「黒い盆地」

  呉市民の戦災応募体験記と資料

    呉戦災を記録する会 編




 目 次


はじめに  ...この戦災体験記の意義...

第一部 応募体験記

    一 高橋 節子.......軍都とよばれる町で
    二 尾崎 静男......戦後五十年の節目に思う
    三 下垣内 順子....誰にも知られない戦争
    四 磯道 ヒフミ.....思い出
    五 秦 寛子........呉市空襲の思い出
    六 藤原 薫........「呉空襲」とは何だったのだろう
    七 水野上 展祥....焼夷弾投下の中をくぐりぬけて
    八 中村 和枝......戦争と私
    九 沖原 佳子......忘れ得ないあの日
    十 松岡 清徹......呉空襲直前の状況
   十一 島居 須美枝....戦争と私の人生
   十二 塚野 政秋......(妙子さんのお陰で)
   十三 石田 桂三......機雷投下と空襲
   十四 藤原 誠........警防団
   十五 宇根内 京子....劫火
   十六 林 栄男.........火の海
   十七 山田 武義......呉空襲の思い出
   一八 久留島 晶子.....忘れまい呉空襲
   一九 福本 和正......呉の空襲体験の中から
   二十 永田 富子......戦争と私
   二一 山中 和子......燃える西の空
   二二 柳井 順三......呉工廠の空襲
   二三 住吉 佐津代...(無我夢中の戦中・戦後)
   二四 浜田 公夫......第一次呉沖海空戦
   二五 吉田 肇夫......黒い盆地とヒロシマ
   二六 坂口 裕........戦時体制下の学校生活
   二七 田中 真佐子....学徒動員の頃(竹原高等女学校)
   二八 富田 和男......戦争中の私の思い出
   二九 土居 瑠子......ある学徒の記
   三十 桑原 彦造......戦争の想出
   三一 公文 寿子・久幸...(焦土の本通を歩く)
   三二 岡本 節子......(悪夢のようなこの日)
   三三 石井 春子......(掘り出した陶器)
   三四 水野 美那子....(二度とさせたくない私の体験)
   三五 石原 武夫......広方面海軍施設戦災史


第二部 呉戦災展によせて

一,1975年(三十周年記念展)


    一. 池田徳一....(蜂の巣状の焼夷弾筒)
    二. 匿名........(鹿田から見た呉空襲と市街の惨状)
    三. 宮原 康久....生活を破壊した呉空襲

二,1995年(五十周年記念展)


    一 佐々木 富三...(戦争はもう沢山)
    二 池上 多恵子...(水を飲ませたっかた)
    三 久保 .........(両城の丘で見た呉空襲)
    四 掛井 義行......(焼夷弾筒を寄贈)


第三部  資料編

一 中国新聞 体験記事(林海軍報道班員) 1945年


二 あれからちょうど十年(中国日報)   1955年


三 呉空襲体験記 第一集(呉三津田高校) 1975年

   一 打田 勝彦......戦慄
   二 高取 穂........呉工廠空襲体験記
   三 内山 玉野......呉空襲体験記
   四 井下(名和)貞充子..私の呉空襲体験記

四、呉市の行政資料と米国戦略爆撃調査団報告 1945年

   一 防空態勢

    I.呉市罹災者避難実施計画
    II.全般的な報告....援護課
    III.防空対策
      A.家屋疎開
      B.防空待避壕
      C.人員疎開
      D.警戒体制

   二 被害調査と援護活動

      A.空襲後の手配
      B.別記(海軍の報告)

   三 各種統計資料

      A.呉市空襲被害調査票
      B.戦災当時生徒数
      C.物資配給調査票....配給の実態
        1.配給対象人口数
        2.主要食糧
        3.副食品
        4.調味料
        5.燃料
        6.繊維製品
      D.爆撃被害
        1.建築物
        2.給水施設
        3.戦災水道被害状況調書...呉市水道部
        4.電気事業被災状況...呉電業局

   四 呉市議会ヘノ報告議案書 1945年度

   五 アメリカ軍の呉空襲記録 (空中偵察写真 付)

    1.海軍工廠造船部門の空襲被害
    2.目標情報シートおよび任務概要
     A. 攻撃目標情報シート(広海軍航空機工場)
     B. 攻撃任務概要   (広地区)
     C. 攻撃目標情報シート(呉市街工業地帯)
     D. 攻撃任務概要 (呉海軍工廠)
     E. 攻撃任務概要 (呉市街)
     F. C.I.U  (損害査定 報告)


おわりに  ...アメリカ軍の記録と呉市民の体験記...




本文
「黒い盆地...五十周年記念体験記と呉市戦災資料」

はじめに...この戦災体験記の意義...

            呉戦災を記録する会  朝倉 邦夫


戦災・終戦の五十周年の記念事業として「戦争と私の人生」(戦災体
験)を募集したところ、多くの方々から貴重な体験記や遺品を寄せて
いただきました。
戦後五十年も経つと、戦時中に使っていた品物や書類、空襲当時の記
念物なども失われ、記憶も薄れてしまいます。後世に残さねばならな
い貴重な施設や遺品、また、戦災体験の収集は、この五十周年記念が
最後の機会になるかも知れません。
五十周年記念に際し、私たちは呉市役所にたいして五十周年事業計画
の一部として、当時の遺品や体験記の収集を呉市の事業として行い、
「市政だより」で市民に提供を呼びかけて欲しいと申し入れていまし
た。
しかし、呉市は、呉市政の基本は「暗く悪い思い出は忘れ、明るい戦
後の復興の良い面だけを市民に伝えたい」、したがって「空襲・戦災
記念館をつくる予定もないので遺品を収集する必要はなく」また「市
民の体験記は客観的な史料価値がないから市史編纂室も不必要だと言っ
ている」ので協力はできない、と言うことでした。
今まで、呉戦災を記録する会は幾度も呉市に対し、戦災体験および戦
災遺品や資料の収集をお願いしてきましたが、遂に五十周年記念事業
でも相手にされませんでした。
全国的には、県内でも広島市や福山市・竹原市などは、市行政が公的
に戦災の記録や遺品を収集・保存し、戦災記念館をつくって展示し、
また、市民の戦災体験を募集して発刊しています。
東洋一の海軍工廠と呉鎮守府・呉軍港のあった呉市は、日本の中でも
有数の空襲被害を受けました。呉市の歴史上最大の被害を出した呉空
襲を後世に伝えることは呉市民の義務でもあります。
このような中で、応募されたみなさんの貴重な体験記は、他の都市の
体験記以上に重要な意義があります。
呉は軍都だったために秘密のベールに包まれ、敗戦時には記録を廃棄
したり、呉市が収録していた基礎資料も隠し、僅かに残った記録も散
逸させてしまいました。
呉市の空襲・戦災に関する行政資料の一部は、戦後、アメリカ戦略爆
撃調査団には提供されましたが、呉市民には未だに公表されていませ
ん。
日本の公的な記録があまり無い中で、呉の戦災を明らかにするための
資料として、有力な資料は二つあります。一つはアメリカ軍の記録で
あり、もう一つが呉市民の空襲体験記です。
提供された空襲体験記は、日米両国の公的な記録の不備を埋める詳細
で具体的な感性のあふれた記録です。
一人ひとりの記録は局部的で主観的な、不正確な点もありますが、全
体の体験記を集めてみると、空襲の実態をよく伝えています。
例えば、アメリカ軍は、呉市街を夜間に焼夷爆弾攻撃して、二千人の
呉市民を無差別に、残虐に焼き殺しました。
アメリカ軍の記録では、目標の中心地点を東泉場町(現・栄町商店街
南)に決めてレーダー爆撃をしました。アメリカ軍の攻撃命令書には、
休山方向からの攻撃線に沿って、目標地点への爆弾投下だけが書かれ
ており、特に「呉市の周辺部から焼夷弾を投下し、逃げ道をふさいで
残虐に殺せ」などとは書かれていません。
しかし、呉市民の多くの体験記には「アメリカの爆撃機は、休山周辺
から灰が峰周辺、三条そして中通り、本通りの中心部へと焼夷弾を落
とし、市民の逃げ道をふさいで残虐に焼き殺した。」と書かれていま
す。
B二九爆撃機がどのように来襲し、焼夷弾がどのように落とされ、ど
のような状態で、どのように爆発して、どのように人が殺されていっ
たか、逃げまどう人や焼ける市街の状況など、本当の呉空襲の実状は
個人の体験記録でしか知ることはできません。
寄せられた体験記により、戦前の呉市街のようす、呉海軍工廠のよう
す、呉空襲のそれぞれのようすがよく分かり、五十年目にしてやっと
書けたた戦災・空襲に対する恐怖や苦しみやに思いを致し、平和の尊
さを伝えることができると思います。

「本書の構成」

本書の題名は、応募体験記の印象深い言葉の中から選びました。
第一部は,戦災・終戦五十周年の記念事業として、子や孫に伝えよう
「戦争と私の人生」という体験記の募集に応じて投稿していただいた
原稿を、ほぼ原文のまま掲載しました。
昔使っていた用字も、その時代の雰囲気を伝えるため、現代的な書き
方には改めませんでした。若い年代の人には読みづらいかとも思いま
すが、苦労して読んでいただけないでしょうか。
投稿者の題名がついていないものは( )でかこみ、仮に付けてみま
した。
各体験記の前に簡単なコメントを付け、読書案内にしています。
投稿文の一部には、以前に投稿していただいていたものも含まれてい
ます。
第二部は、呉戦災展を開催した際のアンケートや感想ノートに記載さ
れていた文の一部の中から選んでみました。当初の予定では、呉戦災
五十周年記念集会で多くの方から戦災体験を語っていただいたものや、
パネル討議の体験発表を収録するつもりでしたが、紙数の都合で、次
の機会に廻させていただきます。
第三部は、資料編として、まず、戦災体験の記憶や思いが、戦時中・
十年目・三十年目の経過の時代別でどう変わるか、紹介してみました。
つぎに,今まで公表されていなかった呉市の行政資料で、呉市が空襲・
戦災に対し、どんな施策を採り、どんな行政資料を収録していたか、
戦後、アメリカに提出した資料の一部、および市の未公表資料の一部
を収録し、呉戦災を解明するための一助としました。

目次へ



第一部 応募体験記



一.軍都とよばれる町で

               高橋 節子
                (呉市宮原三丁目十二−五)

(防空壕は空襲から身を守るものと信じていた。「日本は勝つ」と信
じていた。しかし,それは単なる理念でしかないことを純真な女子挺
身隊員は体験した。工廠での出来事、恐怖の空襲、苦難の生活などを
詳細に語る。)

私が生まれた所は、呉市宮原三丁目で、かの有名な「戦艦大和」を建
造した、巨大ドックの真上にあたる地域です。
日本は諸外国を敵にまわし、無謀な戦争を続け、最後には苛酷な運命
を甘受しました。当時、私は二十歳の乙女で、女学校を卒業後、挺身
隊の一員として呉海軍工廠に配属されました。工廠は厳しい空爆を受
けましたが、幸いにも私は九死に一生を得ました。
後日、再び呉の市街地に大空襲があり、焼け出されたので取りあえず
母の実家に同居させてもらっていました。昭和二十年八月十五日、玉
音放送により、戦争は終わりました。
<女子挺身隊の頃>
 私は、昭和十九年の春、女学校を卒業して直ぐ「女子挺身隊員」と
なり、呉海軍工廠砲熕部設計係に配属されました。偶然、小学校から、
ずっと一緒だった友と、私を入れて三人組で白鉢巻きに、紺のモンペ
の凛々しい姿で、毎日、工場へ通勤していました。友達二人の仕事の
内容は、従業員名簿と給料計算、工場内の壁新聞の掲示などでした。
私は父が軍人であった為か、機密書類の受付、整理、関係幹部への取
次ぎ等でした。
昭和十九年の夏ごろから、敗戦色が次第に濃くなり「受注カード」が、
応じきれない状況なのを知り、胸が締め付けられるような、切なさを
感じました。私達の雑談の中でも、決して軍の機密事項は、口外出来
ず、緊張の連続でした。
戦時中の食べ物としては、当時、前線へ、兵糧として、米や麦などの
主食を始めとして、魚、肉、卵、それに調味料の砂糖、食料油などが
輸送されるため、一般の人には入手困難となり、皆ひもじい思いを耐
えて暮らしていました。
「欲しがりません、勝つまでは」とのスローガンが掲げられ、愛国の
念から日本国民が一丸となって銃後を守ろうと、出征した父や、夫を
前線に送り出した母や妻たちは、女手ひとつで細々と僅かな空き地を
耕して子育てをしていた。しかし、食べ盛りに子供たちには、とても
満足できるものではなかった。その為に、さつま芋の蔓までキンピラ
の様に調理したものとか、かぼちゃの料理、主食では、芋がゆ、大根
めし、大豆ごはん、雑炊、野の草入りダンゴ等を作って、空腹をみた
していた。卯の花ずしや炊き込みご飯、竹の子ずしは、御馳走の方で、
田舎から年末にお歳暮として送って来たお餅を囲み、近所の子まで歓
声を上げて母の焼くアンコ餅や、きなこ餅の出来上がりを待って、む
さぼるように食べた懐かしい思い出が忘れられません。 昭和二十年
三月のある日正午ごろ、突然「空襲警報」のサイレン、退避も出来な
い程の早さで米軍機が飛来し、驚き呆れて、「アレヨアレヨ」と、指
差し乍ら見ている中、呉湾上空を悠々と旋回しながら、飛び去ってい
た。不思議に私達の工場は、その日、攻撃目標とならず、ホッとした
ものの、白昼堂々と、工場地帯の航空写真を撮られて、不安の日々が
続きました。
そして六月二十二日、B二十九が、延べ二百九十機が、編隊を組んで
呉海軍工廠を標的に二十分間隔の波状攻撃を開始し、造船部を除く、
砲熕部、水雷部、電気部、製鋼部などの、軍需工場地帯に襲いかかっ
た。
よく晴れたその日、私たちは出勤早々、「警戒警報」に続いて、「空
襲警報」のサイレンで、三十人あまり全員が地下壕へ退避した。(男
女別に入った)中は、真っ暗で緊迫した時間が、刻々と過ぎ、極度に
緊張が高まった。
突然、これまで耳にしたことのない「シュー、シューッ、シュッ」と
いう音が、頭の上に迫り、次の瞬間「ズズズズ、ドッカン」と物凄い
炸裂音がした。暫くは、失神状態で、話声もなかった。周囲をソッと
見回すと、壕の中は、黄色い土けむりが爆風のために大きく渦巻いて
いた。
入口の鉄扉が歪んで、僅かな隙間から、木材、紙類、その他の焼け焦
げる匂いと、汚れた空気が流れ込んできた。
爆風で歪んだ鉄の扉が開かない。寸刻を争う事態に全員が力を合わせ、
押したり引いたりしているうちに、奇跡的にようやく一人通れる出口
が開き、明るいお日様の中に出たときの嬉しさといったら、なかなか
表現出来ないくらいだった。
工場は、直撃を受けて、鉄筋三階の床を突き破り、二階床も斜めにぶ
ら下がった格好で鉄骨が露出し、炎上しているのが目に入った。頭上
には、艦載機が私達を狙ってか、爆音が絶え間なく聞こえてくる。
私達の工場が、最初に被爆したため、串山の防空壕へ到着するまで、
他の工場は無庇であったので、一直線に走り込む。先の壕に入って一
息ついていた男子工員も、後から駆け込んだ私達も、これからどうな
ることかと、重苦しい雰囲気に包まれていた。波状攻撃を受けて、次々
に工場が被爆炎上し、大丈夫と思っていたこの壕には居れくなった。
風向きが変わって、煙がどんどん入って、その上熱風が入ってきだし
たからでした。
次に考えられる防空壕は、山手の方にありました。無我夢中で走って
いる中に、何時の間にか、友達と離れ離れになっていました。逃げ惑
う私達を狙って、またしても執拗な機銃掃射が続き、「バラバラ バ
ラバラ」という音が身辺に迫ってきました。第二の壕にたどりつき、
扉を力一杯叩いたが、「ここは満員でだめだ。次の壕へ行け」といわ
れた。泣きながら次を探して、よっやく小さな壕にに入れてもらった。
長い長い攻撃が終わり、壕の外に出たときの解放感は、何ともいえぬ
ほど嬉しかった。後で聞いたところでは、私が入れて欲しかった山裾
の防空壕は、哀れにも直撃弾を受け、地盤が脆かったために、入口が
塞がれて、全員が死亡というのを聞き、痛ましい限りでした。
こうして呉海軍工廠への大空襲が終わったが、私達三人娘は、奇跡的
に助かり、暮色迫る周囲の山々を仰ぎながら、ようやくの思いで、家
に帰り着いた。煤だらけの私の顔を見た母は、狂喜して強く抱き締め
てくれました。それは、一足先に帰宅した、近くの職場に勤務する人
から「お宅の娘さんの職場の建物は爆撃され、炎上してしまったので、
おそらくその中で爆死しているのでは?」と聞かされていたので、半
ば諦めていたためだった。
工場が焼失した後も、引き続き、近くの防空壕(現在の宮原高校真下)
の中で焼失を免れた書類や、機密図面の整理をしていた。
戦局は、日増しに悪化し、硫黄島の玉砕、米軍の沖縄上陸、ドイツ軍
降伏、沖縄ひめゆり部隊の痛ましい戦死に続く、沖縄戦の終了の知ら
せなどが、次々入ってきた。
<焼夷弾攻撃……呉市街地>
遂に、呉市街が焼夷弾に曝された。昭和二十年七月一日の真夜中のこ
と、何時も通り一家団欒の後、皆が寝入った深夜、十一時三十四分に
警戒警報、続いて空襲警報が重苦しく鳴り響いた。連日連夜の警報で、
また直ぐ帰るのだからと、何時もの通り、防空頭巾を被り、非常用カ
バンを肩に家族五人が、急いで、防空壕の入口まで来たとき「パッ」
と照明弾が閃き、真っ暗な家並みや、私達を一瞬赤々と照らしだした。
これこそ、B二十九型の編成機による大がかりな焼夷弾攻撃の始まり
であった。三方が山に囲まれ一方が海に面している呉市街への攻撃は
巧妙でしかも、残酷、そしてその結果、惨たらしい大きな被害が出た。
先ず、山裾の地域全般に、続いて低地の中心街に、八万発の油脂焼夷
弾が投下された。「モロトフのパン籠」と呼ばれた焼夷弾が高度3百
メートル上空で、親爆弾が炸裂し、焼夷筒の三十八〜七十三本が、自
動発火して、まるで花火の「しだれ柳」の様だった。
防空壕の中にいた私達は、周りの家々が、「パチパチ」と音を立てて
燃え、物凄い煙が容赦なく私達に襲いかかったため、身の危険を感じ
壕から逃げ出した。目の前に広がる火の手を避け、暗い山道に向かう。
ふと気付くと、三つ違いの弟と、並んで走っていた。坂道で一番手前
の家々が、道路を挟んでメラメラと燃えていた。それを見て、弟は一
瞬、立ち止まり動かなくなった。(弟はこれまで被爆した体験がなかっ
た)咄嗟に私は「グズグズしていたら、二人とも焼け死んでしまうよ」
と弟の手を掴み、強引に火の中を走り抜けた。振り返って見ると、燃
えつきた建物が崩れ落ち、火の海となっていた。暗い山道を登って、
いも畠に着いたが、私の足は、ワナワナと震え、おもわず座りこんだ。
遥かに見える呉市街地や、山裾一帯が、まるで噴火口のように真紅に
燃えているのを、ただ呆然と見詰めていた。
夜が明けて、私達は、心細さと空腹を抱えて、我が家の前まで戻った
ところ、父も母も憔悴しきった顔で、妹を連れて焼け跡に立っていた。
家族が手をとり、無事を喜んだが、我家も隣家も全てが灰燼になって
しまった。ガラス戸は高熱のためにラムネ瓶のようにねじれ凝固して
いた。焼け跡からは何一つとして使えるものも見当らず、焼けただれ
た焼夷弾が、奥の居間辺りに転がっているのを、数日後知った。この
日の被害は、死者千八百十七人、重軽傷者四百五十三人、行方不明五
十三人、全焼失家屋二万二千三十五戸、罹災者数十二万二千三十五人
と記録された。
<原子爆弾と私>
 呉空襲で焼け出された我々一家は、一応、母の実家に同居させても
らったが、二週間ほどすると、江田島海軍兵学校に勤めていた父が、
岩国航空隊に転勤することになり、家族で同地へ移ることになった。
しかし女学校を卒業して挺身隊員の一員として、呉海軍工廠で働いて
いたので、転居は許されず、私一人が呉に残っていた。
昭和二十年八月五日の朝、私は二日間の休暇を取って、父の居る岩国
を訪れた。
航空隊への道が遠いので、駅前で途方に暮れていると丁度目の前を、
航空隊と書かれた大型トラックが通りかかった。勇気を出して同乗を
頼むと、車上に引き上げてくれた手は、父親の手であった。父の目に
は涙が光っていた。新しい宿舎の風呂に入って、久しぶり親子四人で
寛いだ。
翌八月六日の朝8時すぎ、ラジオを聞きながら、縁側を拭こうと身を
屈めたとき、朝日のかがやきよりも、もっと眩しい光線が目の先を走っ
た。「一体なんだろうか」不審に思って辺りを見回したが異状はない。
しかしそれまで賑やかだったラジオの音楽や、ニュースが、何故か
ぱったり聞こえなくなっている。部屋の中に入って故障の有無を確か
めようと、ダイヤルを回して見た。他局の放送は聞こえてくるが、広
島放送局は、シーンとして聞こえない。なおもダイヤルを回している
と、「広島放送局、広島放送局、聞こえますか?聞こえたら誰か返事
をして下さい」と呼び掛ける声は聞こえたが、不気味に沈黙はそのま
ま続いた。
五十年も経った今日でも鮮やかに思い出される。悪夢の一瞬としか
言えない、原爆投下の朝のことである。「人の命は紙一重の差」と言
おうか、私の岩国訪問が一日遅れていたら、私もあの朝、広島で原爆
の犠牲になっていた筈である。二日間の休暇は終わり、再び呉に返る
ことになった。車窓から異様な広島の惨状を目にしながら……。
                       

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二.戦後五十年の節目に想う

                 尾崎 静男
                  (呉市西愛宕町七ー四)

(呉空襲中の消防署員として活動した貴重な体験談の一つ。市街での
恐怖に満ちた伝令行と無惨な光景。唯一残されている、呉空襲中の猛
火の中での消火活動の写真に写って、マスコミでもお馴染みの人。)

戦後五十年で思い浮かぶのは広島市の原爆投下であり、私たちの最も
身近な事で呉大空襲です。昭和二十年七月一日の空襲惨事、消失家屋
二万二千戸、死者重軽傷者、行方不明あわせて二千三〇〇余名の犠牲
者を生じた戦争による悲劇であります。
私は昭和二十年二月一五日、少年消防官として採用され一ヶ月の間の
短期教養のため消防・警察練習所に入所、三月一五日広島県消防手を
拝命、呉消防署勤務を命じられました。当時の私は満十七歳十一ヶ月
の世間知らずの若者でした。
呉消防署着任の勤務は空襲に備えて日夜の対空訓練、望楼勤務による
対空監視、新人の私にはめまぐるしい毎日が続いていました。
そうして一ヶ月が過ぎた頃、頻繁な空襲警報に備え、職員の勤務体制
が変わり二当直一非番といった非常勤無体制となり、甲部、乙部、丙
部の三部制で、私は丙部勤務、本部伝令班を命じられました。
空襲警報発令されるや直ちに署長室入口で班員三名で待機(現在の無
線代わり)なお空襲警報発令と同時に車庫内の消防車十数台は各方面
の待機場所へ分散出動、車庫内には署長乗用のサイドカーとトラック
程度といった状況でした。
そういった状況のなかで三ケ月余りたった昭和二十年七月一日深夜、
呉大空襲に遭遇した私は身も心も震えていました。でもこうした体験
が消火活動に対する大きな原動力になったように思います。
当日は乙、甲部が当番日で私の所属する丙部が非番でした。
申し遅れましたが、当時は、警戒警報発令と同時に非番職員は自動的
に勤務場所に応召することになっていました。
私は当時、本通十一丁目(現在の本通小学校付近)に住んでいました。
家族は四人で、兄は海軍応召中、母と妹と私の三人暮らしでした。夜
十一時半頃警戒警報のサイレン、直ちに私は身支度を整えて小走りに
家を後にしました。
現在の本通四丁目大映の映画館あたりにさしかかった時、花火を打ち
上げるような音響と共に照明弾の投下により、青白い光で呉全体が昼
のような明るさになり、俄かに周囲がざわめき始めました。それから
約五、六分後すさまじい音響と共に焼夷弾が投下され始め、私は足を
速め消防本部に到着しました。
その時はすでに市内の建物があちこち延焼していました。私は二階に
かけ上がると、署長は数名の者に興奮気味に指揮していました。伝令
班の私達二名は車庫前の消火栓により庁舎周囲の消火活動を命じられ、
直ちに防火衣等を着装し、必死に放水を開始。周囲は猛煙猛火の中、
焼夷弾落下音「シュルシュルーズドン」小刻みに身は震え、なんとも
いたたまれない恐怖でいっぱいでした。
しかし人間捨て身というか、ひらき直りというか私は覚悟を決めたと
たん、今考えて見ても不思議な程冷静さを取戻し、使命感に燃え、爆
音、建物の燃焼音、避難者の叫び声の中、熱気を注水飛散で身を冷し
ながら、必死に消火に当っていました。
そういった状態が約一時間も続いた頃でした。車庫前で指揮していた
白木署長が、庁舎の向いの延焼中の呉警察からの飛散物で負傷、数名
で救護し寝室に収容、まもなく私は署長伝令として岩方通り九丁目
(現在の中央五丁目、福祉会館付近)へ出動中の一号ニッサン分隊に
至急本署へ帰署伝達を受令し、岡田(稔)消防手と私は燃え盛る火煙
の中へ出発した。
燃え倒れた家屋、電柱、飛散物などで道路はほとんど塞がれた状態、
右へ左へと懸命な行動中、現在の文化ホールの北側だったと記憶して
いるが、どこから来たとも判らないお婆さんが、私の防火衣の裾を死
物狂いでつかみ「つれて逃げて下さい」と必死の叫び、私は進退極ま
り振り切ろうとしたとき、ふと私の目に映ったのは当時、町の辻々に
設置されていた十米四方、水深約一・五米ばかりの防火水槽でした。
岡田消防手と二人でそのお婆さんを水槽の中へいれ、「お婆さん、こ
の縁を放さずしっかり持って」と言いながら煙を透かして見ると、水
槽の中には既に数名の避難者が入っていた。「お婆さんを頼みます」
と言葉を置いて私たち二人は行動に移ったものの、建物は燃え崩れる
まで火炎地獄の中、燃え垂れた電線に足をとられ転んだり起きたりの
繰り返し。
来た道を引き返すこともできず、二人は猛煙猛火の中必死に突進。す
ると幸いかな堺川の楓橋に辿り着いた。九死に一生を得た二人は、顔
を見合わせるや橋の欄干から水面めがけ飛び込んだ。水深は浅く大勢
の人が腹ばいで退避していた。暫く身体を冷し、川沿いに伝令目的地
に向かった。あとから気付いたことであるが、消防署の裏から川沿い
に行けば、難なく目的を達成できたものをと、今でも後悔している。
軍よりの指令で、次の空襲目標になるから一時も早く残火鎮圧せよ、
との指令により、総力を上げて三日三晩、不眠不休の消火活動が続い
た。
空襲の翌日、私も分隊に編入され、方面担当の残火鎮圧に出向き、路
上の障害物を除去しながら、偶然にも前夜お婆さんを避難させた水槽
のそばにさしかかった。
私も気になっていたので水槽に近づいて見ると、水槽の中で死亡した
と見られる四、五体が引き上げられ、並べられているのを見て驚いた。
何とその中に私が退避させたお婆さんがいるではありませんか。私は
ぞっとし何とも言えない気持ちになり合掌した。それから五十年たっ
た今でも気掛かりでなりません。

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三.誰にも知られない最後

               下垣内 順子
               (呉市阿賀北五丁三十三ー九)

(黒っぽい町が,一夜にして白い町に変わっていた。中通から堺川へ
必死の逃避行。九死に一生を得て見たものは・・焼け出された人のも
のを盗むなんて、人でなしだと当時は思ったが・・五月橋付近での悲
しい思い出。)

突然の空襲警報が鳴り始めた。家の中にも防空壕が掘ってあったのに、
あの晩は母親と二人あわてて外に走り出た。灯火管制でいつもは真っ
暗のはずなのに、あの晩は夕焼けのようにはっきりと辺りが見渡せた。
どんどん走って、境川に向かった。母親と離れないように、必死で手
をつないで走った。
走っている間にも、頭上からばらばらと焼夷弾がはじけて落ちてくる
のがわかる。足もとには、黒い人影が幾人も転がっていた。死んでい
たのか、転げていたのか。逃げることに心を奪われている私は、その
上をどうやらこうやらまたいで進んでいった…。
 戦後五十年のこの夏、敗戦の記録があちらこちらで発表されたが、
私も多くの思い出に浸っている。昭和二十年は小学校卒業の年であり、
女学校一年生として、人並みの苦労の始まりの年でもあった。なんと
か母親とともに生き残ったのであるが、あの晩の記憶は忘れられない。
小学生になった孫に語って聞かせたのは、自分の苦しい体験であった。
が、ふと、あのとき私がまたいだ人は、あれからどうなったのだろう
と思い始めた。原爆で生き別れ、死に別れた人を捜し歩いて、多くの
人がその体験を記録に残されている。
しかし、呉大空襲でも大事な家族と生き別れ、死に別れて、探し歩か
れた人は多いことだろう。堺川にかかる五月橋で、無念にも焼夷弾の
直撃を受けて亡くなくなられた人、そして堺川の中に飛び込んで浮か
んでいたあの多くの人たちは、どうなったのだろうか。
私自身が生きることに精一杯で、あのときの、同じように生死を身近
に体験した人々とに思いを馳せることはなかった。しかし還暦をすで
に越えた今、誰にも知られないで最後を終えられた人びとの、冥福を
祈りたいと思い始めている。また、忘れられないと思い始めている。
また、忘れられないと思っていた記憶もだんだんと薄れていくようだ。
何だか夢でも見たようなそんな気分になっている。そこで、ささやか
な体験であるが記録しておきたいと思い立った。
七月一日の終わりに、私が横になって着ていたのは、小学校六年生の
時に縫ったパジャマである。そして、枕許には、いつでも持ち出せる
ようにと勉強道具をいれた手製のランドルを置いていた。台所の床下
には、すばやく入れるように深い穴が掘ってあった。
父親は、徴用で九州の炭鉱に連れ去られていた。二人の兄はそれぞれ
陸軍と海軍で出征し、妹は山口県の親類に疎開して、家に残っていた
の母親と私のみであった。あの日、小学三年生の妹が家にいたら、私
たち家族はどうやって逃げただろうか。考えることさえ恐ろしい。
後になって聞いた話によれば、あの大空襲は、二時間半にわたってB
二十九 八十機が焼夷弾を落し続けたそうである。当時の中通四丁目
(登陽堂という書店)に住んでいた私たちは、とにかく川へ向かって
逃げた。ぐるりを山で囲まれている呉の街の、その山から焼夷弾で焼
き始めたそうだ。そうとも知らず、とにかく人の流れについてひたす
ら逃げた。
転がっている人につまづいて転びそうになる。それでも頭上のはでな
音につられて空を見上げてみると、ぱらぱらと降りそそぐように焼夷
弾が落ちてくる。
母親の力強い手に引っ張られてやっと落ち着いた先は、川岸の防空壕
であった。
すぐそばの赤い煉瓦づくりのビル(月見湯)が燃え落ちた。防空壕の
入口で小さく屈んでいた私は、あまりの熱さで、ふうっと気を失った
らしい。後で知ったことだけれど、どなたかが水筒の最後の一滴で私
の口を湿らせてくださったとか。それからまた、どなたか分からない
が私を抱えて五月橋を渡って、当時の商工会議所横にあった深い穴
(壕)に連れ込んで下さった。
七月二日の朝早く、ふと目覚めるまで私は何も知らない。近くの市役
所あたりには、まだちろちろと火の燃えているのが見えた。白い煙が
あちらこちらに昇っていて、全くの別世界だ。しばし呆然として座り
込んでいたが、中通はおろか、駅のほうまでみごとに丸焼けであった。
いつもは黒っぽい町が一夜にして白い町に変わった。
私を助けて下さった人は海軍さんで、船に戻らなければ…といって立
ち去られた。おにぎりを積んだトラックが、町中を走り出したのは昼
すぎだろうか。トラックの上から配られるおにぎりは、一人に一個で
あて。真夏の光線に照らされて銀色に輝くおにぎり。久々の白飯にあ
りつけたわけであるが、それはすでに傷み始めていて、二つ割にする
とねばって糸をひくのが見えた。
わが家の焼け跡は、熱くて何も手をつけられなかった。黒焦げのミシ
ン。何百枚とあるレコードの焼けただれた塊。ページのふちが焦げた
まま、焼けかけで散らばっている多くの書籍。ドイツ製のピアノも無
残な姿を見せて、すっくと一枚板のみが立っていた。あれは鉄板だっ
たのだろうか。
いずれの鉄くずも、それから一週間もたたないうちにごっそりと、何
者かに持ち去られていた。焼け出された者の品を盗んでいくなんて、
なんて人で無し、と当時は思った。
しかし今は違う。あのころは、だれもが生きるために命がけの時だっ
たのだ。あの焼け跡の鉄くずも、誰かの命を救ったのかも知れないと
思えておだやかな気持ちになっている。私の命も、誰かのお陰で助け
られたのだから。
 そしてあの日、誰にも見取られないで最後を迎えた方々をまたいで
逃げた、私たちこそ人でなしであったと気づかされるのである。戦後
五十年のあいだ、思い出しもしなかったけれど、あの日の御霊が、身
内の人の胸にうまくかえっておられることを信じ、ご冥福を祈りたい。

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四.思い出

          磯道(旧・坂根)ヒフミ
              (呉市阿賀中央九丁目十二ー二十六)

(大君のため、お国のためにと夢中になって工廠で働いた。愛する人
の出征時、血染めの日の丸を届け木陰から見送った。本通での空襲時、
幼児にすがって泣く母親を、心を鬼にしてせき立てて山に登ったこと
も。)

“あヽ、大君に召されたる”。「バンザイ」「バンザイ」今日も又。
我が家は呉駅前通り今西五丁目一−三一番地。四人の兄達は出征中、
私は不具な両親の一人娘の末っ子、只今、青春のど真ん中。
白いカッポー衣に大日本国防婦人会の襷に、日の丸の旗の波で呉駅に
向かう出征兵士を送る軍歌が後を断たない毎日でした。
我が家にも、階下の六畳二間に十二人の間借り人の配給があった。世
に云う海軍工廠の徴用工員である。
戦争の終わり頃には、女子挺身隊員も、学徒も、呉海軍工廠の産業を
担う為にと、全国から集められ世界一の人口密度に脹らんでいった。
我が家では、六人の人達が「行って帰ります」と、出て行った後に、
「ただいま」と、夜勤上がりの六人が帰ってきて、床を上げる間もな
い程フル回転である。
私も、自分から友人を頼りに、電気部無線工場に入ったのだ。三階建
ての白い広い工場だった。入廠して間もなく女ばかりの組の女組長さ
んから一番前にある、ドウナツ形の圧粉鉄心に電線を巻き、コイルを
作る仕事を決めれられた。
皆んなは私の方に向かって仕事をしているのに、一台の機械を与えら
えた私は、皆の方へ向かって一辺に学校の先生にでもなったようで、
恥ずかしかったし、嬉しかった。
そこからは、工場の隅まで何百人もの顔が一望できるのですから、舞
台の上で仕事をしている様で、一生懸命に夢中になって働きました。
毎日毎日、仕事に行くのが楽しくて、失敗しては落ち込み、上手に巻
けて嬉しかった。
私達女子の前を、男の人が通る度に「キャアー、キャアー」言うので
す。戦闘帽を真深く被った目が涼しい真面目な素敵な赤顔の美青年で、
私も、ドキドキしながら秘かに機械の影からみていました。
その頃、盛んにやっていた防火訓練で、隣の工場への集中放水で、標
的へ力一杯に水を掛けるのだった。男女代表選手として彼と私が選ば
れた。今ではたわいもない事を、当時は真剣に訓練に参加したのだ。
ある日、男性先輩のAさんから「彼は女性には一杯もてるけど、貴女
が好きじゃと」。「絶対に真面目なんじゃけん」と言って来てくださっ
た。皆んなに「ウァー、ウァー」。「ギャアー、ギャアー」とはやさ
れて舞い上がったのだけど、仲良しだった皆んなが一辺に冷たくなっ
た。
口も利いてくれないし、話しかけても返事もしてくれない。でも彼か
ら点された夢の様な胸の火を大事に、孤独に耐えていたが、次第にひ
どくなる。
Aさん宅に話しに行った。Aさんはお構いなく彼の処に連れて行って
くれて消えてしまった。彼は、二河公園内の寄宿舎から丁度彼の仲間
が呉駅に向かって出征するのを送るところだった。彼は団長だった。
彼は、この出征兵士を送りながら、私と一緒に我が家まで歩いた。今
度は公園で逢う約束をしてくれた。
公園でお逢いし、池の側の大きい石の上で、彼は慰問袋を呉れた。ハ
ツタイ粉、そら豆の煎ったの、勝栗等、郷里から篤い思いで送って貰っ
た物なのに。互いに手を取り合うでもなく、彼の写真を貰い、私の写
真を差し上げた。
そして、戦局は日々激しくなっていった。衣料切符制度で洋服もない
頃。正月休み明けの新年宴会に出席するのに、灯火管制の厳重な中な
のに、「モンペ姿では可哀想」と、兄嫁が白と紫の矢絣の着物を着せ
てくれた。Aさんが私と彼の為に皆んなに頼んでくれて、真っ暗な部
屋の真ん中に、二人顔だけ明るい電灯の下で三々九度の真似事をして
祝ってくれたのが、走馬灯の様に美しく、カゲロウの様にはかない一
瞬でした。
彼は間もなく出征して行きました。彼が出て征く日は、真っ白い銀世
界の朝でした。私は、せめてもと、小指を切って血染めの日の丸を届
けて、桜の木陰に隠れて居ました。彼が咳ながら追って出て来たが、
遠くから泣いて見送った。雪の中へこの身を投げて溶かしたいと泣い
たのだった。
彼の出征後、日増しに戦局は厳しさを加え、戦勝の「軍艦マーチ」も、
敗れた「海漬く屍」も工場に流れる日が多くなった。半日は防空壕掘
りでシャベル、土運び、ツルハシも持った。
遥か朝鮮の人も沢山手伝って下さった。呉の街も灰ヶ峰、石槌山にも
高射砲台を置き、白壁は、まだら模様にし、街角には防火用水を貯え、
道路側には小さい防空壕を造り、疎開道路も空襲に備えた。
毎日のようにB二十九の爆音とサイレンの音。その都度、工廠神社下
の壕に避難し、仕事は捗らず四時間残業が続く。
女子工員の通勤用廠内列車も空襲が激しくなる度に停まり、壕から壕
へと壕伝いに出退した。それでも女達は日の丸の鉢巻きをして防空頭
巾を持って、昼の弁当は大豆飯にヒジキにモヤシが入っていたが、誰
も不足は言わない。
 七月一日の夜十一時過ぎ、何時もの様に空襲警報のサイレン。隣組
の班長さんがゲートルを巻いてメガホンで「空襲、空襲、早く避難し
て下さい」と叫んで母を連れて行った。
 本通十三丁目から四ッ道路にかけて五分も経たないうちに、バアッ
と火の手が上がった。何十機の敵機から雨・霰の様に油脂焼夷弾が降っ
て来る。何時もと違う、防空頭巾を被り、靴を履く頃には、もう自分
の頭の上にも「シュル、シュル、ピュール、ドカン」。炎は一瞬にし
て我が家の屋根も垣根も植木も蚊帳もシュルシュル、ドンバシャン。
 隣の家も、その隣の家も見る見る火に包まれて行く。最後まで一緒
に残ってくれた水兵さんが「フミちゃん、火は消えない、早く逃げよ
う」と急ぎ立てる声を耳に、小学六年生の時に建て替えたばかりの、
生れ育ったこの家をおぶって逃げられるものならと、柱に抱き付いて
泣いた。
急かされて、互いに水を被って小路を出た時は、もう行く手も、後も
炎の海だった。左に行けば二河川は近い、その時、共済病院に爆弾が
落ちて爆風で体が浮く、黒煙と炎が渦巻く、真っ直に公園に向かって
水兵さんの手を取って走った。
足元にアスファルトがピチピチ燃えてくる。呉市中がまるで火の海で
ある。足をすくわれる程に風が吹き上げる。
街角の防火用水の上へ火の粉が花火の様に走り、パチパチ、ヒュルヒュ
ル燃えるのだ。逃げ遅れた人達がヨロヨロと風に足をさらわれながら
「早く逃げんさいよ」と叫びながら、私達は早い。
火の粉が目に飛び込む。公園の横の図書館の所まで一気に走って、振
り向いてみると、炎々と逆巻く紅蓮の炎が背に追いかぶさって来る。
そこへ、母が布団を被って通りかかった。「お母ちゃん」大声で飛び
付いた。母は泣いて抱き締めた。
バケツでいくら水を掛けてもびくともしない。疲れた体に濡れた服、
川風が身にしむ。燃え盛る炎と爆音は一晩中続いた。明るくなるのを
待って、我が家の近くまで行った。まだチョロチョロ残り火がくすぶっ
ている。
懐かしい見覚えのある茶碗が並んで見つかった。まだまだ危なくて近
付けない。七月の太陽と燃え残りのブスブスの炎がぶつかって街中が
カゲロウのようにユラユラし、熱風で空気も薄い。
人名点呼を町内で始めたら、またサイレンが鳴る。また二河の奥の鉄
管橋まで逃げる。二,三度繰り返すうちに疲労が限界に来た。我が家
を逃げる時、大豆の入った一升瓶が横にあったのに持ち出せなかった
事を後悔した。
もう動く力も無くなって公園の広場の炎天下で口も利けず、目を窪ま
せて、アホウの様になって座っていた時、焼山の奥からトラックが来
て大きな真っ白い真ん丸い、おにぎり一つ、乾パン三つ配給して貰っ
たのだった。それに罹災証明書だった。
大きな家の主人も、偉い人も、貧乏人も、何人のへだてもなかった。
一つのおにぎりがどれ程大きな救いであったことか。涙がポロポロと、
おにぎりに降り掛かり、涙と一緒にかぶりついたものだ。
やっと生気を取り戻し、さて、母を連れて帰る所があったのだと気付
く、父がニュース館で焼け野原の街の映画を見て、いずれ呉市もそう
なると、半年前から石槌山の中腹へ疎開をしてくれたのだ。
アッチコッチで黒焦げの死体は見て来たけれど、亀山神社裏の疎開道
路では、見渡す限り数百人とも数えきれない死体が塁塁と横たわって
いる。目から鼻から口から血が流れ、体はパンパンに膨れていた。母
の胸に赤ん坊、足元に子供達、血だらけの足が焦げている。炎に追わ
れて逃げ場を失った人達だ。
母が「可愛いやのう」。「可愛いやのう」と死体に取りすがって泣き
崩れる。そんな事をしていたら、この母が参ってします。心を鬼にし
て急き立てて山に向かって、おぶるようにして歩き、やっと疎開先の
家についてから母は患った。
街中を焼かれてから米軍は工場の方へ狙い撃ちが始まる毎日。爆弾が
容赦無く降って来た。工廠神社下の防空壕の中で爆風に震えたが、或
る工場では、その時の空襲で地下壕に海水が侵入して全員が亡くなら
れたのだ。
毎日、死体が運び出されガソリンで焼く煙が流れた。私も何日目から
か熱が出る。警固屋の病院で肋膜と診断され、工場へは行けなかった。
今度の我が家は毎日の空襲で、屋根すれすれの急降下に見舞われる。
向かいの畑にトマトが作り主を失って真っ赤に熟している。皆んなひ
もじい、バケツを持ったり、白い服を着ることはできない、土色に迷
彩して頭に木枝を付けて腹ばいでトマトを取りに行く。敵機の機銃掃
射をかわすまで、息を殺して待つ。
疎開した我が家には三〜四家族が共同生活した。日暮にササゲ(小豆
の仲間)と南瓜の煮る匂いがする。一口でよいから食べたい。工廠の
大豆飯が恋しい。種芋も食べた、南瓜の花も、若い葉も茹でて干す。
よもぎも野菜も取り尽くされる。母は海水を取り、父は、猫の額程の
畑を造り、草汁を飲んで空襲をしのいだのだった。
八月六日の朝、閃光が走り、爆風は家を揺さぶった。広島に原子爆弾
が投下されたのだ。キノコ雲がムクムクと一日中空へ広がって行った。
父は震えていた。あの時、広島の市民が一瞬にして閃光と爆風でやら
れ、建物は崩れ、炎に包まれた。何十万人の人達が死んで往った。
生き残った人達も、炎天下に火傷で、どれ程苦しかった事か、「水を
ください」「水をください」と、一滴の水を求めて、焼けた肌に、う
じ虫がわいていたと聞く。熱かった事でしょう。そんな焦熱地獄の極
限の人の心はどうだったのか、苦しいとも、切ないとも、図り知れな
い。そんな一人一人の尊い命の犠牲があったればこそ戦争は終わった
のだ。
八月十五日、全工廠で全工員がラジオの前に集められた。午後一時、
かしこくも天皇陛下の玉声が流れ、直立不動の姿勢で聞きました。陛
下の御言葉は、我々の会話を聞く様にはいかず、「ビビィー」と雑音
の中からも戦争に負けたことは伝わってきました。中でも「自分はど
のように成っても」とおうせに成られたように思います。私達も命を
掛けても国の為に頑張ろうと誓ってきたのだ。陛下は国民の命を救う
ために自分が犠牲に成ってもと敗戦を覚悟されたのだ、聞いた時、唯々
悔しくて皆んなで泣きました。とうとう来る時が来た。そうか日本は
負けたのか、私達も何時死ぬ時が来るか覚悟しなければと、それこそ
明日のある事も考えられない程、緊迫した悲壮感で解散した。家に帰
る者、国へ帰る者、工廠を後に散り散りに去って行きました。
戦争が終わって、もう空襲も無くてよかったなどその当時では思えま
せんでした。終戦後も飛行機の爆音が聞こえる度に、反射的に体が反
応して二、三年は爆音におびえた。爆撃の恐ろしさを体が忘れなかっ
たのだ。呉の町は見渡す限り焼け野原、命からがら山へ逃げて来た人
達が、わが疎開先の住まいに雨露凌げたらと、四世帯ぐらい一緒に暮
らし始め、近くの山小屋にも人が住み、ちょっとした隣組ができそう
なくらい、人が集まっていました。
私達が住む小高い丘の廻りは、石槌山へ上る軍隊のトラック通路があ
り、裏通路は広く山の奥から水を引いて大きな深い水槽を海軍の兵隊
が此所で食事の用意をする為に作って残してくれたものだ、これで私
達は救われたのだ。
市から所在地を調べ配給して頂けるまで、それこそありとあらゆる物
を食べた。人々は職を失い、する事は食べることだけ、続々と外地か
ら復員して帰って来ても、住む家も中には家族まで失って、失意のど
ん底に打ちのめされた人達がどれ程あったでしょうか?大人も子供も、
唯食べられそうな物は、命懸けで探した。よもぎ等、姿も見られ無い
程取り尽くされた。畠にできた物も見つかり次第取り者勝ちになった。
下界の町からは、朝から晩まで、“りんごの歌”が、戦後のやるせな
く持って行き様の無い虚脱感と現実のみじめさをあおりたてるように
けたたましく流れた。。
戦争は悲惨です。虚しい事です。醜いです。終戦五〇年目を迎えよう
とする今日、目を見張る経済成長も、十分な電化生活も、豊かな飽食
時代も、あの時を経て成り立っているのだということを忘れてはなら
ないのです。
全てが自由な今の人達、自己中心で本当の幸せが見つかるのだろうか、
人はいくら与えられても、心に優しさと思いやりを、人の為、世の為
に尽くす心を失ったら虚ろです。
胸の奥深くしまった扉を開けると、まだまだ昨日の事の様に鮮烈に傷
は残っているのです。二度と戦争は繰り返してはいけません。二度と
愛した人を失ってはいけません。
今年一月、彼が「只今復員して参りました」。朝夢で、私の前で敬礼
してくれた姿が真新しい。

