIHIで修理し、山陽海運の労働者は輸送関係で動員されます。トラックや鉄道を使った弾薬輸送や物資輸送がひんぱんになります。
 朝鮮・ベトナム・湾岸戦争のとき、呉基地は弾薬輸送と機雷掃海が主でしたが、有事三法案のもとの戦争では日米共同作戦から呉市、民間の協力にいたるまで呉市が丸ごと動員される形になります。

E 呉市管理の昭和埠頭の海上自衛隊移管と国立病院にヘリポート

 呉市が管理し、これまで民間の海運会社が使用してきた昭和埠頭は、防衛庁の要請をうけて99年海上自衛隊に移管しました。
 昭和埠頭は、面積19,000u、水深9m、長さ320gmで5,000トン級の自衛艦が2隻接岸できます。まさに基地の大拡大です。
 これによって、石川島播磨重工業グループが(IHIとIHIMU)の敷地で切られる以外は、海上自衛隊呉基地は教育隊・呉地方総監部・呉造修所・Eバース・Fバース・第1潜水隊群司令部・潜水艦専用桟橋・音響測定艦専用桟橋・烏小島訓練所・烏小島乗員待機所などが地続きになります。
戦前の呉軍港が復活した形です。いや、設備が戦前より良くなっただけ強化・復活です。
 99年、国立呉病院(戦前の海軍病院、現在は独立行政法人国立病院機構呉医療センター)は11階建ての新病棟を完成しました。この屋上はヘリポートになっています。
 私たちは、日本の自動参戦体制が進行する情勢のなか、この計画段階から「海軍病院の復活」と批判してきました。
 実際、完成した後も、例えば周辺離島の急患等に対応する体制などについて説明・発表したなどという事実はなく、厚生省も出府隊が使用することがあり得ると明言しています。
 2001年度予算では、米軍への後方支援として傷病兵の日本国内の治療の任務を合わせ持つ、海上自衛隊呉病院50床の建設を約40億円で呉市昭和町に建設完了しました。

F 厚生施設面で海上自衛隊のモデル地区

 89年に海上自衛隊で初の潜水艦乗員待機所が6階建て、仮眠室56室(112人分)、まるでホテル並みが約8意円で完成したのに続き、98年7月烏小島体育館が10億円で完成しました。鉄筋2階建、温水プールをはじめバスケットボール、ハンドボールなど多目的フロアなとがらなっており「艦艇乗員憩いの呉基地」のプロジェクトは一歩前進。
 江田島の第1術科学校に94年5月、18億3万千万円で豪華なレクリエーションセンクーが完成しました。
 鉄筋4階建、延べ4000u、多目的ホールをはじめアスレチックルーム、図書館、喫茶、レストランなどを備えています。浴室にはサウナ、打たせ湯、泡風呂の施設も完備しています。
  さらに、12階建、延べ14、000u(385室)の新しい烏小高島乗員待機所が総工費60億円をかけて95年9月6日完成しました。

G IDDN(防衛統合デジタル通信網)の基地

 パラボラアンテナを90-91年に2個(その後2個増設し、計4個)地方総監部に設置。
IDDNは東京・市谷(陸上自衛隊東部地方総監部は朝霞基地に移転し、その跡地に新防衛庁・中央指揮所が移転)を拠点に、太平洋側の本線と、本線から枝別れした支線で全国の陸海空自衛隊の基地を結合。
防衛マイクロ回線の複線化、デジタル化、衛星通信を利用したマイクロ波伝送路の地表・宇宙立体化などが実行されます。
 これで別系列だった陸海空の自衛隊の指揮・通信系が、在日米車と合わせ一本化されます。
地球固定局は、札幌、三沢、仙台、市ケ谷、伊丹、呉、福岡、那覇の8ケ所に設置され、呉のパラボラアンテナはその内の一つです。
 近代戦では、こうした通信基地が第一の攻撃目標になります。
 海上自衛隊呉地方総監部には、この他、灰ケ峰無線中継所、膳棚山受信所、焼山送信所、があります。