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五 呉市空襲の思い出」

                 秦 寛子
                  (元 呉市古川町)

(父は子どもたちに荘厳な死を見せ他界した。その父宛に、今でも七
月二日には手紙を書く秦さん。戦時中の具体的な生活、裁判所あたり
での紅蓮の恐怖、空襲後の父たちの活動を通して見た人間像に思いを
込めて。)

お父さん、又七月二日がやってきましたね・・・
私は毎年、此の日が来ると手紙を書いた。旧呉市を焼きつくした空襲
の日、九死に一生を得た父と私の思い出の日である。
今年も変わらず七月二日はめぐってきたが、受け取ってくれる人はす
でになく、私は胸の中に強く生きている父に、そっと語りかける・・・
「お父さん、又七月二日がきましたね。」と。

軍港の町、呉は、それまでにもたびたび空襲を受けたが、主として港
や工廠がねらいうちされていた。
当時、二中と県女に在学中の弟妹は、学徒工員として工廠へ動員され、
登校ならぬ、命がけの出勤をしていた。
空襲のあった日など、市街地でも壕に出入りしながら、集中的にやら
れている工廠の空をながめて気をもみ、日暮れ時になると街角をまがっ
て帰ってくる姿を待ちわびて、命の縮む思いで門の前に立ちつくした
ものであった。朝の別れが永遠の別れ・・・・軍人だけでなく、市民
も学徒も、子どもまでがそれを日常とした時代であった。
十三や十四の幼い身で机に向かう身体を油に汚して、敵襲に命をさら
しながら「滅私奉公」する姿も、今思えば悲惨そのものであろうが、
当時は異常な熱気と気違いじみた精神至上主義の中で、ムゴイと感ず
るゆとりもない程、つきつめたあけくれであった。
次々と召集されて来る兵隊さん達も兵舎に入りきれずに、市内の小学
校の講堂などに寝泊りし、校庭や公園が練兵場に早変わりした。
家庭ではいいお父さんだったに違いない中年の兵隊さんには、それぞ
れ近所の子どものファンがついて、ひいきの兵隊さんが息子のような
若い下士官にぶんなぐられたりするのを涙ぐみながら、ながめたもの
である。
革靴のかわりに地下足袋をはき、木銃をかついだ兵隊さん達は、なじ
みの子ども達に別れの言葉をかけることもないまま、姿を消していっ
たが、新しい兵隊さん達は入れ替わるたびに少しづつ老齢化し、身体
つきも貧弱になっていった。
配給、配給で、極度に物資もなくなり、食べ物さえ不自由で、姿のう
つるような雑炊を売る食堂ができて、お鍋をもって並んだのも此のこ
ろである。
軍靴一足ない兵隊さんの姿に敗色を見出すことも出来ず、ただ勝利を
信じこまされて主婦達の竹槍訓練、バケツリレ−は日増しにはげしさ
を加えていった。七十キロはあろうかという五十すぎのおばさんがム
リヤリはしごに登らされ、目がまわって上ることも下りることも出来
なくなり「非国民」などとどなられるなどは日常茶飯事のことであっ
た。
軽い肺浸潤を病んで教職を一時ひいていた私も、勿論、安静などとい
う「ぜいたく」は周囲が許さず家屋疎開などにかりだされ、男の人に
交じって家を叩きこわす作業などをやらされていたものである。
中学生だった私の弟はオクテで、当時非常に小さく戦時下の学徒とし
て随分つらい目にあっていたように思う。常用のゲ−トルも長すぎて
か、きまり通りに巻けず、すべてが軍隊式の型にはめこまれた生活は、
はたで見てもムゴイようであったが、そんな子どもでも大人なみの夜
勤は容赦なくまわってきた。
朝、疲れ果てて家に帰っても、警報・又警報、はじめのうちこそ、皆
と一緒に防空壕に逃げ込んでいたが、疲労が積んでくると、もう決し
て起きだそうとはしなくなった。
バリバリと機銃掃射の音を聞きながら、母は弟の上に机をかぶせ、あ
りったけのフトンを積み上げると、小さい子をこわきにかかえて壕に
走った。
        *        *
運命の日、母は小さい子をつれて郷里に帰っており、家に残っていた
のは父と私。大きい妹と弟の四人であった。
その晩も、何度か警報が鳴って壕へ出入りし、防空頭巾にモンペとい
う例のスタイルで、寝床の足もとに新聞紙をひいてズックをはいたま
ま寝ていたような気がするが(灯火管制の暗やみの中で服を着替えた
り、靴を脱ぐひまのない晩はしょっちゅうであった) 弟のその痛ま
しいまでに細く不恰好なゲ−トルの足を、今、奇妙に鮮明に思い浮か
べるのである。
とにかく二十年七月一日の夜半か、二日の未明であった。
敵機の爆音が早かったのか、警報が早かったのか、とびだしたときに
は、B29は真上をゆうゆうと飛んでおり、オレンジ色の照明弾が四方
を真昼のようにそめて、ゆっくりと降りていくところであった。
当時、呉市役所は岩方通りにあったが、戦時下の兵事課となると大切
な書類もあったのか、二河公園の択善館に疎開していて、その課長で
あった父は、国民服にゲ−トル、鉄カブトといういでたちでいつもの
ようにその職場に走った。
残された三人、一応、防空壕に逃げ込んだのか、私だけがはじめから
消火にあたったのか、今となってそこだけポッカリと記憶の空白があ
るのだが、とにかく「まず、私が火を消す。私が死んだら、貞ちゃん
(妹)出て消してほしい。良ちゃんは、お国のための大切な身体だか
ら、消火作業ぐらいで犬死にしたら絶対にいかん。最後までここから
出ないでほしい」と二人の弟妹に言い渡したが、武者震い的な興奮と
はうらはらに、ひややかに事務的だったその言葉だけはふしぎにはっ
きりと覚えている。

すでに市の三方の山は火につつまれて、あちこちの民家からも火の手
が上がり、六・七十メ−トル先の小泉というおばあさんの家が燃えは
じめたところであった。ギッコン、ギッコンと道端のポンプをこいで、
一人でバケツを持って走ったが、真昼のような道路にはひとっこ一人
もいなくて「ゴォ−」とも「ワァ−ン」ともつかぬざわめきは不思議
に遠い遠い地底からのひびきのような気がした。
たたきこまれていた初期消火。あれでも五、六回は往復したのであろ
うか、気が付くと周りは火の海。裁判所へ向かう通りの両側の家も火
を吹き出していて、前も後も、ただ紅。市女の三階の窓から吹き出す
炎だけは冴えかかったようなバラ色であったのが妙に印象に残ってい
る。
それにしても、おびただしい町内の人はどこに消えたのであろう。常
にメガホンで命令叱咤した防空班長など、はじめから姿も見せぬでは
ないか。
とにかく、もう逃れる道はひとつもないのだ。後も前も、アスファル
トの道路さえも燃え始めているのだから・・・。
一番ボロの敷布団と毛布を二人にかぶせるとバケツ一杯ずつの水を頭
からかけてやり、私は防火用のヌレムシロをかぶった。庭ごしに裏の
家の軒先にチラチラする赤いものは見えたが、私の家は、まだ火はつ
いていなかった。
「ちょっと 待って!」
私はズックの足を後へはね上げて、ひざと手で這いながら、自分の部
屋に入った。そして、父のくれた万葉集二冊を、モンペのひもで腰に
しっかりとくくりつけた。他に何もほしいものはなかった。また、這
いながら玄関に出ると私もバケツ一杯の水をかぶった。
両側の家の熱気でアスファルトは溶けて、ネチャネチャとズックにひっ
ついた。薄い粗末なゴムを通して火の上をジカに歩いているような痛
みが、足の裏にあった。
ほんの五十メ−トル。四つ角まで来た時、突然、眼がくらんで何もの
かに突き飛ばされたような衝撃を感じたが、気が付いて見ると目の前
に紅蓮の炎が舞い狂い、私は道端に耳をおおって伏せており、弟妹の
姿はどこにもなかった。呼んでも叫んでも返事はなく、結局、二人は
道端の防空壕の一番奥にへばりついていたのだが、テコでも動きそう
にないのを、指を一本一本、ひきはがすようにしてムリヤリ連れ出し
た。万事オットリヤの二人にしては、えらく機敏に壕に入りこんだも
のである。
小型の焼夷弾が真ん中に落ちたらしいと気がついたのは、その後だが、
記憶ではすべての音が消えていて、今よみがえるのは、ただ炎と火の
粉の色と光だけの世界の中を動き回る三人の影だけである。
当時、市民は自家用の壕を皆持っていたが、二人が逃げ込んだこの壕
は町内でも一番大きく、頑丈で、どこで手に入れたのかセメントで上
が塗りかためてあり、町民羨望の壕であった。翌朝、この壕の中で五、
六人の焼死体が発見された・・・。おびえてしまった二人を励ますた
めに私は軍歌をたしかに歌ったのであるが、どの歌だったのか、今ど
うしても思い出せないでいる。
とにかく熱かったこと。道端の防火用水の水を何度も何度もかぶりな
がら歩いたこと(お尻に火がつきそうで走れなかった)。いざとなっ
たら火が鎮まるまで飛び込んで時間をかせごうと思ってたどりついた
大きな防火用の池の水が、油脂焼夷弾でメラメラ燃えながら動いてい
るのを見て、もう本当にどこにも逃げるところはなくなったんだ・・・
と覚悟せざるを得なかったこと。こうなったら父のいるところへ一歩
でも二歩でも近寄ろうと思ったこと。家屋疎開で広くした道路まで出
た時、はじめて一人の人間に出会ったこと。・・・その人は燃えてい
る壕の火を気抜けしたようにながめていた・・・・。燃え上がってい
る電柱と炎のうずまいている軒先のたった一メ−トルの間を通りぬけ
る時の心の氷のような冷たさ・・などと逆光線の絵を見るような感じ
で今も思い出すことは出来るのだが・・・。
その後、何度か「死」を見つめたことがあるが、直面した時、不思議
に人間というものは心が落ち着き、すっと血のひいたような静けさと
安定感を自分の上に見出すものである。何とか二人を助けてやりたい
と思ったが、それも叶わぬと知った時、燃え狂う炎の中で死ぬる恐怖
よりも、私は父の心の痛みを思ったのである。夜があけて焼け野原を
三人の子の遺体をもとめてさまよう子ぼんのうな父・・・。すぐ見つ
かるところで死んであげよう、どんなに熱くとも苦しくとも半歩でも
父に近づいて死のう・・・。父へのこの想いが九死に一生を拾ったの
である。やけこげをあちこちに作りながらヒリヒリ顔の皮をやきなが
ら、三人は兵事課のある公園へやっとたどりついたのである。

父の課の前の池にとびこんで初めて空を見上げたこと。高射砲一つ炸
裂しない無抵抗の空を、地上の炎に映えながら超低空でゆうゆう飛ん
でいくB二十九の銀色の巨体の美しかったこと、くやしいけれど美し
いとしか言いようのなかったあの翼の色と、オタオタとおびえて池の
中に飛び込んできた兵隊さんの顔の土色との対比。小高い丘に立って
眺めた呉市の断末魔の炎と光と影。七月二日の明け方の火事場のおこ
すつむじ風が松林をゆるがす故郷への挽歌。
        *       *
古川町X班。隣組長兼防空班長。国債の割り当て、物資の配給に何と
なく役得のコズルサを見せたこの人は、商用で上阪する度に阪神の爆
撃の廃墟とバケツリレ−の空しさをはっきりその眼で見ていたはずで
あった。
平素、型通りの初期消火をうるさく人には押しつけたが、敵襲と知る
と一目散に逃げ出したのであった。正直に最後の一人になるまで消火
にあたり、焼け焦げだらけで命からがらたどりついた私の前に、この
人は全くの無傷で大八車いっぱいの家財と共にゆったりと姿を現わし
た。
一番ボロのモンペに作業用上衣。持って逃げたものは万葉集とヌレム
シロ。それと命を守ってくれた雑巾バケツ一個。二十一才。これでも
女性、やけこげてヒリヒリする顔を川の水で洗っている私の前に優雅
に現われたYさんにも驚かされたものだった。グレイのプリンセスラ
インのドレスに真っ白な帽子、口紅もあざやかにニッコリする姿は同
じ被災者でも乞食と王女様。命からがら逃げるにしても何と当方の要
領の悪いこと・・・・。でも、たった一つの傑作は、炊き出しのおに
ぎりを班ごとに受け取りに行く時、お化粧品のケ−スも手提げ金庫も
おにぎり入れにはなりませぬ。昨日まで雑巾ゆすいだこのボロバケツ
が立派なおにぎり運搬器。乞食も王女も戦争成金も、みんなこのボロ
バケツから命の糧を手づかみにしたのである。
           *        *
私は馬鹿なのか幼稚なのか、全呉市が灰になったというのに、自分の
家だけはポッカリ焼け残っている、という幻想にとりつかれていた。
だから、あの瀬戸際でさえ、畳を土足で汚さなかったし、非常袋まで
おいてきた。
 いつになく、はげしく照りつける太陽にじりじり焦がされながら余
燼の中に立ち尽くして、なお信じきれずにいる私だった。そこには、
父の大切な数千冊の本が重なりあった姿のままで、きれいな、きれい
な灰になっていた。亡くなるまで本を離さなかった父だったけれど、
父と言えば本、本と言えば父。その絹ごしのような本の灰に、そっと
指をふれた時の感触と悲しみが、去年、大地へ帰っていった父の面影
と奇妙に重なって想いだされてくるのである。
当時、ベランダの上に土を運んで、生まれてはじめて私はお茄子を作っ
ていた。焼けた日、お茄子は可愛い実を三個ほどつけていたが、その
紺色の小ちゃな実に、私は自分の分身のような生命をしみじみと感じ
ていた。殺伐な命のやりとりの明け暮れ、イトシイと言うのはこのこ
となのかと胸にあふれるほどのおもいを私はその初めての実に通わせ
ていたのである。私はあとかたもないお茄子のやけあとに立って、い
つまでもいつまでもしゃくり上げていたのを覚えている。「熱かった
だろう。熱かっただろう」
お客用の大火鉢が押し入れのあとにコッポリ型を残していたが、さわ
るとあっけなく、ポロポロにくずれてしまった。
すべてを失った時、不思議におしいものはなかったと思うのに、お茄
子と本の灰だけは、あきらめきれない特別の感慨があった。
           *         *
隣組でも、むかいの組でも何人もの焼死者が出て、中風のおじさんを
壕の中で亡くした天理教会の御主人の泣き腫らした顔や、昨日までつ
きあった誰かれの焼死の様子など、あちこちでのささやきが改めて生
きていることの不思議さを私に感じさせた。
悲惨だったのは、和庄方面の壕に待避した人達何千人の集団の焼死で
ある。ムシヤキになってズルズルしているのを市長と共に処理にあたっ
た父の言葉によれば「みんな自分の子ども達だ。みんな自分の子だ」
と合掌しながら、市長自ら陣頭に立って死体を運びだしたと言うこと
である。
小さいときからバスや電車に乗れば、先ず父の席をみつけてあげる・・。
父は慢性腎炎と高血圧で若い時から苦しんでいたが、その父と市長が
泣きながら抱き上げた死体の重みを思う時、いろんな意味をこめて、
私は涙をあふれさすのである。市長はたしか鈴木登(みのる)氏と覚
えているが、いわゆる政治家とは違ったタイプの心のきれいな誠実な
人であったらしい。兵事課長として戦死公報を留守宅に通報する時、
どうしても事務的になれなくて、一人一人の悲嘆を我が苦しみと受け
止めていた父とはいわゆる意気投合して、「あの人は本当の人格者だっ
た」とよく父は言い言いしたものである。
真夏、異臭を放つ焼死体と荒廃した終戦前の阿修羅の中に、清らかに
人間らしかった二人の男。いつの世でもそうであるが、汚濁の中に咲
くはちすの清らかさは「美しい」というよりもはかなく悲しく、それ
故にまた ひかれるのである。
         *       *
数千にのぼる死者が出た中で、炎の中、とにかく私達は不思議に助か
ることができた。警報後、直ちに持ち場へ走った父は、目的地につか
ぬ間に炎にとりまかれ、残した三人の子をてっきり劫火の中に殺した
と思ったそうである。一切の私情をおさえて公用につくのが父の生き
方であり、また、当時の生き方である。父は三人の子に合掌すると、
炎を走りぬけて持ち場についた。
「三人とも、無事。公園まで逃げのびました。今、池の中にいます」
とのことづけを課員から聞いた時、父は思わず目頭を押さえたそうで
ある。三人を殺した悔恨が、一転して勇気百倍、やせた体にモリモリ、
力がわいてきた・・・と後で父は語った。
その父も昨春、七十七歳の生涯を閉じたが、その一生を象徴するよう
な端正な荘厳な死を私共に見せてくれた。私達姉弟の魂のよりどころ、
心のともしび、父は最後まで、親を越えた親であった。その親として
の父の魅力が九死の中から私達の命を救ってくれたわけであるが、今
の私に、一人の子の親として、父の万分の一もの値打ちと魅力がある
であろうか。また、子の運命を変えるだけの何ものかを持ち合わせて
いるだろうか。
         *       *
昭和十二年七月七日、蘆溝橋に端を発する日支事変が勃発したが、私
が広島県女の二年生の時であった。それからの私の青春は、すべて戦
争の中にしかなかったのである。考える自由も行動する自由もなかっ
た。戦争は、プライベ−トな心の奥底までドカドカと踏み込んできて、
決して「個」を生きることを許してくれなかった。物も、身体も、心
までも統制されて、人はみな、人でない人として生かされていたので
ある。
あの道を子どもたちに再び歩ませてはならないと思う。子どもたちの
生きる権利と自由が踏みにじられるようなことが、再び許されてはな
らないと思う。
 私は取り柄のない親である。恥ずかしいけれど、たいした親ではな
さそうである。しかし、子どもたちの命と自由を戦争の危険から守ろ
うとする時、また、親としての何らかの行動が必要とされる時、子ど
もたちの為に力強く立ち上がれる親でありたい・・・と、それだけは
念じつづけている親の一人である。

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六.「呉空襲」とは何だったのだろう

                藤原 薫
                (広島市東雲 三丁目三ー三十)

(当時,中一生だった少年の心を支配したのは、「銃後を守るのは当
たり前」であった。空襲に対する市民感情や町内の防空壕のようすを
活写している。無惨に焼死した母子像が焼きつき、油絵を残している。)

(一)
その時ぼくは上長迫町に住んでいた。呉一中に入ったばかりの、今で
いえば中一だった。
戦局は、’一時的’に日本に不利だった。少なくも当時の僕はそう信
じていた。夜八時四十分、僕は床についた。ここ何か月か、(記録に
よると四月中ごろからと思われる)毎晩敵機がやってくる。一回目は
十時か十一時頃、二回目は明け方の二時頃である。そのたびに全市に
 ウ−ーという「警戒警報」。そしてまもなくウー、ウーという「空
襲警報」のサイレンがひびきわたる。市民は、一斉に防空壕へかけ込
む。市民を総睡眠不足にしてやろうという作戦だ。
東京や他の大都市は大空襲にあったというニュースは聞いていたし、
呉でもあの三月一九日以来、広の十一空廠がやられたことや、父のいっ
ている海軍工廠がやられたことは知っていた。しかし、そういうニュー
スは僕の敵に対する憎しみをかきたてることはできても、少しもひる
む気持ちは起こさせなかった。睡眠不足にもならなかった。
一眠りした頃、いつものようにサイレンがなった。僕は目をさました
けど、「ああ、また日課だな」とタカをくくってウトウトしていた。
その時だった。「ババーン」と大きな大地をゆるがす音かして、ガラ
ス戸の外から昼間のような光がさしてきた。「ヤッタ」と一瞬、とに
かく枕もとに並べてある服、ズボン、防空頭巾、救急バッグを身につ
け一目散に裏山の防空壕へかけ上った。B二十九の最初の編隊が上空
を通過したあとだった。両親や弟たちがかけ上ってきたのはその後だっ
たと思う。防空壕の前の広っぱから見たものは、まさに真昼の光景だっ
た。 灰ヶ峰に向かってちょっと左前方、同窓生の田村君の家の上あた
りから二河公園の方へかけて円弧状に五つもあっただろうか、大きな
火の玉が空中に浮かんでゆっくりと落下している。照明弾が投下され
たのだ。今でいうフライヤーに落下傘をつけた構造のように思えた。
青白い強烈な光を出しながら、白い煙の尾をひいてゆっくりと降りて
いる。
 すぐひき続いて次の編隊が飛んできた。おそらくその音からしてB
二十九 三機くらいの編隊だ。壕の中に飛び込む。ウーンという爆音
が通りすぎていく。真上を通過すれば当分大丈夫だ。集ってきた近所
のテッチャンやヨシアキ君らと、また外へ出てみた。こんどはさっき
の照明弾と同じコースで、しかし、照明弾ではなく、焼夷弾が落とさ
れていた。点々と焔が上がっている。続いて、又、次の編隊が近づい
て来る。僕らは三たび防空壕へ飛び込む。これが僕らが見た旧呉市街
の最後だった。近所の大人たちが次々と集まってきて、敵機が飛びさ
るまで遂に壕の外に出ることが出来なくなってしまった。

ここで僕たちが入っていた防空壕について簡単にふれておきたい。そ
れは、この防空壕の位置と性格が、このあとの記述や他の人の手記か
ら、いくつかの大切なことを含んでいることに気づいていただけると
思うからである。
呉市はスリバチ型の地型だとよく云われる。南に軍港があるけれど、
すぐ沖あいに江田島・倉橋島が港をかこみ、西は三津田の丘、北には
灰ケ峯、東は石鎚山(休山)がある。いずれもかなり急な斜面の山だ。
だから、中心部の小さな市街地を除けば、どこの家も高いガケの上に
建っている。僕の家は中でも高い所で、それより上には二段しか家は
なかった。たまたま僕の家の背の方の一段上が家がなく、一区画だけ
広場になっていた。僕達はこつを「広っぱ」と呼び、いつも遊び場に
していた。今いってみると、それは猫のヒタイ程の狭いものなのだが、
これが僕たちの命を救ったのかも知れないと思うと、感慨深い。それ
はともかく、この広っぱの山側に私たちは横穴を掘っていた。巾一メー
トル、高さは大人一人やっと立てるくらい。U字型に曲がっていて出
入口が二つついていた。広っぱからは市内が一望できた。
防空壕は大別して三種類あった。ひとつは大がかりな横穴で、男たち
が集まって作ったものだ。市内に数ケ所あったらしい。二つ目は、各
自の家に作られたもので、家の裏に小さな横穴を掘ったものや、部屋
の中のタタミの下に縦穴を掘ったものもあった。三番目が私たちがこ
の一夜を過した種類のもので、近所の広場などに隣保班が相談の上つ
くり上げた十軒くらいの共用のものだ。もちろんこの場合でも各戸に
はそれぞれ床下壕は掘っていた。
話が横道にそれたが、ここで元に帰りたいと思う。
入り口はあとから来た人たちでいっぱいになっていた。僕の家族は全
員、一番奥の方につめ込まれたままで動けなくなっていた。だからこ
のあとは入り口付近にいる人の実況中継でしか外の様子を知ることが
できなかった。敵機は次から次と小編隊でのり込んできた。焼夷弾を
バラまいては飛び去り、又折り返してきては攻撃しているのか、次々
と別の飛行機がきているのか、それは知るよしもなかった。ただ、市
街地の周辺に火をつけて中の人を袋のネズミにしていることは実況中
継でわかった。
敵機の攻撃は極めて正確に行われたという。しかし、山腹の家々には
一発も落ちなかったかというと、そうはいかない。前の家にも一発落
ちたという実況が入った。前の家といえば僕のうちだ。いてもたって
も居られない気持ちだ。この時間には、もう敵機の攻撃は焼夷弾オン
リーだとほぼわかった。「外に出て火を消そう」、家族はそう話し合っ
たがとうとう外に出ることが出来なかった。入り口から入ってくる煙
のにおい。ああ、これが住みなれた我家の焼けるにおいなのか。この
においを永久に胸の中にしまっておこう。そう言いながらじっと穴の
奥で唇をかんでいた。

敵の空襲のやり方にはほぼ三通りのパターンがある。一つは最もハデ
な爆弾によるもの。この時は壕から一歩も外へは出られない。目と耳
を両手で強くおさえて伏せているしかない。音と風圧、破片がすごい
からだ。二つ目は、焼夷弾をまぜる方法だ。爆弾で消化作業を妨害し
て被害を大きくする。三つ目は焼夷弾だけ投下して焼きはらう。これ
は、山や海へ携帯燃料として持っていく、あの寒天状の油をバラまい
て火をつける方法で、音も小さく消火作業は容易である。特に初期消
火は有効だ。呉はこの第三の方法でやられた。このことは壕の中にい
てもほぼ正確にわかった。

私たち家族は何度か消火作業をやろうと決心した。近所の人たちもそ
んなに冷たくはない。いつも消火訓練を一緒にやっている仲間だ。と
ころが入り口をいっぱいにしているのは実は近所の人達でもなかった
のだった。下の市街地の方から命からがらのがれて来た人たちで一ぱ
いになっていた。近所の人たちは私たちと同様、奥で身動きもできな
いでいたのだった。
こうして二時間もたっただろうか。敵機は飛び去った。ようやく身動
きできるようになってきた。おそるおそる外に出て我家の焼跡を見た。
もしかしたら目をつぶって外へ出たのかも知れない。とにかく胸がド
キドキしていた。ところか幸か不幸か消失したのは僕の家ではなかっ
た。隣の家が灰となっていた。喜んでいいのか悪いのか。隣のオバさ
んが狐につままれた顔で放心している。「’うちが’なくなっている」
と急に泣き出した。「前の家の横の家」というのを実況中継が「前の
家」と短縮していたのだった。
市街地は一面の火の海だった。ボヤボヤしていたら火の手はすぐここ
まで上ってくるにちがいない。
消火作業が一段落して、これならもう大丈夫ということになったのは、
もう東の空が白み始める頃だった。中一といえばもう一人前である。
何軒もの燃えている家を倒し、燃えかけている家の火を消したかわか
らない。最後の水をバケツでかけたのは僕の家から北の方向八軒目く
らいの家だった。家の名前はどうしても思い出せないけど行けばわか
る。とにかく数時間よく働いた。今、僕の次男が中一である。大きく
なったとはいえ、まだまだ子供のような気はするが、やればできる年
頃なのだろう。そういえば先日テレビで見たのだが、解放戦線の兵士
がサイゴンへ入城していく。その中に子供の兵士がたくさんいた。戦
争とは子供を大人にしてしまうのだろうか。
(二)
消失した隣の家は福井さんという家だった。ご主人は海軍工廠の「ギ
テー」さんと云われていた。大変エライ人らしく、正月や、紀元節に
は勲章をたくさんつけて礼服で出て行かれた。年の頃は六十才くらい
だったと思う。
大きな立派な家でよく遊びにいった。その家もあと跡もなくなった。
近所の人達も「気を落とさないで」とか「元気を出して」とか云って、
はげます者は一人もいなかった。そうかといって福井さんが近所のキ
ラワレ者だったかというととんでもない、みんな仲がよかった。なぜ
云わなかったかと云えば、それはただ誰でもが自分の家がなくなった
くらいでひるむ筈がない、家が焼けようが焼けまいが、昨日も今日も
また明日も、銃後を守っていくことがあたり前だと思っていたからに
ほかならない。焼けなかった人達が、服やナベなどをあげた。僕の服
もヨシアキチャンにあげた。未了

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七.焼夷弾投下の中をくぐりぬけて −平和を願い、態度で示そう−

               水野上 展祥(のぶよし)
                (呉市広両谷三丁目八ー十四)

(逃げまどう母と子、懸命にわが家を守ろうとする父。油脂焼夷弾の
炸裂のようすは、まさに体験した者でないとわからない。岩方通から
二河川へ逃げる途中で受けた焼夷弾の恐ろしさ、焼け跡のわが家は・・)

戦後五十年たった今でも、戦災の記憶が蘇える。昭和二十年七月一日、
B二十九の焼夷弾攻撃により、わが家は全焼し、旧市内が一夜に焦土
化し、全財産を失い、着のみ着のままで呆然とした体験をこの機会に、
ありのまま記述したい。
私は呉市岩方通八丁目、精華女学校近辺で生まれ育った。民宿ができ
る程の広い家で、価値ある家具もあった。
焼夷弾投下される半年位前に、この長年住みなれた家は建物疎開で取
り壊され、コンクリート道路に面した近所に住居変更し、両親と私と
弟、四人暮らしだった。
長男は西部二部隊へ、次男は整備予科練に志願し、軍人。私は天応の
阪田製作所(研究室)に勤務しながら、広島市工(定時制)に通学。
弟は広島文理大物理研究室(助手)をしながら、私と同じ学校に、黄
土色の戦闘帽、学徒服、布施靴で通学していた。
七月一日は、午後十時半頃、弟と共に帰宅し、母の心のこもった料理
で食事をし、その日の学習の整理と明日の準備をしていた。電燈に暗
幕カバーをかけ、蛍の光で勉強。午後十一時半頃、警戒警報発令。
「警戒警報だ!」と家族に知らせると共に、机上を整理し、玄関を開
けてみると、和庄方面が赤い炎をあげ燃えていた。「和庄方面が火事
だ!」というと母はびっくりし、貴重品をいれた風呂敷包みを出して
いた。父は家を守るため、火たたき、スコップ、バケツ等を準備し、
表道路にでていた。
B二十九は山麓から焼夷弾攻撃しだし、みるみるうちに、四ツ道路か
ら、現本通六丁目方面にかけて、火の海になりだした。真っ赤な炎と
共に、照明弾が落下し、呉市の夜空がピンク色に染まった。すると、
自宅の正面宅に焼夷弾が落下し、爆発した瞬間、黄色なバターのよう
な糊状で、生まれだちの赤ちゃんのにぎり拳位の大きさのものが四方
八方へ飛び散った。初めてみた油脂焼夷弾。玄関、窓ガラス、柱、ト
タン、道路等に付着し、不思議にメラメラ炎を出し燃えだした。消そ
うと思うと、二、三メートル位の間隔位に焼夷弾攻撃され、手も足も
でない状態。焼夷弾の外形は円筒型で(目測)直径十二センチ、高さ
五十センチ位。
父が「防空壕へ必要なものを投げ込め!」と叫び、母は衣類の入った
柳行李等を運び出し、弟と二人で手伝い、最後は教科書、学用品等を
投げ込んだ。父が続いて「家は自分一人で守るけえ、布団を出して、
三人で避難せ!」と叫び、早速シングルの敷布団を取り出し、私が中
央で両手にてふとんを支え、母は片手に貴重品等を入れた風呂敷包み
をもち、片手で布団を支え、弟は両手で布団を支え、「二河川の山手
橋へ避難するよ!」と父に言った。
父は必死になって火たたきで、汗びっしょりで消火していた。近所の
人は何時、どのように避難したのか、全然わからない。お互いに自分
達のことが精いっぱいだった。一番最後に私達が避難したのだと思う。
二河川をめざして、親子三人の体を布団の中へかくしながら、避難し
ていると、荷物を両手にもって避難している人をあちら、こちらで見
受けられた。しかし、荷物をもち過ぎた人は、防空壕の中へ、一つ投
げ、二つ投げ、息をきらしながら、命がけで逃げていた。やっと山手
橋が見えるところまでたどりつくと、二、三千人位避難していた。
赤々と煙を出しながら燃えていた呉市に夜が明け、何時のまにか炎が
見えなくなった。
焼け跡の様子を、先ず、自分の目で確かめると共に、父を探しに行く
ことを母と弟に話し、承諾を得て、呉市中央公園に行き、そこで呉市
全土を見わたした。
炎が建物を全部なめつくし、焼け野原になり、焼けこげた木材が、あ
ちこち、くすぶっており、様々なものが瓦礫化し、廃墟となっていた。
コンクリート道路の中央を歩くと、まだ熱い。
やっと自宅に着くと、全焼で焼け残った家は全然なかった。衣類や学
用品等を投げ込んだものは、みなくすぶっていた。あたり見わたす限
り人影は全然なく、父の姿も見えなかった。うんざりしながら、山手
橋へバックしていると、不思議に父に出会った。父が「無事でよかっ
た。・・・全力を出して家を守ったが、駄目だった。」と残念そうに
語りかけた。家族揃って、怪我なく再会できた時は深い感動で一ぱい
だった。
和庄方面では、防空壕で、たくさんの人が煙に巻込まれ、ガス中毒死
されたことを聞いたが、自分の目では死傷者はひとりも見なかった。
数日たって、夜になると、焼け野原になったあちら、こちらで、青白
い炎が燃えだした。死体が瓦礫の下になって、「燐火になったのでは
なかろうか?」と思うと寒気がするほど「ゾー。」とした。
八月六日、長男は広島の原爆投下により戦死。八月七日、広島市へ入
市。広島は呉と比較できない位、被害甚大。広島市全体が焦土化して
いた。背中の皮が丸ムゲで、パンツの方へたれさがり、腕から指にか
けて、皮膚がムゲて、指先にたれさがり、悲痛な声を出して泣いてい
る人がいた。
猿猴川をのぞくと、満潮で数えきれない程の沢山の死体が浮いていた。
比治山橋では学徒動員の死体が百メートルくらい並べられ、中には手
足がじわりじわり動いているのを見た。看護婦が数人懸命に世話をし
ていた。
電鉄前では牛車がひっくりかえり、牛がさかさまになり黒こげになっ
て死んでいた。市工校舎は爆風で倒れかけ、電線もグチャグチャにな
り授業はできそうにない。まさに生き地獄で前途が真っ暗になった。
戦争の悲惨な事実に目を向け、人権尊重、人間尊重の教育、更に平和
教育を重視し、環境汚染、人類の破滅を防ぐ核廃絶を全国民一致協力
して、行動で示した

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八.戦争と私

               中村 和枝
               (安芸郡坂町中村十一四十八)

(沖縄戦の後に生まれた言葉は「命どう宝」であった。呉空襲を体験
した十六歳の少女の心にわいた言葉は「命が財産」であった。五番町
小学校あたりでの呉空襲と空襲後のようすを、日時を追って心情でつ
づる。)

昭和二十年X月X日
その日珍しく海軍の兵隊さんが大勢上陸していた。当時、軍のことは
秘密である。私は連合艦隊が入港したのではないかと思った。
近所に山本貴司(五歳)誠(三歳)睦チャン(七ヵ月)三兄妹がいま
した。三人の父親は航空母艦瑞鶴に乗っておられました。その時すで
に瑞鶴は撃沈され、名誉の戦死をされていました。家族にはまだ知ら
されていません。
「ボクのお父チャンは明日上陸するんだ」と何も知らない兄弟はそう
言って喜んでいました。母の背中の睦チャンは青空を眺めてニコニコ
笑っていました。私は泣くまいとガマンするのが精一パイでした。
「お父チャンは明日帰ってくるのよ、いい子して待っていようね」こ
れが親子の対話でした。父の顔も知らない睦チャン、今どこにどうし
ているのでしょう。
二十代の若い若い未亡人です。再婚もせず三人の子供を立派に育てら
れたと風の便りで聞いておりました。

(空襲体験) 昭和二十年七月一日
呉方面に三目標B二九敵機襲来。ラジオ放送を聞くやいなや空襲警報
のサイレンと共にパラパラと火の雨が降ってきた。
防空頭巾、救急袋、当時枕元において寝ていました。着のみ着のまま
外に飛び出た。皆家族の名前を呼びつつ廻りを見ると、貴司君、誠チャ
ン、睦チャンの家族がうろたえていた。誠チャンはおばあちゃんがお
んぶし、睦チャンは母の背中、貴司君はふるえながら母親と手をつな
いでいた。
ぐずぐずし後を振り向くと焼け死んでしまうのです。私のすぐの姉が
貴司君をおんぶし一緒に逃げました。子供の母親と私達は隣同志でお
姉ちゃんと呼んでおりました。
敵の落した照明弾で道は明るく、それでも女子ばかりです。男の人は
警防団で皆出てゆくのです。どこへどう逃げてよいやら見当がつきま
せん。土壇場の人間の知恵とでも申しましょうか、広い所、広い所へ
と逃げて行きました。
町の真中で広い所といえば学校しかありません。市立女学校、五番町
小、県女、私達が逃げたあと焼夷弾が落ちるのです。
二河公園も人で一杯でした。横穴の防空壕もありましたが一パイで入
れてくれません。
呉はすり鉢型なので、山手を先に焼夷弾を落されては市内の人は逃げ
場がありません。公園の松林に立っていると、B二九が頭上を走る時、
生きた心地はありませんでした。
私の家族、貴司君一家、皆無事だったことが喜びでした。二河川の土
手で命拾いをしました。
七月二日午前七時頃 
一夜明け、空襲警報解除のサイレンが鳴り、さあ、これからが生き地
獄です。
家族を探すのに右往左往、私達も近所の人を探し歩きました。公園を
歩いていると、若い女の方が足の方が血だらけで歩いているのです。
母が「あなた足を怪我しているの」と尋ねると、その方は丁度空襲の
時お産をしていた、「赤ちゃんは」と聞くと「置いてきた」、後は声
にならず泣きくずれました。それを聞く私達もどうしてあげることも
出来ずボー然としていました。戦争の悲劇です。
七月二日午前十時
共済病院から入院患者を救出している。病人は煙に巻かれたのか顔色
は白く、虫の息のようである。側で二,三人の友達が泣きながら「寝
たら死ぬぞ、寝たらあかん、寝たらあかん」と病人のホホをたたいて
いた。
その時近所のおばあさんに出逢った。そのおばあさん方は下宿屋だっ
たので、海軍工廠の工員さんを下宿しておられました。
その方が言うには「空襲警報のサイレンが鳴り焼夷弾がバラバラ落ち
てくる、二階から下りて見ると、おばあチャンが腰を抜かして、立つ
ことが出来ない状態である。家族に「おばあちゃんどうする?」と言
うと、「ホットイテ」と言って逃げたという。誰も連れて逃げる者も
いない。おばあちゃんをホッテ逃げることが出来なかった。」
防火用水をバケツで二.三バイ、体にかけても火力が強いので、すぐ
着物が乾くのです。公園につくまで二.三回水をかけた。防火用水が
二人の命を助けてくれました。
話す人聞く人、私たちも涙で顔はぐちゃぐちゃです。家族、友と出会っ
た人、「あんた生きてたの」と後は声にならず、ただ抱き合って泣い
ていました。
七月二日午後十二時
二河公園に救援隊、トラックでおむすびが届きました。ま真白の銀飯
です。その時のおいしかったこと忘れることは出来ません。昭和十九
年、二十年頃、銀飯食べた事がなかったように思います。
一度、我が家に帰って見ました。何もありません。全部灰になり柱が
燃えていました。最後の見おさめです。悲しかったです。でも戦争に
勝つためならしかたない、家が焼けたと言って泣く者は一人もいませ
んでした。むしろ生きてたと言うことの方に皆泣いていました。
我が家は今西通り、住友銀行の筋でした。岩方通りを歩いていると、
道端にセーラー服の女学生、風船玉の様に膨れ上がっています。その
隣は性別も分からぬくらい黒焦げの死体があった。親でなければ出来
ないことです、我が子と分かったのでしょう「熱かったろう、苦しかっ
たろう」と遺体にすがりついて泣いて居られました。
私たちも言葉にならず、ただただ合掌のみでした。親子でも一秒の違
いで逃げ遅れたら皆死ぬのです。
子供にほっといてといわれ、他人に救われ助かった親、逃げる時、親
がいないと言って探しに帰り、帰らぬ人となった友、堺川に逃げ、川
の水が熱くなり、それでも上に登られず胸までつかって助かった友。
八幡通りか清水通りの横穴に避難した友、中は煙に巻かれ息も出来な
い状態になった。中の人は「苦しいので外に出てくれ、外に出てくれ」
と叫ぶ。出口の人は「あの火では外に出られない」という。友はもう
駄目だと思い、持っていた日本手拭を壕の水でぬらし、口にあて時を
過ごしたと言う。ふと気が付いてみると自分は生きていたのです。壕
の中は煙で一杯である。その中を友はフラフラで脱出したと言う。手
拭と地下水が友の命を助けてくれた。
七月三日
空爆から家族バラバラの生活です。
何はなくとも軍需部に行かなくてはなりません。本部を見て驚きまし
た、見事全滅です。軍需部は海軍の台所です、衣類、食糧を補給する
大きな大きな大きな倉庫が一夜の内に、兵器工場の方も焼失していま
した。
私はその倉庫だけは倒れないと思っていましたから、二重のショック
でした。それでも戦争には勝つと思ってました。教育の恐ろしさとで
も申しましょうか。
私と姉(二人軍需部に行っていました)寝るところがありません、す
ると班長さん(職場のお母さん)が私の家に泊まりにおいでと言って
下さいました。地獄で仏にあったような気持ちでうれしかったです。
一番困ったのは着替えが一枚もないのです。一日目は上着とモンペを
洗い、二日目は下着を洗うのです。夜空襲になると、その濡れた衣類
を着て逃げていました。
何も持たない私たちは班長さんの所へ余り長居は出来ません。四、五
日過ぎて女子寮に入所しました。吉浦の方に近い新宮というところで
した。被服工場も中山小学校に疎開しました。
毎日花とつぼみの若桜の唄を歌って通っていました。
呉は軍港だったので一般市民、学生、軍属、皆軍人教育だったように
思いました。防火訓練は鬼畜米英、ルーズベルト、チャーチルの顔を
書いて高くつるし上げ、水をかけるのです。男女問わず同じような訓
練でした。また、それが当たり前だと思っていました。
そうしている間に母が疎開していた自分の着物を持ってきてくれまし
た。着物はモンペ、浴衣は下着、寮生に原型を借り、みな手縫いで自
分で縫っていました。
お母さん有難う。親孝行もせず、あの世へ行ってしまいましたが、心
の中では手を合わせて居りました。
これだけ苦しい生活をしているのに、まだパーマをかけるな、おしろ
いは付けるなという上司(軍人)の命令です。欲しがりません勝まで
は。
八月十五日終戦を迎えました。
貴司君の様な戦争遺児、戦争未亡人、特攻隊で息子を亡くされたご両
親。戦死の広報を受けた時「セガレよ、よくやった」と涙一滴流さず、
心の中で泣いておられたお姿。
私の家がちょうど駅前の中心地だったものですから、海軍の水兵さん、
兵曹さんが近所に下宿しておられ、上陸されたとき、灯火管制の下に
私たちとトランプをして遊んでいました。軍の事は秘密ですので、出
撃前夜当日は、一寸お酒に酔ったようで、菊水隊、敷島隊、若桜隊の
白い鉢巻きを締めて、こんな唄を歌って出撃されました。
  タイの娘に振袖着せて  日本娘に仕立ててみたら
  一寸似てますあの横顔が  故郷の妹にウリ二つ
故郷の妹は母のことではなかったでしょうか。当時そんなこと言えま
せん。この方たちのご苦労を思うとき、私の苦労、目のホコリではな
いでしょうか。
皆戦死されました。潜水艦の乗組員です。
戦争中の海軍、戦後の海軍、私なりに見てきました。戦後軍人で身を
立てて暮らそうと思った人は、男泣きに泣きながら軍服を焼いていま
した。
戦争は二度とあってはなりません。子供の親になって始めて分かりま
した。私が十六歳、兵隊さんは二一,二二歳くらいと思います。
戦災にあった人、戦災を免れた人。私たちは七月二日、おむすび三個
もらっただけで今の様に衣食住の補給はありません。今の日本をここ
までにしたのは大正、昭和の一桁の人ではないでしょうか。その時私
は命が財産だと十六歳で思いました。いま六十六歳ですが、あの時の
方がしっかりしていた様に思います。今の様にお金があり、物資が沢
山あれば人間の心が失われつつあります。心はお金で買えません。

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九.忘れ得ないあの日

                沖原 佳子
                  (呉市西畑町一ー三十八)

(防空壕の中で動く風は、死へと誘う風だった。その風を遮り、生を
与えてくれた人がいた。
女子挺身隊での生活の日々、寺本公園下の防空壕で、死ぬ前の「君が
代」を唱った。生きて出たとき飲んだ水は・・。)