H 幹部候補生学校、第一術科学校など海上自衛隊教育の中枢

 60年前の敗戦、旧海軍の解体という歴史の大きな転換にもかかわらず江田島はかっても今も「海軍」「海上自衛隊]の教育の聖地であり続けています。
 戦前、江田島の海軍兵学校は米国のアナポリス、英国のダートマスと並んで世界の三大海軍兵学校と言われました。
 開校から敗戦まで、日本の数度の戦いで散った兵学校出身者は4031人に達します。  戦後、海軍兵学校は廃校となり、米、英連邦軍が接収しました。
 駐留軍の撤退後、1956年には海上自衛隊の術科学校(現第1術科学校)、57年には幹部候補生学校が相次いで開校し、戦前からの兵学校の伝統を引き継ぎました。
 海上自衛隊の初級幹部を養成する幹部候補生学校は、防衛大学校や一般大学を卒業した者のための一般幹部候補生課程(1年)、
海曹から選抜された者のための一般幹部候補生部内課程(8ケ月)や、准尉から選抜される幹部予定者課程(3ケ月)、高校卒業後に応募し飛行幹部になる者のための飛行幹部候補生課程(6ケ月),
防衛医科大学校や一般の医科歯科の大学から入隊する者のための医科歯科幹部候補生課程(6週問)などがあり、年問約600名の若者が初任幹部として教育されています。
 また74年以来、一般幹部候補生として毎年数人から十数人、96年からは防大卒業の女性も入校し、97年3月末までに150大の女性幹部を送り出しています。
 さらに、タイ海軍からの留学生17人とシンガポールからの2人をいれて97年春には計19人の留学生がいました。
 第1術科学校は、中学卒業後、すぐ入学できる4年制の教育機関「生徒部」があります。かつての少年術科学校です。15歳才の入学時は3等海士、4年後に3等海曹に任官します。定員は60人。
 また、海曹士から幹部に対し、砲術・水雷・船務(戦闘情報・戦術指揮)・統率・航空・陸上警備・通信・航海・気象海洋・通信・電子・気象・掃海・港湾防備・運用などの術科教育が行われています。
 これらの術科教育には幹部に対する初級・中級幹部過程、海曹士に対する海士課程(普通科)海曹課程(高等科)があり、年間延べ200課程の教育が600名の教職員により、毎年3,200名の学生を送り出しています。
 江田島には、このほか、第一術科学校医務室があります。

I その他の教育機関

 潜水艦の重要基地である呉には潜水艦乗員を養成する国内唯一一の潜水艦教育訓練隊があります。
 呉教育隊は、約4ケ月の新兵(練習員)教育や初任海曹、初任准尉などに対し、教育します。
 呉市昭和町には、「第2海上訓練指導隊」があり、艦艇乗組員の訓練指導に当たっています。
 江田島市大原には、「第11海上訓練指導隊(標的整備隊と改称)」があり、護衛艦に搭載しているシースパローなどの対空ミサイルの無人標的機の整備が主任務です。
 重要なことは、ここの敷地に、日本海の北朝鮮の不審船対策として、3個小隊60人編成の「特別警備隊」が2000年予算294億円で新設されました。
 練習艦隊も呉に94年司令部を移したので、教育のメッカ呉の色彩はますます濃くなってきました。
 以上述べてきたように、海上自衛隊呉基地は着々と強化され、新「ガイドライン」のもと、呉市は丸ごと戦争に動員されようとしています。
 かって中国大陸への侵略の拠点だった軍港の歴史を繰り返させないためにも、有事三法案に反対し、基地の拡大・強化をやめさせる大きな運動が求められています。


2、海上自衛隊呉基地の概略史

 1889(明治22)年、呉鎮守府が置かれ、日清・日露戦争を経て、1902(明治35)年呉市制が敷かれ、翌年、呉海軍工廠が設立されました。
 以後、東洋一の軍港・海軍工廠として多くの艦艇の建造や兵器の製造をしました。
 そのため、第2次世界大戦の末期、1945(昭和20)年3月から7月末にかけて、米軍機の空襲を受け、多くの市民が殺傷され、家を焼かれて、多大な被害を受けました。
 敗戦により、海軍は解体されて第2復員省となり、呉鎮守府は45年12月1日から呉地方復員局と改称し、掃海艦船は掃海部に所属し、残存機雷の「業務掃海」が続けられ、48年5月1日、海上保安庁設置により第6管区海上保安本部の所属になりました。
 1950年(昭和25年)6月28日「旧軍港市転換法」が市民の住民投票で98.85%の圧倒的多数で成立しました。
 この法は「4市(呉、横須賀、佐世保、舞鶴)は憲法の精神に沿って、立市以来の軍港色を市の性格から根本的に払拭し、平和産業港湾都市として新たに出発する」というものでした。
 この法にもとづき、海軍工廠など基地の多くの土地、建物などが造船・鉄鋼などの民間企業に格安で払い下げられました。