昭和二十年七月一日夜から二日早暁にかけての、あの異様な体験を私
は一生忘れる事が出来ないだろう。
私は十九年女学校を卒業と同時に、第一次挺身隊として、呉海軍軍需
部会計課に配属され、一年余り、経った頃だった。
私達は、露ほども日本の勝利を疑わず「欲しがりません、勝つ迄は」
を合言葉に、モンペ姿で、一生懸命、通勤していたのだった。
戦争も末期で、相当、戦況は不利になっていた筈で(私達は全然知ら
なかったが…)毎日の様に、警戒警報のサイレンが鳴り響く状態が続
いていた。
七月一日の夜、もう寝入っていて、何時頃だったかは判らないが、又、
警戒警報が発令され、サイレンが鳴り渡った。
いつもは、それから暫くすると「警戒警報解除!!」と、メガホンを
持った警防団の人が大声で知らせて歩かれるのが常だった。
が、その夜の様子はいつもとは違っていた。間もなく、サイレンが鳴っ
ては止まり、又鳴っては止まりを十回位繰返す、”空襲警報”の不気
味な音が鳴り響いたのだった。
”今夜は、いつもとは違う!!”と緊張しかけた時”パリ、パリ、パ
リ”と何か弾ける様な音がして、窓の外が急に明るくなった。
慌てて窓を開けて見ると、西の方の空がまるで昼間の様に明るくなっ
ている。
照明弾だった。当時は、「燈火管制」という事で、各家が電燈に黒い
布のカバーをつけ、窓には黒っぽい布を下げて、絶対に窓から灯りが
洩れない様に指導されていた為、夜は、街中が真っ暗な筈だった。
「危ないぞ、空襲だ、逃げろ」当時、同居していた従兄の、上ずった
声が聞こえた。
数日前、呉海軍工廠が敵機の来襲を受け、従兄は、空襲を体験したば
かりだったのだ。
従兄の、その声を聞いた途端、何か電流の様なものが、私の身内を走っ
た。 夢中で、そこにあった何かを掴むと(モンペだった)だ、だっ
と皆で階段を駆け下りた。
急ぎ足で、家から七、八分位離れた所にある防空壕へ着くと、あちこ
ちから集まって来た人々が、どんどん入口から入っていく。
防空壕の中はもう一っぱいの人で、あとからあとから集まってくる人
達が入れ切れないのか「もっと、中へつめてくれ」と、大声が聞こえ
る。「押すな、子供が押しつぶされるぞっ」「早く入ってくれ」と、
声が飛び交い、人々は押し合い、まるで巨大な満員電車のような状態
だった。
間もなく「焼夷弾が落ちたぞ、家が燃えだしたぞオ」と、大きな声がし
た。
それまで、空襲の話は、よく聞いていたものの、まさか自分達の町が
と、思っても見なかった。いま、まさしく、呉が燃えているという。
頭の中で、何かがぐるぐる廻っていた。
そのうち、「防空壕へ火がついたぞ−っ」という叫び声が聞こえた。
防空壕は、当時「よう地」と呼んでいた丘(今の寺本公園)の下を、
コの字型に掘り抜いたもので、壕の入口のすぐ近くに迄、家々が立ち
並んでいたのだった。
防空壕の中は、まるで煙突が火を吸い込むような状態で、熱気と煙が
入ってきた。
熱かった。壕の中を動く風は、まさに地獄の風だった。体中の水分が、
みな出てしまうのかと思う程、汗が止めどなく吹き出てくる。
周りの人達は、皆だんだん口数が少なくなっていった。そして何時の
間にか、体を押しつけあったまま、座り込んでしまっていた。
と、どこからか、”君が代”を歌う声が聞こえて来た。それが、だん
だん広がって周りの人達皆で”君が代”を合唱した。
私も唱い乍ら、目の中が熱くなり、涙がこみ上げて来た。皆、泣き乍
ら歌っていたようだ。
歌い終わったあと、壕の中はし−んと静まり返って、皆だんだんに、
眠り込んでしまったらしい。
私も次第に眠くなって来た。暗闇に馴れた目で見廻すと、人々は頭を
たれて、または人に寄りかかって眠っているらしい。ふっと”この侭
眠ったら、死ぬんじゃないかしら”という思いが、私の脳裡をかすめ
た。
”こうして眠り乍ら死ぬのなら、「死」なんて、そんなに辛いものじゃ
ないな”と、おぼろげに考えていた時、私の目の前に警防団の人が、
四、五人立って居られるのに気がついた。
顔を上げた私に、その中の一人の方が水筒の水を蓋に入れて差し出し
て下さった。
美味しかった。眠ってはならないと思った私は「顔を叩いて下さい」
と頼んだ様である。
その人達が立ち去られ、周りが皆、眠った様な中に座っていると私一
人起きているのが少し怖くなった。
その時である「佳ちゃ−ん」という声がした様な気がした。「佳ちゃ
−ん」...確かに私を呼ぶ母の声だった。母が遠くで私を呼んでい
たのだ。嬉しかった「は−い。ここに居ます」返事をしては、暫くす
ると又眠くなる。
又呼ばれる。何度か、それを繰返したあと、”母の所へ行こう”と私
は立ち上がった。
周りで眠り込んでいる人達を踏まない様、そろそろと、母の声のした
方へ歩いて行き、やっと母の所へ辿りついた。
二人で話し乍ら、どれ位、時が経ったろうか、向うの方で何か声がし
て、懐中電灯がぐるぐる廻されている。
「生きている人は出て来ーい」そう叫んでいる声が聞こえた。「はー
い、ここに居ます」大声で返事を返したが、周りの人達は皆、起き上
がる気配がない。
母と二人で立ち上がって歩こうとしたが、体中の力が、抜けたようで
歩けない。
二人で肩を組み合い、周りの人達を踏まないよう気をつけ乍ら、よろ
よろと、声のした方へ歩いて行った
壕の外は、もうすっかり、夜が明けていた。そして、私達の目に飛込
んで来たあたりの状況は・・、そこにあった筈の家々がない。
何にも視界を遮るものの無い一面の焼野原だった。
壕の入口近くには、壕内から運び出されたと思われる人達がずらりと
寝かされていた。 
中には暑さで着衣を脱いでしまったらしい人も居る。そして、全裸の
ままけいれんしている人も・・・
私達はそこにしゃがみ込んでしまった。その時だった。私達の傍に駆
け寄って来た人がいた。弟だった。弟は壕の入口にある家が焼け出す
前に、壕を飛び出したらしい。
弟の顔を見た途端、猛烈に咽喉が渇いているのに気がついた。それを
言った私達に、弟が運んで来てくれたのは、焼け跡で拾ったボコボコ
のバケツに入った、薄緑色をした防火用水の水だった。
でもその美味しかったこと。身体中に沁み込で行く様。
”敵の機銃掃射がある”とデマが飛んで、間もなく山の方へ逃げ出し
た私達は、その途中、黒焦げになった一家の死体も見たし、目から火
を吹き乍ら焼けている遺体の傍も通った。
今、思い出しても胸の痛くなる様な情景を沢山、沢山見ることになっ
た。
我家も何一つ残らずやけてしまって、母子家庭だった私達は、間もな
く迎えた終戦後の混乱期を、苦労しながら何とか生き延びたのだった。
母は、現在九十三才、健在で弟一家と暮らしている。
日本は 現在世界でも豊かな国と言われ、平和という事の有難さを感
じないでは居られないが、しかし今も戦争が続いて罪もない人々が苦
しんでいるニュ−スも聞く。
今年、戦後五十年を迎えたが、私達の体験せざるを得なかった戦争の
残酷さ、悲惨さを遠い過去の出来事として、記憶の彼方に風化させて
しまっては、絶対にいけないと痛切に思うこの頃である。

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十.呉空襲直前の状況

              松岡 清徹
                (呉市本通一丁目十二ー四十一)

(敵機が呉上空を飛来していた。だが、灰が峰の砲台は黙したままで、
灯火管制下の市内は真っ暗だった。警戒警報もすぐには鳴らなかった。
瞬間、火の幕の中を人は右往左往した。空襲記録を確かめたい。)

目が覚めたのは七月一日夜半十二時ちょっと前で、外は灯火管制で真
暗、物音一つしなかった。
しばらくすると西(広島)方面から飛行機のくる音がして来ました。
敵機?と思ったが警戒警報も鳴らず、音がだんだん呉に近づいて来る
のに灰ヶ峰の砲台も発砲しません。
しばらくすると東(広)方面に行ってしまいました。
「ア、味方機が警戒しているのか?」と思っていますと、今度は東方
面に行った飛行機か?呉上空を西方面に飛んで行きましたが、灰ヶ峯
の砲台も沈黙したまま。警戒警報も鳴らないので「夜おそくまで味方
の飛行機が警戒しているのだな」と胸をなでおろしたと思ったら、ま
た西方面から飛行機の来る音がしましたので、「今夜は特別警戒がさ
びしいのだな」と思った瞬間、バリ バリ バリと大きな音がして、
第一弾が和庄方面に投下され、一瞬火の幕を張ったようになり、その
火の幕の中を人が右往左往しているのがよく見えました。
直ちに正服を着用し呉鎮守府へ向かって飛び出しました。
呉海軍病院(今の国立呉病院)前にさしかかるとバリ バリバリと大
きな落下音がして第二弾が落ちました。
呉空襲記四十四頁に記載してあることと、私の体験を比較すると、
亀山神社左側「和庄」地区にキツネ火が連なるように燃えはじめ
た。
  午後十一時五十分ごろから焼夷弾投下がはじまる。
  すでに和庄方面から火の手が上がり。
などは小生の記録と同じだと思います。
小生の記録と異なるのは、第一弾の前、敵機が往復半偵察したことと、
その間、一回も警報がでなかったこと、灰ヶ峯の砲台が射撃しなかっ
たこと、である。

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十一.戦争と私の人生

            島居須美枝
           (東京都江戸川区東葛西一ー十五ー十)

(呉空襲で多くの犠牲者を出した明法寺下の横穴式防空壕で運命の明
暗を見た。赤土にワラを入れた厚いドアが命を救ってくれた。灯油を
かけ、多くの遺体が焼かれた跡は、何日経っても黒く残っていた。)

戦後五十年忘れようとして忘れられない光景がある。
一つは、私達の逃げ込んだ防空壕の隣の壕の入り口にまで逃げて来て、
亡くなった赤ちゃんを抱いた若いお母さん。
もう一つは、あるところで焼死した遺体を、明法寺の前に集めて山積
みにした数々。
数十体の遺体の一番上に、白と黒のカスリを着た六才くらいの男の子。
九才の私にとって数十の遺体をみた中の今も目に焼きついて忘れ得な
い光景である。
遺体の山にムシロをかけ、灯油をかけて、十ぱ一からげにして兵隊さ
んに焼かれた。何日経っても、焼いた跡がどす黒く残った。二千人位
焼死したという呉の戦災は、七月一日の深夜だった。
私達が壕へ急ぐ時、もう何機ものB二十九が、低空でボンボン焼夷弾
を落としていた。
あちこちで爆発して、家がドンドン燃えていた。私達の防空壕は、赤
土にワラを入れた厚いドアだった。
壕の向い側は一米もあかないで、木造の二階屋が並んでいた。皆兵隊
の下宿だった。
私達の壕へも家が焼け、煙が入って来た。中に防火用水があり、何度
もタオルを濡らしては鼻を押えた。息ができない位煙かった。やっと
爆撃がおさまったらしいと聞き、そっと外に出た。
何ということだろう。両隣の壕の戸は木だったそうで、火が皆中へ入
り全滅していた。そこで若い母子をみたのである。
外は焼け野が原、自分の家の跡も分り兼ねた。どこでどうなったのか、
家を出る時は絶対履いていたのに、誰もが素足だった。まだくすぶっ
ている瓦や木材の上を、私達は飛び跳ねるようにして歩いた。
父が見つけた我が家から、茶碗とか、鍋とかの日用品を掘り出した。
使えるものは、殆どなかった。一夜にして、家も家財も灰、一体どう
してこうなったのだろう。誰が補償してくれるのだろう。
明日からの住まいに父は奔走した。バラックが出来る迄、私と、すぐ
上の姉は長姉の嫁ぎ先で暫く世話になることになった。父から、何と
か家が出来たから、帰呉するよう連絡があり、八月六日、長姉に連れ
られて大野駅へ着いた。
長姉が母に渡す土産を忘れたから、駅で待つようにいわれ、私達は一
列車遅らせた。もし予定通り列車に乗っていたら、私達姉妹は、原爆
にやられていたのである。何という幸せな忘れ物であったろう。
防空壕、原爆、私は二度命拾いした。父の作ったバラックで、家族の
生活が始まった。
進駐軍が上陸するというので、父は大きな門を作り、上に太い釘を逆
に打って娘たちを守ってくれた。沢山の空地を利用してじゃがいもや
ホウレン草、さつまいもを作って収穫を楽しんだ。必要に迫られての
自給自足だが、吾妻小学校へ間借りしたこと、遠い道のりを道草しな
がら結構楽しい通学だった。わが本通小学校が新築されて、お礼の言
葉を読んだ私は、実に嬉しかった。やはり我が校はいいものだ。
中学、高校を平和に過ごせた。小学校の時から教師になりたかった私
は希望に胸をふくらませていた。しかし、高二の五月、父が亡くなっ
た。
医療器の卸をしていた父は、戦災で一切商品を無くし、何の補償もな
く、カツギ屋をやったりして、一生懸命私達を守ってくれた。
父の死で、私の生活は一変した。高校は奨学金で、何とか卒業できた
が、当時はバイトも殆どなく、何の技術も持たない母が働ける場もな
かった。
大学進学は到底無理だった。母の所へ「力があるのだから進学させて
上げて下さい」と、二度もみえた先生の前で母は「不甲斐無い親です」
とオイオイ泣いた。
戦争がなければ、父は絶対私を進学させてくれただろう。力のない母
を悩ますのは辛く、明るく私は進学を諦めた。
高卒後、尾道の義兄の甥の面倒を見ながら、尾道の図書館で「新平家
物語」などを読んだ。赤ちゃんをオブって、図書館に通う感心な娘さ
んだといって、司書の方が主人を紹介して下さいました。
二年後、呉に帰り、ちょうど、広島県職員の応募があり、受験して受
かり、公務員として広島県庁に勤めました。
尾道にいる間、幼友達の越智さんが、井上さんと一緒に見えて、お父
さんの会社へ勤めないかと言って下さった友情を、今も感謝しており
ます。
公務員に禁止されているアルバイト、越智さんと私の家で、小学生の
勉強を見てあげて、生活費の足しにしました。
昭和三十年、尾道で挨拶を交わしただけの主人と文通して、三十六年
結婚し、今はとても幸せに暮らしています。
主人も、父が宝石商をしていた朝鮮から、一人千円ずつもらって引揚
げ、次々兄弟や母を亡くした苦労人なので、とても優しい人です。と
ても思いやりのある人です。
戦争であきらめた教師も、四十の手習いで四十歳で洋裁専門学校へ入
り、教師の免許をとり、生徒さんと楽しく教室をやっています。
洋裁は手先も使いますが、結構頭も使います。足りない生地に型紙を
色々に置いて、どうしても作りたいものを作ろうというのは、パズル
のようにスリルがあります。洋裁は、私のいい生涯教育「いつでも何
処でも一人でも」の言葉通り、老いても楽しめると自負しています。

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十二.(妙子さんのお陰で)

              塚野 政秋
             (熊本市御幸笛田町三五九ー十)

(徴用工として呉工廠水雷部に勤務中に体験した呉工廠の爆撃。市街
地空襲では、寺本公園下の防空壕での避難のようすを地図で説明して
いる。煙に巻かれた防空壕で、死ぬ寸前を助け出してくれた妙子さん。)

私は、本通九丁目〜十一丁目に向かって右側の山手の方へ十分位の所
と思いますが、住所は寺本町二丁目の船波方(女主人−当時五十歳位
−名前は忘却)に下宿しておりました。家族は船波茂(十九年頃現役入隊)
、船波妙子,同宿人一名、通称松ちゃんと呼んでいた、姓名は忘れま
した、当時三十歳位でした。
昭和十六年四月、第四次徴用工として(大阪より)海軍工廠水雷部器具
工場へ配属され、日夜(二交替十二時間勤務)生産に励んでおりました。
十八〜十九年頃には先輩、同僚、後輩達が召集、現役と一人減り二人
減りと人手不足が生じ、糸崎方面から女子挺身隊(十五〜二十二歳位)ま
た四国徳島県から年配の方が動員され、馴れぬ手付きで生産に勤めて
おられました。末期には市内からは旧中学生、女学生、小学校高学年
も学徒動員され生産に参加して来ました。
二十年の初期頃、私は、音戸の島へ船で重要器具等の疎開を致してお
りましたが、海上には戦艦伊勢を始め、沖合には偽装された航空母艦
等数隻が浮かんでおりました。また工場横の岸壁には、駆逐艦を始め
潜水艦ロ号、ハ号などがいつも碇泊しておりました。
二十年前後と思いますが、上空をB二九が飛行機雲をなびかせながら
通過するようになりました。空襲警報と同時に最初は避難しておりま
したが、一向に爆弾投下の気配もないので、いつも上空を眺めて爆弾
は積んでないのではないかと話し合っておりました。軍の方でも最初
は高台の要塞から高射砲を発射しておりましたが、とどかず以後は砲
撃を見たことはありませんでした。
二十年三月十九日昼勤時、空襲警報と同時にロッキード(双胴体の戦
闘機)機による襲撃を受けました。低空音のグゥーンという音とともに
バリバリバリッと工場の屋根に弾丸の当たる音、必死の思いで地下防
空壕へ飛び込みました。これが機銃掃射だと判ったのは暫くたってか
らです。この時ほど恐いと思ったことはありません。その時一名工場
の工員さんが足を負傷しました。
その後は戦闘機の攻撃はありませんでしたが、B二九は相変わらず飛
行機雲をなびかせながら上空を通過しておりました。六月二十二日同
じく昼勤時に空襲警報の発令、例の如く空を見上げておりました。と
ころが黒い物が数個落下するのが見えました。と同時に(丁度台風時に
電線の音が唸るような)グーン、ビューンと異様な音がしましたので爆
弾と思い、二〇〇米ほど離れた所にある横穴防空壕へ飛び込みました。
外では大きな爆発音がして生きた心地はしませんでした。いつ落ちて
くるだろうかと、それこそ神に、落ちないようにと祈っておりました。
敵機が去って工場の方へ戻ってみますと工場横の道路は、一t爆弾で
小学校のプール位の穴があいており、威力のあるのにびっくりしまし
た。また工場は天井付近で炸裂し、屋根の大半が吹き飛んでいました。
地下防空壕に入っておられた工場長は顔を負傷されておられましたの
を覚えています。
また岸壁に碇泊していた駆逐艦、潜水艦は沈没(爆風にて)したという
ことです。実際にみておりませんので事実は判りませんが専らの噂で
した。帰途にある電気部の横には不発弾が不気味に建屋にもたれかかっ
ていたのを見ております。あれはどうなったかなと今でも思い出され
ます。
忘れられないのが七月一日夜半、下宿で寝ていた時、空襲警報で飛び
起きました。高台でしたので町の方を見ますと、点々と火の手が上がっ
ていました。上空では飛行機音がし、近くにもボトンボトンと落下す
る音が響いてきて、六角形の筒から火が吹き出していました。焼夷弾
だと思い女主人と同宿人は防空壕へ避難してもらい、私と妙子と二人
で消火に努めましたが、次々と落ちてくる焼夷弾でどうすることも出
来ず、近所の横穴防空壕へと(別紙の防空壕の略図、Aの入口から)妙子
と二人で飛び込みました。
Bの防空壕の扉を押しましたが満員のため入れず階段をおり@の方へ
避難、数名の方がおられました。時間がたつうちに段だんと壕内に煙
が充満しはじめて息苦しくなり、これでは危ないと妙子に声を掛けて
@の出入口に行ったところ、入口の布団並びに扉までくすぶっていま
した。また外を見ますと火の海で、必死の思いでAの方へ向かうため
階段の扉の引き戸をあけてAの出入口へと向かいましたが後から誰も
ついてきません。(普通の状態なら引き返して戸をあけるはずですが、
その時は自分だけが助かろうと必死だったと思います)後から妙子に話
を聞いたら、みんなが後からついてきたため押されて扉があけられな
かったそうです。
Aの出入口から外に出てみましたが火の粉は飛び散り、まだまだ火の
海でした。「入口の布団、扉とも火がつきくすぶっていました。冷静
さがあったら布団だけでも外に放り出したでしょうが……、布団の煙
が壕内に侵入したのが多かったと思われます」のでどうすることも出
来ずAの方の奥へ入っていきました。
真っ暗闇で手探りで進んでいきますと一名だけ入っておられましたの
で、お互いに名乗りあったのを覚えております。「海軍の上等兵曹の
方でした」。他に何を話をしたか覚えておりませんが、その内だんだ
んと息苦しくなってきて、その内に宙に浮くような気持ちになり意識
がなくなりました。
それからどれくらいたったか、遠くからかすかに私を呼ぶ声が聞こえ
て参りました。ふと気がつくと妙子の声です。明るい方へ這い出して
いくとやっぱり妙子でした。中に後一名(この方も助かる)おることを告
げて、私は外を眺めますと市街は丸焼けの状態です。
周辺では死体に抱きついて泣き叫ぶ身内の方、また身内を探しておら
れる方々と悲惨な光景です。@の防空壕でも数名の方が亡くなられた
ようでした。
私も相当藻掻き苦しんだのでしょう。ズボンの両膝のところはボロボ
ロに破れておりました。目は真っ赤に充血しあけられない状態でした。
また煙の吸い込みで息苦しく、呼吸するのが精一杯でした。
下宿の女主人と同宿人の松ちゃんは元気でしたので、四人で下宿の親
戚を頼って(阿賀の方から警固屋町の近くと思う)行くことになりました。
途中本通九丁目に交番がありましたが、その前の防火用水プールにも
五、六名の方がうつぶせになって亡くなっておられました。
翌日親戚の家からズボンをめぐんでもらい出勤、被災者は一時帰郷を
許可されました。その日、二河公園の方で炊き出しがあるということ
でしたので行く途中で、市内の至る所に死体の山が並んでおいてあり
ました。その時は無感動でしたが犠牲者の方々のご冥福を改めてお祈
り申します。
宮崎県都城市に帰郷、その時の被災で気管を患い療養中終戦を迎えま
した。私が今日あるのも、あの時の妙子のお陰と感謝いたしておりま
す。

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十三.機雷投下と空襲

             石田 桂三
           (茨城県日立市みかの原二丁目十五ー五)

(本通小学校横の市街地に落とされた機雷の処理を自宅の座敷からこっ
そりと見ていた。本通小学校付近での空襲のすさまじさ、熱風で息を
吸うのも気持ち悪い。明けて、学校へ行った私を見る先生の目には・・。


夜中、飛行機が落ちたような大きな音がしたとのことで、姉に起こさ
れた。警戒警報で他の者は起きていて、近所に時限爆弾が落ちたとの
ことで、寺西町の熊橋家(本通九丁目角のベビー服店の自宅)へ布団
等を持って、一家で避難した。近所の人も二十名以上位来ていた。
昭和二十年四月一日夜、本通九丁目でのことで、私の家は電車道りに
面した文具店で、私は小学五年になる前であった。
爆発予告時刻が一時間延ばしに何度も延ばされ、夜が明けたが何事も
なく、みんな自宅に戻った。その頃、父が我家の裏庭に白い異様な布
を見付けた。それは、地中にめり込んだ機雷の落下傘の部分が地上に
見えたものであった。
海軍から処理隊が来た。店の前は人だかりで、ロープが張られ立入禁
止となっていたが、前述の熊橋さん(中学二年)と共に、家族という
ことで家に入り、裏庭に面したガラス障子のすりガラスの透明部から
息を殺して、二〜三メートルの所で機雷を見た。白い筒状で、直径六
十〜八十センチ、長さ一.五〜二メートル位の大きさで、二階の屋根
の雨樋を少し壊しただけで、幅三メートルにも満たない庭(長さ数メー
トル)に平行方向に落ちていた。そばの二階座敷には私が寝ていたの
だから、家に当れば私の命は無く、まさに奇跡的な落ち方であった。
 機雷搬出のために、煉瓦塀を壊し、隣家の庭を通って、敷板の上を、
麻ロープで縛って何人かの兵達がが機雷を引張った。呉鎮守府長官も
視察に来た。
 この時、広・阿賀方面を含めて、一直線状に四発落ち、地上落下ゆ
え不発であったが家屋破損もあったようだ。
 数日後、私は母の郷里、安浦へ縁故疎開した。町場から来た者への
からかい、勤労奉仕の麦刈りや松の根掘り、教育勅語を毎日書く罰宿
題など、僅か四ヵ月の短い間に多くの体験があった。
七月一日は日曜日で呉に帰り、たまたま疎開先への汽車の切符が取れ
ず、翌日に発つこととした。その夜、空襲警報になり、店の一角にあっ
た防空壕に家族で入ったが、照明弾が落ち、体山斜面、古江町あたり
に焼夷弾が落ち始めたため、本通国民学校(以下、本通小と略)の東
方の横穴式防空壕に、母や姉妹と共に、父や兄より先に避難すること
にした。
家を出て数十メートル走った時、空からゴーッという飛行機の爆音が
近付いてきたので、持っていた布団を皆で頭の上に被り、よその家の
軒下に身を潜めた。自分が機銃で狙い撃ちされるように感じた。焼夷
弾が空を切って落ちる音がザーッと耳に響く。この時の恐怖感は私の
生涯で最も大きいものであった。
この恐怖感からか、母が壕の場所をよく知らなかったためか、いった
ん家へ引返した。持出す物をまとめていた父は、再度引返す積りで、
金庫も半開きのまま、家族全員を防空壕まで連れて行った。
本通小の屋根を突抜けて焼夷弾が落ち、その瞬間、教室の窓から火が
吹き出す。道端に焼夷弾の油が燃えている。すでに軒先に火のついた
家などの前を逃げた。
防空壕に着き、父は家に引返そうとしたが、兵隊達に危険だと阻止さ
れ、重要品の持出しも断念せざるを得なかった。後々まで、父はこの
ことを、とても悔やんでいた。
幅三メートル位か、比較的広い真暗な壕の中に、百人以上もいたよう
に思う。夜が明け、壕の外の広場で指示を待った。教科書だけを布袋
に入れて避難した女学生。戸板で運び出される他の壕の焼死体。焼け
ただれた手足の怪我人。皆あわれな姿である。私達の壕は安全であっ
た。
兄達と焼跡に行った。熱風が吹き荒れ、トタン板が舞う。たいらになっ
て、僅かに煉瓦塀の一部と石灯篭だけが突っ立っている我が家の跡。
熱風で息を吸うのが気持ち悪い。真黒こげの焼死体が這う形。
一、二年担任であった山田先生と出会い、赤い鼻緒のせんべい下駄の
私を見る眼には憐れみが見えた。
母の郷里、私の疎開先に一家は取敢えず落ち付くことになり、汽車に
乗るため、阿賀駅まで歩いた。西畑の交番横の炊き出しの大きなおに
ぎりが、米のない頃の空きっ腹にとてもおいしく、有難かった。
七月末、上畑町に家族全員で住み始めた。
八月六日、晴れた暑い朝、稲妻のような光を見、大きな爆発音をきい
た。二階へ上ったら、西の空に柱状の雲があり、中からもくもくと、
とめどなくピンクの雲が湧き出て、忍術か魔法の煙の塊に見えた。午
後になって、広島でガスタンクが爆発したと聞いた。人類史上、最初
の核爆弾であった。
戦時中のことで他に思い出すのは、昭和十八年頃、潜水艦で来たドイ
ツ軍人達が、海軍の下士官の案内で夜の街を散歩し、我が家の前を通
り、初めての西洋人を見たこと。まだ、灯火管制のない、明かるい街
であった。
昭和十九年頃は、本通小の講堂が海軍兵舎に使われ、年輩の応召兵が
入魂棒の体罰を受けるのを見て、その上官を憎く思ったりした。この
頃であったか、本通小卒業生、宮原田賢氏の特攻隊戦死が報じられた。

戦争は、家屋敷、店や倉庫の商品など、我が家の全財産を一夜にして
灰とした。物質的なものの儚さ、精神的なものの価値、戦争のおろか
さなど、考えさせられる。家族全員の無事が大きな幸せ

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十四.警防団

               藤原 誠
                (呉市東川原石町一ー二)

(撃ちてし止まん、今に神風が吹くと思っていた。しかし、いかに空
襲が激しいものか知らされた。焼けなかった海岸通りから、警防団員
として呉市街の空襲状況を的確な目で見ていた。警防団はもう要らな
い。)

昭和九年満州事変に端を発した戦は、年と共にその戦域を拡大して、
そのとどまる所を知らなかった。戦線の拡大に伴い、国民拳げての戦
争となった。
戦域は満州から中支、中支から南支、東南アジアと移り最後には、米、
英をも敵に廻しての戦となった。
一億一心打ちしてし止まぬ大和魂は意気軒昂、国を挙げての戦は日本
軍の行く所、軍艦マ−チで戦勝の旗を振っていた。
然し、戦が長引くに従い、広い戦線は先の方から崩れ始め、玉砕の声
を聞くようになった。勇敢なる日本兵も浮足立って後退を余儀なくさ
れた。
国民悉く今に神風が吹いて大日本帝国を救って呉れるものと信じて居
た。
昭和十六年街には自警団が設立された。
戦争に行かない男子は徴用工員として軍需工場に微用された。若き女
性達は女子挺身隊として職場にかり出された。街の商業関係に従事し
て居る人々は警防団員として街の秩序を守り、敵機の空襲から人々を
守る事を義務付けられた。
平素は病人、怪我人の応急処置から、街の婦人を集めてのバケツリレ
−に依る防火訓練、甚だしきは敵兵上陸を予想しての竹槍訓練まで、
事こまかに教えた。
今迄一度も焼夷弾攻撃の経験のない私は、如何に空襲の激しいものか
を知らされた。
時は昭和二十年七月一日未明のことであった。
けたたましいサイレンの音に目を醒した。今までのサイレンとは違っ
た感じがした。続いて空襲警報のサイレン。私達は飛び起きて電燈の
スイッチを入れると真夜中の十二時であった。今まで常時警戒警報が
発令されていたので電燈の光が外にもれないように黒い布のカバ−が、
どこの家にもつけて居た。これも警防団員の平素の指導であった。
私は海岸通三丁目の食糧営団海岸販売所二階に住んで居た。私の家の
家族編成は妻と五才、三才、八か月の三人の娘の五人暮らしだあった。
昭和二十年になってからは度々空襲警報が発令されていたので、大人
も子供も訓練が足りて、動作は早くテキパキとして居た。
長女はモンペを履き、防空頭巾を被ると妹の世話までするようになっ
て居た。家内は支度をして三女を背負い、貴重品袋をもって出るのが
役目。
真夜中に飛び起きてモンペをはき、防空頭巾をかぶり、二階から暗い
階段を降りて行くのは大変だった。
私は警防団員だったから警防団の服を着て、ゲ−トルを巻かなければ
ならぬので一番ビリであった。
子供達は東川原石町の父の住む家の防空壕に入りに行く。私はそれを
見届けてから、警防団本部に走る。私が本部に着く前に、B二十九よ
り街の中天高く照明弾が一発落された。一瞬にして呉の街は真昼のよ
うに明るくなった。私は走った。
この時始めて呉市が焼夷弾攻撃を受けたのだと体中がジーンとした。
照明弾の光が少し薄れた頃、B二十九 一機が倉橋島方面より飛来し、
宮原、和庄、長迫方面に焼夷弾を一直線に落しながら北上した。青白
い火の線が出来た。火の線は燃えるものがないのか?人の手で消して
居るのか?所々点となって残った。
次の一機がその点をつなぐように焼夷弾を落して行く。今度は最初よ
り高く燃え上がる。B二十九の空襲間隔は三分おきのようである。続
いて三機、四機、五機、西へ西へと縫うように落して行く。火勢は天
高く燃え始めた。
焼夷弾攻撃は段々呉の中央部に移っていく。もう本通も中通りも燃え
始めたようだ。周辺の山々もくっきりと見え始めた。
八分団本部の東には二河川が流れている。二河川の東には呉駅、軍需
部が並んでいる。呉駅も燃え始めた。軍需部も燃え始めた。
呉の街は火の海と化した。火は猛り狂うように燃える。軍需部も火柱
が立ち始めた。軍需部の大きな建物も火に包まれた。軍需部の中には
油の入ったドラム缶があったのか、火のかたまりが中天高く飛び上が
り、炸裂して四方に飛び散る。何本も何本も飛び上がっては火勢をま
きちらす。
焼夷弾攻撃は西に西に移り、二河川を渡り、西二河川から西本通、三
条通と我が八分団内に移って来る。分団の消防部の人々は各々散って
行く。
B二十九の攻撃は八〇機を数えた。東の空が白む頃、空襲は終わった。
午前四時だった。四時間に亘る空襲で呉の街は無くなって居た。
我が八分団においても可成りの家が焼けた。人的損害、死者一名、怪
我人一名と聞いている。
呉は地理的に高地部が多く、横穴式の防空壕を沢山作って居た。和庄・
登町方面は、防空壕に入った人は防空壕が煙突の役目をしたので、中
に避難した人は酸欠の為に殆んどの人が亡くなったと言う。折角作っ
た防空壕がこんな事になるとは誰も知らなかったようである。
呉市の死者の殆どは防空壕の為だと言う。
八分団にも沢山の横穴式防空壕が掘られていたが、空襲を受けなかっ
たので良かったと思う。翌日から焼け出された人々は、焼け跡に行っ
て鍋、釜、食器類を掘り出して持ち帰って行かれる。その姿たるや破
れたモンペに疲労の色は濃く、みじめであった。
 あれから三九年、着るものに、食べるものに何一つ不自由のない時
代を迎えることができました。
 住むに家なく、着るに衣類なく、食するに食はない時代を生き抜い
て来た私たちは、今の時代を大切に、今の幸福をいつまでもいつまで
も続けたいと思います。
戦のない、警防団員のいらない平和を続けたいと思っております。 

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十五.劫 火 

            宇根内 京子
            (豊田郡安芸津町小松原七四八ー二)

(学徒動員で受けた呉工廠製鋼部での一トン爆弾の恐怖、不発弾が刺
さっていた。水を被り、やっと逃げた山手から呉市街を見た。すさま
じい夜空を焦がす火炎。空襲後の情景を思い出と共に語っている。)


昭和十九年六月、動員学徒として呉海軍工廠製鋼部鋳造工場へ配属と
なった。狩留賀、両城寮にそれぞれ一ヶ月ずついて、八月には宮原通
十二丁目に急造されたバラック建ての寮へと移された。
勝利の日までは、と鉢巻を締めて張り切ったが、鋳造工場の現場には
過酷な作業が待っていた。高い天井を唸りながら這うクレーン、高熱
の溶鉱炉、飛び散る火花、みんな初めて見る光景であった。黒づくめ
の作業服が支給され、疲労や空腹に耐えていたのは、お国の為という
使命感に支えられていたからだろうか。
昭和二十年春、すでに本土空襲のニュースは耳にしていたが、三月十
九日には艦載機による本格的な呉工廠攻撃の始まりだった。それから
は警戒警報、防空壕への退避の度数が増し、六月二十二日はB二十九
による工廠への集中的な爆弾攻撃があった。この日の第一波は午前九
時過ぎから、製鋼部を中心に砲熕部、水雷部へ約二十分間隔で大型爆
弾が投下された。
木型工場にいた私たちは技術将校や指導員に守られて壕の奥に避難し、
頭巾をかぶり顔をおおって息を殺してうづくまった。「こっちへくる
ぞー」の叫び声とともに大音響、猛烈な爆風で体中の空気が押し出さ
れたようで「ウェッ」とうめき、息の出来ない恐怖の連続だった。
やがて地響きや爆音も遠ざかり、空襲解除の声で壕から出ると、眩し
い真昼の光の中、入り口の至近距離にオフホワイトの一頓爆弾が、三
分の一程コンクリートの地表を突き破りめりこんだままで立っている
ではないか。ぞっとして震えながら、そっと横を通りぬけるなり、一
目散に鋳造本部へと走った。
翌日おっかなびっくりで木型工場へ出勤すると、既に撤去され埋め戻
されて一頓爆弾は跡形もなかったが、五十年を過ぎた今でも、地響き
と轟音が去った後の、寂とした真昼のあの一頓爆弾の姿は鮮明に脳裏
にインプットされている。
二階のデッキから見た隣接の砲熕部の物と思われる鉄製の大煙突が、
青空のバックにわが木型工場の屋根にスパッと突き刺さっていた。皆、
爆弾の威力をいやという程体験して声もなかった。心の奥で、壕入り
口の白い一頓爆弾が不発であったことの幸運に感謝した。私たちには
知らされなかったが、かなりの犠牲者があったのではないだろうか。
七月一日は夜勤だった。午後十時作業を終わり帰寮して床についた。
連日連夜の空襲に備えて防空頭巾と靴も身近に置き、着のみ着のまま
という姿で寝た。ただならぬ気配に目覚めた時には、地響きと断続的
に強い光が閃めいて何かきな臭い。照明弾だ、と防空壕を目指して窓
から飛び出した。もう外は爆音と叫び声とが渦巻いていた。大量の油
脂焼夷弾を浴びて、バラック建ての大空寮はあっという間に炎に包ま
れてしまった。
浅い横穴式の壕を熱風が襲う。「早く出て」先生の大声に飛びだした
ものの高い塀に阻まれて、後から炎は迫るし逃げまどった。
誰か転んで「お母ちゃん」と泣き声を上げてる。特徴のある声音に駈
け寄るなり、早くと励まして助け起こしたが、顔を上げると火の色ば
かりで人影はどちらへ逃げたやら。踏み倒された塀を二人でよじのぼ
り熱風からやっと逃れることが出来た。途中で見つけた防火用水で体
をぬらし合って山手へ走った。
冷えた山の気配に安堵して振り返ると、眼下に大きく長方形に燃えて
いるのが寮のようであった。濡れたままうずくまっていると民家の方
が毛布をだして下さりありがたかった。ふと故郷を思い空を見上げる
と、凄まじかった爆音もなく夜空を焦がした炎もおさまって、満月が
何事もなかったかのように皎々と澄み渡っていたのが忘れられない。
夜が明けて、生き残ったのは二人だけかしらと話しながら寮の方向へ
歩き出したが、「もう嫌だ、これから家の方へ帰る。」と言い張る彼
女をやっとなだめて急いだ。果たして先生は必死な表情で名簿を手に
待っていて下さった。あれ程の混乱の中でちりぢりに逃げたのに全員
揃うことが出来た。
竹の垣根を倒すのに手間取っている間に、近くの下水溝へ逃げ込んだ
一団は煙突状態となり煙を吸い込んで倒れる友もいたり、兵隊さんに
救助された友もいた。多くの皆様方に学徒か、と声をかけて守って頂
いたお陰だと深く感謝している私たちである。
昼近く一個のおむすびを頂き、炎天下の焼け跡を狩留賀へと行進した
七月二日であった。
後日出勤すると作業台の上に一編の詩がのせてあった。
 あした露けき 草をわけ  乙女ヶ丘の夢のあと
 一筒の水 持ち来り  焦げしむくろに捧ぐれば
 きのうのままの東雲の おのづからなる たたずまい
 今し消えゆく星の影  君が抱きし夢に似て
 捧ぐる水は さらでだに  憂い濃き身の草の露
 しとどに濡れて汝がための  熱き涙となりにけり  
学校の寮がやられた、と夜勤中だった作者は坂道を駆けつけて下さり、
炎をかいくぐって壕の中まで確かめて下さったとか。
今日までの人生の中で呉海軍工廠で過ごした一年二ヶ月は、純粋で命
がけで、青春そのものだったと感じている。

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十六.火の海

        林 栄男
               (呉市焼山東二丁目十七ー六)

(中通の二重橋通で焼夷弾爆撃にあい、本通の焼夷爆弾攻撃のすさま
じさの中を逃げ切れず、堺川に飛び込んだ。火風が舞い、熱気で無茶
苦茶に口が渇いた。水の中で聞いた、火炎のゴーゴーうなる音は絶え
ない。)

まもなく戦後五十年を迎えようとしている。
今日戦争や敗戦体験を正確に、次の世代へ語り継ぐということは、体
験者として、また生存者としての義務ではないでしょうか。
呉市が米軍のB二十九爆撃機の焼夷弾で、焦土化したのは、昭和二十
年七月一日で、呉市民として永久に忘れることの出来ない大事な日で
す。
当時私は、父が商売をしていた関係上、元の中通九丁目二重橋通り、
現在の「銀座でパート」に住んでいました。家族は両親と、妻と、二
歳の長男の五人でした。それまで呉市は、連日連夜のように空襲があっ
た。
七月一日の夜は、警戒警報が発令され、その直後に空襲警報が発令さ
れた。十一時を少し過ぎていた。
「サイレン」がいつもより長く続くので、心配で暗闇の中を路地から
表通りの二重橋筋通りに出た。すると東方の休山近くの和庄、長迫地
区方面へ、幾十もの火の玉のようなものが落ちているのが見えた。こ
れは確かに焼夷弾爆撃だと思い、急いで家に帰り、母、妻と長男の三
名を一先ず、泉場町−堺川防火帯跡の防空壕へ避難させた。
もう一度和庄町の方を見たら、何十もの火の柱が次第に此の方に近づ
いている。見る見るうちに本通の電車道路あたりに来ていた。
これは生命が危ないと思い、すぐに走って家に引返し、非常袋も、重
要物品も、何もかも置いたままで、今まで寝ていた掛け布団を頭から
スッポリと被り、父と二人で大急ぎ表通りへ走った。二軒先のえびす
や呉服店の四つ辻を右に廻って、家族たちが逃げた防空壕へと向かっ
た瞬間、道路上に大きな音がして、パッと火焔が立った。振り向いて
見ると避難している女の人の衣類にその火が燃え移り、忽ち油の火は
衣類から頭の方へと、一瞬にして身体全部が火達磨のように見えた。
「ア、アー」と惨事に驚き、思わず瞼を閉じた。残念ながら我々は逃
げるのが精一杯で、どうすることも出来なかった。まさにこの世の地
獄を見せられたようで、両手を合わせた。
その間にも、屋根や道路に花火の如く焼夷弾が落下して来る。始め二
河公園か、岩方町の方へ走って逃げる心算だった。しかし余りにも家
屋の燃えるのが早く、火勢が強いので、堺川の方が安全だと思って、
二重橋の近くの川へと逃げた。幸い川の水は膝位までだった。川幅は、
七、八米余りだが、中央は危険なので、皆んな両岸に吸いつくように
してじっとしていた。
呉一番の繁華街の密集した中通、本通、東雲町、堺川通、岩方通、等
一帯の家々が、パチパチと大きく音を立てて燃え拡がり、見る見るう
ちに周囲は火の海となった。それが「ゴーゴー」と唸りを生じ、火風
が舞い熱気で無茶苦茶に口の中が乾いてカラカラとなった。苦しいの
でタオルを足元の川水で濡らして口に当て湿らして、何とか我慢が出
来た。
時間が経つにつれて、火の勢いは益々強くなり、このままではもう終
わりだと思った。そのうち川の中の避難者の数も増えてきて両岸に寄
り添うようにし、各自防空頭巾や座布団や、布団を被っていた。ふと
対岸を見ると被っている布団が飛び火で燃えているので大声でその人
に知らせたら、びっくりして布団を川に浸けて無事消した。このまま
では自分のも何時燃えるか分からないので、布団に水をかけて濡らし
た。
何時間もずっと、しゃがんでいたので足が痺れ、その上水の中なので
下から身体が冷えてきた。早く敵機が逃げてくれないかと祈っていた。
同じ姿勢のまま夜が明けるまで……。
火焔の「ゴーゴーゴー」と大きな唸るような音は絶えなかった。漸く
周囲の熱気も下がり人の顔も、うっすらと見える夜明けとなり、川か
ら道路に上がって周囲を見ると、家という家は全部黒焦げとなり、見
渡す限り焼け野原となっていた。驚くと同時に、悲しいやら残念やら、
憎いやら、只々我を忘れて暫く父と二人茫然となった。
四方の焼け跡からは、濛々と黒い煙、白い煙が立ちこめていた。我が
家の跡も何処か分からない位に灰の中になっていた。その中で二重橋
通りバカ盛食堂の前の伊藤理髪店の、洋館の焼けて折れ曲がった鉄骨
が宙に浮いて見えるだけだった。遠くは呉駅まで一望、見渡す限り焦
土となっていた。余りの戦慄に我を忘れて唯立っているのがやっとだっ
た。
焼け跡はまだ煙が燻っていて熱く近付くことが出来なかった。消防署
も勿論、市民誰もが逃げるのが精一杯で、消火を考える余裕はなかっ
たと思う。ただ生命を守るため必死だった。如何に空襲が激しかった
か次の記事を読んで大変驚いた。
昭和二十年七月二十七日、呉警察署調べ、呉市街地に投下された焼夷
弾は八万百拾個、三百五十八ヘクタールが焼けた。全焼家屋二万二千
五二戸、半焼百拾六戸、死者一千八百十七人と発表している。(昭和
五十年「中国新聞社」発行本 「呉空襲記」より。)
火災は恐ろしい、何もかも無くしてしまう。
我ら罹災者は箸一本、茶碗一つもない丸裸となった。しかし不幸中の
幸いは、翌日避難していた母たち家族三人が防空壕から出て来て無事
再会、五人涙を出して喜び合った。
あれから五十年経った。今日なお地球上何処かで毎日のように戦が行
われている。
幾多の家族は家を失い、親子兄弟姉妹等犠牲者が多数出ている現状を
見る時、慨嘆する次第です。平和な毎日を祈願しペンをおきます。

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十七.呉空襲の思い出

              山田 武義
                (呉市宮原五丁目一ー五)

(呉消防署に勤務中に出会った呉市街の空襲。
呉市内一円昼のように明るい。民家は火の海。
消火栓の水圧は0。
消火作業中に同僚も犠牲になった。
ピカドンも見ました。)

昭和二十年六月二十日広島県消防手拝命、呉消防署勤務につく。六月
三十日午後十一時から十二時、見習として望楼勤務中、消防署ちかく
の民家に警防団が灯りが外に光がみへるので黒くするように注意する。
七月一日呉上空に敵機B二十九、一機によって清水地区に照明弾投下
する。
呉市内一円昼のように明るく感じた。和庄地区に焼夷弾投下、和庄地
区の民家は火の海となる。大八車に家財を積んで避難が始まる。
まもなくすると出動命令がでる。梯子分隊は西法寺付近の消火作業を
開始、消火栓の水は水庄0で消火作業に役に立たない状態でした。
ホースをかたづけて梯子車に帰り、本通中通の方向を見ると煙がもく
もくと出ておりました。
消防署に帰ってみると看護婦さんが数人た待機をしていて、目を洗う
といわれましたがすぐ消防署の中に入りました。
上司より同期生富野君が死亡したと話をききました。呉駅消火作業中、
消防車が爆撃を受けて富野君は死亡した。講堂に富野君の遺体が置い
てありました。
海軍の水兵たちが上陸して、消防署が焼けずに残っている話をしなが
ら通りすぎた。数日後広島から消防車で呉にやってきた警察官上司は、
呉空襲で焼け野原と成りきげんはわるい話でした。
数日後今度は広島空襲の恐れあり、消防車数台を広島へ救援にかけつ
ける。
八月六日宮原出張勤務中ぴかと呉まで光りが有りました。五時頃ある
女性より広島空襲でやられました。と話を聞かされます。広島はピカ
ドンで市内が全滅した。