 50年朝鮮戦争が勃発すると、米軍は当時極東に配備された掃海艦艇が少なかったため、マッカーサー占領軍総司令官は、掃海艇を多く保有していた日本に掃海部隊の出動を命じました。
日本は占領下という特殊な条件のもとに、元山、仁川などの沖合の掃海活動にあたりました。元山沖では掃海艇が機雷に触れて爆発、1名が戦死、8名が負傷しました。
 52年11月1日に10個の掃海隊が結成され、呉航路啓開隊となり、53年9月16日呉警防隊と改称し、呉地方基地隊の隷下に入りました。
 ところが54年7月1日自衛隊が発足。同時に呉には海上自衛隊呉地方隊が誕生し、警備隊呉基地隊本部は呉地方総監部に昇格しました。
 この日の中国新聞は「『呉軍港』復活へ急テンポ いかめしい地方総監部 さらば平和産業港湾都市」との見出しでこのニュースを報じました。
 しかし、当時の呉地方隊の実力は小型艦艇を中心に30隻、総トン数13,282トンにすぎませんでした。
 それが、47年後の2002年はじめ、呉地方総監部の在籍部隊は呉地方隊だけでなく、海上自衛隊のとらの子ともいえる第1潜本隊群、第4護衛隊群、練習艦隊の各司令部がそれぞれ呉におかれ、横須賀に次ぐ海上自衛隊の重要基地となっています。
 江田島には幹部候補生学校、第一術科学校があり、海上自衛隊教育のメッカと言われています。
 この結果、現在呉在籍艦艇教は51隻、総数145,350トン。発足時に比べると、隻数で約1.7倍、総数でも約10.9倍の一大勢力になっています。

海上自衛隊呉基地の艦艇保有状況等

                    非核の呉港を求める会調整

      呉地方隊       自衛艦隊等     合計v
年度     隻数  トン数   隻数  トン数   隻数  トン数
1954(昭29)  26   7.482     4   5.800   30   13.281
1960(昭35)  38   6.762    19   16.390   57   23.152
1970(昭45)  31   5.748    29   37.605   60   43.353
1980(昭55)  20   6.984    29   51.710   49   58.694
1990(平2)   19   10.124    26   54.150   45   64.274
1995(平7)   16   9.764    36   86.710   52   96.474
1996(平8)   14   8.464    35   84.760   49   93.224
1997(平9)   14   8.464    35   83,310   49   91.774
1998(平10)  11   7.984    38   99.800   49   107.784
1999(平11)   8   6.950    38   101.350   46   108.300
2000(平12)   8   7.000    36   110.110   44   117.110
2002(平14)   7   11.150    37   118.450   44   129.600
2004(平16)   8   12.140    43   130.340   51   142.480
2005(平17)   8   12.140    43   133.210   51   145.350

補注
1.呉地方隊の隻数は、地方隊隷下の艦艇中支援船を除く全自衛艦数。
  支援船は、60年以降ほぼ50隻前後、4〜5千トンで推移している。
2.自衛艦隊等の隻数は、呉港を定係港とする艦艇のみの隻数。
3.年度欄中、54年は自衛隊発足時(7月1日)、以後90年までの年次はいずれも3月31日現在
  95年以降は各4月1日現在の数値を示す。
4.警備区域の定められた地方隊隷下の艦艇数は縮減傾向にあり、これとは反対に自衛艦隊等の艦艇は増加していること、さらに艦艇が大型化(外洋型化)していることが注目される。
5.海上自衛隊の全艦船の隻数および総トン数は、自衛艦152隻、42万6060トン(2005年4月現在)。

  基地別・定係港別・所属部隊別 艦艇数一覧


   呉基地艦艇編成表
       (呉基地を見学するときに艦名の確認に利用してください。)

                                  2005.4.1
護衛艦隊
第4護衛隊群 旗艦  ひえい DDH142 5050t

第4護衛隊  いなづ まDD105  さみだれ DD106  あけぼの DD108  各4550t

第8護衛隊  うみぎり DD158  さざまに DD113  各3500t

訓練支援艦  くろべ ATS4202 2200t  てんりゅう ATS4203 2400t

補給艦  とわだ ADE422 8100t

潜水艦隊
第1潜水隊群  ちはや ASR403 5400t

第1潜水隊 みちしお SS591 まきし おSS593 いそしお SS594 各2750t

第3潜水隊 はやしお SS585 あらしお SS586 ふゆしお SS588 各2450t

第5潜水隊 はるしお SS583 なつしお SS584 各2450t  くろしお SS596 2750t

第1練習潜水隊 あさしお TSS3601 2500t  はましお SS578 2250t

掃海隊群
第1掃海隊母艦 旗艦 ぶんご MST464  5660t 
        いずしま MSC687  あいしま NSC688  みやじま MSC690 51Ot

第101掃海隊  ははじま NCL724  かみし まMCL725  各440t

第1輸送隊  おおすみ LST4001  しもきた LST4002  くにさき LST4003  各8900t

第1エアクッション艇隊  エアクッション艇1〜6号 LCAC01〜06号

練習艦隊  母艦かしま TV3508  4050t
第1練習隊 しまゆき TV3513 3050t やまぎり TV3515 あさぎり TV3516 3500t

海洋業務群
音響測定艦  ひびき AOS5201  はりま AOS5202  各2850t

敷設艦  むろと ARC482  4500t

呉地方隊
第22護衛隊  やまゆき DD129  まつゆき DD130  せとゆき DD131  各3050t

輸送艦  ゆら LSU4171  590t


 (参考資料 海上自衛隊新聞社「艦艇と航空機集」から)
艦船の分類と艦名のつけ方
艦船の分類と艦名のつけ方


音響測定艦について   「ひびき5201」

 今日の対潜水艦戦(ASW)では、パッシプ(聴音式)音響センサーを用いた捜索で得られた音響信号をカタログ・データとし、
これに比較照合して行う潜水艦の識別が特に重要である。
このために平素から潜水艦等の音響信号を収集・解析し、カタログ化して蓄積しておくことが不可欠である。
ところが最近の潜水艦は静粛化し、情報の収集・分析はいっそう困難となるとともに、その発注音の変化によって
既存の音響カタログ・データの有用性が低下しており、このために音響情報収集能力の向上が急務となっていた。
平成3年に就役した音響測定艦「ひびき」は、以上のような状況に対応するために建造された艦で、
高性能聴音装置(SURTASS)を曳航し、潜水艦などの音響情報をより広域にわたって収集するものである。
SURTASSの探知能力は数百キロにおよび、収集した情報は通信衛星を介してASWセンターに送られる。
情報は解析・分類されてコンピューターに入力され、最新のカタログ・データとなる。