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一八.忘れまい呉空襲

                久留島 昌子
                (呉市上内神町十ー四七)

(学徒動員に明け暮れる女学生時代。軍国主義教育の中で育ち、遭遇
した呉空襲。内神町から見た呉空襲は、計画的な空襲と見えた。空襲
後の市内は、黒い景色。学徒動員の工廠と日常生活の記憶は、今はも
う・・。)

 その夜、父はめったにない宿直でしたから、わたしは、母と弟と三
人で頼りなく眠っていました。
 パッと輝くような明かるさに、わたしは、ただならぬものを感じて
飛び起きました。
 窓の外は皓皓とした明かるさです。雨戸の部屋で休んでいた母はま
だ気づいていません。いそいで起しました。
 洗面所の窓から眼下を見ると、ユラユラと火の玉が、向かいの丘の
家の上に降りています。照明弾らしく、あたりを明かるくするための
もののようです。
 やがて、バラバラと、雨がトタンをたたく音を聞きます。
「雨が降るからあまり燃えないね。」 そう母に言ったものです。
月夜に雨が降るはずもないのに、その非論理性に気づいていないわた
しなのでした。あとで総合した話によると、木造建築を燃えやすくす
るためには油脂をばらまいたもののようです。やがて、空襲警報の無
気味なサイレンが鳴りはじめたのだったと思います。
 防空壕は、家の斜め前にありましたから、Uの字型の一番奥へ場所
を占めることができました。またたく間に近所の人が押しかけてきて
壕の中はいっぱいになります。
「助けて。」それは、金沢さんという、わたしの先輩になる方の声で
した。二年来の結核で、すっかりやせてしまわれ、枝のようになった
白い足と手を着物から出して、担架がわりのふとんにかかえられて運
びこまれました。
 以前の夜、空襲警報が鳴ったとき、金沢さんは、このようにして壕
に運ばれてきました。しかしその後、空襲があっても連れられて来ま
せんでした。爆弾が落ちたら家で死ぬんだと、病人が動かないからと
いうことでした。でも今夜は運ばれてきました。息をはずませもがく
ようにして、「助けて」と叫ばれるのです。当時、結核になったから
といって有効な治療法があるわけでなく、その上食料もない状態でし
たから、病勢の進むのを待って死ぬより道のない時でした。
 その夜警報はなかなか解除になりませんでした。それどころか、入
口の方では、ただならぬ人の声や、人の動きがあり、奥へつめてくだ
さいと何度も指図されました。
 人がまばらになったので外へ出てみました。呉の街は、一面の焼け
野が原となってけぶり、ところどころに、狐火のような青い火のかた
まりが点在する景色に変っていました。
 わたしの家は助かっていました。戸はあけ放たれ、こちらの庭から、
後側の家がまる見えになるようにして、母は、仁王さんのように火消
し棒を持って立っていました。
 わたしの家にも、大きな爆弾が落ちたのだそうです。分秒の違いで
直撃はまぬかれ、軒先を通って爆弾は植え込みの中へめりこみました。
パラパラ散り落ちたナパーム弾は、逃げてきていた水兵さんたちが、
勇敢に屋根にはい上がり、防空頭巾で消し止めたということです。たっ
た今、不発の大型爆弾や、ナパーム剤の入った小筒は、海軍へ持ち帰っ
たあとだということでした。あの大型爆弾が炸裂していたら、私の家
は勿論、この防空壕も、ただではすまなかっただろうとの話でした。
 近所の家が、ポツポツと焼け、ポツポツと焼けのこりました。わた
しの家も山かげのある三軒の集落の一つでした。
 彼等は、綿密な計画をたて、一つぶ一つぶをつぶしてしまうような
焼夷計画を立てました。
 呉市街地は、周辺をぐるりと焼き、中を井桁に焼いたというのです
が、わたしの近所を見ても、その優れた攻撃方法に、ただならぬおそ
ろしさを感じたものでした。
 朝が来ました。紫色のしじまを破って。
 わたしは一睡もしておりませんでしたが、学徒動員生として、海軍
工廠に行かなければなりません。屋外に出してあった鏡台で髪をとき、
大豆ひとにぎりを朝食にして家を出ました。
 山腹にある内神町を五分も下りて、薮内さんの家の所まで来たら、
見わたす限り火の海になっていました。自転車がゆっくり通る道へ、
両側家屋敷が倒れこんで、今、真っ赤なオキ火となってほてっている
のです。何かにつまづいてころげこんだら、わたしのからだは一瞬の
うちにジュンと燃え上がるのじゃないでしょうか。通れる道巾は、残
すところ一尺(三十センチ)ばかりしかありません。
 近くの人が立っていました。小さな爆弾は消したけれど、大きな爆
弾が破裂したら燃え広がって、とても手が出せなかった。ここでやっ
と火を消し止めたところだと。
 門柱も壁も、溶鉱炉の鉄のようになっているのです。息をのむ思い
でその細い道に入っていきます。
 火の海を抜け、角を曲ったら、道が広くなりました。郷町(今の弘
道館のあるあたり)のところから、呉港の方を見ると、駅や桟橋が一
目で見えるのが不思議でした。そして、今度は、黒い景色です。燃え
終った道を、まっ黒い人の群れが、ボソボソと歩いていきます。
 けむたくて。電柱の線が、縦横に横たわっているのです。苦労して、
それでも歩きつづけてめがね橋の下まで来ました。学生たちはいった
んここに集合し、隊列を組んで入廠するのです。
 三分の一くらいしか友人は来ていませんでした。先生は、一人づつ
に様子を聞かれました。今、家が焼け終ったところだったと、龍本さ
んは涙を流しました。それでも、彼女は、ここに集まりに来ているの
でした。
 先生といっしょに工廠に向かいます。その入口のところで、わたく
しは昨夜来宿直だった父と出会うのです。亡くなったお友達の始末を
して、心配だから家に帰るところだということでした。家が焼け残っ
たことを告げました。わたしが出て来た道を父は帰っていったのです。
 工場へ着いたとき、あたりはうす暗い感じです。煙がたちこめてい
たのでしょうか。そして、五分前にこの方がなくなって、肉を集めて
トタンをかけ終ったところだ。あの筒にさわってはいかん。ふたをあ
けたとたん、中が噴き出して即死したのだ、というのです。ナパーム
剤の入った円筒弾なのです。トタン板の下に人のからだはなかったの
です。人がくずの一かたまりになって集められていたのです。
 その日、学徒動員生としてどんな仕事をしたのか、いっしょに働い
ていた広島工業学校の生徒がこの日来ていたのかどうか。工員さんた
ちがその日、どんな仕事をしていたのか、思い出すことができません。
たいへんなできごとの前で、わたしたちは、胸がいっぱいだったにち
がいありません。
 動員学徒としてこの工場に来て、わたしたちの上にも一年余の才月
が過ぎていました。簡単な能力テストで職場分けをされ、白いハチマ
キにモンペ姿で電気部工場に来たのは、一九四四年の六月だったと思
います。
 製図手伝いがわたくしたちの仕事です。トレーシングペーパーに、
カラス口で写図をするのです。細い線や太い線を出すのに苦労しまし
た。わたくしたちが写した図面がどのくらい国策に役立ったか、それ
は、わかりません。若い工員さんに召集令が出たときは壮行式があり、
ばんざいを三唱いたしました。次々とそんな式が矢次早やだったのは
年があけてからでした。もう、一九四五年になっていました。製図工
場が、海辺から丘の上へ移転したのも寒い寒い日でした。丘に上って
からは、来る日も来る日も寒風をついて壕掘り作業をいたしました。
 朝から空襲がはじまるようになると、女学生は警報解除になってか
ら出てきてよいというお達しがでました。お昼前に友人三、四人と落
ち合わせ、下駄の音をさせながら工廠へ入りました。そんな日は、工
場のどこかがグラマンにやられているのです。工場が倒れたり、ドッ
クに入っている軍艦がころげているのです。
 母はそのころこう言っていました。「お前が帰ってくると、一日が
無事終わったと胸をなでおろす。」と。また「もし、敵が上陸して来
たら、お前を殺して母さんも死のう。」と。そして「どうやって刺し
たらいいのか考えているんだ。」とも。冗談ばかりと笑いとばしてい
ましたが、母は真剣だったことでしょう。
 見ざる。聞かざる。言わざる。
 物心ついてからの私をめぐる文化は「欲しがりません。勝つまでは」
と「三猿の教え」であった。父も、海軍工廠の技術家として軍艦「大
和」の建造に深く関わっていた人であった。母も、父の妻。「どうやっ
ておまえを殺そうかと考えている」とは言っても、戦局をどう判断す
べきなのか、言わなかった。統制されていたラジオ放送を通して、戦
局が急を告げていること、敵機襲来があることはわかっていた。
 一九四五年、三月十九日は、延三百機のグラマンの襲撃を受ける。
 五月五日は、広空廠が大襲撃を受け、六月二十二日は、呉海軍工廠
の半身、兵器廠が全滅する……。
 水雷部のある丘で死体を焼いたというのですが、わたしのいた電気
部は、水雷部への通り道になっていました。死体を運ぶ葬列がひきも
きらず通ってきます。それもはじめは、細長い棺桶でしたが日が経つ
につれて、削らない板を打ち合わせた箱だったり、樽もありました。
死体は座らせてあるのでしょう。何日目かに、朝から、松山高女卒業
の挺身隊のお姉さんがそわそわしています。お友だちの死骸が通る日
だというのです。やがてなわをかけられたお棺がきました。三人のお
姉さんは、ふたをあけ、名まえを呼んで泣き伏しました。
 海軍工廠大講堂は電気部製図工場の隣でしたが、爆撃がある度に、
片足千切られた死体や首のない人が寝かされていました。
 そして、一九四五年、七月一日、わたしは、家に休んでいて夜襲を
受けるのです。防空壕の奥にいて、わたしは直接火の雨を見ることは
ありませんでした。しかし、呉市街地は、一夜のうちに灰になりまし
た。日本国総戦力破壊の一環として、呉市街地空襲は真夜中、おこな
われたのです。
 和庄の丘には、中通り、本通りの商店街の人たちが逃げていきまし
た。和庄の丘にあった防空壕の中で、わたしと仲良しだった立通さん
は、煙で死にました。ライバルとしてもきそい合っていた内田さんは、
自分も死地を切り抜けたわけですが、そばで、おかあさんが息を引き
とっていました。麗女通りの店の女将だった母の死で、彼女は、一夜
のうちに孤児になりました。今は、京都の斉木幸子写場(進歩的女流
写真家として有名)で技師をして独立し、作品発表もしていますが、
斉木さんの所へいき着くまで、学問を捨てまいとして、彼女は苦しい
道を歩きました。お金持ちだった人が一夜にして家族も財も失い、戦
争とは言いながら納得いかない思いは多々あったことでしょう。彼女
とあえば、今は屈托なく美しく笑いますが、あの日のことを忘れるこ
とはないでしょう。
 花も蕾の若桜
 五尺の命ひっさげて
 国の大義に殉ずるは
 われら学徒の本分ぞ
 ああ、紅の血は燃ゆる 
 白い鉢巻きをしめて、こう高唱しながら工廠への道を往復しました。
国の大義に殉ずるというところで、はじめごろ、心は燃えたものでし
た。つまり、戦争遂行という大義のために学業を投げ捨てて軍事生産
にかり出されていたわたくしたちでした。
 しかし、打ちつづく不幸の中で、わたくしたちはこの歌を、はじめ
めのころのようには歌わなくなっていたのです。
 八月六日のきのこ雲も、動員先の丘から見ました。
 一九九五年七月一日。「呉戦災展」が呉市役所ロビーにおいて開催
され、展示された写真や資料を見る中で,ほんとうのことばで、ほん
とうの平和をつくる,そんな世の中にしなければならないと,あの日
を思い出しては、思い出をあらたにするのです。
 アメリカが、実物実験までして周到な準備のもと日本壊滅をはかっ
たことを知ったのは、わたしが教師となり、まがりなりにも平和教育
というものを意図的におこないはじめたさ中であった。一九七〇年代
に入っていた。あの日から三十年の歳月が経っている。一九八五年。
和庄中学校文化祭で「呉戦災史」を取り上げることにした。長迫町に
ある海軍墓地を知りたいというきっかけからであった。呉市は、明治
以来海軍とつき合ってきたのであった。その時はじめて、私は胸に秘
めていた呉空襲体験を生徒に話した。
呉空襲はある日偶然、行き当たりばったりに実行されたものではな
い。綿密な作戦図のもと、適確に計画的に行われている。その構想は、
アリ一匹も這い出せない呉市街地丸つぶし作戦であったということを。
 つまり、呉空襲は東洋一と称された日本海軍基地全滅作戦の一環だっ
たのであると。
 胸がドキドキし、のどが乾いてしまっていた。驚くような瞳をしっ
かり向けてくれている生徒を振り返ってはじめて、何故か胸が明けて
くるのを覚えたりもした。私も生き残ることのできた一人だったとい
うことができるであろう。

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十九.呉の空襲体験の中から

               福本 和正
                (山口県玖珂郡由宇町北区)

(学徒動員中に呉工廠水雷部で人間魚雷を作っていた。恐怖の爆弾空
襲を防空壕で体験し、見聞きした。和庄登町での詳細な市街地空襲の
描写は圧巻。工員や先生の話から疑問を感じ、戦後の反戦へと目覚め
ていった。)

昭和二十年六月二十二日  呉海軍工廠の爆撃
六月二十二日の呉工廠へのB二十九による爆撃の時、私は呉第二中学
校(現宮原高校)の四年生であり、学徒動員で工廠内の三子島にあっ
た水雷部第二組立工場で働いていました。
水雷部では魚雷よりも特攻兵器である「人間魚雷」を主として作って
いました。
第一回の爆撃で「他の防空壕がやられた」というので私は何人かの人
と防空壕を出て救援に向かいました。
しかし到着するまでに再び爆弾が落ち始め、元の防空壕へ帰ることも
出来ず、近くにあった製鋼部の製品置場に逃げ込みました。
ザァー、ザァーと爆弾がトタン屋根に、夕立が降るときのような音を
たてて落ちてきて、伏せている私の背中に、今にも突き刺さってくる
ような感じでした。
すごい音がして激しい風圧が起こり、体が飛び上がります。
教えられた通り目と口を手で押さえ、口を開けていたので、口一杯に
砂が入ってきました。
目を開けて見ますと、埋立てに使った砂が大量に舞い上がり、昼であ
るのに真っ暗でした。
砂が落ちつくと背丈程にも積んであった鉄板が大きく揺れて今にも私
に倒れかかろうとしていました。
救けに行った防空壕は特殊潜航艇の不良品を埋めたものでしたが、直
撃は受けておらず、水が一杯入っていました。
女子挺身隊員が多く、その他の人にも水浸しになって亡くなっていま
した。
その中には召集令状がきて、さっき別れの挨拶をしていた男性も含ま
れていました。
海岸を砂で埋め立てたところであり、至近弾によって深く掘られて海
水が進入したものと思われます。
七月一日の市街地空襲
私は当時、登町一丁目二十番地の十七に母親と妹の三人で住んでいま
した。
七月一日夜の空襲では、他に若い男性がいませんので、わずか一六歳
の私が近所の人々の面倒を見る立場に立たされました。
焼夷弾攻撃が始まって、近くの家が焼け出したので消火活動をしまし
たが、とても女子供の手に負えるものではありませんでした。
消すことを諦めて家の裏にある約百五十坪ばかりの甘藷畠に、近所の
四家族が集まりました。
だが、ここは狭くて危険だと思いましたので、明法寺の大きな防空壕
が、桃山と言われていた山の方へ、みんなを連れて逃げようと考えま
した。
家の間を通り、道の方角を探しましたが、甘藷畠を少し離れた所では、
もう煙が立ち込めているので断念しました。
その中、だんだん火災はひどくなり周囲の家も焼け始めました。
熱風が左巻きの方向で激しく吹き始め、大小の多くの焼けつつある物
が、映画で見たことがある機関銃の曳光弾のように、真横に一直線に
なって飛んでいきます。風速はおそらく六十米を越えていたろうと思
います。
甘藷畠のどこに行っても熱く、石垣の陰に行きましたが石が熱くて近
寄れません。
熱風の中で呼吸をするので口や喉が痛くなり、次第に息を止めるよう
になってきました。
これでは窒息して死ぬと何度も思いましたが、時々冷たい風が吹き込
んで呼吸が出来ましたので、ようやく持ちこたえることが出来ました。
四家族一二人の中、一人の男性と隣のおばあさんが亡くなりました。
夜明けとともに火災は焼きつくしておさまりました。
青々としていた甘藷畠は、甘藷の葉も茎も焼けて、土の畠になってい
ました。

〈 戦後の暮らしの中から 〉
戦争中、私は真からの軍国少年でした。私は長く生きることはなく、
天皇陛下のために死ぬことは覚悟していました。またそのような生き
方を正しいと思っていました。
しかし、戦後、私とは違った人々が居たことに気付き始めました。
水雷部の徴用工員の人で、沖縄に米軍が上陸したとき、「日本は負け
る」と言い切りました。この人は「神風」を信ずる多くの軍国主義的
な工員から非難されました。取締りの厳しい軍需工場の中で、これだ
けの真実を言った勇気のある人も居たのです。
呉二中の先生の中に「忠孝一本が崩れたら、日本は負ける」と教えら
れた方がありますが、これは「負けたら民主主義の時代が来る」とい
うことを、こんな言い回しで教えられたのではないかと思っています。
占領軍のマッカーサーが、戦争の原因の一つとして財閥を解体したこ
とは、軍人ばかりが戦争をするものだと思っていた私には、大変ショッ
クでした。同時にそれは社会に私の目を開かせました。
呉では海軍の中で、日本共産党員の軍人が反戦運動を展開していた事
は、すでに知られていますが、徹底した取締りの呉軍港の中でのこの
活動は驚きです。
私が軍国少年で戦争に参加し、一方では戦争でひどい目にあっている
同じ時代に、そんな事が起きないように自分の命をかけて戦争に反対
した人々があったことは、私の人生観に大きな影響を与えました。
私は昭和二五年に朝鮮戦争が起きた時、ためらうことなく平和運動に
参加しました。また、当然のこととして日本共産党に入り今日に及ん
でいます。
これからも戦争の無い世界を作るために頑張る決意です

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二十.戦争と私

            永田 富子
               (安芸郡海田町三迫十七ー一六)

(呉市街地空襲後、歩いて吉浦駅から市内の鹿田町に入っていった。
裸足で歩くアスファルトの道は、熱くて歩くのに苦労をしました。夫
の勤めていた広十一空廠をやっと今頃になって訪ね、亡夫を懐かしん
でいます。)

昭和二十年六月三十日から七月一日にかけての夜呉市に大空襲があり
ました。私は海田町の我が家から、真赤にいつまでもいつまでも燃え
続ける空を見て、溢れる涙をどうすることも出来ませんでした。海田
町からでも燃えてる呉の空が良く見えました。いや燃えているからこ
そ、あそこが呉だとわかったのです。
私は夜が明けるのを待ちかねて、一才の長男をおぶって呉へと向かい
ました。今でこそ海田町ですけど、当時は安芸郡奥海田村と言って、
海田市駅までバスもなく一時間位かけて歩くしかありませんでした。
やっと汽車に乗りましたが、吉浦駅でこれから先は線路がこわれてる
のでと、全員降ろされました。
仕方なく私は東鹿田町の実家まであるかざるを得ませんでした。現在
は吉浦駅と呉駅の間にもう一つの川原石とい駅が出来ています。それ
にしても今考えて見て、吉浦駅からあの東鹿田町まで長男をおんぶし
て歩いたとは、どうしても自分乍ら嘘を言っているようで信じられま
せん。距離にして何KM何十KMあるんでしょうか。何時間かかった
のやら、そんなこともぜんぜん覚えていません。
途中で私の下駄の鼻緒が切れましたので、あとはずっと裸足でした。
呉市内に入ると電車の電線がたれ下がっていて、おまけにまだくすぶっ
ている処もあり、熱くて歩くのに苦労しました。でもとにかく実家へ
たどりつき全員無事だったので母と抱き合って泣きました。そしてそ
の日はもちろん実家に泊まったんでしょうか、何日目に海田町の我が
家へ、どうやって帰ったのか、それもぜんぜん記憶にないのか不思議
です。
亡夫は広第十一海軍航空廠に勤めていましたが、昭和十九年六月奥海
田村に支廠が出来て、私達家族共々そちらへ行くことになりました。
私は呉で生まれ呉で育ち、呉より外へでたことがなかったので、初め
ての土地でとても不安でしたが、奥海田村に海軍が建てて下さった住
宅に入ることができ、四軒長屋ですけど、右も左も海軍航空廠に関係
のある人ばかりなのでとても心強かったです。海軍航空廠のあった処
は今、海田中学校となっています。終戦で海軍住宅にいた人みんな職
を解かれて途方にくれたものでした。
私たち行く処もなく、海軍住宅を国からお金を払ってゆずり受けて、
とうとう今でも海田町にご厄介になっています。そして我が子にとっ
ては海田町が故郷となっています。
戦後五十年という活字をよく見たり聞いたりするようになった今年、
私はフト広第十一海軍航空廠のことが頭に何故かひっかかるようにな
りました。それで今、私の元気なうちに一度探してでも行ってみるよ
うと心に決めました。
私たちは昭和十七年に結婚して本通十四丁目(現在は七丁目)に住ん
でいました。毎日朝早くから夜遅くまで夫が通っていたのに、広のど
の辺に航空廠があったのか、そして電車で通勤してたと思うのですが、
どういう名前の停留所で降りていたのか何も知らないのです。それで
先日ほんとうに雲をつかむようなことですけど実行しました。
先ず広駅に降り立ち派出所に参りましたが留守でした。とにかくこれ
は若い人ではダメだろうと思ったので、ちょっと年配の方に、すみま
せんがと航空廠のあった場所を訪ねました。何人目かに知っていると
いう男の方に会うことができ、幸運なことにその方面に行くのでと車
で連れて行って頂きました。その途中その方に、何故航空廠のあった
処を探してるのかと聞かれ、私の思いを話しましたら、どうしてもう
少し早く、二人で来られたらいろいろ沢山の話しがあったでしょうに
と言われ、本当にその通りだと思いました。夫が亡くなってもう十五
年が過ぎました。
第十一海軍航空廠は現在では通商産業局工業技術院中国工業技術研究
所というお役所になっています。そして守衛さんから教えてもらった
んですけど、海軍航空廠
だった頃の石の門がなぜか片方だけ残っていました。そしてその石の
門の周りは雑草が一杯でした。ふとその時、私は「夏草や兵どもが夢
の跡」という言葉が頭をよぎりました。
この門を夫は約九年間くらい通ったことになります。あの日以来、私
は充実した気持ちで毎日を送っていますが、もう一度ゆっくりと、今
度は呉駅からバスで広第十一海軍航空廠のあった処へ行ってみるつも
りでいます。

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二十一.燃える西の空

               山中 和子
               (呉市広弁天橋町八ー三十三)

(学徒動員に行っていた呉工廠製鋼部での生活。恐怖の爆撃を防空壕
で小さくうずくまっていた。爆撃や機銃掃射の音、戦争はすぐ目の前
で展開していた。空襲後の工廠のようすは、人の顔がみな無気力に見
えた。)

西の空が今日も赤い。たった今、太陽が山影に身を落したところであ
る。五十年前の六月二十二日の夜も赤かった。まっ赤に燃えていた。
昭和二十年のできごとがついこの間のことのように脳裏一ぱいにひろ
がる。B二十九の襲来に、防空豪へ駆け込むこといく度、その合間を
縫って工場内のスピーカーは戦果があがったと報道していた。私たち
動員学徒は、親元を離れて先生の引率のもとで、勝までは、勝までは
の精神で働いていた。
戦争の激しさの度増すにつれ、昼勤をしていた私たちにも三直制の、
深夜を除く二直制が課せられた。日がとっぷりと暮れて、窓に暗幕の
たれる頃、外を走る廠内列車の汽笛が「ピーポー」とトーン高くひび
く。この音は、郷愁といつ晴れ間を見ることがあるのか予想もつかね
沈欝な悲しみの音でもあった。
きしむ音、溶接の紫を放つ色、どこからか響くガンガンとなる音、そ
んな廠内をガラガラゴロゴロと音を置きながら運ばれていく弁当箱を
見る。蓋に呉海軍工廠と刻みがあって頑丈そのものの容器であった。
仕事自身は、さして苦しくも易くも思わない。時節柄、当然とでも思っ
ていたのであろう。こうした明け暮れの中で、いつしか風情だとか、
情緒、感動、可憐さというのが空の彼方へと失せて行った。
その頃の三月十九日午前、いつもとちがった感じの空襲、大空襲が襲
いかかった。警戒警報発令!!すぐに空襲警報にかわる。この日は二
直の番で寮にいた。
すばやく身支度、防空頭巾を冠り非常袋を肩にかけて。ドタバタ、ド
タバタ、横穴式防空壕にかけ込む。掘りはじめて日の浅いこの壕は奥
行きが浅い。穴の奥に小さくうずくまって、爆風をさける態勢で耳を
そば立てていた。ゴウゴウという唸りは敵機来襲以外に思いようがな
い。
やがて、ド−ン、ド−ン、ダ−ンダダダダ、パチパチ、ダダーンとい
う音。わなわなと震えながらぐっと息を飲む。みんな黙って不安気で
黙っている。「ヒューッ」低空飛行の気配、機銃操射だ、射撃の音は
私の耳をつんざこうとする。戦争はすぐ目の前で展開している。
うずくまっていた私は壕からそっと空をのぞく。いつしかこわさを超
越して弾の行方を見究めたくなっていた。灰ヶ峰、休山などにおかれ
た砲台は、破れるよう音を放って撃ちまくっている。弾幕がポッと宙
に浮いたかと思うと音があとからきこえる。宙で炸裂した弾は、破片
となってバラバラと降ってくる。出て歩くなんて全くできない。(も
う、この世に別れを告げなければならないかも)新たな不安が湧く。
その思いが脳裏をかすめ、親、兄弟の顔が浮かぶ。
どの位経っただろうか、辺りが静かになり空襲警報解除となる。悪夢
から醒めたといおうか、心の中に大きな空洞ができる。いくつかの弾
の破片を土の上に見たが、私たちの住むバラック建ての大空寮は健在
であった。ずっとむこうの朝日寮も。
 嵐の後の静けさに気づくと、同時に空腹感が押し寄せた。そこへ連
絡があって乾パンとお茶の配給があった。八箇くらいもらったように
思うが、それがすっごくおいしくて、飲み込まずにいつまでも口の中
におきたかった。それは私の命をつないでくれた。
午後は、平常どおり黒の作業着に鉢巻きをしめて出勤。坂道をくだる
と技手養成所、そこに遺体が仮に安置されていた。廠内列車の通る海
沿いの道に出ると、グレ−ン車が横倒しになっていた。破裂した水道
管からは水が吹き出している。爆撃という嵐が残した悲惨さに、身の
震えがとまらなかった。製鋼部鋳造工場の人の顔は、皆無気力に見え
て、私も顔の先から足の裏にむかって、力をすうっと抜きとられた思
いだった。
この空襲は軍事に直接関係のある海兵団、呉海軍工廠を集中的に爆撃
したようである。
七月一日もすごい焼夷弾投下で、すり鉢状の呉全域を炎で一なめにし
たものだった。この時は呉を離れていたが、一回目の大空襲を知って
いるだけに、燃え上がる赤い空に友の安否を気づかったものである。
死線をのり越えてあれから五十年・・・。それを喜びあ、かつ励まし
合い、今からを更に生きていきたい。静かに沈んでいった太陽が、赤
く残した夕焼けの空に向かって(大宇宙の中に出現している地球とい
う名の大地が、科学の力で破壊されるようなことが万が一にもあって
はならない)と深く祈る今である。

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二十二.六月二十二日呉工廠の空襲

                 柳井 順三
                  (賀茂郡豊栄町別府) 

(呉海軍工廠製鋼部の中のようすや、工廠の爆撃を冷静に見ていた。
工廠の防空壕の造りや、詳しい爆撃の状況を今でも鮮明に覚えている。
爆撃後の被害状況を見たとき、不発弾が割合に多いと思った。なぜ?・・
。)

私は当時、呉海軍工廠製鋼部第一製鋼工場に勤務していた。第一製鋼
工場は、大小合わせて六基の平炉(酸性平炉三基五十屯と、残りは小
さな塩基性炉であり、うち一基は戦争の中頃から使用しだした古い炉
であった)とガス発生炉七八基、及び溶鋼の注型に使う耐火物製造の
工場とをもっていた。
戦いも末期になると、工場で使う石炭などの諸資材も逼迫してきて、
而もその質も粗悪なものばかりで生産活動も思うにまかせず、大変な
苦労をしながら鋼材の生産を続けていた。
昭和二十年六月二十二日七時十五分頃であったと思うが、ちょうど工
場では朝の始業の前の朝礼を行っていて、平炉の前の広い作業場に集
まって朝礼をしていた。朝礼も終わりに近づいたころに警戒警報に入
り続いて空襲警報に入り持ち場に開散した。
工員が各自の持場に帰り着いたと思われる頃に、退避の命令が出たの
で、皆工場の傍の横穴式の防空壕に退避した。その頃は警報馴れした
というか、度々の空襲警報でみんなは退避するのにも落ち着いて、動
作もゆっくりしていて、慌てる者はいなかったように思う。
防空壕は各工場ごとに設置していて、山の中腹に掘った横穴式の物も
あり、また山に遠い工場や、山の近くでも横穴の掘り悪い所などでは
地面に穴を掘り、支柱を立て厚い鉄板を土と何重にも重ねて掩蓋とし
た防空壕を作っていたところもあった。
第一製鋼の防空壕は、工場のすぐ裏山の堅い土質に掘ってあり、かな
り堅固なものであり、壕の入口の前面にはコンクリートの爆風除を作っ
ていて、壕内は奥へと延びた通路と、通路に沿って事務室などが設け
られていて、又隣の防空壕との連絡路も作りかけていた。
私は従業員と共に防空壕に退避したが、始めのうちは壕の入口近くの
通路で、しゃがんだままの形で退避していた。退避するまでは、各工
場から出る騒音が混じり合って聞こえていたが、退避になると各工場
の機能は止まり、本当に静になって、今までの騒がしさは嘘のように
覚えたことを思い出す。
壕内に入ってからだいぶ時間がたって、いつもは解除になる頃に空襲
が始まり、急に爆弾の炸裂する音で騒がしくなってきた。壕内皆静か
にしてると、大きな炸裂音と共に急に壕内が真っ暗となり、黒煙が壕
内にたちこめた。
私たち入口近くにいたものは爆風で横倒しになり倒れた。始めの間は
何が何だかさっぱりわからず、私は壕の入口が土砂で埋まり、壕が封
鎖されたものとばかり思った。たとえ救出されずにこのまま死んでも、
戦場に出たことを思えば諦めるより外はない、と思ったことを覚えて
いる。
しかし、暫くすると周囲が明るくなり、以前にもまし明るくなってき
た。入口付近にいた者は、皆壕の奥へ入って行き、私もぞろぞろと奥
へ入って行った。どの位たったかわからないが、空襲の騒音も静かに
なり、空襲は終わったらしく、暫く壕内で待機していたが、空襲もな
いらしいので壕から出て見ると、壕の前にあった爆風除けのコンクリー
トが、基部から完全に爆砕されて跡形もなくなり、コンクリートの破
片が散乱していた。
外に出て先ず驚いたことは、殆どの工場の屋根や側壁が爆風で飛び散
り、屋根や壁に使っていたトタンの板は、新聞紙を丸めてちぎったよ
うに散っていた。どの工場もどの工場も鉄骨だけの残骸となっており、
これまでは全然見えなかった呉軍港の海が非常に近くに見え、周囲全
体が明るく感じられるようになっていた。
又右の方を見ると、第一製鋼の事務所は、木で作った部分や数多くの
紙類がメラメラと炎を上げながら燃えており、その向こうを見ると、
鉄筋コンクリート四階建ての製鋼本部の庁舎も、各階の窓から炎を吹
き出していて、勿論内部は火の海である。製鋼部は勿論、他の部の工
場も、事務関係部門以外は鉄骨建築が殆どで、可燃物は少ないので、
屋根壁等が飛散していて、一寸見ただけでは爆撃の被害は目立たない。
漸く稍落ち着いたので工場内外を見て廻る。
工場と山の斜面との間の約百米位の距離に、一屯近くの不発弾が数発
転がっている。割合に不発弾が多いと思った。これは投下された爆弾
が山の斜面に当り、爆発しないで転がり落ちたのではないかと想像し
た。
第一製鋼の東に赤煉瓦二階建ての製鋼部検査係があったが(これは私
が元所属していた係である)これは見事に爆発されていて、殆ど跡形
も留めないように崩壊していた。後で聞いたところでは、検査係では
防空壕は地面に掘っていたので、壕は完全に押しつぶされて、死者・
負傷者も出たとのことである。
第一製鋼では、吾われが退避した時は、丁度平炉には溶鋼を精錬中で
あったが、空襲警報と共に燃料の瓦斯を放出し、瓦斯の供給を断った
ので、溶鋼は炉内でそのまま冷却して固まり、終戦後もだいぶ長い間
放置されていた。
爆弾の威力も相当なもので、午後に瓦斯工場を見回っていると、丁度
発生炉の傍にある水槽に爆弾が落下したらしく、水槽の横をレールが
通っていて、その処に停っていた機関車は、レールから爆風で持ち上
げられて脱線しているし、鋳物に使う約一屯も重さのある鉄の円盤は、
三十米も吹き飛ばされて、高さ十数米もの高所の屋上に投げ上げられ
ていた。
漸くして午後になり、従業員たちも落ち着きを取り戻し、製鋼作業は
できないので、吹き飛んだトタン屑を片付けたり、整理を始めた。
私は午後四時だったと思うが、工廠本部へ使者として行くことになり、
製鋼部長の報告書をもって約一KMの処にある工廠本部へ行った。途
中いつもは従業員で一杯の工場や道路も、何処も人影は殆ど見当らず、
只瓦礫の散乱ばかりで、本部でも防空壕に全部退避しており、宛先の
佐官の人をさがすのに苦労した。
その後は工場では作業出来なくなり、殆ど毎日のように海岸にあった
揚炭場の火災の消火業に行き、広島の原爆も揚炭場で紫色の閃光と爆
音を聞いた。閃光とともに熱線も感じた後、頭部に熱さを感じた。
 やがて終戦になり、九月の大雨を体験したりして、毎日工廠へ出勤
していたが、作業はなく防空壕暮らしを続けて、十月に入ってから郷
里へ帰った。

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二十三.(無我夢中の戦中・戦後)

               住吉 佐津代
                (呉市広町東横路六ー三)

(広海軍工廠造機部で爆弾攻撃を受けた。女子挺身隊員たちと防空壕
へ避難した、が、そこも死体がずらり。呉空襲の夜、広も市街地焼夷
弾空襲の恐怖を味わった。苦しい生活の中で不平も言わず生き抜いて
きました。)

(一)
私は元広海軍工廠造機部設計係へ終戦まで勤務致しました。五月五日
の朝でした。ラジオ体操を終え、屋内へ入って図面を広げたところへ
空襲警報のサイレンです。屋内には約百名の女子工員がおりました
(動員学徒を含む)。女工手(女子最高の階級)山田さんが陣頭に立っ
て、てきぱきと指揮に当たられ、全員引率待避されました。
後に残った亡き松田さんと私は最後のしんがりで、全員の極秘図面を
いれた図筒を二人で抱え外へ飛び出しました。松田さん「私がやられ
たら貴女一人ででも引きづって逃げんさいよ」言葉を投げかけたら走
り出す。長浜に向かう壕までかなりの道のりでした。一足先に待避の
部外の女子挺身隊が次々倒れ、廠内の道端へ転がっておりました。後
で爆死を知ったのですが、数分の差でした。県道まで一気に走り、名
田(白岳山)の砲台山を見ると、海軍の兵隊さんが走り回っておられ
るのが見えました。
B二九は点を打ったように小さくキラキラ光っておりましたので、す
ぐ見分けることが出来ました。日本軍の射ち上げる高射砲は空中で炸
裂し、機体には届かないのか、空一面砲弾の煙で地図を作ったようで
した。
防空壕へ飛び込むと、此処にも女子挺身隊の死体がずらりタンカに載
せられ並べてありました。可哀想に列の中から悲痛なささやきが洩れ
て参ります。皆んなひっそりと身を寄せ合って縮まっていたことでし
た。
空襲解除になって外へ出てみると、工場内は煙に包まれ、建物は破壊
され、至る所に砲弾の跡で凄惨な空気に包まれていました。気になっ
て名田の砲台山を振り返ってみると、兵舎も人影も無く、兵隊さん達
は吹き飛んで跡形もありませんでした。
人々の話によりますと、兵士の腕や肉片が空廠に飛び散っていたとの
ことでした。私達の部屋はどうにか無事でした。事務長さんの机を貫
いた砲弾の破片が分厚い図書へ突き刺さり止まっておりました。人体
命中の位置に当たり、命拾いされたわけです。
戦争が激しくなり本土空襲が頻繁になって、日毎に銃剣術の訓練を受
けました。竹槍を手に気合もろとも突く、引く、文字通り男女一丸と
なって国難に当たりました。
しかし敗戦の色も濃くなり、私達は三坂地小学校へ疎開し仕事を続け
ました。此処で終戦を迎えたのですが、天皇陛下の玉音放送には断腸
の思いでした。山田さんが「日本は鋒を納めたんじゃ」と小声で私に
伝えてくださいました。校内の生徒、工員が泣き叫ぶ、あの嵐のよう
な号泣が今も来こえてくるようです。
(二)
七月一日だったと思います。夜の空襲でした。警報の不気味なサイレ
ンが唸り出すと誰もが「空襲だー」と叫び、手早く防空頭巾、救急袋
を身につけて裏山の防空壕へ走り込みました。
間もなく爆撃の音、壕内がドスンと揺れる、「今度は本当の空襲らし
いでー」、隣同志でささやきあった。男の人達が壕の入口の扉をあけ
られると、ゴーと煙とともに熱風が這入り込む。爆風らしい。戸口に
いた私は息苦しくなり、我が家も案じられる。外へ出ようとすると
「女、子供は外へ出ると危ない、機銃でやられるからいかん!」と怒
鳴られ諦めました。
漸く敵機が去り、空襲解除のサイレンの合図とともに、皆ぞろぞろ外
へ出てみて「ワァー、大ごとじゃ、こりゃー大事じゃー」おばさん達
は言葉ともつかぬ異様な叫び声をあげて皆走って行きました。
墨のような闇の中、広の町中が、空が、真っ赤に染まり、それは火の
海なんです。あまりの光景に私は身体中に敗戦の不安感が走り去るの
を感じました。
飛んで我が家へ帰ってみると、既に屋根は落ち、一面火の海で、手の
施しようもありませんでした。隣家も燃えている。あちらもこちらも
火の手が上がり、まるで地獄絵なんですね。
夜が明け、向いの下宿先の小学校の先生や工員さん達が親身となって
消火に当たってくださったのが、今も忘れられません。
焼跡を整理しておりましすと家の中ほど当たりに、直径約三十糎位だっ
たでしょうか、丸い穴がえぐられたように、ぽっかり口を開き、ちぎ
れた大型の焼夷弾の破片が転がっていました。直撃弾を受けたもので
しょう、瓦礫や焼夷弾の破片は焼跡を掘り、埋めました。
食糧難で食べる物も無い時でしたので、焼土を畑にし野菜やじゃが芋
を作り、飢えをしのぎました。
戦後も生活は厳しく、野原の草など食べられる物は手当たり次第食べ
ました。誰もが空腹なのですから、不味いと不足を洩らす者は一人も
おりませんでした。
米は一人一合でした。塩が無く海水で漬物をつけ、醤油は旧呉市の焼
土となった露天醤油製造業へ終日勤労奉仕をして「もろみ」少々入手
し、大切に調味料としたのを記憶しております。
進駐軍が上陸してより、物々交換が始まり、戦後初めて甘い物が手
に入るようになりました。
二十三年頃でしたか、私は習い覚えた洋裁を生かし、外人将校さん
の得意を得、本国の家族の仕立てまで受けるようになり、失業都市と
は云え、お弟子さんと共に多忙の連続でした。
外人将校さん達は、我々敗戦後の治安の不安とは裏はらに礼儀正しく
紳士でした。
町は次第に灰色一色の風俗から、花色に陽転し、女性はモンペから
ドレスに成り変わって参りました。
多忙の中、一心に働きました。焼け落ちたミシンを修理し長く使った
ものです。
戦争は家族を引き裂き、地上を破壊してしまいます。再びこのような
悲惨な戦争を繰り返すことのないよう、皆様方、どうぞ広く世にお伝
え下さい。
  (米軍空中写真。戦後の虹村)

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二十四.第一次呉沖海空戦

                  浜田 公夫

(見習尉官として呉工廠火工部に着任した五か月間の青春物語。呉軍
港の軍艦への、もの凄い爆撃の状況を対空監視所の中で終始目撃して
いた。タコ壺から五百メートル先の空母竜鳳の惨状は今も眼底に残っ
ている。)

昭和二十年二月一日早朝、前日新居町駅を出発した我々見習尉官は呉
に到着、即日呉鎮守府で呉鎮長官澤本頼雄大将に、続いて呉工廠妹尾
中将に伺候後、夫々の配属部門長に申告し、宮原士官宿舎に落着いた。
約一ケ月にわたる各部実習訓練と見学終了後、私は呉軍港北端の吉浦
にある火工部配属となり(火工部長承命服務という。)第二装填工場
切串分工場勤務となった。この工場は砲弾、爆弾などの炸薬鋳填を主
体とする工場で、現在は中国火薬(株)の工場となり、防衛庁の仕事
を行っている。
三月から七月末迄の僅か五か月の勤務であったが私の青春時代の総て
がこの期間に集約された充実した期間のように思われる。
三月から五月までは特攻用の二十五番爆弾(二百五十キロ)の生産に
追われ、六月ごろは高射砲弾と陸戦兵器(手榴弾)の生産と、戦局の
推移を反映する作業内容になって行った。とくに沖縄攻防の最盛期に
は毎日睡眠時間が三時間くらいの日が続いたが、若さの御蔭で事故も
なく切り抜けられた。
八月一日付けで山陽本線八本松駅の川上村にある軍需部弾火薬庫の敷
地内の手投円錐弾(対戦車用陸戦兵器)の工場に転属となり、終戦を
ここで迎えた。
これより先、火工部の第一装填工場(吉浦)で実習中、米軍載機によ
る最初の空襲を体験する。三月十九日土佐沖より飛来した米軍機約二
百八十機は、三集団に分かれて呉軍港に停泊中の連合艦隊残存部隊に
対し、午後七時二十分頃から十一時五分頃まで(広島県警史による)
猛烈な爆撃を行った。
当時呉軍港在泊の主な軍艦は、(大和)・伊勢・日向・榛名の四戦艦
と天城・葛城・竜凰の三空母、青葉・利根・大淀・北上の四巡洋艦の
他駆逐艦・出雲・磐手等の小艦艇であった。
私は第一装填工場の潜水学校寄り対空監視哨(天蓋付タコつぼ)の中
で、この日の空襲を終始目撃する事になる。港内の各艦と軍港周囲の
砲台からシャワーのように打上げる猛烈な対空砲火で空は黒煙に覆わ
れ、天日も暗しと思わせる中、グラマンF6Fを先頭に急降下爆撃機
群は勇猛果敢に突入して投弾し、座席のパイロットが肉眼で目視でき
る超低空迄降りて機首を引上げていた。
爆弾が港内の各艦に命中するたびにオレンジ色の閃光がきらめき、激
しい風圧と轟音で、私の身体の奥から激しい震えを生じた。軍人とは
言え、実際の戦闘を初めて体験して、興奮と恐怖感との交錯による身
震いであったと思う。特に、私のタコ壷から約五百米に停泊中の空母
竜凰は計五発の命中弾を受けて飛行甲板は捲れ上がって山のようにな
り、エレベータ開口部分から轟音とともに火炎が噴出する惨状となっ
た。また軽巡大淀は爆弾数発を受け、直ちに煙突より蒸気を噴出し、
左に大傾斜して転覆寸前となった。
遠望すると戦艦群に投下した爆弾の閃光により、その被害のほどが窺
われた。空一杯に広がった対空弾膜の黒煙の中から、突っ込んでくる
米機の機影と撃墜されてばらばらになって落ちてくる翼や機体、白い
落下傘などが五十年経った現在でもあざやかに眼底に残っている。
この日の空襲は一日で終わったが被害を受けた残存艦隊は、四か月後
の第二次海空戦で完全に終焉を告げ、呉軍港は着底、横転した艦船の
墓場となった。七月二四日,二五日,二八日に行われた第二次海空戦
は第一次より激しく、また私にとっては悲しい思い出となったが、こ
れについては稿を改めて発表したい。
また八月六日の広島原爆も、たまたま公務で江田島、吉浦間の海上で、
タグボードの操舵室より真正面に目撃し、同日夕刻、山陽本線海田市
駅での被爆者群との対面など、戦争の残酷さと悲しみを僅か数ヶ月の
間に体験した。
呉海軍工廠火工部での五か月あまりは、私にとっては終生忘れえざる
青春謳歌の期間であった。終わり。
(注)三月十九日の空襲は呉市民にとっては最初のものであり、米海
軍第五八機動部隊の沖縄戦の事前作戦で、戦略指揮官はスプールアン
ス大将、戦術指揮官はミッチャー中将であった。この日約二百八十機
の米機は三集団に分かれ、第一集団はグラマンF6Fを主力にした約
八十機で、呉市背部の灰ガ峰の上から編隊を解くと二機一組となって
突っ込んできた。因みに、この日松山基地の第三四三航空隊(指令源
田実大佐)の紫電改戦闘機隊は、来襲米機を邀撃しグラマン四十八機、
爆撃機四機の計五十二機を撃墜している。
戦艦伊勢、日向と空母竜鳳は、この空襲で軍艦としての機能を喪失し、
重油不足と重なって、以後呉港周辺の島影に放置され、七月二十四日
の第二次海空戦を迎えることになる。

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二十五.黒い盆地とヒロシマ

              吉田肇夫(タダオ)
               (呉市伏原二丁目九ー五)

(戦前の呉市街の町並み。四つ道路近くで生活した子供時代、家がぎっ
しり並び、大きな町だと思っていた。空襲直後の呉を目にして、ハッ
と息を呑んだ。見慣れた呉は、小さな黒い盆地になっていました。)