 DDHはるな型護衛艦について
  空母案を退け建造された海自初のヘリ搭載護衛艦   「DDHはるな型」

 我が国初のヘリコプター搭載護衛艦「しらね」型と同様、大型ヘリコプター(HSS-2)3機を搭載する艦船は、世界でも珍しい存在。
 計画当初、護衛艦隊でのヘリの運用をめぐり、ヘリ空母の案もあったが、1つの部隊でのヘリコプターの所要数は6磯(作戦機4機、バックアップ2機)とされ、被害分散の見地から、2隻でこの所要数を満たす方式が取られた。
 当時は、ヘリ搭載艦2隻、対潜護衛艦5隻、対空誘導弾搭載護衛艦1隻をもって、1個護衛隊群を構成する計画で、「はるな」型、「しらね」型の計4隻により、2個護衛隊群の近代化が達成された。
 その後、ヘリの機数は6機では不足とされ、8機を所要数とし、対潜護衛艦にもヘリ各1機を搭載して凡用化し、8隻8機をもって1個護衛隊群を構成する、いわゆる八八艦隊計画へと移行されていった。
 本艦設計当初、フランスのヘリコプター母艦「ジャンヌ・ダルク]や、カナダの駆逐艦を参考にしたとされるが、艦型というより、その運用と装備についてのことと思われる。
 本型では、各船室、装備、その他必要なスペースを積み上げる方式=スペーススペースにより設計されたため、それ以前の艦より、格段に余裕のある艦内配置となっている。ちなみに従来の艦では、まず艦の大きさが定められ、それを必要部分に割り振る方式が取られていた。
 格納庫に大型のヘリを3機格納しなければならず、狭い艦内容積をやりくりする都合で、煙突は艦の中心線よりやや左舷よりに配置されている。
 5インチ砲を艦首に2基、背負式に搭載している点は「しらね」型と同様だが、ヘリコプターの発着艦の安定、船体の横揺れ(ローリング)防止のため、ビルジキールとともにフィンスタビライザーを設け、着艦、格納を迅速に行えるようにベアトラップ(無艦拘束装置)も装備されている。ベアトラップは、旧輸送艦「しれとこ」で装備試験を実施した上で採用されている。
 「はるな」「ひえい]ともに艦齢途中において、FRAM(近代改装)が実施され、機器増設などのため、艦橋が巨大化した。
 海上自衛隊の艦艇で、このように、外見を大幅に変更する改造工事は極めて珍しい。この改装でCIWS(Ciose in Weapon System)や、短SAM(シースパロー)など、近接対空能力も飛躍的に強化されている。
 この時、リンク11、リンク14など、西側最先端の戦術データ交換システムを搭載している。現在、いわゆる八八艦隊の旗艦として、「しらね」型とともに各護衛隊群に1隻ずつ配属されている。
 艦名の「はるな」は、群馬県の「榛名山」に因んで命名されているが、二番艦「ひえい」の「比叡山」と同様、言うまでもな<旧海軍・連合艦隊の高速戦艦の艦名であり、話題を呼んだ。護衛艦への山岳名称の命名は、本型がはじめてである。
 「はるな」は、平成11年3月の日本海での不審船追跡においで、5インチ砲による威嚇射撃などを行った。
 基準排水量:4950t/満載排水量:6500l/
 主要寸法全長153mx幅17.5mx深さ11.0mx喫水5.2m
 主機蒸気ターヒン2基2軸出力:70000PS速力:約31kt
 船型:長船首楼型 乗員:約370名  哨戒ヘリコプター3機
 主要装備:5インチ54口径単装速射砲×2、高性能20mm多銃身機関砲(CIWS)×2、
    短SAMシースバロー8連装発射機×1 3連装短魚雷発射管×2

同型艦
DDH141はるな 昭和48年2月22日 第3護衛隊群 旗艦 舞鶏
DDH142ひえい 昭和49年11月27日 第4護衛隊群 旗艦 呉

 《注記》全通飛行甲板を有する「空母型」船型の建艦予定

護衛艦「13,500トン」型 DDH 13500tTYPE

 “はるな″型の代艦として平成16年度計画で1番艦の建造が認められた大型艦。
全通飛行甲板を有する「空母型」船型を採用し,船体内に広大な格納庫,
飛行甲板右舷にアイランドを設けている。
搭載機はSH-60K哨戒ヘリコプター,M(H-101掃海・輸送ヘリコプターのほか,
必要に応じて陸空自衛隊,他省庁のヘリコプターなど,計約10機である。
        (2319号艦)平成16年度計画 (平成21年3月竣工予定)
基準排水量 13、500トン、 満載排水量 17、000トン
全長 195メートル、幅   32メートル、 吃水  7.0メートル
主機  ガスタービン4基:COGAG,2軸、 出力  1O、O00馬力
速力  30ノット
兵装  Mk41VLS(発展型シー・スパロー短SAM、アスロックSUM用)1基(16セル)、 20ミリCIWS 2基、3連装短魚雷発射管2基
航空機  SH-60K哨戒ヘリコプター、MCH-101掃海・輸送ヘリコプターなど 各種ヘリコプター約10機
乗員  347名


W.広島県内米軍基地について


1.米軍弾薬庫問題(米陸軍秋月弾薬庫廠)