(一) 戦前の呉
私は一九一六(大正五)年五月五日に、呉市本通り三丁目二二番地
(四道路から少し中通りに寄った所)で生まれました。四道路の今、
商工会議所が建っている東北の角には宇都宮商店があり、今、宇都宮
書店がある西北の角には本通郵便局があり、今、山本ポプラ堂がある
西南の角には銀行がありました。また東南の角には人力車のたまりが
ありました。当時、自動車はごく少なくて、お医者さんは自家用の人
力車で往診していました。
その頃、四道路から宮原、警固屋方面に行くには、海軍構内はあまり
自由に通れなかったので、清水通りから宮原通りの切り通しの上まで
あがらねばならず、荷車は四道路から切り通しの上までは、牛にひっ
ぱってもらわねばなりませんでした。その為の牛のたまりが亀山町
(今の本通一丁目の一部)にありました。
当時の本通は今の本通よりずっと狭かったのですが、それでも子供心
には、とても広い通りだと感じていました。路面電車が通っていて、
四道路で西に曲って、西本通(今の三条通り)で南に曲り、鉄道の踏
切で一旦とぎれ、歩いて踏切を渡り、そこで待っていた別の電車に乗っ
て海岸通りまで行きました。
四道路から灰が峰の方に行く電車は九丁目(今の四丁目)から少し左
寄りに走って朝日町が終点でした。
今の呉越の道は広くなっていますが、その当時は狭い山道でした。
鹿田町に馬車のたまりがあって、私たち子供は「広馬車プップー」と
言っていました。馬車は鹿田町から呉越を通り、広の横路まで往復し
ていました。その頃広大川には橋は無く、横路の渡し船で広に入りま
した。
当時の旧呉市内は道も狭く、家がぎっしり建ち並んでいました。だか
ら、そこに住んでいた私は、本通から中通りまではかなりの距離があ
り、灰が峰はもちろん石鎚山(休山)も四道路から遠く、呉はとても
広く大都会だと感じていました。
戦時中、私は広島に住んでいましたが、私の母や兄弟はずっと四道路
に住んでいました。呉の市街が焼夷弾でやられたらしいという噂があっ
たので、一日休暇をもらって親きょうだいの安否をたずねねて呉に帰っ
てみました。
鉄道は空襲の災害で吉浦以東は不通になっていましたので、吉浦駅
で降りて歩いて旧呉市内に入りました。
吉浦峠を越えて呉の盆地を目の前にして、はっと息を飲みました。あ
の広い大都会だと思っていた呉の街が全くの焼け野原で、小さな黒い
盆地になっていました。灰が峰も石鎚山も、ついそこに見えて言葉も
出ませんでした。
歩いて焼け野原に入り、この辺りが中通りかな、あの辺りが四道路か
な、この辺りが家かなと探していると、見慣れた火鉢に気が付きまし
た。ああ、ここだと、その火鉢をさげると、丈夫そうな瀬戸物の火鉢
がぐずぐずとこぼれ落ちて火鉢としての姿が消えて、かけらと灰の山
になってしまいました。
親きょうだいが生きているかどうかも分からず、ただ一つ残っていた
見覚えのある火鉢も灰の山になって何とも言えない気持ちでした。親
きょうだいが焼夷弾に追われ追われながらも、何とか大した怪我もせ
ず生き延びたことがわかったのは後のことでした。(二) 終戦五十
年(国際語エスペラントでの発表文)
一九四三年、北太平洋のアッツ島の日本守備隊が全滅した時、私は広
島市北部の三菱工作機械株式会社の中の学校に勤めていました。会社
の中では学校の他に五つの生徒寮があり、各寮には六畳の部屋が三十
二あり、生徒は一部屋に四人入り、計百二十八人居ました。それに寮
長とその家族が住んで居ました。
会社は旋盤などの工作機械を作って居ましたが、軍の命令で、飛行機
のエンジンを作る軍需工場に変わりました。生徒は週に半日授業があ
り、あとはずっと工場で働きました。
生徒と私たち教員の生活は全く軍隊的でした。毎朝五時半に寮生の一
人が鳴らす起床ラッパでとび起きて、上半身裸で、寮の前に整列、乾
布摩擦、体操に続き、上半身裸のままで、工場構内を駈け足で一巡。
冬でもこれが一日の始まりで、私は一冬中、風邪が治りませんでした。
一九四四年、米軍の爆撃機が日本本土を攻撃し始めました。大学生は
戦場に送られました。徴用工員が軍需工場にやって来ました。軍人も
やって来て、工員と一緒に働きました。軍から監督官もやって来まし
た。広島市市内の(旧制)中学校の生徒も、動員されてやって来まし
た。その生徒たちを数日間、即席教育ののち現場に送り込みました。
生徒たちは若いのに熱心に働きました。空襲に備えるために防空壕が
出来ました。空襲警報が鳴ると、生徒は防空壕に入りますが、寮長は
その持場を守るように命令されました。覚悟をきめました。
日本は飛行機や船舶の燃料が不足しました。そこで松の根を掘って松
根油を作るように命令が出ました。松の根を掘っても、それから取れ
る油の量は微々たるもので、これでは戦争継続はおぼつかないと感じ
ました。
空襲は段々激しくなりました。爆撃機B二十九は沢山の焼夷弾を日本
の都市に落しました。木造の家屋はひとたまりもありません。焼夷弾
が落ちても火事が広かがらないように家を壊して防火地帯を作り始め
ました。
一九四五年八月六日に、私は生徒を引率して小網町(今の平和公園の
川一つ隔てた西にあたります)の建物疎開に行く事になっていました。
ところがその日は、私の割当ての授業がつぶれるのが多く、七日の方
が少なかったので、主事の川村先生が六日に行かれて、私は七日に行
く事にして下さいました。それで六日に小網町に行った生徒も川村先
生も、全員二度とその姿を見ることはありませんでした。
六日の朝、朝礼をすませて職員室に居ると、ピカッーとものすごく明
るくなって、しばらくしてドーンと大きな音がしました。すぐそばに
爆弾が落ちたのかと思いました。職員室は殆ど被害がありませんでし
たが、私が預かっていた生徒寮の、私の個室は窓ガラスが粉みじんに
こわれて、反対側の壁に針ねずみのように突きささりました。
その部屋に居た妻と息子は、その数秒前に何かに呼ばれたような気が
して隣の台所に移り、危うく難をまぬがれました。
防空頭巾をかぶっていなかった者は、ひどくやけどして顔がふくれて、
子供が目の前にいても親は、それが自分の子かどうかは声を聞くまで
は、わからないほどでした。
工場の大勢の従業員は自身や家族が死んだり、けがしたりで、救援活
動は主に構内の寮に住んでいた生徒と職員が当たりました。構内の講
堂と講外の二つの寮に被爆した生徒、従業員、市民を受け入れました。
けがしていない生徒の一部を被爆した生徒の家に連絡に出し、一部は
被爆者の看護に当り、一部は行方不明者の捜索に当たりました。私も
生徒と一緒に捜索に出ました。
炎天下、死臭と煙の中を歩きました。満足に建っている建物はなく、
横川駅のプラットホームの階段の下が唯一の日陰でした。そこで一休
みして、また歩き続けました。
旋盤の削りくずでアキレスけんを切って広島市十日市電停近くの外科
病院に入院していた生徒の遺骨は、骨のそばにあった醤油瓶で、その
生徒の姉さんが確認しました。しかし小網町では全然手掛かりがあり
ませんでした。
講堂や寮に収容した被爆者は始めは元気でしたが、時間と共に弱って
いきました。会社所属のお医者さんも、あまりにも多い患者で薬もす
ぐ無くなり、手の施しようもありませんでした。夜が明けると、どの
部屋も一人か二人は死んでいました。死体を焼くのに既存の火葬場で
はさばききれず、武田山山麓の畑の片隅、数箇所を臨時の火葬場とし
ました。死体をうつぶせの状態のまま焼くと背中の筋肉が収縮するの
か、ぐぐっと頭を上げるので気持ちの悪い思いがしました。それから
は全部仰向けにしてから焼きました。焼く数より死んで行く数の方が
多く、夜そのままにしておくと山犬が食べに来てはいけないので、当
番をきめて死体の番をしました。当番にあたった生徒は一言も不平を
言いませんでした。
通信が途絶していて、被災者の奥地在住の家族との連絡がなかなか取
れませんでした。やっと連絡が取れて家族が来られた時には、もはや
事切れていて『何故生きている間にあわせてもらえなかったのか』と
詰問された時が一番つらかった。死体の処理が終わるには数十日かか
りました。
戦時中、従兄と甥が戦死しました。原爆で叔父、叔母、姪二人が死に
ました。終戦後、弟がシベリヤに四年間抑留されました。甥二人が満
州から引揚げる時、死にました。
終戦後四十年が経ちました。もし核戦争が起これば勝った国も負けた
国も残らず、人類の滅亡です。我々は戦争が起こらないよう全力を尽
くす必要があります。
一九八一年二月二五日に、法王パウロ二世が広島で平和について訴え
ました。
「 戦争は人間の仕業です。
 戦争は生命の破滅です。 戦争は死そのものです。
 人間は戦争も出来るが、 平和を築くことも出来ます。」と。

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二十六.戦時体制下の学校生活

               阪口 裕
               (呉市両城町一丁目九ー十三)

(日米開戦の年、戦時体制下の呉一中(現・呉三津田高校)に入学し
てからの、事細かな学校生活を、学年毎に、時代背景を織り交ぜなが
ら紹介している。学徒動員での体験など、時代の雰囲気をよく伝えて
いる。)

(一)
一学年で四組の学級編成、全校生徒五年生までで約一千名の男子校、
旧制の呉一中、現在は呉三津田高校。
昭和十六年(西暦一九四一年)春、身の将来に大きな夢と希望、同時
にこれまた大きな不安も胸に憧れの丘を登った一人。丁度、この年か
ら制定された軍事色一辺倒のカーキ色の戦闘帽に「スフ・人造絹糸と
木綿糸交じり織の」五つボタンの戦闘服(この金ボタンも暫くして陶
器製の物に変わる、深刻なる金属不足の為である)に下肢部分には、
これも軍隊式のゲートル巻きで豚皮の編み上げ靴に、左腕にこれも伝
統の黒風呂敷で包んだ教科書を抱え、近所の上級生徒たちを誘い合わ
せ隊列を組んでの登校。
通学、私用での外出時、路上で教職員、上級生たちに遭遇した場合、
直ちに挙手の礼を交わすのもこれまた伝統の仕来たり。万一これを欠
礼せば鉄拳の制裁を受けることとは当然視されていたのである。
新一年生の緊張もやや緩み掛けてきたその年の十二月八日の昼、校内
放送は敵米英両国と戦闘状態に入ったむねの大本営放送を流したので
ある。
一瞬、クラス内には静寂が支配、その後異常なる興奮に包まれた。以
来、興奮状態は続き国民全体にピリッとした緊張感が当分の間持続し
たのを記憶している。とは言っても、まだまだ戦争の実感も無く、こ
れからじわじわ我等国民に迫りつつあった悲惨な銃後の生活を予想し
得るものは一人もなかった。
(二)
中二生、やっと年令十四、五歳、未だ若いといおうか、幼いというの
か少年時代、数ある教科目の内、最重要に評価され続けた教科の一つ
が各中学校の配属将校(旧陸軍予備役中尉か大尉で四、五十歳位の年
齢)の指揮の下、週二度で二時限の必須教科。各銃器、野戦、歩兵散
兵戦闘などのノーハウの習得訓練。実弾発射可能の陸軍歩兵携帯の単
発銃、軽機関銃、及び投擲弾筒などの操作習熟等など。
当時の中学校の校庭の一隅には必ず武器庫の設置あり、一歩入庫する
と左右壁面に約四、五十挺の旧陸軍三八式歩兵銃(俗称サンパチ式銃
で明治三十八年式の単発五発射撃の旧式なもの、但しその射撃精度は
抜群ではあった。この銃は敗戦までの正式銃で一向に改善もされてい
ないので、こんな点でも科学と物量に勝った敵には到底太刀打ち出来
なかった。)これの注油、手入れには最低学年が当たって、分解、再
組立ての敏速性を競い合ったものでした。
毎年の秋季県内中学生の合同野外軍事教練演習が「県内八本松の原村
平野」で四、五年生が集合、キャンプ生活の一週間を紅白軍に分かれ、
一大野戦演習を行ってきたものです。
現在、生徒たちの移動にはこれ悉くバス、鉄道などの交通利用機関で
しょうが、当時便利な輸送機関も無く、あくまでも徒歩行進のみ。当
時の重装備での長時間の行進は辛苦を極め、矢張り脱落者も多かった
と記憶する。
さて、本業らしき「学科」習得程度は、一応「英語」は入学して初め
ての学習開始、A,B,C,のアルファベット習得から、週六時間程
度。一応「グラマー」「コレポン」「リーダー」と重要科目、これも
中三迄。以後「英語」はなんと「敵性語」として一切廃止されてしまっ
た当時の文部省当局の非常識さ。
先の「教練」「体力」の重点習得一辺倒と「忠孝」「報国」で凝り固
まった中堅愛国少年の育成に万全を期す一貫教育が何より優先された
時代背景等など、現代に生きる偏差値万能主義教育と何か合い通ずる
もの在りと考えますが。
愈々、中学三年生、勤労動員令の下、最初の手始めに農家へ分宿して
の「田植」「稲刈」、食料増産の賛助員としての農家での暮らし。収
穫期の大半は広島県北部農家での分宿、疲れと睡魔の襲来で勉学など
無理、かくして諸教論たちをして、現在の生徒たちは今まで教えてき
た生徒のなかで最愚鈍である、と嘆き悲しませたものである。
ただ、この動員生活の唯一の救いは「空腹」を忘れさせていただいた
ことのみ。信じられないかも知れませんが、こんな重労働の日々、生
徒たちは無報酬でした。筋骨のみ鍛えられ、お陰で頭脳はからっぽの
学生の誕生劇のお始末さ。
(三)
昭和十九年(西暦一九四四年)春、新学期開始早々、呉地区に点在す
る海軍軍需部、工廠造船部、砲熕部、潜水艦補給部、広地区の第十一
海軍航空廠、阿賀地区延崎大にあった潜水艦魚雷発射試験場などに各
組分散して通勤、恰も正規の工員のごとき勤務態勢。
僅かに、初め頃にはそれでも週一、二日の登校日もありしが、後には
これも全廃、まったくの工員暮らし。食量は緊迫状態が続き、白米の
配給も頼りなく、満足なる昼弁当の携帯も覚束なく、当時これだけが
あった大豆を煎り、これに僅かな砂糖をまぶした煎り豆が嬉しい間食、
世の中常に公平に非ずして、何時の世も「闇取引」は活発で、海軍の
コネのある家庭では物資不足なんか存在せず、銀シャリ(白米のこと)、
牛肉類、甘味料に、果てはバタ−まで豊富に入手可能な時代ではあっ
たと記憶する。
さて、勤労動員の作業内容に戻すが、割り当てられた動員先は「天応
地区、守安ドリル製作所」、現存しないが天応セイラ−万年筆工場ま
え踏切を渡り、焼山に抜ける上りの一本道の中間地点辺りの、当時従
業員約二百名位の個人経営、航空機製造用ドリル一貫製作工場、焼き
入れ、焼き鈍し、研削、研磨の大・小径ドリル一貫製作工場。
数か月を経て、愈々増産の掛け声も高く、工場内の作業も昼夜勤務の
二シフト制、我々生徒も生涯初めての夜勧勤務(多分隔週一週間の勤
務であったか)蒸し暑い工場内で多数の蚊の襲来、本当に艱苦の勤務
状態の日夜が続いたのは記憶も新らた。
登校の機会は益々遠ざかり、勉学の機会も殆どなく、ただ呆然と月日
も経て、明くる昭和二十年(西暦一九四五年、運命の大敗北の年)我
等無学の勤労生たちにも僅かながら制約の多い上級学校出願の日がやっ
て来た。
出願先は「軍関係校」「理工系の高校、専門校」「理工系の大学予科
校」、それに地域制限まで付いた非常に窮屈な応募制限。
呉地区の中学から応募可能校は、一に「海兵」、二に「陸士」、三、
四がなくて五に「広島高等工業」の例えあり、我がクラスで二十名は
一応「海兵」に出願、内合格者五、六名だったか。当時の生徒たちの
間では、戦局不利の判断と帝国の将来に対する絶望感も手伝って、ど
うせ徴兵されるなら先に将校に昇格しておいた方が何かにつけ有利と
判断したような気風あり。無理からぬ国情でもあった。
中一、二年生頃の「夏休み」休暇に彼ら若手将校の候補生たちは帰郷
し、その凛々しい生徒姿を披露し、我等の羨望の的でもあったのであ
ろう。いまの「オウム教」、マインド・コントロ−ルのはしりに似た
ものか・・・。
当時、世情混沌として住むに家なく、食するに糧なく、着るに衣なく、
旅するに列車利用制限、許可制で自由に笈を負って上京もできず、上
級校に進学したのは戦後暫く経ってからのこと。振り返れば、もう二、
三年誕生が早ければ当時確実に特別攻撃により名誉の戦死を遂げてい
たことは確実。いま、犬死と忘れ去られたであろう。
あの敗戦がもたらしたもの、我等不戦の思い強く、世は格段に進歩し
自由と飽食を謳歌、満喫し続ける国民たち。今となって、貴重で希有
な経験をしたものよと呆れ、且つ懐かしんでもいるのである。 
(四)
我等、先の大戦に飽くまでも神州不滅の信念に燃え、衣食住全てに想
像を絶する困窮に喘ぎ堪え忍びながらも、その戦況は我に一方的不利
と、それとなく全国民は肌で感じてはいた昭和十九年ごろから二十年
の早春、旧帝国海軍鎮守府のあった呉の軍港は度重なる海戦に破れ、
傷ついた艦船の出撃に備えての重要なる補修基地の様相を呈し、呉湾
にはどぶ鼠色の辛うじて撃沈を免れ第一線を離脱してきた艦船で埋まっ
ていたのを、当時十七歳の旧制呉一中四年生で熱血溢れる軍国少年は
今でもはっきり記憶している。
現在、ただ漫然とわが国の平和と与えられた自由主義に酔い痴れ、世
の飽食に何の疑念も抱くことがなく、だだ未来の生活安住の為勉学に
はげ現代の学生たち、ただ蓄財、裕福を生涯の目標に生きる彼らの親
達には、本当に信じられない青少年期を経験してきた。
昭和二十年春、四国の高知市冲にまで悠々と北上、展開を続けていた
米国の機動部隊の空母から発進した敵グラマンF6F単座戦闘機の偏
隊は、縦横無尽に飛び回って度々呉市上空に飛来し、恰も平時の射撃
訓練を楽しむがごとく、地上掃射を繰り返していたのである。
これに対しわが方には最早彼らを迎え撃つ戦闘機とて無く、時たま停
泊中の軍艦から撃ち上げる高角砲は火を噴くが、徒に空中花火と消え
て格段の効果は認めがたい様相であった。
敵機の編隊は決まって灰ヶ峰の頂上辺りから市街地に向かって「た、
た、た、たっ、、、」と機銃掃射を浴びせつつ軍港、工廠などをかす
めて、音戸の瀬戸か江田島上空を抜け南下、帰還していた様子で、だ
だ一度、この敵「グラマン」機一機が我が砲弾の直撃で江田島辺りの
海上に墜ちたと聞いている。
敵戦闘機による編隊攻撃は決まって昼間で、当時呉市内「下中町」、
現在呉市庁舎の北方数百メ−トルの辺りの家からは、「灰ヶ峰」頂上
から胡麻粒を撒いたように来襲する敵機の編隊は目視でき、直ちに階
段を下り、階下の床下に各自で気休めに掘った「防空壕」に逃げ込む
のが在宅時の日課であった。
当時、無抵抗状態の中で敵機の跳梁は横暴を極め、気楽に無差別に
銃撃を加え、その着弾の音は周囲にこだまし、何時直撃弾に当たるか
とビクビクして身を縮めてやり過ごした記憶もある。
学校での勉学も登校日は週に一度だけ、後は全部勤労動員で軍需工場
に出勤の日々、我々四年二組の生徒は当時「天応町」にあった「守安
ドリル製作工場」に配属、日々航空機製作用の穴あけドリルの増産に
励んできた。当時の徴用工とは交代で、あの子供のような幼さで夜勤
勤務も当然と従事してきたのである。
食料の困窮時代にあって軍需工場に従事する工員、勤労学徒には特別
に食料が配給され、米穀の代用になんと「薩摩芋」とか「南京かぼちゃ」
は良いとして「ミカン」まで増配された記憶もある。
戦時下、文部省令で勉学よりも軍隊増員計画により、旧制中学も四年
卒業制に切り上げ、大学、高専進学も鉄道輸送緊迫のため、その志望
校は近県のそれも「文系」は禁止、「理工系」出願に限られ、私立は
除外し、官立(現在の国公立)のただの一校に制限され、ほとんど全
員が軍関係の「陸軍幼年学校」「陸士」「陸空士」「海軍兵学校」
「海経」「海機」などに一応出願受験し、落選者たちは次のステップ
校の理工系の受験を許されたものである。
以上の進学希望群とは異なり、別に愛国心溢れる学生たちには十五、
六歳になって「陸、海少年志願航空練習生」の募集もあり「甲種海軍
航空予科練習生」には組平均四、五名が入隊し訓練に勤しんだのであ
る。
今手許の同窓生名簿の卒業時の進路を集計して見ると、四年二組の当
時の在籍者は四五名、内軍関係校進学者はなんと十数名の多さであっ
た。彼らの軍歴期間も僅か四か月余りで、あの無残で虚無的な昭和二
十年八月十五日、不敗神国の敗戦を迎えたのである。
あの日もちょうど今年の八月十五日正午と同じく、やけに暑く、ただ
綺麗な青空であった。
追記:あのB二十九大編隊による夜間爆撃による呉市街地全焼時には、
小生海軍士官候補練習生として呉鎮守府山口通信隊に所属していまし
て、八月十八日復員除隊して呉駅頭に立ち、驚き、初めて知りました。

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二十七.学徒動員のころ(広島県立竹原高等女学校)

             田中 眞佐子
             (広島市東区尾長東三丁目一ー一)

(学徒動員で呉工廠製鋼部に配属され、体験した三度にわたる恐怖の
空襲。一トン爆弾の恐さとはどんなものか。宮原寮での焼夷弾空襲。
「生徒を死なすな」を合い言葉に守ってくれた指導員を今も想い出し
ます。)

遠い昔日のこと、戦局が日増しに鮮烈を極め来た昭和十九年六月十二
日、私たち女学生に学徒動員令が下り、十四日の入廠式の後、竹原高
女の学徒は呉海軍工廠製鋼部へと配属された。
竹原町では唯一の女学校なので、のんびりしていた私たちは、多くの
他校を意識して緊張し胸を張った。先生方や下級生、町の主だった方
や父兄の励ましの内、有田、半田両先生の引率されて勇躍門出をした。
狩留賀(現在中学校)で初めての寮生活、不安と期待の私たちをおそっ
たのは、部屋に一歩入ると両足にもぶれ付いた蚤の大軍だった。
モンペをまくり上げキャッキャッと騒ぎながら、蚤がいなくなるまで
蚤退治が続き、やっと畳の上に座ることが出来た。
次は夜の南京虫の襲撃、夜半に目をさました人が、パッと電燈をつけ
皆が針をもって、畳の合わせ目や板壁のつぎ目に潜む南京虫退治をし
て、再び眠りについた。
鋳造工場では技術将校の村上、柳田、泉、斉藤各大尉が学徒の係で、
私たちの所では松井、甲田、仁井谷、恵木、後に北川さんたちの指導
員がよく作業面倒をみて下さった。
夜勤が始まると指導員の方たちは交代で、大空寮、朝日寮(宮原通十
三丁目)まで夜道をカンテラで照らしながら送って下さった。カンテ
ラの灯は「風が吹いても絶対に消えんのよ。」と友だちが言ったとお
り、ロ−ソク一本の明るさだが足元がとてもよく見える。さっと風が
吹く度に消えるかなと期待するけれど、芯に豆粒くらいの火が躍って
いるが、又パッと明るくなる。
馴れた坂道も講堂までは立派だが、右手の坂道になると枯れ葉が足元
に舞い、松の木は黒々と山の稜線にシルエットを浮かべ、冷えた夜風
が通り抜けて松籟となった。
去る昭和六十三年四月に亡くなられた仁井谷伍長の奥様から「『学徒
を死なすな!』が我々の合言葉だったと、何時も申しておりました。」
とお聞きした。私たちは何も知らずに、空襲となると一目散に防空壕
へと走った。工場の方々や先生に守られて、先ず避難させて頂き、今
日があることを心から感謝している。
あの日も空襲警報が鳴り、全速力で山へ向かって走り、防空壕に入る
と高射砲の炸裂する音が聞こえ、間もなく爆弾の破裂する音がしてき
た。防空頭巾の上からタオルで目を括り、誰もが無言で外の気配に耳
を澄ませた。
不気味な地響きや炸裂音はひどくなるばかり。不安と心配のうちに
「こっちへ来るぞー。」と声がして、壕の入口に待機しておられる指
導員の方たちの秒読みが始まる。
五、四、三、壕内に緊張がみなぎり、両手の親指で耳を塞ぎ、人差し
指と中指で目を守り、薬指で鼻の穴を塞ぎ、口をあけている。
まもなく落下音がしてきた。丁度、砂を撒くようなザーという音が次
第に強くなり、土砂崩れのような大きな音になる。
二秒、一秒の声を掻き消す大音響と強烈な爆風に、体中が締めつけら
れ、ウッとうめく。耳はシン、シン、シン、、、と鳴り、呼吸のでき
ない恐怖の一瞬が来た。だが秒読みのお陰でとっさの覚悟が出来て有
難かったと思う。
同じような体験は二度だった。空襲解除となり防空壕から出ると初夏
の太陽が眩しく、安堵とも溜息ともつかない声が出た。
九時すぎから正午頃まで、空襲による爆撃は続き、工場は破壊的な被
害を受けた。
職場に戻ると昼食が届き、驚きと感謝の複雑な気持ちになった。あの
激しい空襲の最中に避難もせず、お弁当を時間に届けて下さり、感謝
と同時に不思議な気さえした。 
翌日、壕の至近距離に不発弾があるとのことで見に行った。一つは壕
の入口近く、地面に半分突きささっていた。そしてもう一つは、かな
り近くに一間くらいの長さで一抱えもある大きな爆弾が横たわってい
た。いずれにしてもこの不発弾のおかげで、鋳造工場の学徒は命拾い
をした。
今も耳に残る一トン爆弾の落下音は、炸裂していれば人間も一緒に吹
きとんでいたけれど、不発弾のため、二度と体験することのない瞬間
が、脳裏に鮮明に焼き付いて忘れられない。
工廠から宮原女子寮に帰る途中の講堂に向う坂道には、連日、破壊さ
れた工場や崩れた防空壕から掘り出された遺体が並べられ、皆の涙を
誘った。挺身隊や動員学徒の犠牲者もあったと聞く。
空襲による爆撃中は時間がとても長く感じられる。焼夷弾か爆弾で、
火攻めにされるか、爆風で吹きとばされるのか、という恐怖心のため
である。後日、広島で原爆に遭った私は校舎の下敷きになり、傷や火
傷を負いながらも命があったから、その瞬間的な恐ろしさは、一トン
爆弾で連続攻撃の方がずっと怖いと思った。
三度目は七月一日の夜勤から帰り、寝付いた瞬間だった。部屋のざわ
めきで目覚め、窓からとび出し防空壕に転がりこんだ。
外は照明弾で青白い明るさになり、爆音と高射砲の炸裂音と爆撃の音
が入り乱れた。間もなく寮は焼夷弾を受け、燃え出したので、壕から
出るよう指令が出た。壕は二つあったが、二千人の寮生の避難である、
寮生は無事であったが、寮が壕の方へ倒れないようにロープを掛けら
れた兵隊さんに犠牲者が出られたとか、本当に申し訳ないことだった。
熱い風に頬を撫でられながら、真昼のように一木一草見える畑道を馳
せ登り、上の宮原通りの目隠し塀が寮の熱で燃え出したので、町の人
と力を合わせメリメリと倒した。山の上にはオレンジ色の丸い日がか
かっていた。
現在、平和で豊かな世にあって忘れられたような戦争の悲惨さは、絶
対に子孫に味あわせたくはない。戦争の犠牲者の方々が今日平和の礎
である。未来永劫に戦争を無くし、我々は平和とこの地球を守らなけ
ればならない。

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二八.戦争中の私の思い出

               富田和男
                 (呉市上内神町八ー一二)

(片山小学校の生活の中で体験した、当時の軍国主義教育や、また、
戦時下の呉市民の生活はどんなものだったか。学童疎開に行き、天皇
陛下様を信じて過ごした苦しい日々の生活。終戦の日の信じられない
玉音放送。)

僕が片山小学校二年生の時、昭和十六年十二月八日その日学校の校庭
で校長先生より集合の命令があり、全校生徒が運動場に集合した。校
長先生(森本雄四郎先生)の話で、今アメリカ・イギリスと戦争が始
まったのだとの言葉があった。
ハワイ・真珠湾にて敵軍艦を多数撃沈させたとの大戦果を聞かされた。
日本は神国であるからと修身で教育された。全国向けラジオ放送で
「大本営発表 昭和十六年十二月八日我が軍は米英軍と戦闘状態に入
れり」と特別放送があった。
昭和十七年頃より学校では教練の様なものがあり学校より二河公園の
忠魂碑に駆け足で参拝した。ラジオ放送では大本営より次々と我が軍
の大戦果が発表された。
そして校庭には御神影があって天皇陛下の御写真が祭られてあり、先
生の命令で国旗掲揚と共に最敬礼の様な事や「モクトウ」をした。大
戦果があるごとに天皇陛下万歳をした。
しかし、五年生の頃(昭和十九、十八年)になると戦果は反対になっ
た。鎮守府管区よりサイレンが鳴り「呉鎮守府管区警戒警報発令」と
ラジオを通じて各家庭に発表された。
サイパン島等戦争初期占領されていた基地、重要な島々が次々と敵前
上陸によって米軍の手に渡ってしまった。サイパン島やレイテ湾等が
米軍の手に占領されるとボ−イング B二十九爆撃機や艦載機が日本
の都市に夜となく昼となく来襲し,エンジンの音で、当時としては怖
くて寝られない夜等あった。
学校では勿論家庭へ走って帰された。その当時になると家々の座敷の
下に防空の穴が掘られ敵機爆撃の避難所として町内より各家庭に命令
された様だった。
そして二河公園には多数の徴用工員という各地から徴用されて来た当
時の若い青年たちが海軍工廠の職工さんの下で働かされる為に建てら
れた急造の木造建築が多数あった(現在の二河野球場バレ−ボ−ルコ
−ト辺り)と元海軍刑務所(現二河プ−ル)海軍工廠まで隊列を組ん
で徴用工員さん達が通っていた。
それから米軍機が各都市に焼夷爆弾を落とす様になる頃、都市ごとに
強制疎開で家屋の「立ち退き」が行なわれた。それは空襲による火災
を最小限にする為か、米軍機の呉市内の密集地の爆弾攻撃をカモフラ
−ジュする為だったらしい。
その頃になると海軍工廠等海軍省用地は全く秘密軍港で、二河上水道
辺りなど鎮守府の哨戒兵等が鉄砲を以て立っていた。高い所や山等に
は軍港を見ることが禁止されカメラ撮影や英語等話すとスパイとして
厳しく取り締まられた様だった。
五年生頃になると艦載機・B29、グラマン機ロッキ−ド機等が呉港
に来襲し、当時の要塞であった灰ヶ峰、休山辺りからの対空砲火陣地
より火を吹いて米軍機に空の色が黒雲の様に砲弾煙によっておおわれ
た。特に艦砲射撃(呉東洋艦隊)による対空射撃は強く、大和(戦艦)
四十五センチメ−トル砲の艦砲射撃の音は特に地震の様だった。(注
 大和は呉港に居らず,艦砲射撃をしなかったのでは?)
三分から五分前に米軍機の来襲が予報されるのが空襲警報で十分以上
になると警戒警報が発令された。勿論呉鎮守府であった。そして私の
近くの畠にグラマン艦載機のオイルタンクが日本軍の砲弾の為に落下
してきた。その時の米軍機の機銃掃射の音や艦砲射撃の音等は恐ろし
く、耳をふさぎ目を閉じて我慢した。このようなことも学校や町内で
常時訓練された。
山でグラマンの機銃掃射の弾を発見し警察に届けた。家々の白壁は敵
機に発見されやすいので当時の木炭等で黒く塗られカモフラ−ジュさ
れていた。
夜は電気の光が見えるので電気の傘に黒幕がかぶされた。窓には黒紙
などが配給され、夜中敵機から町の光が見えないようにガラス窓等に
古タタミ表などが張られた。
食糧としては貧しく、町の至る所に雑炊食堂があり、職工さんの家族
や徴用工員の姿の立ち並ぶ姿が見られた。
映画も戦争色となり「隼戦闘隊」等に人気があった様だ。呉市内の映
画館をあげると「トキワ館」「櫻館」「朝日館」「東宝」「演芸館」
「衆楽館」「国際館」まだ外にもあった様だ。
六年生頃になると戦争も非常に悪化し集団疎開・縁故疎開等が全国的
に始まった。片山小学校では賀茂郡が当てられた。
私は賀茂郡郷田村善教寺へ西条駅から約二里の所へ徒歩で行った。村
の人々は歓迎して呉れた。田植えを手伝ったり田地に新しい砂を山か
ら掘って運んだり田んぼの草刈り等をした。そして風呂に入れてもらっ
たり色んな田舎の餅や豆等をもらって当時としてはおいしかった。
しかし呉市の米軍の来襲などでやはり学校からお寺に帰ったこともあっ
た。呉に入る友達や工廠で働いている人々、兵隊さんの事がどんなに
なったか心配であった。時々疎開先の友達の家族の人々が面会に来て
めずらしい食べ物等もらったりした。疎開先の郷田村(現東広島市西
条町郷田)の学校にも広島師団の陸軍の兵隊さんが派遣されていた。
何時も山の開墾や軍事教練をしていた。相当年輩の年の人も居た様だっ
た。
呉が焼けた日夜中友達は皆起きて怖わごわ焼けるのを見ていたが、私
は恐ろしくて見ることは出来なかった。翌日友達の焼け出された家族
達が来られて次々と呉市の焼火状態が手に取るように聞かされ、始め
は本当とも思われなかった。本当に可哀相で仕方なかった。
八月十五日丁度暑い日であった。天皇陛下様より特別放送がラジオで
あるとの話、まだその時までは終戦とは信じられなかった。当時朝鮮
から労働仕事に来られた人々と共に天皇様の玉音放送を聞いた。耐え
難きを耐え忍び難きを忍んでいくようにとの生声の放送を聞いた。
それから間もなくして恐ろしい台風があり至る所でひどい被害が出た。
戦争の「惨禍」と共に一日一日を生活する事も思う様にならず呉に帰っ
て見て本当に戦争と言う事は恐ろしいことだと思った。
家は焼かれ家族の安否もわからず戦争の犠牲者は多く町には食糧はな
く草や芋のクキを主食として食べた。当時精神的にはやつれはて衣料
もなく全くの暗たんとしたものだった。社会風紀等はとても取り締ま
る等できなかった。そんな月日が長く続いた。
本当に戦争の惨状が現在になっても身に深く感ずる事は忘れがたい。
そして将来の青年少年達にこんなことは二度とくり返す事のないよう
にしたいものと思えた。

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二九.ある学徒の記

               土居 瑠子
                 (尾道市西藤町二八四六)

(広十一空廠に学徒動員され、学窓から遠ざけられた中での弥生寮の
生活。飛行機部で、お国のため寝食を忘れてご奉公し、空襲にも遭い
ました。弥生寮の広場での卒業式にも、グラマンがやってきました。)

今、私の手許にある我が母校、松永高校の一九九一年の創立七十周年
の記念誌によると、私達旧制二十年二回生は昭和一九年六月二八日、
「四年生 学徒動員として 広第十一空廠に出発」と記載してありま
す。
朝、歓呼の声に送られて松永駅を出発、昼前広駅から暑い日中を歩い
て着いたのは、今は変電所らしきものになっている、横路寄宿舎でし
た。神社の森があるので、あの辺が跡地ではないかと思うのです。
横路寄宿舎は女子学徒、道をへだてて女子挺身隊の寮がありました。
学校は私達松永を含め、大体覚えているだけで、広島第一県女(現皆
実学校)比治山、甲山、三次、河内、賀茂高女など、又県外は島根の
女学校もおられました。
松永学徒は最初のうちだけ皆で横路に居ましたが、その内、飛行機部
の検査班と作業班に分かれ、作業班は最初は日中・夕勤と二交代の勤
務の為、弥生寄宿舎に移りました。そしてすぐ深夜業もするようになっ
て、三交代勤務となったのでした。
私達四年生は全員で百余名の学年でしたが、病弱その他の事情で残っ
た人逹もいて、出勤したのは百人たらずで、それが半分づつの仕事に
分かれ、又その半分が三交代のイ直、ロ直、ハ直の三つに分けられ、
イ直は朝七時から午後三時まで、ロ直は三時から夜十一時まで、ハ直
は十一時から朝の七時までです。
私は作業班で弥生に行きました。弥生はずい分広い寄宿舎で、寮棟も
多くあり、きっちりとへだてられてはいましたが、男子学徒の棟もあ
りました。
一棟を中隊と呼び、一中隊、二中隊、三中隊、と分かれていました。
各中隊の中に学校別に部屋があって、小隊と呼ばれていました。
私達松永は、十六名位が一小隊で、二部屋に入っていた様に覚えてい
ます。日常の暮らし方、仕事の内容など、覚えているだけでも書き残
したいのですが、スペースもなく記憶もすでに茫々たるものです。
六月に入廠して九月頃から、警戒警報、空襲警報と、しばしば退避し
たりしていましたが、最初に空襲にあったのは二十年の三月十九日で
す。
少し春めいて、そして寒い朝で、少隊長室にいた私は、重い黒いオ
−バ−を当然の様に着て出たのですが(これは本当に幸運なことでし
た)各部屋から出て来た級友は、殆どオ−バ−をぬいでいました。
イ直だった私達は飛行機部五0工場のトンネルの中で、旋盤でネジ切
りをしていたのですが、外の工場から大勢の人達がドンドンと入って
きて仕事が出来なくなり、その内上の方でパチパチと豆を炒る様な音
が一、二時間続き、あ、これが空襲というものかと、大して恐ろしい
とは思はなかったのでした。
午後、口直の交代が来て寮では、空襲がとても恐ろしかったと言いま
したが、私達はこわくなかったと笑っていました。外に出てもたいし
た被害もない様に思いました。
いつもの様に軍歌を歌い、士官にすれちがえば歩調を取って敬礼し、
広の交差点をすぎ、橋をわたって一本松のあたりまで帰ったところへ
んで、誰かが「あっ、寮がない」とすっとんきょうな声を上げました。
その頃は川端の一本松のところから、弥生(跡地は近畿大学工学部)
は一目で見えたのです。まわりは殆どが麦畑でした。
皆一斉に寮の方を見ました。たしかに一中隊がありません。二中隊、
三中隊の棟は見えるのですが、まわりはずい分煙でくすぶっています。
寄宿舎について見ると、全員イ直で出勤していた一中隊は全焼、寝て
いた二中隊、三中隊は、壕に待避して燃えさかる寮をながめ、グラマ
ンの掃射を受け、焼け残った棟の焼けている部分を消火し、さぞ怖ろ
しかったことでしょう。
それでも交代で来たとき、誰も私達の中隊が全焼したことは言いませ
んでした。帰ってみれば分かることで、それは口にだしてはいけない
秘密なのです。
弥生には空いている棟もあったので、一中隊は全員そこへ移りました。
とりあえず屋根と床だけはあります。あとは、炒り豆少々と止血棒、
血液型などを記入してある生徒手帳とタオル一枚、その程度の物を入
れた掛けカバン一ケと防空頭巾だけが残りました。
中隊長二人は私達が勤務中もずっと寮に残っておられたのですが、二
人だけでは何が出来るでしょうか。自分達の分も何一つもち出す事な
く全焼したのです。
新しい棟には最初の頃は机も椅子もなく、床の上にアルミの食器を並
べて、干し芋にわずかに米つぶがくっついている様な食事をつづけて
いました。
どこの学校の人だか分かりませんでしたが、洗面所で二人がほそぼそ
と話しているのが聞こえました。「何もなくても命だけあればいいと
皆いうけれど、こんなに何もなくなって命だけあってもさみしいね。」
寝具は官品といわれた軍の毛布、本当に木の繊維そのもので、ぬくも
りのあるものではありません。三枚だったという人達も多いのですが、
私は五枚か七枚位は貸与されたと思います。その中に二人づつで寝た
といいますが、中隊長室にいた者は、一人づつで一枚しいて六枚かけ
ても重いばかりで、いろいろに工夫して四枚敷いて三枚掛けるのが一
番暖かいという結論が出ました。
その内、家の方から布団、洗面具、衣類が送られて来るまで皆本当に
助け合いました。
三月二十八日は卒業式でした。一応学徒は全員弥生寮の広場(その頃
はグランドとは言いません)に集めて、盛大に卒業式をして下さると
の事でしたが、皆空襲の心配ばかりしていました。
案の定、皆が集合し終つた頃グラマンが来ました。少々の防空壕はす
ぐ満員になり、みな蜘蛛の子を散らした様に逃げました。私もしつか
り頭布をかぶって、麦畑にはいつくばつていました。近所で桟銃掃射
の音がしました。耳を両手でおさえて目をつむりました。
空襲が終つて、夕食にアヒルの卵が一つ、アルミの皿に入っていまし
た。それが私達の卒業式でした。
卒業式が終っても学校に帰れるはづもありません。五月に入ると連日
の空襲でした。通勤途中の警報に知らずに入つた防空壕が奉安殿で、
中にいた士官に軍力で追い出されたこともありました。
私達のトンネル工場は中で仕事が出来るにしても、外の工場は見るか
げもありません。つみ上げた瓦礫のなかには人骨もあるらしく、雨降
りの深夜、外のお手洗いに行くと、真ツ黒い中でところどころ燐が燃え
ていました。必ず二人以上連れだって行く様にと指導員からいわれて
いました。外は暗いのに、お手洗いの中は防犯の為か、妙に赤々と灯
がついていました。
B二十九の爆撃はトンネルの中にいても、上の山が今にもくずれ落ち
る様な音と振動でした。そんなあとで外に出ると総務部、医務部、組
立工場のビルなどが次々と消えていました。
トンネル工場も使えなくなり、私達は阿賀駅近くの民営の小工場に移
りました。深夜業の時は、トンネルの中と違って、刻々と夜が明けて
ゆくさまが仕事をしながらよく見えるのです。初夏の夜明けを私は忘
れません。
阿賀の工場もすぐ空襲でなくなりました。六月、私達作業班は、五〇
工場の旋盤を舟で、松永湾を通って送り、松永の福田鉄工所に帰りま
した。検査班も横路で何度も焼け出されて岩国の工場に移りました。
私達は松永のお寺を借りて、八月十五日まで三交代勤務をしました。
三月十九日の空襲から六月の松永に帰るまでの三ヶ月あまりは、卒業
式の日も含んで殆んど連日連夜の空襲であった様に思います。それは
山陰の方に行くのも、東に行くのも大方私達の上空を通ったのではな
いかと思うほどでした。
靴をはいて、壕の中で立ったまま寝るのは、本当につらい日々でした。
いつまで我慢すればという見当もつかないのです。
私は今でも、ちょっと横になる時も靴下は必ず脱ぎます。気持ちが落
着かないのです。戦争がすんで五十年、今の若い人達に、どの様に伝
えれば良いのでしょう。ゲームのように面白がっている若い人達。
どこかで何かが間違って始まった戦争。半世紀の今も引きづったまま
生きている人達も多いのです。私自身、性格にもよるでしょうがあの
過酷な体験がその後づっと、あえて火中の栗を拾うという人生を歩ま
せました。
今にして尚、残して巣立った学窓の因数分野、古典、英文を恋う私で
す。

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三十.戦争の想出

           桑原 彦造
           (千葉市美浜区高浜四丁目二六ー二〇六)

(呉港を出港し、トラック島に向かう。潜水艦作戦に参加し、敵米空
母リスカムベイを撃沈。喜ぶのもつかの間、敵米駆逐艦からの爆雷攻
撃を受け、九死に一生を得る。戦友との運命の別れが来た。)