 在日米陸軍(神奈川県座間市、相模原市)は、95年9月キャンプ座間に配備されていた日本有事に備えた第9軍団を解散し、
全太平洋作戦の指揮を執る米陸軍第1軍団(ワシントン州フォート・ルイス配置)指揮下の第9戦域陸軍地域司令部として再編成しました。
 第1軍団への吸収により、在日米陸軍は「日本の防衛」だけでなく、太平洋全域の作戦に出動することになりました。
 この在日米陸軍の再編成は、「極東」のワクを公然と超えた部隊を配備することを意味し、新ガイドラインの先取りでもありました。
 米陸軍秋月弾薬庫廠は、在日第9戦域陸軍地域司令部の第17地域支援群第83兵器大隊に所属し、司令部を呉市昭和町においています。
 2002年6月21日、ハワード・ルーダット新司令官が着任しました。ルーダット新司令 官は中佐で、米ジョージア州の第52武器群副司令官から赴任。
 前司令官のポール・ハイニー中佐はニューヨーク州ウェストポイントの陸軍士官学校教官に転出しました。
 第83兵器大隊は同日付きで、これまでの第17地域支援群(神奈川県座問市)から第10地 域支援群(沖縄県読谷村)の管轄下に編成替えとなりました。
 広島県内には、この米軍秋月弾薬庫廠司令部傘下の広弾薬庫、川上弾薬庫、秋月弾薬 庫の3弾薬庫があります。
(なお、沖縄県の知花弾薬庫も傘下の弾薬庫であるだけに、今回の編成替えを重視することが重要)。
広島県内の3弾薬庫に、米兵27人、日本人労働者387(96年11月現在)が勤務。3弾薬庫の貯蔵能力は、11.5万トンで米陸軍極東最大の弾薬貯蔵能力です。
 秋月弾薬庫廠は、グアムの米軍基地(事前集積船4隻)、インド洋のディエゴガルシァ島の事前集積基地(6隻)と連携して、太平洋全域の米軍弾薬を補給しています。
 1945年以前の戦時中は、川上と秋月は日本海軍の弾薬庫として侵略戦争を支え、広は第11空廠の石油基地として軍事生産を支えてきた施設です。v  戦後は、米軍弾薬庫として朝鮮戦争、ベトナム戦争の弾薬補給基地として、大きな役割を果たしてきました。
 湾岸戦争では「事前集積船に積載したわれわれの弾薬は、砂漠地帯に最初に荷揚げされ、直ちに役立った」(秋月弾薬庫廠のスチーブン・ループ司令官・当時)のです。

(1) 核兵器貯蔵と劣化ウラン弾持ち込み疑惑

 重大な事は、この3弾薬庫に核兵器貯蔵の疑いがきわめて強いことです。ここには、核兵器を含む危険度N0.1の弾薬庫が26カ所あります。
 さらに、97年2月、明らかになった岩国の米海兵隊のAV8Bハリアー攻撃機が沖縄・鳥島射撃場で、劣化ウラン弾を1,520発も「誤射」した事件が国民の憤激を買いました。
 この劣化ウラン弾が岩国基地に貯蔵されていたことを基地司令官メルトン大佐が認めています。
 さて、岩国基地には港湾施設はありません。したがってこれまで岩国基地の弾薬は、広島県内の米軍弾薬庫から運ばれています。
 したがって岩国の劣化ウラン弾は、広島県内の弾薬庫から持ち込まれた疑いが強いと次の2つの点から考えられます。
 一つは、事件のあった95年。その9月、広弾薬庫から岩国に弾薬輸送が行われています。
さらに、95年7月から96年にかけて12回にわたって川上弾薬庫から弾薬輸送が行われています。
米軍岩国基地貯蔵の劣化ウラン弾は、米国本土から秋月弾薬庫廠傘下の弾薬庫を通じて持ち込まれた可能性が極めて高いといわなければなりません。
 二つは、湾岸戦争時、90年には広弾薬庫の海面使用制限(弾薬輸送船の積み下ろし作業安全のため、
広弾薬庫前の海面が使用制限され、漁業が禁止されます)が107日間、つまり3日に1日の割りで激しく行なわれ、湾岸戦争に送られたのです。
 この劣化ウラン弾が「湾岸戦争症侯群」の一つの原因と今日大問題になっているのです。
広島県や呉市を通じての「米軍弾薬庫の劣化ウラン弾貯蔵の有無」についての基地司令官の返答は
「どんな弾薬がどのように保管され、運搬されているのかは公表できないが、安全性については配慮している、との返答を受けた」と言うもので、保管されてないというものではありません。
 劣化ウラン弾、核兵器なくせ、危険な弾薬庫なくせのたたかいが求められています。