潜水艦に乗って北方作戦から呉港に帰り、戦時物資を満載して昭和十
八年九月十九日呉港を出港南方基地トラック島に向う。
今度は主戦場であり、戦況も不利となりつつあり母港を離れるに際し
て、四ヶ月前の出港には感じなかった悲壮なものが感じられた。そし
て九月二十七日トラック島に入港し、十月十六日真珠湾のアメリカ海
軍の動静看視報告の任務を受けて出航する。
飲料水以外は水も使用出来ず、洗面、洗濯、風呂もだめ。着替と言っ
ても僅かな支給品のみ、汗の度に着替えるだけ。そうした不潔な生活
のためお互いに汚いも、臭いも、感じない生活に馴れてしまっていた。
今考えて見れば、身震いするような生活である。非番の時は其の侭ベッ
トに横臥し、非常ベルが鳴れば、作業帽をかぶり靴をはいて、戦闘配
置につく状態であった。
十一月十三日基地に帰投命令を受け帰航中、午前一時半頃ケタタマシ
イ非常ベルが艦内に鳴り渡った。「総員配置急速潜航」と伝声管を通
じて流れた。ソレ!!と非番の者も異様なものを感じ、夫々の配置に
向う。其の時既に「タンク」に注水され、船は潜航しつつあった。全
員がカタズ固唾を呑んで次の指令を待っている。
「前方に敵艦発見、航空母艦一隻、駆逐艦三隻」直ちに魚雷発射準備
が指令される。次は打ての号令を待つのみ。艦長の「打て」!!の一
声によつて魚雷三本が飛出して行った。結果如何と全員粛として声な
く、耳をすましていると「カーン」「カーン」という衝撃音が帰って
来た。
司令塔より魚雷命中空母撃沈と、報告があり、全員小躍し手を叩き喜
んだ。アメリカの空母「リスカムベイ」を撃沈し、鬼の首でも取った
ような気持ちが一瞬流れた。そして万歳が方々で起こり、初めて味わ
う戦果に一入の喜びを、握手しながら喜び合っている。
暫く時が流れて平静に戻ると空腹を感じ、全員戦斗配置のため主計員
がお握りを持って来た。配置についたまま食事をすることになり、二
口三口と食べかけたとき「ドカーン」と大きな音と共に潜航中長さ約
百米、排水量二千トン以上の巨体が大きく動揺した。
敵の駆逐艦による爆雷投下の逆襲である。もう食事を続ける状態では
ない。先程迄の喜びも一瞬にして大逆転し、一時は船諸共海底に沈ん
でしまうかもしれないと、大きな恐怖感が全員の脳裏をかすめたこと
は間違いない。
然し怪我をした者もおらず、早速被害の調査が行われ、私のいる機械
室では、先程迄深度十八米のを指していた深度計が八〇米の極限で止
まっている。瞬間的爆圧のため安全潜航深度六五米をオーバーしてい
る。その他に二か所、機械冷却水パイプの接続部二か所で軽微であっ
た。
所が前部兵員室のトイレの外舷弁が衝撃のため弛み、水がどんどん兵
員室に流れ出し、其の下は電池室、さあ大変、電池が海水に浸された
ら水中航行も主機械にも影響する。
海水の流入により、船の前部が重くなり、艦のバランスに影響がでた
ので、応急処置として前部の一部の人員を後部に移動してバランスの
調整が計られた。まもなく作業努力が報われ、海水の浸入が止ったの
で、侵入した海水を、海中に放出することになり、排水ポンプが使用
された。
そのため敵の艦に探知され、聴音室の方で、右後方三十度感一…感三
と近づくに従って、感度が高くなり測的員の声も大きくなり、緊張の
度合も高くなる。全員命運がかかっているので緊張している。
そこでポンプ排水を断念し、全部の海水を人力で、十八立入灯油缶に
て運ぶことになり、先に後部に移動した人員を、元に復帰することに
なる。軍靴のままでは万一の場合音を出すこともあるので、靴下の侭
で運ぶことになった。
今度は攻守逆転である。一応一段落はしたものの、極めて危険な状況
下で、猫に狙われた鼠のようなもの、お互いにこれからどうなるかと
思えば、不安が一杯で、心身共に緊張の連続である。敵の投下する次
の一発で、艦諸共海底に沈んで行くことになるかもしれない。そう思
うと咄嗟に家のことが、脳裏をかすめる。
戦争で死んで行く人の最後の言葉は「キレイ」に表現されているけれ
共、その本心は、私が死んだら家や家族は、其の後の生活はどうなっ
て行くのであろうか、と思う不安な気持ちで胸が一杯になる。血はキ
タナイと言うのも、其の真実を語ってると思う。乗組員全員が同じ気
持ちでいたと思う。
其の内艦内も若干平穏となり、敵の追跡もなくなった。丁度午前十時
頃で、約八時間、其の間爆雷に見舞われること三回、常に海上では敵
の駆遂艦三隻が、虎視眈々として、我が潜水艦を狙っていた。
潜航中はスピードが出ないので、当然脱出能力はなく、其の行動の一
挙手一投足は、真剣そのものであった。当日は友軍の飛行機が、敵の
基地を、爆撃することになっており、十時頃この海域の上空を通過し
たので、敵も諦めて退散したのではないかとのことである。
敵の攻撃から解放され、やれやれと思うと皆空腹を感じ乍らも、それ
を口にする者もいなかった。遅れた朝食及び昼食も、空腹の割には進
まなかったようだ。精神的な疲労が、大きかったためかもしれない。
当初はトラック基地直行の予定であったが、船体の被害程度は安全地
帯でないと確認出来ないので、クエゼリン島に寄港することになった。
湾内に入港し、上甲板に出ることが許された。四十三日振りに太陽を
眺めることが出来た。新鮮な空気に接すると、平素無関心な空気も、
この時ばかりは有難さが、身に沁てわかった。簡単な外傷検査がなさ
れ、特に目についたのは、上部構造物の燃料、潤滑油、及び水の積込
パイプが、板のようになっていた。
差当って支障ないとの事で、水と野菜の補給を受け、基地に入港した
のは十二月一日であった。十二月四日、私と同僚二人が退艦すること
になる。一方は内地に帰り、一方は又戦地に向かって出ていくことに
なる。
お互いに元気で頑張れよと、言葉を交わして別れたが、とうとうあの
人達は、二ケ月後、艦諸共九十九名全員が戦死している。昭和十九年
一月二十七日基地を出航、オーシャン島に食糧輸送後、二月十日敵艦
攻撃の命を発せられたが、連絡不能となっていた。
戦友の死に衷心より哀悼の意を表し、故人の冥福を祈る次第である。
       

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三一.(焦土の本通を歩く)

              公文寿子・久幸
             (世羅郡世羅町大字本郷七〇五ー三)

(呉市街地空襲の明けた朝、西畑から海軍施設部まで本通を一生懸命
歩きました。焼け野が原の呉市街に一瞬立ち止まり、でも行かなけれ
ばと歩き続けました。夫から灰が峰砲台の状況も聞きました。)

防空濠壕の中で私は弱い母の手をひいてじつと終わるのを息をつめて
待っていました。母に、もし壕の前が燃え出したら火の中をくぐって
出るからお母さんも私の手をはなしたらダメよと言ってじっと空襲の
終わるのを待った。
父と弟は玄関の中へ掘った防空用の穴で待避して万一に備えていた。
玄関の前には防空用水。バケツ、砂袋等いつも備えてあった。空中で
飛散して防ぎ様のない焼夷弾である事を私達は知りませんでした。
私は当時海軍施設部理事生として勤め働いていました。幸いにも家は
西畑で空襲の災害をまぬがれたのです。建物疎開で長年住んでいた宮
原通り八丁目よりに西畑へ来ていました。妹は宮原小学四年生で集団
疎開をして、世羅の地に来て居ました。
空襲をまぬがれた私は、八時迄に施設部へ行くべく急いで西畑より本
通を一生懸命歩きました。本通十五丁目まで歩いた時、唯々その向う
に見えるのは焼け野が原の市街地で、一瞬立止り、でも行かなければ
と一生懸命唯々一人歩きつづけました。途中誰一人歩いていないので
す。工廠等へ行く人は通った後だったのでしょうか。
十三丁目に近くで、一人の女の人が死んでいました。歩道の上でした。
涙も出ずふり返る事もなく歩きつづけました。牛が一頭、道路のまん
中でころげていました。消防自動車が黒こげで一台か二台、町の明り
をともす鉄塔はみんなまるく垂れ下がって、照明用のガラスはまるで
飴玉の様にとけて、まるくなって足もとに散っていました。
ハンカチで頬を右と左、片方ずつおさえて焼け跡の熱さをしのぎ乍ら
歩きました。途中残った建物は銀行だけの様な気がしています。よう
やく一門に入り、鎮守府の旗のひるがえるのを見てほっとしました。
但し私の勤めていた施設部は丸焼け。海兵団は一棟八兵舎のみ、今も
その建物は残っていると思います。練兵場の下へ掘った防空壕前では、
兵隊がただ呆然と立っていました。私等もなすすべきもなくウロウロ
していた様に思います。
夏でも半袖の私に、軍医がヤケドをしたのか、と聞かれ、ふと腕を見
ると、畑から左の歩道を歩きつづけた私は、右腕が赤く焼けた様になっ
ていた。
その日は千福より火の入った酒が軍の方へ出た様でした。私達にはぜ
んざいが出ました。その日亀山神社の境内にたくさんの人たちが防空
壕の中より出され身元確人の為ならべつつあるとの情報でした。
私の友達も一人その壕の中で亡くなられました。主人は灰が峰砲台に
居りました。話では灰ケ峰には高角砲が二基、兵舎は長い建物が一棟、
又高角砲の近くに兵員室、一寸下の方には食料庫が一棟あり、牛も軍
用の印をおしたのが放し飼いにしており、水も自然水が出ていて池も
あったとの事です。
呉空襲では丁度前日に雨が降った様な気がするが「さだかではない」、
その為もやがかかり、B二十九の音はしても姿は全々見えず、探照灯
を照らしても見えず、途中で炸裂すれば味方の人家に害を及ぼしては
と思い余り撃てず、その間、兵舎も直撃弾を受け三名亡くなられたそ
うです。
艦載機が来たときは良く見えたが当たらなかったそうです。呉空襲の
あと不発弾があり、主人が信管をとると下まで爆薬の詰まった筒があ
り、その回りを油脂がつまっていて長さ六十CMくらいあった。それを
貰って風呂を焚くのに、二握りもあれば焚けたと言っております。
ただ呆然とするのみにて涙も出ず、緊張感と片づけで何をどう動いた
のかわかりません。どうして、いつごろ家に帰ったのかまったく記憶
がないのです。札束のつまった金庫を開けられましたが、すぐに燃え
始めたので閉めました。
艦載機の爆弾投下の時はいつも団外練兵場の下の防空壕へ逃げました。
いつの時かは忘れましたが、まるでハラワタが地からゆすりり上げる
ような感じは、今例えようのない体験です。練兵場の下は穴だらけで
す。
それから施設部は天応へ移り、終戦を迎え、枕崎台風のあと妹を迎え
に歩いて世羅郡まで・・・、これも一つは進駐軍を恐れての決心、そ
こから私の人生もはじまります。

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三二.(悪夢のようなこの日)

               岡本 節子
                 (呉市海岸三丁目一三ー三)

(明法寺前の家で空襲にあいました。呉テントの海軍御用達の仕事を
していた父が、防火水槽の中で亡くなりました。立派な家も焼け落ち
た空襲後の家族は、父を想いながら、戦後のバラック生活を送りまし
た。)

今から五十年前、日本はアメリカ大国を敵に廻して大東亜戦争を戦っ
ていました。それまで七、八年も戦っていた日本に利あらず、昭和二
十年八月六日に広島に原子爆弾が投下され 広島は一瞬のうちに焼野ヶ
原になり市民の皆爆死致し、生きのこった人々も次々と死亡しました。
原子爆弾が投下される一ヶ月少し前、七月一日の真夜中、呉市がアメ
リカ軍の空襲を受け、一夜のうちに呉市は灰燼になりました。
その時私達姉妹は、明法寺前に家がありました。その家の庭に父が立
派な防空壕を造ってくれていました。その防空壕の中で一夜を明かし
『ドンドンドンドン」この中に居るのか』と、聞きなれた隣の後藤の
おじさんの声に防空壕の戸をあけて目に入った光景!!立派な家は焼
けおち、赤い火をチョロチョロあげてもえていました。
この光景は一生忘れることの出来ない強烈なものでした。悪夢のよう
なこの日、父は海軍御用達の商をして居りましたので、本通三丁目
(旧三和銀行)前の会社の二階に寝とまりしていまいた。
「それにしても、父が私達の所にこないのはおかしい。」と妹とわた
しが父をさがしに、二河公園、元町防空壕等さがしまわり、四つ道路
から本通九丁目にむけて帰る途中、建物疎開で町角、町角に大きな十
五M四方の防火水槽が造ってあり、その中に水が二十CM位ためてあ
りました。その中に父は防空頭巾・ゲートルをきちんと身につけ、両
手を胸の所において亡くなっていました。その手を見ただけで「あ!!
お父さんだ。」と叫びました。戸板をやっとさがして父をのせ、城山
町の焼け跡へつれて帰りました。
母はその折体調を悪くしていて音戸の疎開先へ行って居りましたが、
音戸の知人に手伝ってもらい、おにぎりをたくさんにぎって、大入の
方を廻って呉市内に入りたくても熱くてなかなか入れなかった様です
が、お腹をすかしていた私達は ガツガツたべました。幸に焼失をま
ぬがれた親類が三城通りにありましたので、お棺を用意して頂き、父
をお棺に入れ、お通夜を致し翌日、愛宕の山で荼毘にふしました。父
は四十六歳でした。
父はとても明朗快活、進取の気性に富み、オートバイを改造してサイ
ドカーにして、テントでホロをつけ(父は呉テントの社長でした。)
私達や犬(メリー)をのせ、狩留賀の海水浴場へつれていってくれま
した。家の中の階段も二階が住居で、一階はテントの作業所でしたが
二階へ上る階段の私がおぼえているだけでも五回くらい位置がかわり
ました。そうゆうわけで大工さんを一人ずっとやとっていました。焼
けあとにバラツクの家を建ててもらいわたしは雨露をしのぐことが出
来ました。
幸いに母は八十八迄父の分まで長生きして、私達兄姉四人を守り、戦
後のきびしい状態の中で頑張ってくれました。最後の八年は寝たっき
りになりましたが、何時もニコニコして頭もハッキリして、本当にす
ばらしい母でした。亡き父が私達子供にプレゼントしてくれたのでしょ
う。
亡くなった時「寝ててもいいまだまだ生きていてほしい」と姉妹は強
く強く思いました。

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三三.(掘り出した陶器)

              石井 春子
               (呉市焼山北三丁目三一ー一九)

(清水通で、身重の体を抱え、四歳の子どもの手を引いて空襲の中を
逃げまどいました。
電柱がブスブス燃え、神応院の前で焼け落ちた電線につまづき、バッ
タリ倒れました。掘り出した陶器は使えませんでした。)

六月三十日真夜中空襲警報のサイレンに目を覚し戸外へ出て見巡せば、
上道路の上の家が炎に包まれているのに驚きました。
予定日を過ぎた身重な体故、平素より用意して置いた行李(出産用品
を詰めた)を背負い、四歳の子の手を引いて防空豪へ急ぎました。一
家は皆んな腰を上げて避難態勢をとりましたが、間も無く夜が明けて
外へ出て見れば、電柱がブスブスと燃えていて、清水通り二丁目は全
滅でした。
お産の手伝に来てくれた姉が手続きに奔走して罹災証明書をいただい
て戻りました。一刻を競ふ体故、壕に残る方に後のことをお願いして
駅へ急ぎました。神応院の前へ来た時、道路一杯に焼け落ちた電線に
つまづきバッタリ倒れましたが負傷もなく無事郷里に着きました。
主人は公用で不在、二人の子供を学童疎開に、長男を健民修錬に送り、
家には四男と私、僅かな衣類を疎開しただけで家財は全焼。姉は炎暑
の中、焼跡から形をとどめた陶器を掘り出してくれました。釉薬は焼
け流れて使える物はありません。毎年七月一日には床に飾って当時を
偲び、逃げられぬ身を覚悟して仏壇の前に焼死なさった近所のおばあ
さん、壕に避難しながら悲惨な死をなさった方々の御冥福をお祈り申
し上げております。
罹災証明書は汚れてはおりますけれど、何故か大切に保存しておりま
す。戦火の中を彷った訳ではなく、体験などとは申せませんけれど、
思はず思い出のようにペンを走らせました。軍隊の無い国となった日
本です。再びあんな恐怖悲惨の無い様祈念しております。

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三四.(二度とさせたくない私の体験)

               水野 美那子
                  (呉市神原町一七ー五)

(愚かしい戦争も「正義は勝つ」と信じて、苦しい生活を堪え忍びま
した。当時の生活を詳しく紹介します。戦時中の市民生活の雰囲気、
そして終戦の翌年、亀山神社のお祭で食べたサッカリン味ぜんざいの
感激を。)

(はじめに) 日本は戦いに勝つのだと信じていました。「正義は勝
つ」という風に、日本は正しいのだと教えられてきたからです。
お国のために男は戦い、女こどもは銃後を守ることが務めだと信じて
いました。
 それが侵略戦争であり、殺し合いであり、すべての自由を失った人
間としての最低の生き方だったとは。
 このような愚かしい時を再び持ってはなりません。....

≪ 新聞を読んでお母さまは涙をふいておっしゃった。あの十二月八
日の日、太平洋の真ん中で大きな手柄をたてたのは若い九人の勇士で
す。≫
≪ 父上あなたは強かった。骨まで凍る絶壁の背も届かぬクリ−クに、
三日もつかっていたとやら、十日も食べずにいたとやら、よくこそ勝っ
て下さった。≫
戦中の国民学校の私たち生徒がうたっていた歌です。
私の父も赤紙一枚で召集され、私たち母子四人は呉の母方の祖父母の
家に同居しました。祖父は海軍工廠の職工でした。軍艦の部品を作っ
ていて何十分の一ミリの失敗も許されないのだと聞いたことがありま
す。
祖母は先祖伝来の畠だけでなく、庭の隅々まで耕して畠とし、育ち盛
りの孫のため南瓜やじゃがいも、さつまいも大根など腹の足しになる
ものを植えて真黒になって働きました。当時は大阪の方から来た職工
さんたちが何人も下宿していて、食事の支度をする母も大変でした。
食事と言っても代用食が主で、畠の野菜を煮て、メリケン粉の水とき
をダンゴにして入れた”すいとん”とか、卵の入らないメリケン粉だ
け焼いた卵焼き、さつまいもを使った草ダンゴなどです。米は一日一
人カップ一杯ほどの配給しか無く、砂糖など甘いものは全くありませ
ん。ひきうすで大豆を粉にし、みそもト−フもすべて手作り、それも
くどに薪をくべて炊くのであり、たいへん時間も努力もかかりました。
朝食ができると先ず、父の写真の前に陰膳を供へ、一家して父の無事
を祈ります。朝食は天井がゆ日が多く、天井がうつるほどの水の多い
おかゆに、さつまいもや大根葉が入っているのですが、誰も食事の不
平を言う者はおりませんでした。
学校では天皇陛下のご真影に最敬礼を捧げ、勅語を暗記し、何度も防
空演習が行われました。戦火も激しくなり、クラスのお父さんたちが、
一人、二人と戦死の報せがあり、心細い日々でした。
夜は灯下菅制が敷かれ、風呂敷などで覆いをかけ、うす暗い電灯の下
で本を読んだものです。寝る時は枕許に防空頭巾、リュック、服など
暗目でもかるようにしておきます。
真夜中の空襲も何度もあり、警報が鳴ると母に連れられて川向こうの
防空壕に逃げこみます。眠いと言って泣き叫ぶ子など一人もありませ
ん。リュックには学用品とか非常用のカンパンなどが入っています。
壕ではムシロを敷いて、どこの家族も肩を寄せ合ってじっといていま
した。
そのうち呉は海軍工廠があるから危ないだろうということで、母子四
人島根県に疎開しましたが間もなく終戦、帰って見ると呉は焼野原と
なっており、何人もの友達が亡くなっていました。祖母は宮原十三丁
目の焼跡の一画を借りて耕し、体力の続くかぎり精出していました。
間もなく父が復員しましたが、七年も戦地にいた父になかなかなつけ
ず、当分遠慮な気持ちでした。父は戦地において鉄かぶとのすぐ横を
ヒュンヒュンとんできた弾のこと、次々にたおれた戦友のこと、野戦
病院で苦悩したことなど折にふれて話してくれました。
間もなく父は学校の教員として復職し、朝夕の合間には山羊を飼って、
生活を支えてくれました。
終戦の翌年、はじめて友だちと亀山神社のお祭りにお参りして、帰り
に屋台でぜんざいを食べました。甘味はサツカリンで、おおかたは水
です。茶わんの底にはあずきが五粒ありました。三粒しか無かった友
だちがとてもうらやましがったのを今も忘れません。
五十年も昔のあの困難な日々を思うとき、祖父母や父母に感謝をして
もし切れないほどです。お年寄りを尊敬し、家族も親類も近所も助け
合って暮らしました。しかしそれにしても大きな犠牲を払いました。
大勢の人を亡くし、過酷な日々を強いられました。
今、平和な時代となり、何でも買えてぜいたくの限りをしています。
食うや食わずの時代を経験した私にとっては、いつも「これでいいの
だろうか」という自責の念があります。食べ物も出来るだけ手作りと
し、残っても勿体なくて捨てることはとてもできません。
 息子夫婦にも二人の孫にも、いつも戦争中の話をしてやります。愛
しき者たちに二度と私たちの経験をさせるわけにはいかないからです。

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三五.「広方面呉海軍施設 戦災史」(昭和二十年 石原隊長報告)

               石原武夫
               (広島市南区旭二丁目一六ー九)

(施設部隊長として過ごした、広工廠での爆弾空襲の詳細な体験を、
当時の報告を基に綴り残します。女子挺身隊員と過ごした十一空廠の
地下壕工場、空爆で死んだ馬を豚汁と思って食べたエピソードも。)

自分(石原)は、昭和十二年十月十六日、赤紙にて応召。十三〜十四
年の約三十間,中国杭州湾に日軍百万のアドバルンを掲げ、南京城〜
無湖〜九湖〜安慶〜黄梅〜武漢三鎮〜信陽〜南昌〜攻防に第一線で活
躍。十四年八月に内地へ帰り、内務省復帰し、第二の奉公内務省より
海軍省に転属、昭和十九年五月,海軍主任技手として呉方面土木監督
官として勤務。広航空隊広造機十一空廠の防空設備を、その内広航空
隊の飛行機格納庫が急務。次に一番急務の黄幡山ABCの地下防空壕
(飛行機の部品製作組立庫 エンジンのテスト防護所)第二女子挺身
隊の待避所等である。
毎朝女子挺身隊が仁方の方面から我々広方面広海軍施設事務所の前を
整列して通る。又歩調取れ、頭(かしら)右の号令も聞いた。しかし
戦況は段々悪くなって来た時、第一回の初空襲が昭和十九年三月十八
日,朝の朝礼を十一空廠と広造機の中間,木材集積上十米位の上で朝
の訓令をして居た時、呉方面より三機ゼロ戦の「カッコウ」をした飛
行機が我々の方面に向かって飛んできたと思うとドンドン爆撃ととなっ
た。敵機だ。その場に散れと声を(カケ)てもあわてふためくので早
く逃げるのだ。三回目の号令に米軍艦載機が焼山方面より延べ二百五
十機来る。
機銃の着弾の弾(タマ)ブスブスと音がする。また五十キロ爆弾を抱
いているのが見えた。集中的に攻撃された。
一時間後に自分の中隊事務所に戻ってみると目の前で徴用の馬が足を
やられてプラプラさせている。左右をみると防空壕がなく,蟻地獄で
も言いますか、海軍の兵隊,女子挺身隊がアリジコクの下になりバラ
バラに砕けて死んだ。また私のカバンのなかにソロバンと弁当が入れ
てあったのが見えない。当番の学徒が探してくれ、見ると蟻地獄のな
かに,僅かカバンの下げる所が見えているので引き揚げてみると、カ
バンの吊り下げだけ残り、爆風でどこかに飛んだのでしょう。
夕方になり、午前中の爆撃の後始末のため軍トラック五台くらい来て、
兵隊・工員・女子挺身隊をカマスに入れて仁方の手前の白石の山辺で
火葬にしたそうである。その時、ああ戦争はなぜするのかと思った。
思わず英霊に合掌した。
また、第二回五月十八日(?)、朝十一空廠内から呉鎮の上空を見た
とき、銀翼を連れてB二十九がゆうゆうと高度五千メ−トルくらいを
取り、我々の方にやって来る。空襲のサイレンが鳴る。工廠上空で1
トン爆弾の投下、ドスンドスンと時々破裂する。十一空廠内は火の海
と化した。この時は廠内・煙幕を張ったけれど、投下されてまるで駄
目。石原隊長も黄幡山より長浜に出て行き、途中でトンネルにちょっ
と入った。どのトンネルも満員、海軍施設の者はついに宿借り、その
中には兵隊、女子挺身隊、工員で一杯。爆弾が落ちる。また時限爆弾
だから炸裂がひどい。同時にトンネルはモロに縦横にゆれる。生きた
心持ちはしない。女子挺身隊は泣きわめくので、石原、第一線の兵隊
のことを思えばなにかと何回となく止めた。ここで山づたいに長浜に
到る。三時,海の上を見ると、水上機が逃げている。また軍艦伊勢は
情島の影に隠れていた。また、チヌやボラ、小魚が腹が裂けて浮いて
いた。
その内、長浜より十一空廠の北門まで歩いて,下りかけより広交差点
の軌道を見ると全線がやられ、レ−ルは弓矢の如く曲がり駄目。人影
なく,皆防空壕に入って出てこない。また廠内を見ると、時々火の手
があがる、時限爆弾の炸裂の音がする。また十一空廠の横、Aトンネ
ルの坑口十メ−トルの松木に馬の首と手綱がついたまま、ブラ下がっ
ていた。
この時、我ばかりと我らが海軍施設の力を出すときだと各中隊長集合。
第一、二、三、四まで編成。電車道を片付け広交差点に出て海軍施設
事務所に帰った。帰った時までの様子は判明ではない。夕方十時頃点
呼を取り休ませた。しかし、中国でも直接火の海、戦火に入り込んだ
こともあった。しかし工場の中は火の海と化し、ドスンドスンという
気持ち悪い音がする!!!
一つ珍しいことは、施設の馬を工廠内に二十頭くらい仕事をさせてい
たのですが、B二十九の時は全滅で、炊事は夕食のオカズがないので
馬汁を作り、しかし我々は知らないので豚汁と思い、後から聞かされ
てビックリ。しかしこれも戦争中のトピックニュ−スである。
二、三日休養というか呉鎮も大計画変更の時が来たり。資材倉庫を佐
伯郡の宮内阿品方面に作ることにして毎日トラックで十台くらい当分
運ぶことになった。しかし仕事にならないので二日目に宮内の寺院、
国民学校に泊めることにし交渉というか半分は強制。しかし寺の坊さ
んも話がわかり、明日より宿ることにして責任者は準備に残して帰り、
明朝は早く十台で連れて宮内に来る。徴用工、自家徴勤労奉公隊、学
徒動員の編成である。まず一番に工業の土木の学徒動員50人と海軍省
技術官で山の手を見る、割合に山は低く、真砂山であった、木はまあ
まあの繁りでよかった。
五月二十五日、石原土木官は天皇陛下の防空壕を掘れとの命令来たり。
急ぎ準備にかかり六月五日呉鎮を出発し東京に。大本営海軍部301
8部隊に編入され次の計画に参加する。人間の命は紙よりも薄く、海
山よりも深いと思う。
石原も、宮内に資材倉庫を掘った連中も紙一枚。それは毎日,広より
呉−吉浦−尾長−相生橋−福島町−己斐−五日市−甘日市というコ
−スを取って毎日通っていたら、全員原爆でやられており、姿形もあ
りません。
B二十九が来た時、鉄矢板のそば、錆を落としていた五,六人が居な
くなり、後、戦後終戦事務の処理の時、初めて判明。鉄矢板払下げに
なりトラックで鉄矢板を一枚一枚積んだ時,徴用工員のネ−ム入がガ
クリ付いているのを見て、初めて一トン爆弾に直撃され、爆風で中に
入ったということが判り、これも戦争ならではの体験。合掌!!!

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第二部 呉戦災展でのアンケート帳から


一, 1975年(三十周年記念展))


 一.池田徳一(長崎市伊良林町一ー六一)
(蜂の巣状の焼夷弾筒)


私は敗戦当時、海軍特攻隊員として呉港外の特攻基地にいました。三
十年前のことなので、何月何日に転勤になったものか、それすらはっ
きりしなかったのですが、貴会発行の「呉戦災を記録する会 会報 
No1」に記載されている資料を見せて頂き、それが七月一日である
ことがわかりました。
と言うのは、転勤したその夜、呉市が大空襲にあい、夜空をこがして
赤々と燃え上がったのを覚えているからです。私たち若い兵隊は、特
攻隊で死ぬことより、基地に行けば特配があって、甘い物がたくさん
食べれるということを何よりの楽しみにしていたもので、その何より
の期待がその夜の空襲でみごとに打ち破られ、当分、甘い物の配給は
ないと聞いたときの落胆ぶり・・・今思っても情けないくらいでした。
数日後、何かの用事で班長に引率されて呉へ参りましたが、その火災
の跡はすさまじく、川の洲の中にまるで蜂の巣のような焼夷弾の筒が
つきささり(はじめは何だかわからずに、しばらく見ていて焼夷弾の
薬莢だと判明したのですが・・・)こんな密度でばらまかれてはひと
たまりもないなあ、と語り合ったものです。
 七月二十八日 日本海軍全滅の日、あれはその前映画で見ていた
「ハワイ・マレ−沖海戦」の中のハワイ空襲のようでした。何時ごろ
だったかおぼえていません。空をおおう艦載機の群でした。グラマン、
双胴のロッキ−ド・シコレスキ−など、写真で見憶えのある戦闘機の
姿が空中を乱舞し、呉港外にのし上げていた戦艦、重巡などの連合艦
隊におそいかかったのです。
動けない戦艦は、まるでおそわれるままにまかせた鈍重なけものみた
いなもので、主砲をあげて何発かぶっぱなしましたが、それは全く滑
稽で、あわれな姿でした。
意外だったのは、軍艦が燃えるということでした。
メラメラと一晩中燃えていたようです。そして次の日は赤茶けた残姿
を、みにくく海岸にさらしていたのです。
あれはきっと塗料が燃えたのだと、みんなで話した記憶があります。
イ号やロ号の潜水艦も被災したように聞きました。
 大変残念なことに、私は自分がいた島の名を知らないのです。私が
忘れたのではなくて、どうもあの頃の特攻隊では、その地名を隊員に
教えなかったようなのです。ですから、一度出かけて行って、私の青
春の思い出の地を訪ねようと思いながら、今日までその機会を持てな
いでいるのです。
私がいたのは、呉港外で、江田島のひとつ向こうの島(これもあやし
い記憶ですが・・・)そこに特殊潜航艇の基地があって、工場はその
対岸の(これも島のようでした)向こう側にあったようです。私たち
は、毎朝、上陸用舟艇で、その工場へ通ったようにおぼえています。

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 二. 匿名 ...(鹿田から見た呉空襲と市街の惨状)


 昭和二〇年七月四日、私は勤務先の呉海軍工廠から呉市東鹿田町の
自宅へ帰宅した。その頃妻は、郷里へ疎開して一人で生活していた。
その為食事等は殆ど工廠内で済ませて帰り、自宅では只寝るだけの生
活の状態であった。
夏の暑い時候であるので二階の部屋で窓を開けて休んでいると、つい
ウトウトと寝入ってしまったらしい。一〇時頃であったと思うが、空
襲警報で目が覚め防空服装を着け階下へ降り、家の玄関に作っていた
簡単な地下式防空壕へ入りかけたが、どうも木造建築の下の簡単な壕
では不安なので、隣の奥さんなどを誘って隣の藤原さんが造っておら
れた横穴壕へ入らせてもらいに行った。
既に他の隣の人達も来ておられ、いつでも退避出来るように壕の入口
付近で話していると、飛行機の爆音が聞こえて赤い尾灯が川原石方面
の上空を動いているのが見えたかと思う。
飛行機から数個の黄色く光る焼夷弾が投下され、街の家並の屋根に達
したと思うとパッと火柱が挙がり、続いてその付近が大きな焔に包ま
れるのが望見された。
私がいたところは一五丁目の電車亭留所から、畑へ行く本通のカーブ
の上にあたる丘の中腹にあり、川原石方面ははるか眼下に見下せる位
置にあった。その夜は月夜ではないが晴れた夜であったので、川原石
方面の街の家並も一軒一軒の影は区別できないが、ほの明るい空に対
して街の家並みはシルエットのように空に対していたので、焼夷弾に
よる火災は打上花火を逆に空から地上へ打ったようで、焼夷弾が屋根
に達すると殆ど瞬間的に燃え上がり、本当に美しく見えた。
攻撃は、川原石方面から次第に呉市の周辺部に移り、平原水源地の方
にも火の手が挙がった。こうして攻撃は市の周辺部を焔上させて、そ
の中へ向かって絨毯爆撃を加えているらしく、急に市内は騒がしくなっ
てきたので、私達は壕内へ退避した。
どの位時間が経った知らないが飛行機の音も止み、市内も稍や静かに
なったので壕から出て自宅へ帰り仮眠した。幸いに火は一四丁目まで
延焼し、自宅までは来なかったので、工廠のことが気になり、いつも
より早めに出勤する。
昨夜の空襲の時は、防空壕から丁度目の下に見えた三宅千福の酒倉が
尚燃えていて、大きな酒桶(ホソ)が高い黒煙を挙げていて、時々爆
発的に赤い焔を出していたが、今朝はホソは完全に燃えつきていて、
鉄製のホソの輪(たが)が、ホソのあった処へ数個宛重なっているの
が見える。
電車は勿論上がっており、電車通りを歩いて工廠に向かう道という道
は、散乱したガラスの破片と焼き落された電線とで、足の踏み場もな
いようになっている。
漸く出勤してみると工員の大部分は出勤していて、中には戦災を受け
て家や家財を失った者もいるが、本人も家族も皆安全のようであり、
作業は続ける。
工員の一人で、その頃東北の多賀城に長期出張している者があり、そ
の人の住居も被災地域にあるので、家族の安否調査に行くよう命ぜら
れ、午後になって登町方面へ探しに行く。
市街地へ行くにつれ戦災の悲惨な状況が見えて来る。
和庄通りから登町方面へ行く。この方面は、山の斜面に家があった関
係で家を焼き払われた跡は、高い石垣の屋敷跡ばかりが目につく。
人影もあまり見当らない登町の先の方まで行ってみたが、尋ねる家族
の消息はつかめない。
やがて横穴防空壕のある付近で沢山の死者が焼け跡に置いてあるのに
出会った。
被災者は横穴に入っていて煙により窒息死したとかで、焼けた屋敷の
石垣付近に菰一枚で巻かれて置かれていて、菰からはみ出した手足は
黒く焼けたのがあり、黄色くなったのや、赤いのや青いのがあり、種々
の色をしており、本当に悲惨な有様であった。中でも私の心を打った
のは、小学生位の男の児の死体で、絣の着物を着て菰に巻かれて大人
の死体に並べて置かれている光景であった。
暫く探しているうちに尋ねる人の消息も分かり帰廠し報告した。外に
もこの戦災で防空壕内での死者相当数の上ることがうわさされていた。

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 三.宮原 康久(呉市西中央5丁目五ー十二)
「 生活を破壊した呉空襲」


 話したくない戦災当時の思い出、ゾっとして今でも身震いする位で
す。
 7月1日は私の誕生日です。何故この日に、この世の地獄に遭うの
かと思うと、真っ黒い谷底へ突き落とされたような気がして、運命の
皮肉さには申し上げる言葉さえ出ませんが...
私の家は旧市内の端、北迫町にありまして、隣の稲荷町・古川町は建
物疎開で道路の幅が広くなって、火災の時でも火の移りにくい、当時
としては一等地にありました。屋敷が約三百坪、庭木に囲まれた家屋
の二階には、呉海軍工廠の電気部長(当時少将)の下宿先になって居りま
した。軍の電話もついて居りまして、皆からうらやまれるくらいでし
たが...
あの恐ろしい七月一日の真夜中、敵機から落下する焼夷弾の異音に目
を覚ましてびっくり...早速部長さんを起こしてから、我が家の庭
の防空壕に、親子三人待避して居りました時に、自分の目前にドラム
缶の様な大きな火の玉が落下して命中。広かった家屋が一瞬にして火
災に包まれたのです。
今まで無風だったのが、急に風が強くなって...裏隣の広い屋敷に
は呉工廠の砲熕部長(当時少将)宅だけ残って、次から次へと類焼して、
この世の地獄となって...消防自動車は全然姿を見せません。
町内の丘の大きい防空壕へ命からがら逃げたのです。火の玉の降って
くる中を子どもを抱いて恐かったです。敵機が去って薄々と夜が明け
てから焼け跡に帰り、唯ただ茫然となって居りました。焼け跡にはガ
レキと残り火が盛んに燃えて居りました。
断水ですから困りました。寸時してから救援のおにぎりが届きました
が、食べるのに箸が無いのに閉口しました。
この惨状は味わった者でないと分からない精神的苦痛は一生忘れる事
が出来ません。

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二,1995年(五十周年記念展)


   (六月二十八日〜七月二日 呉市役所1階ロビー)

 一 佐々木富三(安芸郡海田町蟹原二丁目四ー三三 八〇才)
 ...(戦争はもう沢山)


 呉空襲時・・・旧和庄四丁目に住んでいました。空襲警報が鳴って
屋外に出たとたん顔に小雨のようなものがかり、雨でもないのに変だ
なと思ったとき清水通り辺りに照明弾が落とされて、パッと明るくな
り、妻子に避難をするようすすめている時、第一回目の爆弾が落とさ
れ、第2第3の爆弾により次々に焼けてゆきました。翌朝船に乗るべ
く桟橋方面に行く途中に累々と死者の方々が並んで目を覆いたくなる
気持ちでした。
 三月十九日の空襲で本船の兵員も20名くらいの戦死者を出しまし
た。
 私は兵隊として戦争をするのが職務でしたが、あんな悲惨な戦争と
いうものはもう沢山です。

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 二 池上多恵子(広島市中区江波西一ー二十八ー八)..
 (水を飲ませたっかた)


 今年もつらい悲しいご命日が参ります。ちょうど50年前です。
 昭和20年七月一日深夜から2日未明にかけて焼夷弾の中を東公園
で逃げ回りました。足下へ焼夷弾が落ち、飛び退きました。
 人のいる所をめがけて焼夷弾が降ってきます。
 高いガケより飛び降りて逃れました。長迫国民学校の5年生でした。
 七月二日の朝9時ごろ次々と担架で運ばれるのを見て、走って校庭
に入ると、一面に息も絶え絶えの多くの人たちが炎天下地面の上にそ
のまま整然と声なく横たわっていました(声が出ない状態)。夏の強
い太陽の下でどんなにか水が飲みたかったでしょう。おじさんが「水
を飲ませないでください。飲むとすぐに死にますから」と走って回ら
れましたので、すぐそこに水道があってもお水を飲んでもらうことは
できませんでした。
 (今、思うと最後の時には飲ませてあげればよかったと思います)
 その時はお水を飲むと死ぬのなら飲まなければ助かるかもわからな
いとほんの少し希望がありました。
 その中で一番幼い朝日町の数え年四才の女の子の手をにぎると大き
く目を見開いて、私をしっかりと見つめてくれました。
 すでにぼんやりとして見えなかったのでしょうか、女の子と私はし
ばらく見つめあっていました。
 手をやわらかく握ると女の子も握り返してくれます。
 幾度か握り返しあって、私は少し安心しそのまま女の子の手を加減
して握っていました。
 六月十四日に神戸高等商船学校と大阪高等商船学校呉長迫分校のお
兄さんたちが出陣されてわずか二日後の六月十六日に輸送船が撃沈さ
れ悲しい思いの真最中の時でした。
 側に岩佐先生が来られ「この子はもう駄目じゃね」と云われ、私は
頑張っているのに意味が解ると大変心配しました。先生はダメねと思
いました。
 十三時五十分、静かに眼を閉じました。
 唯一の慰めは、苦しむ様子は見られず、きれいであったことです。
 本当に可愛い可愛い姿でした。
 お母ちゃんに可愛い服を着せてもらっていました。死出の衣装です。
 その女の子より一人置いてお母さんらしい人が地面に寝ていました
が、私が女の子の側で足を止めたので、心配でたまらず上半身起き上
がろうとされ力が入らずバタッと倒れました。
 又、一、二年生の時、同じクラスであった山口君とお母さんは防空
壕でそのままだったのか、母が心配して探しに参りましたが、家は焼
失して二人の姿はありませんでした。
 校庭にも見つからず、そのまま親戚へゆかれたとも思えず、お手紙
も来ないので駄目だったのであろうと、旧人の供養と神戸・大阪の高
等商船学校のお兄さんたちの御供養をさせていただいております。
 今も、いえ、永遠につらく悲しい六月十六日、七月二日、八月六日
です。 合掌

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 三 久保....(両城の丘で見た呉空襲)


 あの時から丁度五十年後の今日、一九九五・七・一 一七・〇〇に
空襲展を見てこのペ−ジに思いつくままにボ−ルペンを進めています。
 あの日の一日の夜中から明け方にかけてのことが今でも鮮明に思い
出される。
 私は当時中一の中学生で、両城の丘に下宿していた。
 あの夜、「プ−」「プ−」「プ−」という警報と下宿先の長男の声
で目がさめた。
 高い塀から対面の所を見ると、バラバラと火がばらまかれた。また、
呉市街の周りを火をばらまいて行き、中心部へとばらまいて行ったよ
うに思う。
 下宿から、裏の山の頂上近くにいつ行ったのか定かではないが、気
が付くと山の上から空襲の様子を眺めていた。
 下の街の(三条通り辺りか)あちこちからお互いの名を呼んだり、
確かめ合ったりする声が聞こえてきて、今でもパチパチという燃える
音とともに耳底のどこかに残っている。
 夜明けとともに、くすぶり続ける煙の中に見える街の姿はあわれな
ものであったと思うが、当時は「遂に呉市も焼かれた」かという想い
をもったのではないかと思う。
 下宿は被災をまぬがれたが、下宿の離れに老婆が住んでいた。その
老婆がフトン持ち出しを手伝うように要請されたが、親切にしてやる
ことができなかった。
 あの晩以降、老婆との人間関係がギクシャクした。
 朝となり、くすぶり続ける街中を通って、実家のある島へとその日
は帰って行った。
 島の家に着くと、私を見つけた今は亡き母が「目が真赤じゃの」と
言われたとき、くしゅんとはならなかったが一瞬、下を向いた。
 あの当時のことは思い出したくもないが、あの時、下からばかり、
あの日の夜を見たり、B29を見ていたので、当のB29からの見た姿は
どんなであったと思い、展示会を見に来た。
 「ああ、あれだったのだな」と思うことも随分したし、感無量のも
のもあった。

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四.掛井 義行(広島市安佐南区安東四丁目一六ー六)
 ...焼夷弾筒を寄贈


私は当時、呉市境川通2丁目に住み、本通9丁目にありましたバプテ
スト教会が、広島県警察部警備隊呉小隊の宿舎になっており、その隊
員として勤務しており、戦災当日は宿直勤務でありました関係で、同
宿舎で戦災にあいました。
したがって、境川通の自宅はもちろん宿舎も焼失し、夫婦ともに、着
のみ着のままの状態になり、同月十日に次勤務地、広島市比治山本町
に移り、八月六日の原爆被災者となった者です。
それでも同僚その他大勢の被爆死亡者があったにもかかわらず、私は
死をまぬがれる事ができ、現在に至っているのは有難いことと感謝し
ている次第であります。
七月一日、私達の宿舎に投下された「焼夷弾の筒と高射砲の破片」も
し参考となれば使用して下さい。私の所有権は放棄いたします。


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第三部 資料編



一 罹災者の一人となって


(中国新聞昭和二〇年七月二〇日付) 林海軍報道班員(本社)記
 (戦時中の報道管制の厳しい中での、記者自身の体験記は珍しい。
当局からの教科書通りの消火活動がいかに無理なことか、戦意昂揚を
述べながら、隠れた本音を報告している。当時の時代的な雰囲気を良
く示している。)

  罹災者の一人となって
  降り注ぐ二十数発
  火たたき執って焼夷弾と取っ組む

敵が火の雨を降らすことは平常覚悟し、話にもしていた。十分の心構
えはあった。準備もしていた。必需品の疎開もやった。それが七月一
日の夜、現実となったのである。
自分は前進基地における爆撃の体験は十分あったが、暗闇の夜から雨
と降り注ぐ焼夷弾は初めてであった。それで平常の覚悟とこの現実と
の間には矢張り相当の距離がある(ことが分かった)
丁度非番で、自宅にあって警戒と空襲警報に接したが、この間の時間
がやっと一人の老母の支度と自分の身支度をするぐらいの時間しかな
かったので、一寸気分が落ち着けないまま、外に飛び出した。
その出鼻を、あまり広からぬ家に二十数発の火の玉が空から躍り込ん
だ。最初はサッと一瞬の恐怖感が背を走る。それは自分の近所は疎開
がまだ十分でなく、火に囲まれる怖れが多分にあったからとも言える
が、この最初の恐怖は、何度爆撃を経験しても自分は常に感じる。し
かもこの時は「何くそ」と思うと同時に直ぐに何かの行動に出ること
である。火叩きを取って、見つけた最初の火の玉に踊りかかると、こ
れで一切の恐怖はなくなるものである。
次々と五、六発は消した。水よりも砂がたしかに早く消えた。しかし
一度に二〇発あまりであるから、一人ではどうにもならない。妻は老
人を見守る(ため)横穴にかけていた?これがいけなかったのだ。大
げさな言い方だが「大義親を滅して」一人の大切な老母という気持ち
を捨てて、田舎かどこかに疎開させておくべきであったが、これを敢
行していなかったため(その時)一人であった。
バリバリと天井が燃え出した。ふと外を見れば、すぐ下の家は丈余の
火焔を噴き出している。しかし気分は案外冷静であったが、裏の壕に
母と妻を呼びに行った。七二歳の足弱の老人を火焔の下をくぐって避
難さすときに反って不安が強くなった。頭上に火の雨が降るやら、で
も自分の上にはなかなか落ちるものではない。やっと火焔に包まれる
おそれのないところまで連れ出して、静かに敵機の姿を求めた。敵機
は一機及至数機が高度○○で進入している。雲が厚くて姿は時々しか
見受けられない。
雲間から見える敵機は実に憎々しく振る舞っている。自分の家のこと
よりは、何卒一区域でも火の拡がらぬようにという気持ちが一杯で市
中を見守っていたのである。
百年余の古いなつかしい生家を一夜に失うという現実にあった只今の
胸中と、火焔の下を避難する時の気持ちとはまた大分距りがある。平
常の心構え−これの実現−罹災した今日の覚悟−とにそれぞれ相当の
距りがある。たしかに三段論法になっている。罹災して焼野原に立っ
てみて、言うには言われぬすがすがしい気分と、盛り上がる戦意が平
常の心構えのうちにあったら……と今にして反省している。何物も惜
しいとは思わぬ純粋に戦意一本になった気持ちである。この気持ちで
徹底的に疎開を断行し、自己の周囲を決戦体制下に即応せしめている
べきだったと思う。凡人は三段論法を正しく歩まぬと最後の覚悟に到
着し得ないのだ。非凡な人、哲人、いや本当に戦局を躾として身につ
けている人は、三段論法を確かに飛躍して最後の覚悟まで持っている
人であろう。自分はこの非凡の人、戦局を真に身につけた日本人になっ
ていなかったことを恥?じた。
 そして、まだ罹災していない方々に「大義親を滅す」といふ、ほん
とに思いきった決戦態勢になっていられる様に念願し、そして防空態
勢には「決してゆきすぎ」といふことはないことを重ねて申し上げた
い。

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二 あれからちょうど十年(上)

           (中国日報 記事 八.一六.一七.一八)

 (呉空襲後の取材メモを基に、暖めていた内容を十年後の記念日に
やっと記事にできた。記者の目で、歩くことで、直接取材した呉空襲
の具体的な被害状況を、客観的に全体的に報道した唯一の貴重な記事
である。)

  終戦の日訪う 焼野原の呉市 
  見たまま、聞いたまま

(前略)
 呉線に入るに、海岸側のヨロイ窓カ−テンを締める者はなく、注意
する者もいない、停戦の大詔あっての故ではあるまい、山陽本線でも
軍人の客が多く、いつのまにか窓を開けて多少でも涼を入られていた
から、たまたまの空襲警報にも窓から空が眺められたから。 呉線海
岸の未完成トンネルは軍の倉庫にあてられている。遥か沖、狩留賀海
岸にも御用船が繋留されているが一隻は損傷して甚だ傾斜している、
開戦の頃、坂、矢野沖合から宇品沖にかけてみられた荷役中らしい壮
観は今は見るべくもない。(それが軍艦で双方とも擱座していたもの
とはあとから知った)
 列車は呉止まりか、広までか、糸崎行か、海田市発車の際駅員に尋
ねても不明のまま、案じている客が多かったが、呉より更に先まで行
くらしい。車中、停戦の大詔に関する話はあまり聞かれず、何れもま
だ疑心暗鬼のもののようであった。