(2)思いやり予算で強化される米軍弾薬庫

 米軍秋月弾薬廠司令部は、88年3月江田島から「思いやり予算」11億5千7百万円で新築された呉市昭和町に移転しました。
 さらに、92年10月秋月弾薬庫廠司令部幹部用住宅が、音戸町請石団地に2.5億円をかけて新築しました。
 また、毎年「思いやり予算」で三弾薬庫が補強されています。
 さらに、先に述べたように海上自衛隊呉警備隊と等積交換で移転するとなれば、新築され、いっそう強化されることは問違いありません。

(3)米軍弾薬庫の危陰な役割

 99年3月の衆院特別委員会で提出された「統合幕僚会議の内部資料」によると、94年の朝鮮半島有事に備えて、米軍が日本に要求してきた具体的事項は計1,059項目にのぼっています。
その中で広弾薬庫には10トントラック148台、弾薬荷揚げ要員36人となっています。
 2001年9月11日、アメリカでの同時多発テロ発生後、アメリカの報復戦争に在日米軍基地が総動員されました。
 9月18日には、米軍広弾薬庫から自治体に無通告で危険な弾薬陸上輸送が行われ、佐世保の米軍前畑弾薬庫に運び込まれ、10月2日には、その弾薬を積み込んだパトリオットなどがインド洋に出港しています。

《 現在テロ対策の対応で、基地正門あたりで写真を撮ろうとすると、銃を持った日本人ガードマンが、ものすごい剣幕で、「写真を撮るな。」と怒鳴り、日本国内の公道で国民の自由が侵される見本のような現状になっている。》

(4)広弾薬庫

 呉市広町の旧第11海軍航空廠の黄幡山地下工場などを1952年7月米軍が接収、弾薬庫に改造、88年に突堤2カ所を改修、基地面積は35.9万u(うち民有地は13.3万u)で、弾薬庫はトンネル方式で3カ所(最大奥行119m、幅18m)で、貯蔵能力は1.5万トン、この弾薬庫は、主要には川上弾薬庫への搬入、搬出の中継基地の役割を果たしています。
 朝鮮戦争当時は、弾薬集散基地としてフル活動していましたが、その後住民の根強い反対運動もあって、あまり使われなくなっていました。
ところが1967年6月ベトナム向け弾薬の貯蔵・輸送中継基地として再開することを米軍は通告してきました。12年ぶりの弾薬庫再開です。

 弾薬輸送の激化にともない、広町「弾薬バイパス」が広町交差点から同弁天橋まで総工費8億5千5百万円で71年度完成。
八本松「弾薬バイパス」も総工費2億4千万円で完成しました。
米軍弾薬船は、67年10月から68年12月末まで広弾薬庫には14隻、秋月弾薬庫には27隻が入港しています。
 68年6月3日、日本共産党、社会党、県労会議、呉地区労など20数団体で「弾薬輸送反対、黄幡弾薬庫返還要求広島県民共闘会議」が結成され、
ベトナム人民支援とも結合して、集会、デモ、座り込みなど精力的に活動を展開しました。
 90年の湾岸戦争ではアメリカの緊急展開軍の弾薬の事前集積基地として、海上保管までして、アメリカを援助しました。
 90年4月26日、インド洋のディエゴガルシァ島の米軍事前集積船の基地からオーストラル・レインボー号(26,406トン)が広弾薬庫沖にコンテナ14個を浮かべ、つづいて秋月弾薬庫沖にも19個を係留しました。オ号がコンテナを回収したのは、広が47日、秋月が43日後でした。
 呉地区平和委員会は、「野積みと同じ状態。特に夜聞は真っ暗であり、船が衝突する危険がある」と呉市や外務省に抗議しました。
 広弾薬庫撤去について、呉市議会はこれまでに、
1960年3月19日(本会議)、64年2月8日(全員協議会)、72年8月12日(全員協議会)、73年5月25日(本会議)、
88年12月20日(本会議)、93年9月22日(本会議)の6回、撤去決議をあげていますが、今こそ、アメリカの戦闘を地球的規模で支える、弾薬庫の撤去を求めるときです。