 あれからちょうど十年(中) 
  終戦の日訪う
  焼野原の呉市
  見たまま、聞いたまま

 呉駅の降車客は戦災地というに相当あり、海軍関係にかかわるもの
と、街の戦災も時日を経過しているためであろう、また、この列車が
入るまでに四時間を経過しているセイもあろう。
駅は貨物上屋の一部のほか全焼(その他は路線橋の下に枕木を重ねた
待避壕のみ残っており、ここで現場事務がとられている。焼跡はキレ
イに整理され、駅前広場の一部をなしているので、旧建物の位置さえ
思い出しかねる。右側の銃後奉公会のバラック建が不思議に焼け残り、
ここが切符売場となり、それに隣接の人力車夫の溜り場が駅前派出所
と化している。
 一瞬焼け野原の中に、駅前増岡組本店とその東方に松本参議院議員
の本宅と二つ残っているのは、耐火煉瓦のため延焼を免れたものであ
ろう(何れも水交社に徴発されていると、のちに聞く)
今西通にかかる右側は疎開ずみ、左側の旅客自動車庫(木造)と隣る
鉄筋の市電変電所が無事だが、二丁目角の中国新聞社疎開跡、その向
こう側に積み重ねてあった同社の移転用材も黒焦げ。
焼け野原は遠く灰ヶ峰山麓に及び、東方高地部も中腹まで焼けている。
西方は大したこともないらしい。死の街広島を見た目には、約三分の
一ぐらいの被害。
ところどころに樹木も残っており北、西の高地には残存家屋もあり大
して驚くほどのこともないが、これが愛する第二の故郷の変わり果て
た姿かと思えば、ひとしおの淋しさを感ぜずにはいられない。
 駅前を電車道に出てみると、角にあった三和銀行の支店が跡形もな
い、木造コンクリには、ありし日をしのぶすべもない、さすがは鉄筋
の電話課(今の電話局)で、鉄筋だけに異常なく、かねて各窓には爆
風を避る防材も施してあったほどに、内部には異常ないらしい。
この電話課建物の隣接家屋は表三間を奥まで疎開ずみ、この次には電
車道を隔てた向かい側も疎開する予定のようだったが、その必要はな
かったようだ。隣る郵便本局の木造は助かるはずもなく、堺橋の呉警
察署も表玄関の壁だけ残している。
向かい合う消防署なる鉄筋建は異常なし。橋の袂の呉市信用組合は金
庫の残骸だけ残している。この堺川岸の両側の家並みは戦時下大疎開
して堺川を中に蔵本通と堺川通との大幅な空地が設けられ、如何なる
大火災にも川を越えての延焼はないものとされていたが、この大空襲
に遭うては疎開空地の如き何の役にも立っていない、ただ僅かに避難
地をなしたのみであろう。南方にガスタンクが不思議に残っている、
海軍防火隊に護られたのだろう。
 堺橋を渡って、もと海工会なる報国団本部焼跡に早くも仮設の事務
所を開かれているほか、中通にいたるまで何もない。焼跡のまま四ツ
道路の旧銀行建物なる市交通局は焼け残る倉庫にバラックを継ぎ足し
て辛うじて事務をとっており電車が運転されておるのが、唯一の街の
鼓動である。
電車も動いていなかったら、広島同様全く死の街であろう。もちろん
少数ながらトラックの運転はあり、今なお海軍の存在を思わしめてお
りはするが・・
 丘の水交支社が焼失しているのに、その下方の亀山町の一角が焼け
残っているのは、どうした風の吹き回しだったろう。四ツ道路を清水
通にあがるに、亀山町に向かい合わす元町の入口辺りに数軒が戦禍を
免れている、それから上は、右手の海親会、第二門付近から、海軍病
院の裏門、病室と帯の如く嘗め尽くされ、左側の民家は海軍が建物に
近いので第六疎開で撤去されることになっていたが、その疎開が完了
していたのかどうかわからぬが、とも角跡形もない。
 清水通をのぼりつめて、神応院はすでになく、付近を疎開して保護
されていた清水通小学校もない、万年寺を残して、東方一帯の焼け野
原は、あの辺にも家があったのかと思われるほど、山の中腹深く残骸
が残っている。
 宮原通は、堀割の辺りから二、三丁目にかけて焼け、見降ろす海軍
構内は、海兵団の歴史的赤煉瓦が半壊、新兵舎も形を残すは一、二棟
のみ。はるか呉駅裏一帯に軍需部倉庫が密集していたのも疎らとなっ
ているように見られる。旧防備隊、病院はあるも、旧建築部なる施設
部が見えない。鎮守府本庁舎は真ん中に直撃弾を受けガラン堂になっ
ていると聞いていたが、ここから見ただけではわからない。軍法会議
は影もない。


 あれからちょうど十年(下)
  終戦の日訪う
  焼野原の呉市
  見たまま、聞いたまま

( 呉についたその晩“停戦”については、あちこち街の話を聞いて
も何もわからない、だから“敗戦”と信じることも出来なかった、が
翌16日朝のラジオには確かに“敗戦”“降伏”の語句があり、宣告
された衝撃を覚える。鈴木内閣総辞職のニュ−スもあるが、昨日から
不可解な“共同宣言”については、ラジオも何一つ解説してくれない。
目はさめているが、ここ1週間の疲労は回復せず、起き上がる元気も
ない。メシはことわって携帯のミソでミソ汁をたいて腹をつくる。そ
のうちに町内の臨時常会のフレがあった。“従来通り“灯火管制を厳
重に”とのほか、停戦については何事もない。“昨日は昼夜4回も防
空壕にかけり込んだが、今日は空襲はあるまい”と話されるのも、な
んだか気が抜けたようで、張り合いがない「「「敗戦のためとあって
は。)
 朝の間、宮原一帯の被害をみるに4、5丁目を過ぎた6丁目ごろか
ら所々に罹災跡がある、中には建物疎開跡もあるが、確かに焼跡が多
い、この一帯7月1日の大空襲は免れているが、その前の工廠爆撃に
ソレ弾を喰ったものが多いという、7丁目下の水野前市長邸も跡方が
ない、はるか工廠を見降ろすと造船、造機は無事であるが、砲熕水雷、
製鋼と造兵部は全滅の状態。
 過ぐる日の市街大空襲の模様を聞くに、第1波ではまだ火の手はあ
がらなかったが、第2第3波が清水通3丁目神応院あたりまっすぐ北
に進み本通14丁目あたりを折れ、長ノ木、内神から二河公園の、も
と海軍監獄裏手の山林を焼き、南に折れて三津田から西本通に向けて
編隊は脱去、かくて、海岸をのぞく市の三方が猛火に包まれるや、さ
らに第4波が中通、本通から西へ中心部めがけて焼夷投弾に及んだも
のだという。
西部は最初の投弾が公園裏から山林だったので避難に混乱が少なかっ
たが、和庄方面は恵まれた横穴壕に避難したのが却って禍いで、折柄
の風に平坦部から吹き込む猛火に多数の人が蒸し焼されたという。
(このため水道はとまり、電灯も数日後の復旧、電話は当分見込みが
ないと)
 市役所の移転先という二河公園へと出かける。神原あたりの焼け跡
にポツンと残る外側はあるも、屋根が落ちている、避難の際、これは
予想しなかったことであろう“防空壕にかけつけた女が入口で荷物を
降ろすや、背負ったは子供の筈だったにと気づいた途端止めるのもき
かず狂気の如くに猛火の中へ引き返したが、遂に帰らなかった”との、
今朝聞いた話も、このあたりだったろう。
 亀山神社は本殿のコンクリ基盤を残すのみ、されど、その跡に早く
も小祀が設けられており、参拝客をみる。元町、寺西町を本通に出る
に、三和、呉、芸備、住友の鉄筋四銀行が残っているほか、この一帯
罹災前を回想する手がかりはない。三和支店奥手に広大な塀と倉庫棟
のレンガ作りを残すのは山中紀三郎邸だったろう。その塀の外に方一
間ぐらいの小屋掛をして靴修繕の看板が出ている、これが呉商店街を
継ぐ唯一の店構えである。
このほか焼跡には人の気はない、中通を出るにこれが何丁目か見当さ
えつかない、盛り場の跡形もない、僅かに八丁目の喜楽館の外廓を見
出す、さらによく注意すれば、カフェ−松月の入り口にあったライオ
ン像を浮かす大理石像が、築石と共にかつての享楽の名残りを止めて
いる。
 更に西へ進むに、形を残しているのは、疎開事務所だった商工会議
所、海兵団岩方兵舎だった丸中工場新館、市役所新庁舎の、いずれも
鉄筋のみ、されど内部を侵されなかったのは、会議所のみ。神田町七
丁目を呉会館講堂は天井の鉄筋がへし曲がって墜落しており、北に西
教寺説教所の大ガランもない、大内山の煙突と三階湯のレンガ塀が僅
かに目標をとどめている石風呂山の裁判所付近に木造が二三と、九丁
目筋疎開道路を境に北側高台に残存家屋があるのは当時の火勢が東に
向いていたことを思わしめる。
 市役所は公園内衛生参考館を本庁に、園内に移転していた民家を土
木部に、女子高小校を税務課になど配置、呉警察署の看板は市立図書
館に掲げられている。市の非常持出書類は新庁舎の地下室に納めてい
たが、明りとりのガラス窓から火が入ったがか、地下室から燃え下っ
たか、同庁の内部と共に全部焼失、宿直二名は防火に活動して惨死し
たという。(もっとも前年十月までの重要書類は郡部に疎開してあり、
戸籍謄本、土地台帳等は公園内の横穴壕に移してあった)

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三 呉空襲体験記 第一集(呉三津田高校)  1975年


 (全国的にも、呉でも、地域の空襲・戦災を記録する運動が盛り上
がり、学校現場では、生徒を通じて体験者からの記録の収録活動が行
われ、文集が作られました。記憶もまだ確かな時代の記録集として紹
介します。)

 一 戦 慄

                      打田 勝彦

(広十一空廠に学徒動員されていた三月十九日、五月五日の爆弾や機
銃による猛爆撃のようすを感覚的に伝えたい。B二十九の一トン爆弾
の恐ろしさ、被害のものすごさを体験した。残存艦隊への爆撃も悲惨
だった。)

 昭和二〇年八月六日は朝から家にいた。中学四年生であったが「通
年動員」というもとに、前年の六月から学校には全く行かないで海軍
航空廠の工員として働いていた。
 ちょうど、六日は夜勤明けで家にいた。
 広島から直線距離で二五キロメートル高い山をいくつも越えた広町
のわが家である。
広島の方向にまともに向いた雨戸を開け障子を立て、机に向かってい
たら「ピカッ!」と家の中全体が光った。はじめ「どこかショートか
な」と思い、幅一〇〇メートルばかりの川向こうにある変電所で「な
にかあったのかな」と次に思った。 しばらくすると「ドーン」という
音とともに障子が「ガタッ」とゆれた。光と音との間合、音の大きさ
と衝撃の度合などから、かなり遠方で、もっとでっかいことがあった
のではと思い障子を開けた。
 はるか山の上にむくむくと原子雲(もちろん後になってそう知った)
が上がるのを見た。
 被爆経験の最初は、その年三月の艦載機の空襲だった。今、米軍基
地になっている黄幡にあった工場で働いていた。空襲警報と同時に工
場から飛び出し広警察署へ向かって走った。私たち中学生何名かは空
襲警報何が鳴るとそうするよう命令されていたのだ。今まで訓練では
しばしば聞いた警報だし、それに対処する行動をとってきた事態だっ
たが初めて本番である。
 いささかあわて気味で空をみながら走った。工場全体が騒然として
いる。建物のそばの待避壕に入ろうとするもの、山のトンネルへ急ぐ
者、なにか叫びながら走っている者、まだ機械を動かして者もいる。
 一緒に走っていたO君が叫んだ。「あれは何だ!!」
 みんなが野呂山の上空を見る。迎撃に飛び立った味方の飛行機か。
いや違う。アメリカ機だ。写真でおなじみのグラマンだ。五、六機編
隊飛行を解いて一機ずつ私たちの方入急降下しつつある。警報が鳴っ
て、まだものの三分とたっていない。
 一斉にそばの溝にうつ伏せた。「バリバリ……ダダダ、ダーン!!」
 おそらく機銃掃射と爆弾の破裂音だろう。一連の音が鳴り終わると
すぐまた走りだした。工場から警察署まで二キロメ−トルを一気に走っ
た。あまり怖いとは思わなかった。爆撃の恐ろしさをまだ知らなかっ
たのだ。
 広署の防空壕から時々顔を出しては、飛行機の飛び交う様子や対空
砲火のすさまじさを見ていた。対空砲火は、すごかった。広町の空が
弾幕であった。しかし、アメリカ機には、なかなか当たらない。
この時の空襲では、飛行機製作工場がねらわれ、かなりの被害者が
出た。それでも一〇日余りもすればすぐ復旧できる程度のものだった。
町中にも誤爆の弾がかなり落ちた。横路小学校や中新開、町田あたり
の家にも被害があった。
 恐ろしさを骨身にきざまれたのは、五月のB29編隊による一屯爆
弾の攻撃であった。私は夜勤明けで家で寝ていた。
この頃には、空襲警報には慣れっこで何時もは、B29が一機悠々
と飛んで行く。航空写真でもとっているのだろう。美しい飛行雲をは
きながら………。
 はるか下のあたり、高射砲がポン、ポンと花火のように挙がる。と
ころがその日は違っていた。東の空に無数のB29がキラキラ機体を
輝かせながらやってくる。きれいだった。しかし、数秒後はげしい大
雨の降る音(爆弾の落下音)、もはや美しいなどとは言っておれない。
自分の頭の上に、そうでなければ極めて至近距離に……と思って防
空壕でちぢこまった。「ヅヅ、ヅシーン」。と軽やかな音ではない。
内臓までゆさぶる「DZU、DZU……」だ。土地ごと家がゆれる。
体が浮きあがるようだ。絶え間ない爆裂音と風圧。またしても「ザァー
ヅヅヅドーン、ヅヅドドン!!」今度は頭の上だ。今にふっとぶ、も
うダメだと思い続けた。
 五万人もの人が働いていた工場は壊滅した。やられた工場から二キ
ロメートル以上離れた所にいて、こんな思いだったのだ。工場内にい
た人達はどんな思いだったのだろう。二・三日して、それぞれの思い
を語るのを聞いた。
 山のトンネルの中でさえ「生きた気がしなかった」という。「ふる
えが止まらなかった」という。それよりも思いを語ってくれなかった
人が沢山いた。遠い工場で働いていて、近くの防空壕で直撃弾を受け
死んだ呉一中の生徒達が何名かいた。昨日まで一緒に話し合った一八
才の青年は特別機銃隊員に選ばれ、空襲警報と同時に横幡の山の上に
作られた銃座に急ぎ二度と帰って来なかった。都合で広駅に出て、汽
車を待っていたI君のお母さんは小さい妹とともに死んでいった。
鉄筋三階を大穴をあけて突き抜け、床面に一〇数メートルの穴を掘
り、内部のすべてを破壊し尽くす威力だった。被害がどれほどか、公
表はされず、正確には把えられなかった。ただ作業を再開するには相
当の日数いることは直観できたし、もと通りの復旧は不可能のように
思えた。
 すでに黄幡の山は無論のこと、広のほとんどの山は、トンネル壕が
掘られ、工作機械が入って仕事をしていた。しかし、トンネルに入れ
ない工程を持った工場も多く、まだ避難していなかった工場もあった。
それらの大部分が痛めつけつられていたのだ。
私達の工場は爆風で相当の損傷を受けていたが直撃弾は当っていな
かった。さっそく二級峡トンネル(道路として工事中のものを借用)
への移転が開始されそこでの作業が始まった。
 ドイツは、すでに降伏し、沖縄での悲痛な戦いが続いていた。工場
が移転してから後も何度も空襲は受けたが、私達は、山の上から傍観
しているのみだった。
 昔日の光栄を担ってはいるものの、帝国海軍連合艦隊は油がないの
で動けなくなった。呉周辺の内海の島影には残存艦があちらに一隻こ
ちらに一隻、と松の木を擬装して、止まっていた。情島のそばに航空
戦艦「日向」がいた。
 ある晴れ上った暑い日に、この艦は米軍艦載機の餌食となった。何
十という飛行機が繰り返し攻撃するさまがよく見えた。
 「やられている!!」「やってる!!やっている!!」
 いくら攻撃されても「日向」は微動だにしないかに見えた。しかし、
実際はそこは修羅場だったのだ。第一波の攻撃でおびただしい死者と
負傷者がでてほとんど戦闘能力をなくしていた。救援要請で沢山の医
者と看護婦が便船でおくりこまれ救助活動が始まった直後、第二派の
攻撃を受け、救助におもむいた人たちを含めて、多くの兵隊が死んで
ゆき「日向」自身もすでに沈んでいたのだが、浅瀬にいたので遠くか
らは厳然と不動の姿に見えたのだった。
戦争が華やかなショ−に見えることもある。爆弾の雨降る中で、呻
き、叫び、焼け心でいる。その時、次々と爆弾をを投下した飛行士た
ちにはどう映っただろうか。街全体が火の海と成り、周辺の山々をも
焼きこがす眼下の光景は、まさにショ−そのものではなかたのか。
 「戦争」経験も傍観者の立場からは真実を把らえにくい。騒音と振
動、爆風の中で戦慄していた事実のみが私のささやかな被爆経験とい
えよう。

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 二.呉工廠空襲体験記

      高取 穂

(呉海軍工廠電池工場で勤務中に受けた数度の爆弾空襲の恐怖が甦り
ます。工場や防空壕の中のようす、具体的で詳細な被災の模様が描か
れています。防空壕で女子挺身隊員が生き埋めになり、潮が満ちて死
にました。)

 昭和二〇年七月一日夜から二日未明にかけての呉市空襲については
多くの体験者がおられますが、呉工廠の中で爆撃を受けた人は少ない
ので、私の体験をぜひ書き残しておきたいと思ってペンをとりました。
 私が呉工廠に入社したのは大正九年(一九二〇)、一三歳のときで
した。私の本職は工作設計の仕事です。三〇歳の頃、太平洋戦争たけ
なわとり、設計は、もはや不必要となりました。現場の基地設営のた
め、水雷部電池工場(俗にこう呼ぶが、呉工廠地図には練電工場と記
されている)に入りました。これが十八年でした。
 呉工廠が爆撃されたのは、昭和二〇年六月二十二日でした。この日
は朝九時ごろから正午過迄に三回の波状爆撃がありました。新聞やラ
ジオのニュースによると艦載機グラマンが一日に延べ七五〇機襲来し
たといわれています。
 この日第一回めの爆撃は朝九時から十時ごろまで砲塔工場が爆撃さ
れました。B二九爆撃機による爆弾の投下でした。
 第二回めの爆撃は私の勤めている電池工場が爆撃を受けたのです。
私たちは空襲警報が出されたので海岸の防空壕に避難していました。
電池工場は現在の海上自衛隊潜水艦基地の南側(現在は淀川製鋼の事
務所になっている)にありました。
 この電池工場に投下された爆弾(直径一メートル位の俗に一t爆弾
という)の威力はすざまじく、直径も一五メートル、重さ約二,三t
くらいもある一〇〇キロワット電動機が工場の三階屋上まで吹っ飛ば
されていました。この電動機の下に地下防空壕があってこの爆撃のと
きその防空壕は破壊され、電池工場で働いていた四〇〜五〇人のうち
殆どは死亡したと思われます。
この地下壕に入ってなかった人は私と同じ海岸の防空壕に入ってい
たのでこの時は助かりました。人間の運命なんて分からないものです。
電池工場で働いている人たちは空襲警報が出たときは電動機の下の防
空壕でも海岸の防空壕でも自分で自由に避難してよいことになってい
たのです。私がもし電動機の下の防空壕に入っていたらその時死んで
いた筈です。
 この爆撃の後、九死に一生を得た男子四,五人、女子挺身隊女学生
二人のことを記します。
 爆撃の状況を知るために海岸の防空壕を出て三〇メートルくらい近
づいたとき、この数人が這い出て来ました。女学生の一人は負傷して
いましたので、早速担架に乗せて病院へ運ばせました。もう一人の女
学生も一緒に病院へ行きたがりましたが、負傷していませんからみん
なでなだめながら海岸の防空壕へ誘導しました。 そのあとの爆撃のと
き爆風でこの海岸の防空壕が破壊され、全員生埋になりました。中に
は一四,五人くらいは入っていたようですが、そのうち二,三人は助
かったとあとから聞きました。防空壕が破壊されたあと潮が満ちて来
まして、この防空壕跡を洗ってしまいました。ですから生き埋めになっ
て息のあった人がいても助かることは不可能だったろうと思います。
私が誘導した人たちもこの時死亡したにちがいありません。私とし
てはこの人たちを助けようとしてやったことですから、しかたのない
ことではありますが、自責の念でいっぱいです。これが戦争でしょう
か。
 第三回目の爆撃で、私が避難していた海岸の防空壕が破壊されまし
た。
そのとき私はこの防空壕に入っていなかったのです。
 第二回目の爆撃のあと、当時呉工廠に派遣されていた技術士官が爆
撃状況を電気部の工場本部(所在は現在の潜水艦基地本部の南寄り山
手側、防空地下室内)に報告する「伝令」の命をうけました。
防空壕から桟橋(約四〇〇メートル)を通り砲熕部設計工場の所を
走っていると又警戒警報になり、すぐ近くに爆弾が落ちて来ました。
私はとっさに地面に伏せましたが、強烈な爆風のためかぶっていた安
全帽や靴が吹っ飛び、まわりの砲熕設計工場や鋳物工場が火事になり、
私の周囲、前方が煙と爆風で真っ黒になりましたので頭を上げてみま
すと、水道管が破裂して噴水のように真っ黒い水を吹き上げていまし
た。
 しばらくすると二、三人逃げていく人影が見えました。電気部救助
隊本部近くまでくると又爆撃をうけました。
 車庫の入り口の所で電池工場の小使をしていた西原君(当時一五才)
が待っていてくれたので一緒に逃げました。逃げる途中も爆撃が激し
く、二人きりになってしまいました。
台風が襲っているようなすごい音を立てながら二〇、三〇メートル
の近くに一発爆弾が落ちたので「もうだめか」と思いましたら、それ
はまん丸い玉のような爆弾で不発でした。
 西原君は恐ろしくなったのでしょうか、「おかあちゃん!!おかあ
ちゃん!!」
 と泣きながら大声で叫びました。彼とそこで別れたきりそのままど
うなったか分かりません。
 そのあと本部へたどり着きましたが、もう昼を過ぎていたように思
います。そのままでは電池工場へはいけないし、救助隊が来るのを待
ちました。しばらくして救助隊が来ましたので、私も手伝いました。
四、五人の遺体を引き出しましたが、女子挺身隊の女学生の肉片が
電柱にひっかかっていた有様は今でも鮮明に憶えています。
 爆撃後に私が他の人から聞いたことですが、私に伝令の命令を出さ
れた技術士官中尉も第三回目の爆撃で死亡したということです。私の
勤めていた電池工場について、爆撃後のことはよく分かりません。
 この日の夜、八時〜九時頃まで生き残った者たちが工場の後片付け
しました。工場内に散乱している遺体を集め技手養成所(現在の潜水
艦基地グランドの所)の庭で焼きました。
 家に帰ってみますと、避難していた家族も全員無事でした。このと
きの私のかっこうは爆風にやられて着ていた作業服はボロボロ、顔も
体中も水道管の破裂による真黒い水を覆ったおかげで真黒、靴はふっ
とばされて素足でした。
 当時の戦力についてはイ型の大型潜水艦は全部沈められ、ロ、ハ型
の小型潜水艦しかない。しかも僅か二隻しかいませんでしたし、この
二隻は練習をしてはいたのですが、二隻ではどうもできませんから
「戦争は敗北だろう」と思っていました。電池を潜水艦に積み込むと
き、いろんな暗い話ばかり聞かされていました。
 最後に、この日の私の妻のことを書いてペンを置きます。
 自宅は室瀬町にありました呉工廠の真上、山の中腹ですから内部が
手にとるように分かります。
 呉工廠が爆撃されているのが見え、妻のことが心配ですが手の出し
ようがありません。自宅付近も、クラマンに襲われ、妻は防空壕に避
難していました。白いシャツを着たこどもを見つけると、地上掃射を
しますので出られもしません。
敵機を艦砲射撃するのですが、その弾片が家の屋根へいっぱい落ち
てきて瓦を壊しました。
 ちょうどこの日、妻の母の兄(妻の叔父)が双三郡から来ていまし
たが、
 「空襲は珍しいからぜひ見たい」といって、防空壕へ入りもしない
で私の自宅で布団をかぶって爆撃を眺めていたといいます。家族や親
戚の者合わせて七、八人いました。爆撃が終わっても一人も帰ってこ
ないと心配していましたが、私が帰宅する頃までには全員帰っていま
した。
 私にはこどもが三人います。当時、長男三年生、長女一年生、二女
一才でしたから、上の二人は田舎に疎開させ、下の娘だけ一緒におり
ました。この娘が最初に覚えたことばが「防空壕」でした。
 以上で、私の呉工廠空襲体験記を終わります。空襲を思い出す度に
「もう二度と戦争はしてほしくない」と叫びたい気持ちです。
死亡された人たちのご冥福を心からお祈りします。

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 三.呉空襲体験記

                内山 玉野

(最大の被害者を出した寺西町・八幡の防空壕のむごい地獄絵。やっ
と生き延びて外に出た後の悲惨な見聞。家族を探す中で見たこの世の
生き地獄。最後に、主人も焼夷弾の直撃を受けて亡くなった状況を知
りました。)

 呉空襲体験記の思い出は私にとっては地獄の悲しみと同じです。し
かしこの悲しみをみなさんにしってもらい戦争の悲惨さを訴えたいと
思って。ヘンをとりました。
私には三人の息子と一人の娘がいました。長男は南方で戦死、二男は
赤ん坊のとき死亡、三男は呉空襲で主人と同じ日に死にました。現在
は娘と私とたった二人生き残っているだけです。
昭和に十年は三月頃から何回も警戒警報が出されていましたので、み
んな馴れっこになって、空襲警報になってもなかなか防空壕に入らな
かったのです。
しかし、七月一日の夜は、主人が町内会役員で「今夜はどうも危い」
と聞いて帰っていました。主人の帰宅が十時半頃だったと思います。
それからあれて家族がそれぞれ持ってにげる荷物を整えて、枕元に置
いて仮眠しました。この頃主人はいつも娘に「空襲になったらおかあ
さんと一緒ににげろ」と言って入ました。
この夜「国債を買おう」と灯火管制下の暗闇の中で話し合ったことを
憶得ています。夜中の十二時半頃警戒警報、続けてすぐに空襲警報に
なりました。主人は町内会の金を持ち、三男は「消防の道具はどこに
あるか」と尋ね、私は家族の貴重品をもち、主人は娘の水筒にたっぷ
り水を入れて渡しました。思えばこの世で最後の別れであったのです。
この頃の世の中は戦争中独持のムードに覆われ、医師、兵隊、警防団
員と学徒は「逃亡してはいけない。逃亡する奴は非国民だ。」と言わ
れていました。ですから私と娘が防空壕に避難しても、主人と三男は
警防団の仕事に走り廻っていました。
町内会役員会で入手した情報の通り、空襲が激しくなったので、娘と
私は薄い布団をかぶって走りました。防空壕までは、わずかに二、三
分の距離でしたが、山の方がまるで花火を上げているように見えた光
景を、三十年近くたっても鮮やかに思い出します。
防空壕の広さはよく分かりません。L字型に曲がっていて五、六百人
は楽に入れる大きなものです。最初は少なかった人たちも次第に多く
なり、人と人が肩をくっつけ合いながら坐りこんでいました。そのう
ち壕の外から煙が中に流れこんで来始めました。外の家が焼夷弾で焼
け、防空壕が煙突の代りになったのです。
壕内の人は外がどうなっているのか分からないので不安にからられて、
「外の様子を知らせてくれ、外に出してくれ」と言いましたが、警防
団員が入口にがんばっていて出してくれません。そのうちに流れ込ん
だ煙のため壕内の空気が濁ってきて、「苦しい!!苦しい!!」と口々
に言い始めました。
やがて、「天皇陛下、万歳、天皇陛下、万歳」という人、「海ゆかば」
を歌う人が出て来ました。煙にやられて娘と私は、主人が入れてくれ
た水筒の水をタオルに浸しては鼻のところへもっていきました。そう
すると生き返ったような清々しい気持になるのです。
それを見てまわりの人が「水を下さい」と言いましたが、この水がな
くなれば死んでしまうと思って、心苦しい気持でそれを断りました。
主人が注いでくれた“命の水”なのです。
娘は次第に眠りそうになってきましたので「眠ってはいけない」とゆ
すぶって起こしました。土に鼻をつけると気持がよかったことをよく
憶えています。
「今死んだらお父さんや兄さんに会えなくなるのだから眠ってはいけ
ない!!」と私は娘を励ましながら、ともすれば眠りこんでしまいそ
うになるのを必死に起こしましたが、そのうち私も眠ってしまいまし
た。
「生きてる人は出てきて下さい!!」という警防団の人の声で目がさ
めました。「私は生きている!!私は助かった!!」と思いました。
防空壕の外に出ようと思っても足が立ちません。ようやく娘をつれて、
壕の入口に向かって歩き始めましたが、壕内の曲がり角で木が燃えて
いました。熱いので素足で歩くのは本当に苦痛でした。
入り口へたどり着き外へ出ると、警防団員が「あなたは元気だから助
かる」と力づけ、娘と私に汚い井戸水を頭からかけてくれました。
壕の入り口に積まれた砂山のところには、大勢の人が迎えに来ていま
した。娘と私はひたすら主人と息子が迎えに来てくれるのを待ってい
ました。まわりには身内や親戚とあって無事を喜びあう人、私たちと
同じように立ちつくしている人など悲喜こもごもでした。
その時、近所にすんでいた林さんの奥さんが、「悪かったですね!!」
と私たちに言われました。するとそのご主人が、「いらんことを言う
な」とあわててとめられたので、私は主人か息子がけがでもしている
のか、と思いました。二人とも死亡しているとは夢にも考えませんで
した。
立っている娘と私を見て、近所の娘さんが、「朝食のおむすびをくれ
るから行ってみましょう」と、言ってくれました。
「主人を待っていますから」と言いましたが、もう待っいてもてもし
かたがない、と誘われるままに後髪をひかれる思いで二河公園へ行き、
むすびをもらいましたが、どうにもノドを通りません。とにかく主人
と息子を私はひたすらに待ち続けました。娘が意外に元気であったこ
とが唯一の救いでした。
二河公園では、近郷の田舎に親戚のある人は、阿賀駅から何時発の汽
車に乗るか相談をしていました。私は主人と息子がケガをしていて、
どこかの病院に入院している、と思い込んでいましたから「これから
どうやって病院捜しをしようか」と一生懸命に考えていました。
この日の晩は、主人のふたいとこになる郷町の人の家でごやっかいに
なりました。しかし、どこも同じような食料不足ですから気の毒にな
り、たしか7月3日には寺西町まで帰った、と思います。そして病院
や死体収容所を捜す始めました。
片山小学校が死体収容所になっていると聞き、大急ぎで行ってみまし
たら、主人も息子も見当らないで、私の近所の警棒団の人の死体があ
りました。。あとから分かったことですが、このとき、明法寺の防空
壕の死体収容所へ行っていれば、恐らく二人の死体か確認できていた
かもしれません。
七月三日に、一日中捜し廻っても主人、息子とも見つからないもので
すから、私は娘をつれて岡山県笠岡市の私の実家に帰りました。
しかし、一旦実家へ帰ったものの、主人と息子の行方が不明のままで
あるし、いてもいられない、いらだったしい毎日でした。食糧事情は
悪いし、私はノドを煙でやられてしまっていますので殆ど声は出ない。
実家にいては主人も息子も見つかりませんので再び呉へ出てきました。
私の兄も一緒に来てくれました。七月五日か六日でした。
私の家へ帰って見ますと、家の焼け跡から血を拭いたタオルと鉄カブ
トが出てきました。さらに生前、中気で半身不随になっていた近所の
お婆さんの死体が、半焼きのままになっていましたので、これでは成
仏できませんから全焼にしてあげました。そのあと明法寺の防空壕へ
行ってみると、半焼きの若い人とオカッパ頭の娘さんの死体が残って
いました。他の死体は七月四日に全部整理したということでした。
明法寺の角、現在の「呉テント」のところで、空襲警報発令の中をス
コップで死体を積みこみ、二河川の川原で油をぶっかけて焼いたそう
です。
呉にいってももう捜す方法もありませんから、兄と一緒に笠岡市の実
家へ帰り、心待ちに呉からの主人と息子の行方について連絡を待って
いました。一カ月ほど待っても何の通知もありません。離れていれば
余計に呉が懐かしく思い出されます。 
どれくらい経過したかははっきり憶えていませんが、呉市役所から五
番町小学校へ遺骨を受け取りに来るように、と連絡がありました。主
人の検死書は現在の本通四丁目派出所で見せてもらいました。清水進
巡査による検死でしたが「中肉中背」ということしか書いてありませ
ん。でもいつまでも戸籍を放置しておく訳にはいきませんので、私と
しては不本意ながら削除してもらいました。
三男のことについては、この日に限って、いつものボロ服に代えて新
品を着せていましたから、服に名前がついていなかったのです。ボロ
服には名札を縫いつけていましたから、これを着ていたら早く息子の
身元が判明したかも分かりません。検死は後藤巡査がしていました。
死因は窒息死となっています。
この時の死者は全部窒息死となっていますが、主人や息子は窒息死で
はない筈です。焼夷弾の直撃を受けて死亡したらしいのです。遺骨の
受け取りに行ってみますと、小さな障子紙の袋に一片ずつ入れてあり
ました。あの主人と息子がたった一片の骨になってしまったのです。
後日判明した主人と息子の死の場面は次のようなものだったそうです。
主人の最後を目撃したのは近所に住んでいた理容師さんでした。この
人は逃げるときバリカンを忘れたので、とりに戻る途中、主人を見ま
した。一緒に走っていると、主人のゲートルが解けたので、それをう
つ向いて直しているとき、焼夷弾の直撃を受けて即死したそうです。
曲がり角まで来てふり返ったとき、主人がのけぞった、と言います。
私の息子は、その父の死体を処理しているうちに、また焼夷弾の直撃
を受けて死んだのだろう、と思われます。
当時、明法時には海軍病院の看護婦さんたちがいましたが、この人た
ちは全滅したといわれています。
娘は大切に大切に育てました。たった一つの大事な私の宝物ですから
ね。娘は笠岡市の女学校へ入学させ、その後呉の現在の所へ来ました。
女手一つで娘を育てるのは並大抵の苦労ではありませんでした。
毎年七月一日、寺西町自治会は、寺西町の公園に建てている地蔵様の
供養をします。この地蔵様は呉空襲で亡くなられた人たちの霊を慰め
るためにつくられたものです。この日が来ると私は眠られませんし、
思い出しては涙にくれます。娘と私だけが生き残りましたが、娘が生
きていてくれたから私も生きて来られたのです。主人と息子を同時に
亡くし、もし、娘も死んでいたら、この私一人が何のために生き続け
る意味がありましょうか。
 昭和四十九年八月十二日、NHK広島ローカルテレビ「戦争の体験
記」に出ましたら、息子のともだち二人が線香をあげ、クラス写真を
持って来てくれました。生きていたら息子もこの人たちと同じ年齢だ
と思うと新しい涙にくれました。孫たちは
「おばあちゃんはいつも戦争の話をすると泣くね」と言いますので、
私は次のように答えるのです。「おまえたちは戦争のない平和な時代
に生きてよかったね」と。

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 四.私の呉空襲体験記

          井下(旧・名和)貞充子

(人間魚雷Eの秘密工場で働く日々。呉工廠爆撃の時、防空壕では、
恐怖をまぎらわすため次から次に歌を歌った。和庄登町で空襲にあい、
防空壕に入れてもらえず、寺迫町の防空壕へと、恐怖の逃避行をしま
した。)

私は昭和二十年七月一日の呉市空襲を体験しました。現在は福山市に
住んでいます。
当時、私は家事の手伝いをしていたため、赤紙招集令状によって、呉
地区第一回女子挺身隊員として、旧呉海軍工廠水雷部調整工場に動員
されていました。調整工場は人間魚雷を製造していたところで、暗に
Eといわれていました。秘密工場ですからEのネームプレートをつけ
ていないと工場内に入れてくれません。
呉工廠は同年、二回の大きな爆撃を受けました。第一回は、三月一九
日、造船部造船工場、第二回は六月二二日、水雷部をそれぞれ中心に
やられました。第二回の爆撃のとき、私は幸運にも、その前日ころか
ら胃痛で欠勤していましたので助かりました。
第一回空襲は、出勤の途中に警戒警報が出されましたので、大急ぎで
入廠し、造船部近くの防空壕(現在の呉市民広場の下)へ入りました。
当時、女子は男子より一時間出勤がおそかったのです。防空壕の中に
は通勤者、顔なじみの人たちもいました。工廠に爆弾が投下される度
に地響きがしまして、壕内では恐怖をまぎらすため、みんなで、次か
ら次へと歌を歌いました。空襲のあと「造船部がやられた」と聞かさ
れ、恐ろしいので見向きもしないで、大急ぎで自分の職場に向かいま
した。その途中、担架に負傷者をのせて運んでいた光景をなぜか新鮮
に記憶しています。
第二回空襲のとき、私は欠勤していましたので、工廠内の空襲のよう
すは分かりませんが、私と同じ調整工場で、共に働いた友達の安芸郡
倉橋町出身玉谷房江さん、群馬県出身猿谷千鶴子さんが死亡しました。
当時、調整工場では十数人の女子挺身隊員、学徒動員が働いていまし
た。庄原からも一〇数人学徒動員されていましたが、その中の石田さ
ん、沢井(?)さんという女学生も同じ職場でした。動員された女学
生や、女子挺身隊員たちは、大入工場、冠崎工場等に離れ離れになり
ました。私は第一工場か、第二工場かはっきり憶えていません。
 もし、私が胃痛がなくて、この日出勤していたら、玉谷さん、猿谷
さんと同じように、この時死んでいたかも分かりません。七月初旬、
呉工廠の合同慰霊祭が予定され、猿谷さんの遺族が群馬県から列席さ
れることになっていましたが、催されたのか、とりやめられたのか分
かりません。私は猿谷さんの遺族に渡そうと思って、彼女の作業衣と
胸章を持っていましたけれども、空襲のときに焼けてしまって、とう
とう果たせませんでした。
六月二二日の私の一日の行動を考えてみますと、不鮮明なところもあ
りますが、思い出して書いてみます。
私の父も兄・弟も呉工廠に勤務していました。父と弟は砲熕部、兄は
製鋼部勤務でした。しかし、兄はこのとき九州の炭坑にいましたので
助かりました。兄は召集を受け、南方・中支・北支戸転戦中に負傷し
一度帰還したあと再出征し、終戦後間もなく復員しました。
 父と弟が工廠で爆撃を受けましたので、この日、私は一日中、門前
の眼鏡橋のところに立っていたと思います。工廠勤務者の家族がいっ
ぱい安否を気づかって、私と同じように門前に集まっていました。そ
うしていると父の知人に会ったので、父の消息を尋ねますと、「どう
もだめらしい、防空豪がやられたらしい」と言われ、もうてっきり父
は死んだものと思いました。父は生存していました。いつも入ってい
た防空豪が、この日は満員になっていたので、他の防空豪に入ったた
め、九死に一生を得たのです。運命の女神が父にも、私にもほほえん
でくれた訳です。第も無事であることか分かりました。
空襲の翌日、出勤して聞いた話では、魚雷の配管を利用して道路の真
中につくっていた半地下防空豪が爆弾の直撃を受け、友達の女子挺身
隊と他の人が何人か死亡したそうです。水道管が破れ、水が吹き出し
てひどい有様だったということです。
私の職場の組長さん(宮本さんだったと思います。)以下、全員亡く
なられ、机の下に入っていた中田伍長(?)だけ助かりました。
七月一日の空襲は夜の十一時か十一時三〇分ころから始まったと思い
ます。警戒警報なしに、すぐに空襲警報になったような気がします。
最初は照明弾が投下されました。私たちはその明かりを利用して、とっ
さに、一枚の服でもとタンスからとり出しました。二、三回照明弾の
明かりの中でリュックサックの中に、つめこめるだけ、つめこみまし
た。避難するために外へ出ましたが、その時に見た外の美しさは忘れ
られません。私の家と隣の家だけ、まだ燃えていませんでしたが、焼
夷弾で辺り一面きれいな火の海、その光の中で、また焼夷弾が投下さ
れ、黒い固まりがポツン、ポツン、と落ちて来る、我を忘れて呆然と
見とれていました。
母の叫び声で我に返り、避難するように言われました。父は手製の”
火叩き”で家のまわりや、屋根にとび散ってくる火の粉を叩き消して
いました。母や私、弟妹達は水道の水を出しっ放しにして、全員でバ
ケツリレーをしながら水を掛けましたが、とても消えるものではあり
ません。リュックサック(中には、貴重品、財産となる書類、位牌等
が入っている)を背負い、私は、弟と妹の手を引いて家を出ました。
それまで、恐らく私たちの家族が最後まで火を消していたでしょう。
当時、弟は十七〜十八才、妹は十三歳くらいでした。父は中風で床に
就ていた祖母を背負って、母と一緒に街の方へ逃げました。私たち兄
弟は火の海、煙で方角は分からないまま、家から山の方へ向かって逃
げました。
もとの私の家は軍の計画で、寺迫町から阿賀、広方面へ抜ける軍用道
路をつくるため、この時より一ヵ月ほど前に建物疎開を命ぜられ、水
兵によって倒されていました。
私たち家族は戦争中とはいいながら、壁を壊され、柱をひき倒されて
いく我屋を、涙をボロボロ流しながら、その最後を見ていました。建
物疎開のあと、和庄登町の二軒長屋(現在の和庄中学校校庭付近)に
住んでいました。
私たちは逃げるとき、手拭をべとべとに水に浸して口に当てていまし
たが、煙にまかれている中を逃げるのですから、手拭はすぐにからか
らになり、ノドは痛いし、口は渇く、涙はボロボロ出るし、それは大
変でした。
人のいる所へ行こうと必死でした。遠くに聞こえるメガホンの声を頼
りに転びながら、しかし、三人がしっかり手を握り合って走りました。
そうしているうちに広っぱのようなところへ出ました。
その途端に警防団員が、「ここへ来てはいけない!!」
と大声で叫びました。どこの防空壕か分かりませんが、防空壕も見え
ました。
この時、私たちが見た光景は、まさにこの世の生き地獄でした。頭か
らかぶった夏布団に火がつき、やけどをしながら、そのままの姿で、
「熱い!!熱い!!」と狂いまわっている人がいました。その火が、
また次の人の衣類に燃え移り、みんな異様な叫び声をあげながら、次
から次へとやけどをしていく。見ている私たちも全く生きた心地がし
ませんでした。
きょうだい三人は、恐怖と不安で「どこの防空壕へ行ったらいいの!!」
と泣き叫びましたら、警防団員が誘導してくれました。三人で暗闇の
中を、しっかりと手をつないで、声を頼りについて行きました。
後で聞けば、私たちが最初に行きついた防空壕が、あの多くの窒息し、
焼死者を出した明法寺の裏山の防空壕でした。この防空壕は、家と壕
の入口との間隔が狭いので付近の家が焼けたので、その煙が防空壕に
流れたため、壕の中にいた人はみんな奥へかたまり、将棋倒しの姿で
死んでいた、と聞いています。
ようやく私たちはある防空壕の入口にたどり着きました。ここも満員
でしたが、無理矢理に中へ押し込んでもらいました。
後で聞けば、これは寺迫町植田呉服店別邸の下の防空壕でした。奇し
くもこの防空壕は、寺迫町町内会で、私たちが掘ったものでした。私
たちが防空壕へ入ってから、入口付近に焼夷弾が落ち、大変な騒ぎに
なりました。火を消すのに壕内全員に、「何か消火道具になるような
ものを出して下さい」といわれましたので、リュックサックを開いて
みますと、母が入れてくれた夏布団が入っていましたから、それを出
しました。母の有難さをしみじみと感じました。
この寺迫町の防空壕に朝までいまして、翌朝、ようやく外へ出ました。
命拾いをした安心感と同時に、両親・祖母の消息不明、焼け野原となっ
た街の姿に生きた心地がしませんでした。
ある知人に会ったので消息を尋ねますと「どこかの四つ角で倒れてい
るのを見た」といわれ、何時間も捜し回りましたが見つかりません。
またある人から「九丁目の半地下防空壕の方で見かけた」といわれた
ので捜しました。さらに「半地下防空壕へ避難したと思う。その壕に
は猫が一匹まぎれこんだ、縁起がいいことだと話し合った」とも聞い
たので捜しましたが、いずれも無駄でした。
私たちは「中風のお婆さんを背負った父と母を見かけませんでしか?」
と言いながら尋ねたのですが、みんな違っていました。このような形
で逃げた家族が多かったのかも知れません。
疲れ果て、寺迫町の防空壕へ来てみると、父母と祖母がいたので、手
を取り合って喜び合いました。知らない人たちまで、自分のことのよ
うに泣いて喜んでくれました。家族全員無事で揃ったのですが、両親
を捜しまわっっていたとき見た光景は一生忘れられません。
水溜りに顔を突っこんだままの死体、防火用水に首を突っ込んでいた
り、防火用水槽に手をかけたままの姿で死んでいる人もいました。何
れも水がほしかったのでしょう。私の記憶では、このような悲惨な姿
は八幡通に多かったように思います。
後から両親の話すところによると、知人からは「こどもさんたちが、
ご両親を捜していましたよ」といわれ、矢も楯もたまらなくなって捜
しまわったため、お互いが行きちがっいになったということです。
この後三日間、家族六人は寺迫町の防空壕で寝起きをしました。食事
は三日間、呉市がおにぎりのたき出しをしてくれました。一日に三回、
二河公園までおにぎりを取りに行くのが子供の仕事です。空襲後の火
事の余熱で、地面が熱い中を素足で走るように歩きました。三日間で
身の振り方を考えなくては行けないことになっていましたが、住んで
いた家は焼けているし、元の我が家は建物疎開のため、壊されてしまっ
ているので行くところがありません。他の家族は皆、それぞれ散って
行き、私の家族が最後になりました。三日間を過ぎると、おにぎりの
炊き出しもなくなります。
三日間過ぎて、まず、私の家族は母の遠い親戚を尋ねて一晩泊まり、
その後成町(現在の朝日町より相当山手の方)だったと思いますが、
知人を頼って暫くご厄介になりました。その家へいつまでもいる訳に
はいきませんから、元の我が家の跡へ、建物疎開になった材木類を使っ
て掘建小屋を建てることにしました。知人宅から通ってようやく完成
し、移り住んで暫くして八月六日の広島原爆のキノコ雲を見ました。
原子爆弾のキノコ雲は呉からよく見えました。ピカッと光りましたの
で「雷かな?」と思って光の方を見ますと、明るい朱とも紅とも表現
のしようのない色でした。雨も降らないのに「おやっ」と思う間に大
きな音がしました。この原爆のときにも運命の女神は父にほほえんで
くれました。
この日、父は広島の知人から大工道具を借りようと思いまして、呉本
通九丁目からバスに乗るため停留所に行ったのですが、一日に二往復
しかなかったバスが満員のため、乗らなかったのです。もし、広島へ
行っていれば父は原子爆弾にやられていた筈です。
三日間の防空壕での生活のとき、多くの犠牲者を出した明法寺の防空
壕の死体処理を目撃し、異常な衝撃を受け、人間としての憤りを覚え
ました。この防空壕から引き出された死体は蒸し焼き状態で、殆んど
真黒こげになって顔を見ても誰か見分けがつかなくなっていました。
死亡したときの有様がよく分るものも中にはありました。それを記し
ます。
母親が子供に添い寝をしたままの死体、特に子供の頭髪がピーンと張っ
ていて、以前、頭上にある皿のことを聞いていましたが、ぽっかりあ
いた皿を実際に見ました。この子供の姿は忘れられません。誰かの形
見の品らしき日本刀を抱いたままのもの、年輩の婦人の着物を結んだ
帯だけが残り、その帯の中には全財産の金・重要書類が入っているも
の、さらに他人と重なり合ったお尻の部分だけがハムの肉のような模
様をして残っているもの、等がありました。
これらの死体を一カ所に集めてコモをかぶせて、各死体の身元確認を
していましたので、私も手伝ってあげました。確認のできない死体は
警防団員がスコップでトラックに積み込んでいました。他の死体も集
めて来ているから、トラックに積み込みにくい、それを足をかけたス
コップでならしている、遺体を人間ではなく、まるで石ころみたいに
扱っていました。
「死んだ人も、人間ではないか!!」あまりにも粗末な扱い方をして
いることに、私の娘はひどく傷つけられ、激しい怒りを覚えました。
トラックに積み込まれた死体は、また手荒く、粗末に焼き払われたの
でしょう。
七月一日の空襲から私は欠勤していましたので、八月十六日(敗戦の
翌日)出勤しましたら、職場の組長さんが、
「非国民!!おまえみたいなものがいるから日本は負けたのだ!!」
と、私をひどくののしりました。私の勤務場所は六月二十二日の空襲
以後、魚雷の発射場があった冠崎へ配属されていました。私だって、
この間、いろんなことがあったのです。この体験記のような九死に一
生の体験をしたし、四年前から中風で寝ていた祖母は空襲のとき父に
背負われて動きまわったことがよくなかったのか、八月三日に死亡し
ました。
八月十五日、日本は太平洋戦争に敗北しました。私や私の家族は幸運
にも全員生き残りました。しかし、戦後一日たりとも、呉工廠調整工
場で一緒に働き、空襲によって死亡した女子挺身隊の友達のことを忘
れることは出来ません。呉に在住している間、生存している人たちの
消息を尋ねました。旧姓川上悦子さんは吉浦町の丸食スーパーで見か
け、その後、大塩するために就職された、と聞きましたがその後のこ
とは分かりません。
呉市警固屋一丁目に「殉国の塔」が建てられています。遺骨を遺族に
渡して残った遺骨を裏庭に埋葬し、年月日と人数を碑に書き残しまし
た。その多くの遺骨の上に墓標・土まんじゅうがつくってあったもの
を、加藤アキヨさんが見つけ、警固屋仏教婦人連合会が自分たちの会
費の中から少しずつ出し合い、寄付を集められて現在のように立派な
石碑を建てられました。
その碑には、動員学徒・女子挺身隊員四七六人、昭和二〇年六月二十
二日を記されています。福山より学徒動員として私と近くの職場にお
られた人達も大部分亡くなられました。心のある人達によって法要し
てもらっていることを家族の人に知ってもらいたいと思います。福山
にいる人達の消息は残念ながら分かりません。私も陰からお手伝いを
させていただくつもりです。
 以上、この体験記を終わるにあたり、呉空襲で死亡された人たちの
ご冥福を心からお祈り申しあげます。以上 

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 四 呉市の行政資料と米国戦略爆撃調査団報告  1945年


(呉戦災を記録する会 注1 
日本を占領したアメリカは、今後の戦争を有効に行う資料にするため、
日本の各種機関に対し、資料の提出を求めました。
その全文がマイクロフィルム化され、保存されていたものを、国会図
書館が入手し、公開しました。
 呉戦災を記録する会 注2 
呉市の行政施策としての、呉空襲・戦災の資料収集や整備・保存は十
分とは言えず、基本資料は無いに等しい状況です。見つかった僅かな
資料を役立て、呉の戦災状況を少しでも正確に把握できればと思い、
入手している資料の中から抜粋して紹介します。
正確な統計資料や公文書がなく、総ての関係文書は皆まちまちでした
が、公的な施策や統計の基になる文書ではないかと思います。
資料の解釈や実態との関係等は、後日に待ちたいと思います。)

  

I. 防空態勢

沮災者避難実施計画ニ関スル件
                 (出典)東高屋村役場



  呉防第一〇七号
    昭和二十年二月二十一日
                 呉 市 長
                   鈴 木  登
   関係各警察署長
   関係各町村長 殿

      罹災者避難実施計画ニ関スル件
  首標ノ件別紙ノ通リ相定メ候條格段ノ御協力相煩度
  此段被御依頼候也



     呉市罹災者避難実施計画

第一 本要綱ハ空襲ニ因リ罹災者多発シ且反復的空襲ヲ予想セラルモ
    緊急事態ニ際シ之ガ収容保護ノ完璧ヲ期スルタメ罹災者ノ収
   容保護ニ関シ呉市及同市所轄警察署ニ於テ実施スベキ業務ヲ
   定ムルモノトス
第二 罹災者避難ハ縁故先避難ト指定地避難ノ二種ニ分ツモノトス
  1.縁故先避難トハ相当期間滞在シ得ル親類縁者ヲ有スル者ヲ云ウ
  2.指定地避難トハ呉市付近ニ縁故先ヲ有セザル者ニシテ集団避
   難セシムルモノヲ云ウ
第三 市民ノ縁故先ノ有無ハ毎年一回別表第一ニ依リ調査ヲナシ置ク
    モノトス
   前項調査ノ上縁故先ヲ有スル者ニ付テハ平素ヨリ各本人ヲシテ
   縁故先ト緊密ナル連絡ヲ画ルラシムベク指導ヲ為スモノトス
   呉市付近ニ縁故先ヲ有セザル者ノ指定避難地域ハ別表第二ノ通
    トス
第四 避難者ハ空襲ニ依リ住宅ノ滅失叉ハ毀損シタル者ニ限ル
   前項ノ場合ト雖モ別表第三ニ掲グル防空要員ハ避難スルコトヲ
    得ザルモノトス
第五 避難ハ広島県知事叉ハ所轄警察署長ノ発令ニ依リ之ヲ実施スル
   モノトス(大避難)
   但シ空襲ニ因ル被害発生モ緊急ヲ要スル場合ハ命令ヲ待ツコト
   ナクソレヲ実施スルモノトス(緊急避難)
第六 避難ハ反復的空襲ニ依ル被害ヲ避クル為原則トシテ団体的行動
   ヲ採ルコトナク小集団ニテ自治的ニ之ヲ行フモノトス
第七 警察署長ハ状況ニ依リ集結場所ヲ指定シ防空小区長ニ命ジ関係
   町内会長ヲシテ避難命令ヲ各関係者ニ対シ伝達セシメルモノト
    ス
第八 罹災避難者ノ混乱ヲ防止スル為避難集結場所及其ノ区域ヲ別表
   第四ノ通之ヲ定ム
第九 町内会長ハ前号ニ定ムル避難集結場所を各関係区域内居住者ニ
   周知徹底セシムル為屡訓練ヲ実施シ置クモノトス
第十 町内会長罹災者避難命令ヲ受ケタル場合ハ直ニ之ヲ各該当者ニ
   伝達シ最モ安全ナル道路ヲ選バシメ所定場所ニ終結セシムルモ
    ノトス
第十一前号ニ依リ終結セシメタル避難者ハ概ネ左記ニ依リ収容計画地
    町村ニ出発セシムルモノトス
  1.町内会長ハ必要ニ応ジ避難者ニ対シ別表第七ノ罹災証明書ヲ交
    付スルモノトス
  2.避難者終結ノ順序ニ従ヒ別表第五避難者割当表ニ定ムル収容
   町村毎ニ出発セシムルモノトス
  3.避難者引継ハ各町村ノ境界(別表第六)ニ於テ之ヲ行フモノト
    ス
  4.町内会長ハ集団避難セシムル場合ハ避難者中ヨリ最モ適当ナル
    者ヲ任命シ之ヲ誘導セシムルモノトス但シ状況ニヨリテハ団
    体的行動ヲ避ケ各自適宜避難セシムルモノトス
  5.警察官.警棒団員.学校防空補助員ハ各要所ニ於テ交通整理ヲ
    為シ混乱防止ニ任ズルモノトス
第十二避難道路ハ別表第八ノ通之ヲ定ム但シ状況ニ依りリテハ別ニ
   安全ナル道路ヲ選ビ避難スルモノトス
第十三徒歩避難者中ノ老幼傷病弱者ニシテ歩行困難ナルモノノ輸送ハ
   空襲時各警察署ニ配属セラレタル自動車ヲ以テ之ニ充テ尚不足
    スル場合ハ別表第九ニ依ルモノトス
第十四縁故先避難者及無縁故先避難者ハ収容計画町村ニ収容後之ヲ
   別シ各縁故先ニ避難セシムルモノトス
第十五避難者殺到混乱無秩序ニ陥リ叉ハ其ノ虞アルトキハ警察官警防
    団員等ヲ動員シ其ノ集団力ヲ以テ当該場所ニ移動又ハ分散配
    置シ不穏若ハ扇動的言動ヲ為ス者及混乱醸成ノ基因トナルベ
    キ行動ヲ為ス者ノ迅速且隠密裏ニ検束隔離シ付和雷同ヲ防止
    シ民心ノ不安除去昂奮ノ鎮静ニ努ムモノトス
   前項ノ場合状況ニ依リテハ軍隊ノ出動ヲ要求シ叉ハ実力ヲ行使
    シ之ヲ解散セシムル等非常措置ヲ為スコトアルモノトス
第十六避難計画地ト収容計画地相互間ノ連絡ヲ緊密円滑ナラシムル為
    避難連絡協議会ヲ開催スルモノトス









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別表第三
    防空要員残留者

 官公署,職務者,医師,歯科医師,産婆,看護婦,保健婦,

 警防団員,学校報国隊,補助隊員,特別防護団員,緊急工作隊員,

 工場従業員,配給挺身隊,非常要員,炊出挺身隊員,



別表第四


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別表第五




別表第六


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別表第七
 



別表第八




別表第九


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II.全般的な報告書
     (出典)米国戦略爆撃調査団報告(国立国会図書館蔵)

昭和二十年十二月二十日、東京・丸の内、明治ビルにて提出。
  報告提出義務者は   広島県知事 楠瀬 常猪
    報告書の実際作成者は 広島県属  目見田 武市
    資料の提出者は    呉市長  
 (注 各部署.呉警察署及び廣警察署等から個別に報告をさせた 
資料をそのまま提出したようです。)

 無題の報告書 (縦書きで手書き)              
                      援護課
一.事前ニ於ケル援護計画

1.避難
 一般的ニハ町内会ノ自治的統制下ノ下ニ最寄ノ縁故先ヘノ避難ト町
内家庭ヘノ割込避難ノ方法ヲ執ラシムルト共ニ状況ニ依リテ緊急的ニ
集団避難ヲ為サシムル事トシ市内ノ学校.病院.神社公園等相当ノ収
容力アル建物又ハ空地ヲ九十箇所余リ避難所ニ指定シテ居タ。又全市
的ナ大被害ノ場合ヲ予想シテ市外ニ適当ナ縁故先アル者ハ別トシテ然
ラザル者ハ全部市外ヘ避難セシムベク町内会ニ避難道路.避難先町村
等ヲ指定シテ居タ。避難先ニ依ッテハ鉄道モ利用サレル事ガ考慮サレ
又老幼病者運搬用トシテ少数ノトラック大八車等ガ動員準備サレテ居
タ。
避難ハスベテ無用ノ混乱防止ノ為ニ警察署長ノ指示ト警防団ノ誘導ノ
下ニ実施サレ統率ヲ乱スガ如キ恣意的行動ハ厳禁サレテ居タ。

2.炊出
 原則的ニ市職員ガ避難者ノ集合場所ニ出張シテ指揮ヲ執リ町内会ノ
協力ノ下ニ炊出ヲ行フ事ニシテ居タ。器具ハ付近町内ノ保有品ヲ利用
スル事ヲ原則ニシテ居タガ万一ノ場合ニ備ヘテ市内九十箇所余リノ避
難所ニ夫々少クトモ五百人分ノ炊出ガ可能ナ程度ノ器具ヲ配置シテ居
タ。其ノ配置数ハ一箇所平均.水桶二荷.バケツ十荷.柄杓十本.大
杓子一本.小杓子二十五本.包丁二本位デアル。但シ大釜ハ整備不能
ノ為学校ノ湯沸シ用大釜又ハ町内ノ保有品ヲ利用スル以外ニ方法ハナ
カッタノデアル。又要員ハ町内会毎ニ各隣保班カラ一人宛選定シタ婦
人ニ依リ炊出奉仕隊ヲ組織サセ市職員ガ要求スレバ直チニ大釜.バケ
ツ等ノ器具ヲ携帯シテ出動スベキ態勢ヲ整ヘテ居タ。又大被害ノ場合
モ考慮シテ警察デモ全市ニ飲食店組合員ヲ以テ炊爨挺身隊ヲ組織シ市
ノ要請ニ応ジテ協力スベキ用意ガ出来テ居タ。
次ニ米穀.塩.梅干.漬物等ノ物資ハ県当局ノ手配ニ依リ相当量ガ常
ニ備蓄サレ市職員ガ警察署長ニ申告スレバ何時デモ必要量ノ非常配給
ヲ受ケ得ル事ニ成ッテ居リ各配給所ニハ従業員ヲ以テ配給挺身隊ガ組
織サレ配達業務ノ正確敏速ヲ期シテ居タ。

3.応急救助用寝具.被服.生活必需品ノ調達
 諸物資不足ト強力ナ統制ノ為之等ノ調達ハ不可能ニ近イ問題デアッ
タ。又県当局ヲ打診シテモ必要ナ物資ハ或ル安全ナ場所ニ分散備蓄シ
テアルトノミノ回答ノミデ品目.数量.備蓄場所.運搬方法等一切公
表サレズ従ッテ之等ノ物資ノ万一ノ際ノ利用又ハ配給ノ計画ハ全ク策
定ノ途ガ無カッタノデアル。
依ッテ市ガ単独ニ市民ヨリ座布団改造ノ寝具.衣類.生活必需品ノ無
償供出ヲ求メ応急救助用ニ利用スベク之ヲ適当ナ学校ヘ分散的ニ備蓄
シテ居タノデアル。

二.実際ノ援護活動

1.避難
 大火災ガ発生シ全市一帯ガ火ノ海トナルヤ生命ノ危険ニ曝サレタ市
民ハ各自ニ安全ナ場所ヲ求メテ分散シ多クハ周囲ノ山ノ中ヘ避難シタ
ガ全市ガ鎮火シ夜明ヲ迎ヘテ心ノ冷静ヲ取戻スト共ニ朝食ヲ求メテ寄
集マリ自然ニ町内会単位ニ集合シタ。既ニ大部分ノ避難所ハ消失シテ
居リ又次ノ空襲ヲ予想サレルノデ之等ノ戦災者ハ自然ニ安全ナ横穴防
空壕等ヘ起居スル様ニ成ッタ。其ノ過半数ハ間モナク思ヒ思ヒニ市外
ノ縁故先ヲ頼ッテ立退イタガ残留者ハ依然トシテ横穴防空壕ニ起居シ
タリ或ハ自ラ焼跡ニ仮小屋ヲ建設シタリシタ。

2.炊出
 大火災発生ノ情報ト共ニ県当局ガ手配シテ隣接市町村デ炊出ガ行ハ
レ夜明ト共ニ握飯ヤ乾パン等ガトラックニ依ッテ続々ト市ニ到着シ又
海軍当局カラモ炊出ガ行ハレタノデ戦災者ハ食料上ニハ何ラノ不安モ
感ジナカッタ様子デアル。市デハ之等ノ握飯ヤ乾パンヲ町内会単位ニ
給与シタ。給与ハ二日間行ハレタガ其ノ間ニ米穀ノ仮配給所モ設立サ
レ爾後ハ普通ノ配給ニ復帰シタ。

3.応急救助用寝具.被服.生活必需品
 市民供出ノ備蓄寝具.被服.生活必需品中消失ヲ免レタモノ寝具千
六百枚.被服.生活必需品若干ヲ貸与又ハ給与シタニスギナイ。

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III. 防空対策 
      (出典)米国戦略爆撃調査団報告(国立国会図書館蔵)
                      (タイプ横書き)
 (注 アメリカ軍の質問に答える形で、統計と実態の報告がされて
いる。回答は手書き。)

A.防火ノ為ノ家屋疎開

 1.防火ノ為メ取リ壊サレタル家屋総数   6、051戸
 2.右取リ壊シ家屋ニ居住シ居タル人員数 24、204人
 3.右ニヨル立退者ノ収容対策(手配)(下ニ簡単ニ記スベシ)
 本市住民ニハ外来者多ク呉市ニ居住ノ要少キ者ニ対シテハ市外転出
ヲ勧奨セシ所夫々自己ノ郷里等ニ保故疎開セリ。叉、県下ニ於ケル空
家ヲ調査シ之ヲ疎開者ニ指示シ之ニ拠ラシメタル者若干アリ。市ハ之
等疎開者ニ対シテハ市長ヨリ疎開先町村長宛住家、就職等斡旋方依頼
ノ添書ヲナセリ。市内ニ要居住者ニ対シテハ予メ調査シ置キタル空家、
空間ニ市、警察、賃家組合ノ斡旋ニヨリ移住セシム。

 4.右ニ対スルウ保障方策(実施)(下ニ簡単ニ記スベシ)
 実地ニツキ物件ノ評価並ニ営業状況、居住人口等ヲ厳密ニ調査シ保
障委員会ニ於ケル保障決定額並ニ移転費等ヲ支払ヘリ。
(*別報告書ニ、「県ヨリ立退者ニ手当1人当リ200円位支払」ノ記
事アリ)



B.空襲待避壕

 1.下記各種ノ待避所ニ収容シ得ル人員ノ百分比
  (ソノ収容ヲ目的トセラレ居レル総人員ニ対スル)
   ヲ示スベシ





C.人員疎開
 貴地域ヨリノ疎開者数ヲ記入スベシ(但シ同一都市町村内ニ於ケル
異動者ヲ除ク)

 月  次    疎 開 者 数 
第一次 昭和十九年五月    12、000
第二次 昭和十九年十二月    4、500
第三次 昭和二十年三月    17、400


 下記ニツキテモ記載スベシ
 強制疎開者ノ割合ハ如何   55% 
 任意疎開者ノ割合ハ如何   45% 
 疎開者ノ種類ハ如何    非防空従事者

 以上ノ外昭和二十年七月二日戦災者ニシテ約十万人余
 疎開セシモノアリタルモ混雑時ニテ詳カナラズ、然レ雖現在
人口数ヨリ考慮スルニ相当数復帰セシモノアレ共約五万人
程ノ罹災疎開セシ模様ナリ



D.警 戒 体 系
 1.警戒警報
  昼間攻撃ノ場合、予期セラレタ空襲ノドノ位前ニ(ドノ位間隔
  時間ヲ置イテ)警戒警報ハ通常発セラレテ居タカ。
  夜間攻撃ノ場合警戒警報ハ予期セラレタ空襲ノドノ位前ニ通常発
   セラレテ居タカ  約10分乃至40分前 (夜間約6分前)
  ソノ間隔時間ハ通常大多数ノ一般人ガ空襲ニ対スル準備ヲ整ヘル
   ニ十分デアッタカ説明アリタシ  昼間ノ場合ハ概ネ充分ナリ
   シモ夜間ノ場合、準備整フル時間ナク大ナル被害ヲ生ジタリ
  上記ノ間隔ハ戦時中ニ変更セラレタル事アリヤ
  若シアラバソノ変更ハ 何時 如何ニ 何故ニナリヤ

    警報発令ニ予期セラレタル時ヨリ何分前ニ警報発令スル
    等一定セシコトナク従ツテ変更セシコトナシ海軍イ発令
    ニ依リタルノミ
  (注 別報告書に「警察ノ発令ハ軍部ヨリ入電スルモ不正確ニシ
テラジオ放送ヲ主トシタリ」の記載があります。)
 2. 空襲警報
  昼間攻撃ノ場合警戒警報ハ予期セラレタ空襲ノドノ位前ニ発セ
  ラレテ居タカ   約 10 分前
  夜間攻撃ノ場合警戒警報ハ予期セラレタ空襲ノドノ位前ニ発セ
  ラレテ居タカ   約 5 分前

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二 被害調査と援護活動

     (出典)米国戦略爆撃調査団報告(国立国会図書館蔵)
                      (タイプ横書き)
A.空襲後ノ手配
 1.宿舎割当テ
  空襲後ノ応急宿舎割当テ手配ニツキ簡単ニ記述セヨ

  縁故者知人ヲ頼ツテ同居叉ハ市外ヘ疎開セルモ縁辺ナキ者ハ
  焼残リ隣接町内会ノ一般民家ヘ収容セリ其ノ他海軍ヨリ大天幕
  ヲ借リ利用セリ

 割当テ宿舎施設ハ十分ナリシヤ否ヤ(数及質ニ於テ)説明セヨ

  何レモ一時凌ギニテ満足ナル状態ニアラズ(終戦後海軍ヨリ
  バラック 1.440戸ノ譲渡ヲ受ケ戦災者ニ貸与叉ハ譲渡ノ
  方法ヲトッタ) 

B.別記 (海軍用紙デ広地区?ノ報告 手書き)

1.空襲後ノ応急給食ノタメ採ラレタル手段ヲ簡単ニ記述ス可シ
答(1)昭和20年3月19日
   罹災人員約400名、罹災地付近縁故者知人等ノ家ニ入居セ
   シメ之ニ対シ午後ノ主食其ノ他食料品ヲ配給ス
    昭和20年5月5日
   罹災人員約1.500名 広町字末広 向新開2ケ所ノ食料営団
    食堂ニ於テ広町町内会隣保班ヨリ一回約40名程度ヲ輪番制
    ニ出動奉仕セシメ二日間炊出シヲナシ握飯ヲ配給ス
    昭和20年7月イ日
   同上同様2ケ所ヲ利用シ3日間ノ炊出ヲナシ握飯ヲ配給ス
2.給食ハ十分ナリシヤ否ヤ(量及質ニ於テ)
答(2)呉市空襲時ニ於ケル食糧及薪炭一般配給要綱ニ基キテ実施
  セルガ一食分握飯重量70匁一個ニシテ量並質ニ於テ充分トハ
  言ヒ難ク稍可ナリ
3.特配アリヤ
答(3)三月空襲ニ対シテハ成年者ニ対シテハ清酒一合宛ノ配給ヲ
  ナシタリ 五月五日空襲ニ対シテハ罹災地ニ対シ蔬菜ノ配給ヲ
  ナシタリ 7月1日空襲ニ対シテハ缶詰類ノ特配ヲナシタリ
  其ノ他呉市ニ於テ其午罹災者一般ニ対シ生活必物資(塩.醤油.
  燐寸.石鹸.塵紙.其ノ他)ヲ特配セリ
4.何人ガ応急給食施設ニツイテノ責任者ナリヤ
答(4)施設ハ空襲直後5日間ハ管下警察署長ニシテ其午ハ罹災地
  市町村長ガ給食責任者ナリ

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三 各種統計資料

    (出典)米国戦略爆撃調査団報告(国立国会図書館蔵)
             (手書きで、横書き)(以下同じ)












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D.爆撃被害






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3.戦災水道被害状況調書  (手書きで縦書き)

             呉市水道部
戦災状況
      戦災前後ノ状況(概数)

本市ハ東北西ノ三方山ヲ以テ囲マレ南面シテ暮れ軍港ニ望ム地勢摺鉢
状ニシテ其他地帯タル市ノ中心街ヲ焼爆サレ殆ンド大部ノ給水家屋ヲ
焼失セリ
サレバ残存家屋ハ高地帯ノミナルヲ以テ戦災後ニ於ケル給水状況ハ引
込給水管ノ故障ノタメ漏水甚ダシク此ノ為圧力低下ヲ来タシ前表ノ如
ク給水戸数ハ俄カニ「二七パーセント」ニ減ジタルモ給水量ニ於テハ
「七一パーセント」ヲ要シ且ツ一部ハ給水不能ノ状態ニテ之ガ復旧ニ
多大ノ困難ヲ極メ・・・後略・・・

(注 呉市の被災状況を、警察や消防署以外の別の統計で示した、か
なり正確な被害統計です。空襲ごとの被害状況を報告していますが、
割愛しました。)



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4.電気事業被災状況
                呉電業局(手書きで横書き)
空襲日時  7月2日 自0005 至0230
場 所   呉 市 
      大挙殺到セルB29ヨリ投下セル焼夷弾ニ依リ市街ハ
     忽チ猛炎ニ包マレ終ニ周辺高地ヲ残シ焦土ト化シタタリ
     呉変電所亦数十発ノ焼夷筒落下、清水通、公園通、両変電
      所及呉電業局事務所モ数発ノ焼夷弾落下シタルモ、
     各職員ノ挺身敢闘ニ依リ殆ド被害ナク、為ニ爾後ノ復旧
     作業ノ進捗著シク、2日夕刻ニハ早クモ広島ヨリ受電シ、
     3日夕刻ニハ市内重要ケ所及近接町村ニ配電シ得タリ。
損害  電気関係ハ下記ノ如シ

    家屋喪失  21530戸
    電灯配線焼失  54620件
    電力 ” ”   5820”
    電柱 ” ”   1180本
    電線 ” ”    297km
    柱上変圧器”     670ケ
    油入開閉器”      95ケ

(注 呉市の被災状況を、警察や消防署以外の別の統計で示した、か
なり正確な被害統計です。空襲ごとの被害状況を報告していますが、
割愛しました。)

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四 呉市議会ヘノ報告議案書 (昭和二十年度末議会)

                 (出典)呉市史編纂室蔵


                 援護課
戦災者援護ニ関スル事項
1.高松宮殿下御成
 恩賜財団戦災援護会総裁高松宮殿下ニハ広島市ノ原子爆弾ニ依ル被
害状況御視察ノ途次十二月十二日本市ニ御成リ遊サレ被害状況並ニ援
護活動ヲ御視察アラセラレタリ 

2.空襲被害状況
 本市ハ三月十九日初メテ米軍ノ爆撃ヲ受ケテ以来屡次ニ亘リ焼爆撃
ヲ受けケタリ 特ニ七月二日ノ焼夷弾攻撃ハ最モ激烈ヲ極メ市ノ中心
部ハ一夜ニシテ焼野原ト化シタリ



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3.応急救助
 三月十九日.五月五日.六月二十日ノ戦災ニ際シ夫々避難炊出等応
急救助ノ処置ヲ講ジタリ 特ニ七月二日ノ戦災ニハ拾弐萬五千人ニ及
ブ多数ノ戦災者発生シタルモ海軍及県当局並ニ隣接市町村等軍官民ノ
協力ニ依リ避難炊出等ノ万全ヲ期シ握飯乾麺麭ヲ準備シテ食料不安ヲ
完全ニ除去シ得タルモ諸物資ノ極端ナル枯渇ノ為寝具衣類等生活必需
品ノ給与等ニ就テハ焼失ヲ免レタル市民供出ノ備蓄寝具等ノ貸出ヲ行
フト共ニ軍需品ノ払下ニ依リ大量ノ衣料ヲ応急的ニ配分スルヲ得タリ

4.戦災者物資配給其他給与状況



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五 アメリカ軍の呉空襲記録

    米国戦略爆撃調査団報告
            (国立国会図書館蔵  神垣惟秀 訳)

 1.海軍工廠造船部門の空襲被害

造船部門の空襲被害はきわめて小さく、造船の能力にはなんら影響を
 与えなかった.

   被害の詳細は次の如し.
(1)横須賀
   機械工場の一つで機械の損壊があった.
(2)呉
   第1回攻撃:第2バースにあるガントリー・クレーンの
   ランウエイ・ガーダー、
   第1第2バース乾ドックの低部、ならびに亜鉛メッキ工場の
    一部に軽度の被害があった.
   第2回攻撃:人命被害若干のみ.
   第3攻撃:現図場の一つ、ならびに木工所が焼失した.
(3)佐世保
   機械工場、ならびに亜鉛メッキ工場が1部破壊され、
   船舶工場が焼失した.
   製造工場の生産力への影響は極めて軽微であった.
(4)舞鶴
   皆無。
(5)大湊
  乾ドックの一部が損壊したが、ドックの能力は間もなく回復した.

(呉戦災を記録する会 注 日本の海軍軍港の港湾施設、造船部門の
爆撃はあまり行われなかった。艦船への攻撃中の一部として局部的に
行われた。戦後、アメリカが使用するためだったと言われています。)

2.目標情報シートおよび任務概要
((呉戦災を記録する会 注
1、アメリカは日本に対して空襲を行う際、日本全土を地図上で分割
し、番号を付けて、その番号で位置を明示していました。
九〇は日本を示す番号で、北から順に区分番号を付け、KUREは三
〇なので、呉地区(大竹ー広島ー呉・広)の区分番号は、九〇・三〇
となります。
2、アメリカ軍が作戦で使用した写真
アメリカ軍が爆撃に使用した写真は、リト・モザイク(石版集成図)
と言う合成写真です。
何回かの偵察飛行で、偵察写真を撮り、それを合成して、攻撃目標地
点を中心にした精密写真を作り、目盛を付けてレーダー爆撃を行い、
また、有視界爆撃も行いました。
写真周辺の目盛りは、レーダー爆撃の照準点を定めるための座標です。
A 広第十一空廠爆撃の照準点・・・一〇七(横軸)〇六九(縦軸)
B 呉海軍工廠爆撃の照準点・・・・〇三七(横軸)〇五五(縦軸)
C 呉市街地爆撃の照準点・・・・・〇五一(横軸)〇八八(縦軸)
 (呉市街の爆撃中心点は、東泉場町・現在の栄町商店街南辺り)
  休山南西部から中心点に向けて攻撃線が示されている。))



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 A 攻撃目標情シート (広海軍航空機工場)

            機密
戦闘任務に際し
機中に
持ち込まないこと
             攻撃目標:90.30ー660
             目標区域:90.30ー呉

    攻 撃 目 標 情 報  シ ー ト 

       攻撃目標:90.30ー660

      広 海 軍 航 空 機 工 場

         緯度: 36°13' N
         経度: 132°37' E
        海抜: 10 フィート

1.位置と確認:
当工場は広町の南南西約2000ヤード、呉の南西約31/4マイルの
位置にある.また黒瀬川(広湾に二つに分かれて注ぐ)の東側の支流
に面している.呉海軍飛行場(攻撃目標90.30ー656)は当工場の
約2100フィート西、黒瀬川の二つの河口の中間点にある.
2.工場について:
工場は南北の最大距離750フィート、東西の最大距離500フィー
トの不規則な形をした土地にある.地表総面積は3,595,000平方フィー
ト.そのうち 1,093,000平方フィート、つまり30.5%を建造物が
占めている.工場の建造物38棟、ならびに格納庫型試験室15の存
在はエンジンの生産及び大規模な整備、修理が行われていることをう
かがわせる.
  
  航空写真を分析した結果、工場の南半分は(この部分にエンジン
の試験室がありはするが、)主として航空機の修理に当てられている
ようである.工場の北半分には新しい機体・エンジン工場があると思
われる. 北部にある3階の大型建造物は、恐らく、新型エンジンの
生産に使用されている.200,000平方フィート以上の床面積が新型エ
ンジンの生産に、約350,000平方フィートが新型機体の製造に、そし
て残りの部分が修理に当てられている様子である.
3.重要性:
機体ならびに航空エンジンが当工場で生産・修理されている.現在製
造中のものは、急降下/雷撃機Judyと新型高出力中島型エンジン、
Homar21号である. 当工場で製造されたものには 4発飛行
艇 Emily, 単発フロート水上機 Jake, 単発爆撃機 Kate、
エンジンのkassei 11, kassei 15 ならびにkasse
i45各型などがあるが、現在、もはや製造はされていないと信じら
れる.
単発爆撃機 Valならびに、EmilyとMavisの両機がここ
で修理を受けたことが知られている.

                   攻撃目標部門、Aー2
                   第20航空軍
1945年9月7日       
             機密



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B 攻撃任務概要  (広地区)

          機密

      攻 撃 任 務 概 要
        任務番号  146

1.日付: 1945年5月5日
2.コード名:Thunderhead(入道雲)#1
3.攻撃目標:広海軍航空機工場(第1有視界攻撃)(90.30 -
660)
   広造兵廠(第1レーダー攻撃)(90.30 - 794)
4.参加部隊:第73ならびに第58航空団
5.飛行航空機数: 170機
6.航空機第1攻撃%:85.04%(第1攻撃148機、好機攻撃4機)
7.第1攻撃所要時間:051140k - 051211k
8.攻撃高度:18,000 - 24,700
9.攻撃目標上空の天候:晴れ - 3/10
10.損失機数総計 : 2 機
11.任務摘要: 爆撃の成果は良ないし秀.
 攻撃目標西半分の主要建造物は直撃弾を受けた.
広海軍発動機・タービン工場のU型大建造物への直撃弾.
広造兵廠南西部の主要建造物も直撃弾を受けた.
攻撃目標の80%が破壊されたものと判断される.
攻撃目標地帯南端の水上機格納庫を除き、すべての建造物は破壊また
 は内部焼失をした.
攻撃目標に投下された爆弾は578トン.
航空機18機は戦闘力がなかった.
迎撃敵機は56機が認められ16回の攻撃があった.
破壊敵機数3機、うち2機は破壊、1機は損壊と思われる
対空砲火は激しく、中から強程度。その正確度は 低きものより高き
 ものに及ぶ。
68機が硫黄島に着陸した.
搭載爆弾平均:8245ポンド  補助燃料平均:572ガロン

  <訳者注:各建造物の寸法、面積表付き>



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 C 攻撃目標情報シート (呉市街工業地帯)


          機密
戦闘任務に際し
機中に
持ち込まないこと
               攻撃目標:呉市街工業地帯
               目標地区:90.30ー 呉

     攻 撃 目 標 情 報 シ ー ト

      呉 市 街 工 業 地 帯

         緯度: 34° 14' N
         経度: 132° 34' E
         海抜: 平均海面

1.概要:呉は瀬戸内海重要攻撃目標集中地帯の一つである.攻撃目
標はすべて大呉海軍基地の一部であるか、それと関係を有するもので
ある。過去一年の我が方の海軍力の勝利の結果、日本軍艦隊の残存せ
るものの主要部分が呉湾に避難したと信じられる。呉地域は日本最大
の艦隊建造ならびに維持基地である。

2.位置ならびに確認:四国西端の真北に本州南西部最大の湾の一つ、
広島湾がある.広島湾の東南端、広島市の東南15マイルに呉市は位置
する.呉は小さな谷間に円形劇場状の場所を占めている.三方を高い
山に囲まれ、西南が呉港と接する.平地が少ないことと、市が急速に
発展したために、市の中心部近くの狭い谷々に小集落が発達し、また
周囲の山の低傾斜部が住宅に利用されるにいたった.サカイ川とニコ
ウ川が市街を北東より西南に流れており、市の中心部に数多くの狭い
水路がある.

3. 攻撃目標について:1940年の報告によれば、呉の人口は23
8、000人以上で、その大部分は約2.5平方マイル内に集中している。
人工密度は1平方マイル、70,000人以上と推定される。
家屋の大部分一階ないし二階で、木造またはプラスター構造である。
 どこでも見られるような押し合いへし合い状で、密集している。 
数少ない大型商業用建造物が市の南西部にある一本の大通りに沿って
位置している。

市内は二つの防火地帯が表示されている(最終ページに参照スケッチ
地図あり).第一地帯は最も無防備な部分であり、旧市内の約1.5平方
マイルを占める.それはもっぱら住宅地区である.無数の水路、流水
はあるが、防火帯として役にたつ巾があるのはサカイ川下流のみであ
る.市街地の道路幅はせまく、30〜40フィートを越えるもは少し
しかない.

第二地帯は、道路の幅がより広いこと、人口密度がより低いこと、建
造物のタイプの違いなどのため、いくらか攻撃に強い.この地帯は海
軍基地の東側、北東ならびに北側に延びている.南部は主として住宅
からなり、北東部は海軍補給倉庫から成り立っている.北部は呉市の
より新しい部分であり、他地区に比べ防火設備に優れる.

同一規模の日本の大部分の都市とは異なり、旧市内には小規模工場が
比較的少数しかない。ほとんどの工場はL字型海岸に沿って延びる呉
大海軍基地の一部である.

4.重要性:呉海軍基地は日本最大の艦隊の建造ならびに整備基地で
ある。最近数カ月間に日本の艦隊は決定的な打撃を受けた.修理・整
備をするために、呉基地が労働過重に陥っていることは疑いの余地が
ない.呉海軍基地内の造兵廠は40ミリ、120ミリ、100ミリ砲
を含む海軍高射砲の最大の製造工場である.旧市内は密集地帯に若干
の小規模な製造工業を有するが、むしろ呉海軍基地従業員用住宅供給
地として、より大きな重要性があると思われる.

防火地帯内攻撃目標一覧は次のごとし
  第一地帯
   ガス施設
   管理建築物
  第二地帯 
90・30ー657B -呉海軍造船所
90・30ー657C -水雷艇基地 ならびに 機雷庫
90・30ー657D -糧食・衣服庫
90・30ー798  -呉駅

防火地帯外ただし市街からから2マイル内の攻撃目標一覧は次のごと

90・30ー657A - 呉海軍造兵廠
90・30ー658 - 呉潜水艦基地
  かっては日本人の誇りであり喜びでもあった帝国艦隊はすでに再
起不能の打撃を受けている. しかしながら、国民は検閲により、その
損失の事実を知らされて来なかった. 日本の大海軍基地の施設、生産
力あるいは生産資材は壊滅状態である.このことから、日本国民は彼
らの国土の守護者が急速に神話となりつつあることをはっきりと認識
できるようになるかも知れない。対空砲火という点から考えるとき、
造兵廠を破壊し、または損害を与えることにより、我々の今後の空中
軍事作戦はより犠牲の少ないものになるであろう。
                 攻撃目標部門、A- 2
                 第21爆撃機司令部
1945年6月29日
           機密

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D 攻撃任務概要  (呉海軍工廠)


           機密

       攻 撃 任 務 概 要
         攻撃任務 215    1945年7月1日

1.日付:1945年6月22日
2.攻撃目標:呉海軍造兵廠 (90.30ー657A)
3.参加部隊:第58・第73航空団
4.飛行航空機数:195機
5.第1空爆%:82.62% (第1爆撃162機, 好機爆撃12機)
6.使用爆弾・信管の種類:AN -M65, 1000# G.P. 1/10秒
              ならびに1/40秒遅延弾頭、1/40
             秒遅延尾部;AN -M64, 500# G.P.,
              1/40秒遅延弾頭ならびに尾部;
             AN -M66, 2000# G.P.,
             1/40秒遅延弾頭ならびに尾部
7.投下爆弾トン数:第1爆撃で795.8トン、好機爆撃で65.5トン
8.第1爆撃所要時間:1031K ー 1143K
9.攻撃高度:18,000 ー 26,250 フィート
10.攻撃目標上空の天気:2/10 - 3/10 
11.損失機数総計:2機
12.攻撃任務概要:攻撃目標空爆5編隊中3編隊の写真撮影によれ
ば南西地帯に多く命中をした.投下爆弾の57%が攻撃目標に命中した.
135機が有視界爆撃をし、27機がレーダー爆撃を行った.敵機を
20機認めるも、攻撃はしてこなかった.対空砲火は激しく、強烈か
つ正確であった.高角砲火もかなり見られた.損失B29 (2機)のうち
1機は対空砲火の命中によるもので,他の1機はエンジン2基の停止の
ため、コブラ-飛行場に着陸しようとして失敗したものである. 対空砲
火により96機が損害を受けた.B29、20機は戦闘力がなかった.
航空機10機が硫黄島に着陸した.
  搭載爆弾平均:10,460ポンド 補助燃料平均:848ガロン

             機密





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E 攻撃任務概要 (呉市街)


          機 密
      攻 撃 任 務 概 要
        攻撃任務 240    1945年7月7日

1.日付:1945年7月1日
2.攻撃目標:呉市街区域
3.参加部隊:第58航空団
4.飛行航空機数:160機
5.第1空爆%:94.24% (第1爆撃 152, 好機爆撃2機)
6.使用爆弾・信管の種類:E46, 500#
  攻撃目標5,000フィート上空で炸裂するようにセットした
  焼夷集束弾ならびにAN-M47A2,100# 瞬間弾頭つき焼夷弾
7.投下爆弾トン数:第1爆撃で1081.7トン、好機爆撃で14.3トン
8.第1爆撃所要時間:0102K ー 0305K 
9.攻撃高度:10,300ー11,800 フィート
10.攻撃目標上空の天気:6/10ー8/10 
11.損失機数総計:0機
12.攻撃任務概要:写真偵察によれば市街地の46%が破壊された.
   120機がレーダーで爆撃をし、32機が有視界爆撃をした.
   6機は戦闘力がなかった.対空砲火は不十分にして不正確で
  あった.対空砲火により1機が損壊を受けた.
  敵機を3機認めるも、攻撃はなかった. 被害なし.
  航空機16機が硫黄島に着陸した.
  搭載爆弾平均:14,869ポンド  補助燃料平均:769ガロン

          機密



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F C.I.U (損害査定 報告)


          機密
          C.I.U
        第20航空軍
    軍郵便局 234、 郵便局長気付け
   サン フランシスコ、 カリフォルニア
                  1945年8月15日

      損害査定 報告 180
       呉 90ー30 市街地区
第21攻撃任務240、1945年7月1日  第50航空団

         損害概要
市街区域:合計  3.26平方マイル ; 破壊地域 1.3平方マイル 
     破壊地域割合  40%
計画攻撃目標地域:2.0平方マイル    破壊地域割合:65%
現在までの損害地域総計:1.3平方マイル 市街地域での割合:40%
今回の爆撃で損害を受けた攻撃目標件数:4件;その他なし.
註記:以前の損害なし

市街地域内での損害:
 破壊された
 今回の爆撃による地域損害: 平方マイル 平方マイル %
   市街地域(市内)     2.61    1.06  40.5
   市街地域(工業)      .65 .24 36.5
   市街地域(計)      3.26    1.3 40.0

 攻撃目標損害:          損害
  90.30 - 798 呉駅       30% の建物が破壊された 
   ”  657B 呉海軍造船所    8% が破壊された   
  ″ 657C 水雷艇基地.水雷庫 80% が破壊された   
  ″ 657D 食料・衣服庫   90% が破壊された
市街区域外の損害:(市の中心から半径5マイルの範囲内)損害なし
 攻撃目標損害:          損害
  90.30 - 656 呉海軍飛行場   不明(海軍船舶への空襲につ
いても)
″   657A 呉海軍造兵廠   72% 以前に受けた損害
″ 658 呉潜水艦基地   なし
″ 730 &794 広発動機・タービン工場 51.5% 以前に受けた損

″ 2133 呉海軍飛行場補助燃料タンク施設  なし  
″ XXI - 6120 弾薬庫     なし
参照:陸軍航空隊航空目標地点ホルダー  90.30 - 呉 
写真:空襲前: 3PR5M135-2: 12 -14 1945年4月12日
   空襲後: 3PR5M391-3: 34 -38 1945年8月7日
同封物: 1. 損害を示す連続航空写真
    2.空襲後のプリント
                     承認/署名
分類:B級
            機密



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おわりに ...アメリカ軍の記録と呉市民の体験記...

呉市街地空襲の状況は、テニアンを発した百六十機(日本側の記録で
は延べ八十機)のB二十九の編隊が、足摺岬上空を通って広島湾沿い
に呉湾に入り、休山方面から呉市街をレーダー爆撃をし、のち一部
(爆撃漏れの所)を有視界爆撃のうえ、灰が峰・野呂山の北側を廻っ
て、大久野島上空から四国上空を通って硫黄島・テニアンに帰還、と
米軍の記録にあります。
狭い呉市上空では、編隊の幅から見て、攻撃命令書の攻撃線から入っ
た最初の爆撃編隊が、休山のふもとの宮原を通ると、次の編隊は本通・
中通には爆撃できず、呉市民の体験記にあるように、周辺の山側から
焼夷爆弾を投下して逃げ道をふさいだ、という形になったのかも知れ
ません。
このような呉空襲の実態を解明し、呉市民の体験と照合するには、行
政の協力なしには時間がかかると思いますが、少しずつでも解明して
いきたいものです。
呉戦災を記録する会が発足して二十余年を経ました。その間、折々に
戦災展を開催したり、映画「赤い月の街ー呉空襲ー」の制作上映や写
真資料集「呉の戦災」の発刊を通して、多くの方から体験談を聞かせ
ていただきました。今回は整理が間に合いませんでしたが、今後も多
くの方から体験談の収録をし、まとめて刊行したいと思っています。

最後に、本書では富田和男さん提供の「写真週報」(内閣情報部編輯)
を多く引用させていただきました。かっての時代の雰囲気を知ること
で、体験記の内容を理解するのに役立つものと思います。
本書の編集作業は呉戦災を記録する会の平賀伸一、吉田明雄、林茂、
朝倉邦夫が当たりました。
米軍資料の翻訳は神垣惟秀さんに、全体的な編集・レイアウトなどは、
「く・れ・ば・ん」の前田  さんにお願いししたところ、快くご協力を
いただき、出版にこぎつけました。改めてみなさんに感謝いたします。
(朝倉)



 「黒い盆地...呉市民の戦災応募体験記と資料...」
 
 一九九六年七月一日

 編著者    呉戦災を記録する会

 編著者住所  広島県呉市宮原3丁目4-23
        電話・FAX 0823-23-0104
        朝倉邦夫 方

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