(5)川上弾薬


 1940年、呉海軍の弾薬庫として建設。45年10月米軍が接収。面積2604.4万u(広島市民球場の約100倍)、貯蔵能力7万トン。
93年春には88年までに造られた新弾薬庫6棟に加え、41棟が新設されました。
この新弾薬庫は、幅約10m、長さ20m、カマボコ型(コンクリート側壁60p、天井30p)、その上を土盛りで、全部地上に露出しています。
危険度Nd1といわれる弾薬庫については、90年2月の呉市議団の調査の際川上弾薬庫25、秋月弾薬庫1であることを米軍側は説明していました。
ところが、95年8月25日の東広島市議団の視察の際、スタンレー・リリィ司令官は、「あとで数を調べて知らせる」といいながら、その後「回答はできない」と無責任な通告をしてきています。
ここには105o、155oりゅう弾を1日800本の処理能力を持つ工場があります。

弾薬庫に隣接して火葬場、墓地を新設

 東広島市当局は、米軍とのなれあいで、「ふる里川上、安全な町づくりを考える住民の会」の4年越しの反対運動を押し切って火葬場の建設を強行(92年4月完成)。
 米軍は近くの畑で枯れ草を燃やすことさえ厳禁していたのに、火葬場の建設を認めたのです。
(火薬類取締法施行規則では、公共施設は弾薬庫から550mの保安距離『米軍の規則では600m』)をとらなければなりません。
保安距離内に約40軒の民家もあります。
 テロ事件後の警戒は、表門に県警のパトカー1台、昼夜詰め切って、その他の門にはコンテナを立て、特製の有刺鉄線を束ねて張り巡らせています。

(6)秋月弾薬庫(安芸郡江田島町)

 1890年(明治23年)、呉海軍の弾薬庫として建設。以後、日清・日露・第一次・第二次世界大戦へと「帝国海軍」のための弾薬をここから補給。
 戦後45年10月米軍接収後は、広、川上とともに朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争の最大の弾薬補給基地となりました。
 面積55.9万u貯蔵能力3万トン
 弾薬庫トンネル方式(100m×12m)×19か所。
トンネルの一部はミカン畑の下にくいこんでいます。一時保管の地上式1か所(290m×18m)。危険度Nα1の弾薬庫1か所

爆発事故

* ベトナム戦争中の71年4月、弾薬の検査・作業所で爆発事故。労働者死亡1名、重軽傷6名。町議会は直ちに「基地撤去・全面返還」を全会一致で決議。
 慌てた政府は、基地反対の住民運動が大きくならないうちに危険防止、住民避難対策と称して、隣部落に抜ける「避難トンネル」を防衛費16億円、
県から4億円を投じて建設しました。しかし、住民は「ドカンと爆発してから、逃げる暇があるか」と冷笑しています。

* 中国化薬江田島工場の96年4月16日の爆発事故は、従業員2人が死亡する太惨事になりました。
近くには米軍(秋月)と自衛隊(切串)の弾薬庫があることから「もし、弾薬庫での事故だったら」と住民は肝を冷やしました。

* 中国化薬江田島工場でふたたび爆発事故
11月15日、江田島町小用の同工場TNT製造工室で、また爆発事故がおこり、6人が重軽傷を負いました。江田島所は現場から1加以内の住民に避難勧告を出しました。
同工場は自衛隊用の火薬製造工場で、弾薬庫と同居する住民の危険性を改めて示した事故です。98年にも爆発事故を起こしました。


                   平成16年31日現在
  平成16年度 基地交付金地積調

対象施設       667.989u(61.6%)
 1、米軍      236.922u
   広弾薬庫    224,642u
   第六バ−ス    11,560u
   灰ケ峰通信施設   720u

 2、自衛隊     431,067u(39.8%)
 呉教育隊       26,200u
 大麗女弾薬庫     21,467u
 吉浦燃料貯蔵所   318,763u
 からす小島訓練場   64,637u

O対象外施設     416,603u(38.4%)
 呉地方総監部     73,750u
 呉教育隊       71,048u
※呉警備隊       47,739u
 呉通信隊焼山送信所  59,883u
※係船場地区      48,374u
※呉潜水艦基地隊    19,564u
※呉上陸所       16,513u
 呉集会所       8,522u
※港務部第三区     2,272u
 膳棚山受信所     42,282u
 灰ケ峰無線中継所   10,002u
※からす小島係留所   10,339u
 からす小島訓練所   3,068u
 呉史料館       3,247u

  合計      1,084,592u (注)※印は港湾施設、なお、基地交付金交付額は 183,965,000円



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